チョコレート革命 前編
1月は行く、2月は逃げる、3月は去るという。合宿が終わって冬休みが明けると、1月はあっという間に過ぎていった。グラウンドには雪が積もり、室内の練習が中心だったが、過酷な合宿を経た誠報学院野球部はこれまで以上の熱量で練習に励んでいた。
2月4日。柚葉は部活終わりにコンビニへ立ち寄った。店内に入ってすぐ、前日まで節分の関連商品を陳列していた場所にチョコレートが並べられていることに気づいた。
「バレンタイン、か」
柚葉はそこから目を逸らし、どこか苦々しい表情でつぶやいた。
2月5日。柚葉が在籍する2年A組はこの日の午後に現代文の授業があった。柚葉はその授業中、隣の席に座っている成が眠っていることに気づいた。
珍しいことだと思った。成は勉強が得意な方である。そこで彼に勉強のコツを訊けば、学校の授業を受けることが最も基本的かつ効率的な学習方法だと答える。実際に彼は授業中に要点を抑えるからこそ、部活で勉強時間が削られたとしてもその成績を維持することができていた。その成が授業中に寝ている姿を見るなど柚葉にとっても初めてのことだった。
授業が終わってから成に声をかけた。
「疲れてる?」
「そうかもな」
返答した成の目の下にはうっすらと隈ができている。
「ずっと頑張ってるもんね」
「今まで頑張ってなかったからな」
自嘲が成の顔に浮かぶ。
「頑張らないで杏月を裏切った。次は頑張らないといけない」
「でも無理はしちゃダメだよ」
「怪我には気を付けるさ」
成は軽く笑い飛ばしたが、柚葉の表情は曇っていた。
その日の夜、帰宅して自室に入った柚葉はスマートフォンで由に電話をかけた。
「いきなりどうした? 俺より成と話した方がいいんじゃないか?」
「その成のことで話したいの」
「そうか」
由が何も言わず次の言葉を待っていることを確認し、柚葉は話し始めた。
「合宿のとき、成と色々話してたよね。杏月のこととか」
「そりゃ同じ部屋だったからな。でも、どうして杏月のことを話したってわかるんだ?」
由が記憶している限り、合宿の期間で杏月を話題にしたのは初日の夜だけだ。その時に話したことについて、由は誰にも伝えていない。
「自販機の前で話してたじゃん。私、飲み物を買おうとしてたんだよ。そしたら2人で話してるのが聞こえてきて……」
「隠れて盗み聞きしてた、と?」
「ごめん」
柚葉の耳に小さな溜息が聞こえた。
「まあ成に杏月がやめた理由を教えたのは柚葉だったな。なら他の奴に聞かれるよりマシか。それで?」
「その、私が杏月のことを話した時も、成は杏月のために頑張るって言ってたんだよ。私も杏月のことを話せば成は戻ってきてくれるんじゃないかと思ったけど、思った以上っていうかさ」
「うん」
「でも、そうやって頑張るのは辛いように思うんだよ。ずっと杏月がいなくなったのは自分のせいだって責め続けてさ。今も無理して練習してるように見える」
「それはそうかもな」
「だから、成のためには杏月に戻ってきてもらうのがいいんじゃないかなって。由はどう思う?」
答えはすぐには返ってこなかった。柚葉の周囲を沈黙が包むが、その中でうっすらと幼い少年の声が聞こえてくる。たぶん由の弟だろう。
由がおもむろに口を開いた。
「もし杏月が戻ってくるなら、それはいいことだと思う。マネージャーが1人よりは2人の方が部としてもありがたいし」
「うん」
「でも、実際に戻るのは難しいんじゃないか。杏月は親に反対されて退部したんだろ? 戻るってことはその親を説得しなきゃいけないわけだ。それは杏月も辛いんじゃないか」
「そうだけど」
「それに」
「それに?」
由は一度口ごもって、それからこう言った。
「杏月が戻ってきて成の罪悪感が消えるかと言えば違う気がする。戻ってきてくれても過去が変わるわけじゃないからな。あいつが杏月のためにと思ってるのは確かだけど、杏月のために何をするかってシロ農に勝つことだろ。あいつが抱えてるものは、たぶんマウンドでしか晴らせない」
柚葉は黙り込んでしまった。静寂に気まずさを感じ、由は慌ててフォローを入れる。
「もちろん、さっきも言った通り杏月が戻ってくるなら嬉しいけどな」
それに対しても柚葉は何も言わなかった。代わりにすすり泣く声が電波に乗って由の耳へ届く。
「いや、悪かった。別に柚葉の考えを否定したかったわけじゃないんだ。結果的にそうなったけど……すまん」
「ううん。由に否定されたから泣いてるんじゃなくて……」
柚葉は嗚咽が止まらず、言葉が続かなかった。由は彼女が落ち着くのを待つことにした。
泣いている柚葉に優しくするのは成の仕事じゃないのか。そんな考えが由の脳裏に浮かぶ。
しばらくしてから柚葉は言った。
「私、成のことを何もわかってないんだなって思ったら悲しくて……」
「そんなことないだろ。幼馴染だろ?」
「だからだよ」
柚葉は自虐的に笑った。
「幼馴染なのに何もわからないんだよ。たぶん、由が言った通りだと思う。野球の借りは野球でしか返せないってことだよね。でも、私はそう考えられなかった。杏月が戻ってくれば解決すると思ってた」
「それも全部が間違ってるわけじゃないと思うぞ」
「でも本質じゃないじゃん。由は高校で初めて成を知ったはずなのに、私より成に必要なことをわかってる。バッテリーだからかな」
由は返答に窮した。柚葉はすっかり卑屈になっている。こういうところは成に似ているような気がする。
「私は成が本気で投げたボールなんて捕れない。昔からずっと一緒にいたって、何もできないんだよ」
どうしてこうも女子という生き物は面倒なのだろうと由は思った。彼は自分が成と一緒にいることに不満を言うガールフレンドにも辟易している。冷静に考えれば男も面倒な奴はいるし、性別は関係ないと思うのだけど。
「まあ、あまり落ち込むなよ。なんだかんだ言っても成は柚葉と話してる時が一番楽しそうだし……。ああ、そうだ」
「何?」
「もうすぐバレンタインだろ。あいつが去年言ってたんだけど」
柚葉の表情が曇る。電話越しの由はそのことに気づきようもない。
「俺がもらったチョコを見て羨ましいって言ったんだ。手作りのチョコに憧れてるんだと。成って意外とそういうとこあるんだよな。作ってあげたら喜ぶんじゃないか?」
柚葉は再び黙り込んだ。
「どうした?」
不気味な沈黙が緊張感となって由を襲った。フォローのつもりで地雷を踏んだとあってはひとたまりもない。
何も言わずに待っていると、柚葉が重々しく口を開いた。
「私、成に渡すチョコを作ってるんだよ。毎年ね」
由は曖昧な相槌を返した。柚葉の言う通りだと、去年の成の言動は不自然ではないだろうか。
「一回も渡したことはないけどね」
「は?」
考える先に言葉が出た。
「なんでだよ」
「成ってさ、ああ見えて昔は明るい性格だったんだよ」
「はあ」
気の抜けた声を漏らすよりほかはなかった。話が見えてこない。
「今みたいに少し捻くれた感じになったのは中学生の頃だね。昔は明るかったし、いつも笑ってて……今じゃ考えられないけど」
「確かに」
「それに、これは今もだけど、運動神経が良かった。モテたんだよ。昔の成は」
「なるほどな。それで?」
「それで……」
柚葉はゆっくりと、成と自分の幼少期にあったとあるエピソードについて話し始めた。
今とは違って性格も明るく異性からの人気もあった幼少期の成だが、一方で彼は自らに向けられる好意に対して鈍感だった。
成は小学2年生の時にクラスメートの女の子から告白をされた。告白をしてきた女の子は可愛らしい顔立ちと優しい性格を兼ね備えたクラスの人気者だった。
告白を受けた成はしばし呆然とした表情でその女の子を見つめ、やがて小さな声でこう言った。
「ごめん、無理……」
女の子が泣き出したことは言うまでもない。
成が女の子を振った話はすぐに広まった。その女の子を知る者は誰もがその話を驚きと共に受け取った。柚葉も例外ではない。その日の帰り道、柚葉は告白を蹴った理由について成に尋ねた。
「なんでと言われても……女子は苦手なんだよな」
「じゃあなんで女子が苦手なの?」
「だって、晴がアレだから」
成にとって姉の晴は天敵のような存在だった。物心ついた時から彼女によって辛酸を舐めさせられる日々が続いてきた。その経験がさせた発言だった。
「皆が晴ちゃんみたいなわけじゃないよ。それに晴ちゃんだっていい子じゃん」
「いいや、ムリムリ。今日だってあっちが勝手に告白してきたくせに、振られたらすごい大声で泣き出したんだぜ。女子なんて面倒なだけだろ」
幼さとは時に視野の狭さと残酷さのことでもある。
しかし柚葉の心中では、振られたクラスメートへの同情よりも沸き上がってきた疑問が勝っていた。
「成、私は? 私は……面倒?」
成は柚葉の顔をじっと見つめ、それから真顔で言った。
「柚葉は……柚葉はあんまり女子って感じしないかな」
その返答は柚葉を安心させた。成が他の女子のことをどう思っていようと、自分のことを面倒に思っていないならそれで良かった。
しかし時間が経つにつれて、成の言葉の意味は自分の存在に対して特別な意識が何も無いという意味なのではないかと思うようになった。そのことが柚葉の心に影を落とすことになる。
例えば次のような場面だ。同じく小学2年生の時のバレンタインである。
柚葉は初めて手作りのチョコレートを作った。成に渡すためである。母親に手伝ってもらいながら、苦労しながらもそれを完成させた。
柚葉は成の姉である晴とも仲が良かったから、彼女に渡す分のチョコレートも用意することにした。自分で作った分はすべて成に渡すつもりだったので、晴に渡す分は既製品のチョコレートを買ってもらった。
晴のために用意した既製品を実際に受け取ったのは成の方だった。
柚葉は怖くなった。告白を冷たく断られたクラスメートのように好意をあっさり拒否されてしまうような気がして、小桜姉弟に本来の予定とは逆のチョコレートを渡したのだ。
柚葉はその時から高校1年生までの9年間、手作りのチョコレートを作っては成に渡せないというバレンタインを繰り返している。
柚葉の話を遮ることなく聞いていた由が口を開いた。
「確かに成って人の気持ちを考えるのが苦手なとこあるからな……。でも、今なら無理とかそこまで冷たいことは言わないだろ。今のあいつはそれほど女子嫌いにも見えないし」
「そうだけど……」
「去年までがどうあれ、今年は渡せばいいんだよ。杏月がいなくなっても、柚葉がなんだかんだで側にいてくれて大事に思ってくれてるってわかれば、少しは成も救われると思うぞ」
「…………そうかもね」
それから少しばかりの言葉を交わし、柚葉は電話を切った。スマートフォンを適当に投げ出すと、ベッドの上に仰向けに寝そべり、天井を見つめた。
「渡せるわけないじゃん」
柚葉の視界が滲んだ。
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