3章:2年冬

合宿 前編

 部活を仮病で休もうとして柚葉に連れ戻された日から、成は熱心に練習を続けていた。部活の練習はもちろん、朝と晩のランニングもするようになった。杏月のためというモチベーションを見出したことは彼のメンタリティを180度変えたと言える。

 それでも、時に練習を辛いと感じることが無いわけではない。一度楽をすることを知り、そのまましばらくぬるま湯に浸かっていた影響はそう簡単に消えてくれない。

 再び心が折れそうになった時、成は自らの帽子を見る。彼が被る帽子のつばの裏には丸い文字で「不屈の精神」と書かれている。柚葉に頼んで書いてもらったものだった。

 成の変化に呼応するように、誠報学院野球部全体の雰囲気も大きく変わっていった。夏にチームを準決勝まで導いたエースが本気になって練習をしているのを見て、選手たちは「いける」と感じるようになったのだ。

 練習の質が上がったことで試合の内容も上向いていった。成は登板する度に好投し、野手もそれを盛り立てる。誠報学院は高校野球でチームを紹介する際の定番となっている「投手を中心とした守りからリズムを作る」という文章を体現したようなチームだった。

 いい試合をして勝てるようになれば野球が楽しくなる。もっと練習を重ねることで実力を付けようという意見が出てくるのも自然な流れだった。集中的に厳しい練習をするための合宿を希望する声が上がったのだ。

 選手たちは合宿の開催へ向けた話し合いを行い、そこで出た意見をキャプテンの類がまとめあげた。それを受けた監督や部長の奔走により、年明けに4泊5日の合宿が実現することとなった。




 光陰矢の如しという言葉もあるが、合宿までの日々は成たちにとって瞬く間に過ぎていった。

 10月の終わりから11月の始めにかけ、成たち誠報学院の2年生は修学旅行があった。観光地として名高い歴史的建造物などを巡り、成にとっても楽しい思い出となった。

 成の両親と姉の晴は彼の修学旅行のためにお金を持たせてくれた。出費を最低限に抑えることで残った分を好きに使えるようにしようと考えた成は、旅行の記憶を思い起こさせるような記念品を買おうとしなかった。

 それを良しとしなかったのは柚葉である。彼女は遠慮する成を押しきって、鹿で有名な公園近くの土産屋で、デフォルメされた小さな鹿のストラップを買い与えた。修学旅行が終わり、その鹿は成が部活道具を入れるのに使うスポーツバッグを住処としている。

 柚葉は時々そのストラップを見ては思い出したように言う。

「修学旅行、楽しかったね」

 そう言われて成は同意することもあるし、何度同じ話をするのかと呆れることもある。ある時はこう言った。

「彼女がいる奴はもっと楽しそうだったけどな」

 類や中嶋など野球部のレギュラーの多くはガールフレンドと付き合っている。修学旅行でもチームメイトが女子と仲睦まじそうにしている姿を幾度となく見た。それを思い出して恨めしげな口調となっていた。

 柚葉は笑っていた。

「でも由は成とべったりだったじゃん」

「それもそれで困ったんだよな。あいつの彼女が凄い目で俺を見てたし」

 由は修学旅行の殆どの時間を成と一緒に過ごしていた。修学旅行が終わった後も、刷り込みをされた鳥の雛かというくらい成の後にくっついてきた。いくらバッテリーを組む仲とはいえ、少し異常なのではないかと成は感じていた。


 修学旅行が終わったら進路へ向けていっそう気を引き締めるように。成の担任教師はそう言った。実際、修学旅行が終わると年内にこれといった学校行事も無かった。11月が終われば12月の頭に期末試験がある。学業成績が良い方の成にとっては、勉強を教えるよう頼んできた割にやる気を見せないチームメイトの竹村に苦労した以外のトラブルは無かった。

 12月後半から冬休みに入り、年が明けて合宿の初日の朝を迎えた。集合場所となっている誠報学院の正門前に現れた成は活力に溢れていた。その瞳は太陽の光を浴びた新雪のように輝き、鍛錬に励むこれからの5日間を見据えている。

 部員たちは堀田監督が運転することになっているマイクロバスに乗り込んだ。成の隣の座席にさも当然といった様子で由が座った。

「なんかワクワクするなあ」

 由が隣に座ること自体には何の不満も無かったので、成は彼を受け入れて話にも同意した。

「そうだな。俺もずっと楽しみにしてた」

 成と由が座る前の席には柚葉が座っている。2人の会話を聞いた彼女は座席越しに顔を出して振り向き、成を見つめた。

「なんだよ」

「ちょっと意外だなーって。成って真面目に練習はしても、別に練習大好きみたいなキャラじゃないじゃん」

「確かに。伊沢なら練習が恋人って感じだけど成はなあ」

 由が言った伊沢とは1年生の控え投手である。彼の練習熱心さはチーム内でも一目置かれていた。

 成は柚葉と由の顔を交互に見て溜息をついた。

「まあ、練習以上にやっと晴から解放されるのが一番の楽しみだったんだけどな」

「晴ちゃん、帰ってきてたんだ」

「ああ。合宿が終わる頃にはもういないけどな」

 心底嬉しそうに成が言った。試合で三振を奪ってもこれほど喜ぶ男ではない。

「久しぶりに会いたかったのに残念。それにしても成は本当に晴ちゃんのこと苦手だよね……」

「実際にあいつが姉になってみるとよくわかるぞ。たまったもんじゃない。しかも最近は酒を飲んで酔った状態で絡んでくるようになった。最悪だ」

 思い出すだけでも嫌だと言いたげに成は身震いした。

「私は晴ちゃんがお姉ちゃんになってほしいと思うけどなあ」

「そうかい」

「成にもそこまで苦手な相手がいるんだな」

 由が笑った。

「その姉さんって今は大学生なんだっけ」

「ああ」

「前に類が成の姉さんは美人だって言ってたんだよな。会ってみてえな」

「おう、是非会いに来てくれ。そのまま連れて帰っていいから」

 他愛もない話を続けていると、やがてバスが動き出した。車中は独特の緊張感と、成長した未知なる自分への期待で満ちている。


 何時間かバスに揺られ、正午前に合宿の拠点となる田村湖スポーツセンターへ到着した。部員たちは荷物を降ろし、施設の人たちへの挨拶を済ませてから昼食をとる。

「本当に山だな。スマホの電波も入らなかったし」

「施設の中ならネットに繋げるって」

「おっ、マジか」

 成は由と柚葉の会話を白い目で見た。

「別に必要無いだろ。練習しろ。練習を」

「成もバスの中でスマホ弄ってただろ」

「俺は音楽を聴いていただけだからな」

 試合前などの移動時に音楽を聴くのが成の習慣だった。この日もバスの中で話題が無くなるとすぐスマホとイヤホンを取り出してお気に入りの歌手の曲を聴いていた。由がどんな曲を聴いているのか尋ねようとしても、成は軽くあしらうばかりだった。彼は自分の世界に拘る一面がある。

「というかお前、俺と同じ部屋だよな。夜に彼女と連絡取ったりしたらしばき倒すからな」

「理不尽だ」

 由は嘆いた。

 昼食の時間が終わると、いよいよ練習が開始される。その内容は普段と比較にならないほど厳しいものだった。山で酸素が薄いこともあるのか、何人かの選手は途中でリタイアしてしまうほどの惨状だった。

「声が出ていない! 気合いを入れろ! このくらいは耐えないとシロ農には勝てないぞ!」

 キャプテンとして練習を牽引する類が檄を飛ばす。この合宿の練習内容は彼が堀田監督と相談しながら作り上げたものだった。ランニングやクロスカントリー、筋力トレーニングを中心に構成されたメニューの中にバットやボールを使った練習は存在しない。ひたすら肉体を鍛え上げ、土壇場で物を言う強い精神力を養う。それこそ類がこの合宿で意図したことだった。

 シロ農の名前を聞いて目の色が変わったのは成だ。日課となっていたランニングの甲斐もあり、体力に余裕を持って順調に練習を続けている。

 吉岡輝雄を擁する白銀農業高校は秋の地方大会を順調に勝ち上がったが、準決勝で敗れてしまった。近く出場校が発表されることになっている春の甲子園大会への出場は絶望的だった。今頃、夏の甲子園へ向けて誠報学院以上の情熱を胸に練習をしているはずだ。

 初日の最後の練習は坂道ダッシュだった。

「この坂、すげえ急だし100メートルくらいあるだろ……」

 由がげんなりした声で言った。彼はあまり体力に自信のある方ではなかったが、成に付いていくようにしてどうにか練習を続けていた。

 成は何も言わなかった。坂の上をまっすぐに見据え、雪の積もる坂道へ駆けだしていった。

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