合宿 後編
殆どの選手が疲労困憊となった合宿の中で救いと言えたのは、夕食後の夜間練習が無いということだった。夕食を食べる部員たちの多くは疲れ切っていて、10点ビハインドで最終回を迎えた時のような悲壮な表情で白米を口に運んでいる。
「明日は早いぞ。しっかり練習できるよう夜は十分に休養するように」
類が言うまでもなく、殆どの部員は自分の部屋に戻ってすぐベッドに潜り込み、泥のように眠った。
成と同室の由も部屋に入ってベッドに直行したうちの1人である。
「疲れた……。思ってたよりずっときつかった……。本当に疲れた……」
「お疲れさん。明日は身体も慣れてきてマシになるだろ」
「成は余裕あるなあ……。近ちゃんなんて心配になるレベルで吐いてたぞ」
ライトを守る2年生の近藤は持久力に難があり、初日の練習は途中でリタイアしていた。
「あれは酷かった。竹村なんて見ただけでもらいゲロ吐いてたからな。2人を介抱しなきゃいけない柚葉が本当に可哀想だった」
成は心の底から気の毒そうな顔をして言った。
「で、成。お前は何しようとしてんの?」
「筋トレ」
平然と答える成は腹筋運動をする体勢を整えていた。
「マジで? あれだけやって?」
「毎晩やってるからやらないと落ち着かないんだよ」
「そういや修学旅行の時も部屋でやってたな……」
「オーバーワークにはならないように気を付けるさ」
「…………」
「後でシャドーピッチもやるつもりだ。音は出るだろうけど許してくれ。投げる練習が無いから自分でやらないとな」
「……………………」
「寝れなければ彼女と連絡してもいいぞ」
「マジで?」
「ああ」
成は筋トレを始めた。慣れた様子で身体が一定のリズムで動く姿を、由がぼんやりと眺めている。
そして由は叫んだ。
「いやおかしいだろ! お前マジでそんな練習大好きキャラじゃなかったよな!? 朝もそんな話したけど!」
「別に、キャラとか、俺が、決める、わけ、じゃない」
成は腹筋運動をやめずに答えた。
「シロ農に勝ちたいのはわかるけど、それにしても異常だろ。前はもっと……練習もサボって……というかあの時からか。サボって柚葉に連れ戻された時からそうやって真面目にやるようになったよな。何かあったのか?」
「まあ、そう、だな」
「俺なんか明日最後まで練習する体力があるかもわからないのに」
由は頭から布団を被った。部屋の中は成の呼吸だけが聞こえている。
予め決めていた回数をこなした成が次の練習へ向けて息を整えていると、由が声を発した。
「おい、俺も一緒に練習させろ」
「は?」
思わず聞き返した成を尻目に、由はベッドから勢いよく起き上がった。
「別にお前は無理しなくても」
「やると言ったらやる!」
由は強引に成の自主練習に参加した。
腹筋や背筋といった筋トレを行い、成はシャドーピッチングも行って練習が一段落した頃、由は自分の飲み物が無いことに気づいた。
「脱水症状になったら練習どころじゃないぞ。俺の……も少ないな。自販機で買おう。近くにあったよな」
成と由は部屋を出て自動販売機でスポーツドリンクを買い、すぐ近くにあった長椅子に並んで腰を下ろした。成はゆっくりと、由は勢いよくスポーツドリンクを飲んだ。
一度にペットボトルの半分ほどを飲んだ由は大きく息を吐いた。
「あー、疲れた」
「だから無理しなくてもいいって言っただろ」
成は呆れたように笑う。一方、由の表情は真剣なものに変わっていった。
「俺、後悔してるんだよ」
「何を?」
「秋の桂陽との試合。9回に押し出しで負けただろ」
「ああ……」
由が挙げた場面は成にとっても大きな意味を持っていた。
「でもお前はミスしてないだろ。俺がストライクを取れなかっただけで」
「いや。押し出しのフォアボールを出したのはチェンジアップだった。もしストレートを投げてたらストライクだったと思う。チェンジアップだからストレートより沈んだし、俺の捕り方も良くなかった」
成はかぶりを振った。
「あの場面、お前は最初にストレートのサインを出したよな。それに首を振ってチェンジアップを投げたのは俺だぞ」
「だからだよ」
由はきっぱりと言った。
「あの時、バッターはストレートに合っていなかった。思いきってストレートを投げるのがベストだったんだ。俺はそれをわかってた。わかってたのに……」
既に4ヶ月近くも前の出来事だったが、今でもその悔しさは鮮明に残っていた。由が唇を噛む。
自販機の機械音が低く唸っている。成は次の言葉を待った。
「わかってたのに、サインに首を振られて俺はビビったんだ。なんで自分の判断を信じられなかったのか、それ以上になんで成のストレートを信じられなかったのか、めちゃくちゃ後悔してる」
あの押し出しについてバッテリーを組む由が考えていたことを知り、成の感情がざわめいた。しかし、言葉はなかなか出てこない。
「あの後、どうして成が首を振ったのか考えた。まだ俺のリードを信用してもらえてなかったのもあると思う。それから、ストレートがトラウマになってるんじゃないかと思った。シロ農の吉岡にホームランを打たれて、それで勝負どころでストレートを投げるのが怖くなったんじゃないかって」
由を見ていた成の視線が手に持ったペットボトルに落とされた。
「……正直、その通りだな」
「もっと早く気づいてやれば対策できたはずなんだ。それなのに俺はシロ農に負けてから成がどういう気持ちだったか気づけなかった。バッテリーなのにコミュニケーションが足りてなかったんだ。もっと互いを知って、信頼できる関係にならなきゃいけなかった」
だからか、と成は思った。由はあの押し出しについて考え抜いてコミュニケーション不足という結論に至り、それから互いを知っていくために積極的に成と絡むようになったのだ。合宿で2人が同部屋なのも、由が希望したことだったはずだ。
成は笑った。
「だから無理して俺とトレーニングしてるわけか」
「そういうこと。いや、まだまだ無理じゃねえし」
由は大袈裟な身振りで自分の元気さをアピールした。成はそれを楽しげに見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「由は俺がなんで前より練習するようになったか不思議がってたよな」
「そりゃ、まあ」
「俺ばっかり教えてもらうのは悪いから言うよ」
成は話し始めた。夏の大会で吉岡に負け、才能の差を前に絶望したこと。そのまま秋の大会も簡単に負け、杏月が退部してしまったこと。彼女が退部した理由を柚葉から聞き、杏月のために頑張ろうと決めたこと。
「俺もあの押し出しをすごく後悔してる。ビビって首振ってチェンジアップで負けた。杏月のおかげで身に付けたチェンジアップで終わらせたんだ。酷い話だよな」
成は自虐的な笑みを浮かべ、スポーツドリンクを口にした。
「自分が杏月の夢を終わらせてしまったことを悪いと思って杏月のために頑張ることにした、か。成はすごいな」
「何がすごいんだよ」
「誰かのために頑張るってことだよ」
由の微笑みを成は狐につままれたような顔で見た。
「自分のために頑張れるほうがすごいだろ。俺は頑張っても追いつけない奴がいるって考えてしまう」
「成は理想が高いんだよ。俺とか他の奴に言わせれば成は十分すごいピッチャーだし、変に悩む必要なんか無いと思うぜ」
すごいピッチャー。杏月も同じことを言ってくれた。杏月は成に期待していたのだ。その期待を受け止め、しっかりと努力をしていれば、今のように後悔を抱かずに済んだのだろうか。それでもやはり、吉岡との実力差を感じて自分に失望してしまうのは変わらないような気もする。
成の胸中を知ってか知らでか、由は明るく言った。
「周りからどう言われても自分の感じ方なんて簡単には変わらないだろうけどな。でも、逆に成が自分のことをどう思っていても、俺たちが成を頼りにしているのは変わらない。だからお前が杏月のために頑張ると言うなら、俺は少しでもその役に立てるよう頑張るよ」
由は成の肩を軽く叩いた。
「ウチは成のチームなんだ。成が最大限の力を発揮すればシロ農にだって必ず勝てる。そしてピッチャーの最大限の力を引き出すのはキャッチャーの仕事だ。俺を信じて投げてくれ。杏月のために、な」
白い歯を見せて笑う由を見て、成は自分の顔が気恥ずかしさによって紅潮していくのを感じた。同時に、自分の中に何かが満ちていくような気もしている。
「ありがとう」
ただ一言、つぶやくように口にした。
「俺も秋は悔しいと思ったし、吉岡に勝ちたいっていう気持ちも同じなんだ。当たり前だよ」
由は立ち上がって伸びをした。
「さて、部屋に戻るか」
座ったままの成を見下ろすと、彼は後ろを振り向き怪訝そうな視線を向けていた。
「どうした?」
「ああ、悪い。何でもない」
成はすぐ前に向き直った。2人は立ち上がって部屋へと戻っていった。
合宿の2日目は起床してすぐの長距離走から始まった。それが終わると朝食をとり、坂道ダッシュやスキー板を履いてのクロスカントリーといった練習が続いていく。前日の疲れが抜けていない部員も多い中、大きな声を出し目立ったのは由だった。
由は夜になるとまた成との自主トレーニングを行った。疲労は蓄積されているはずだが、初日よりも表情の輝きが増していた。
こうして合宿の日々は過ぎていった。選手たちはもう二度とやりたくないと言うほど苦しみ、初日に嘔吐した近藤は2日目以降も何度か吐いたが、そうした経験の中で全員が確実に逞しくなっていた。類と堀田監督は大きな手応えを得た。特に由がキャッチャーとしてチーム全体を引っ張ろうとするリーダーシップを持ち始めたことを嬉しく感じている。
合宿から帰った成は、出発時以上の活力に満ちていた。新たな年の戦いに向け、彼は実力の向上と相棒との信頼関係に確かな手応えを得ている。
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