退部 後編

 10月になり、成と接する時間が長い柚葉や由は感じていることがあった。成が何かを考え込むことが多くなっている。授業でも休み時間でも部活でも、いつも心ここにあらずといった様子だった。

 今まで以上に練習時の集中力を欠くようになった成は、やがて再び肘の不調を訴えるようになり、投げ込みをしなくなった。

「大丈夫か? ちゃんと病院で見てもらった方がいいんじゃないか?」

 由が心配そうな顔で言った提案を、成は笑い飛ばした。

「今のところ夏の時よりは軽いから大丈夫。ちょっと休めば問題ないと思う」

 問題など起きようもなかった。実のところ、成の肘には何の異常も無かったからである。

 つまり仮病だった。

 そのうちに10月も中旬になり、春の甲子園出場をかけた地方大会が始まった。注目のエース吉岡を擁する白銀農業は順調に勝ち進んでいた。

 誠報学院はそれと関係なく練習を続けている。キャプテンの類が懸命に声を出してチームを鼓舞しているが、グラウンドにはいつもどことなく気怠さが漂っていた。

 週末には練習試合も行う。杏月がいなくなり、柚葉がスコアブックを書くようになった。彼女も練習を重ねたことでスコアを付けることはできるようになっている。しかし、丸っこい文字で書かれたそのスコアブックは、杏月の流麗な筆跡によるスコアに比べ情報量も少なかった。

 惜しい人材を失った。堀田監督は内心でそう思っている。

 もっとも、それで困るようなことも今の誠報学院野球部には無かった。成たちの世代は1つ上の世代より実力がどうしても見劣りする。勝てないのはデータ以前の問題だった。

 成にやる気があれば違うかもしれないが――堀田監督はそうも思っている。

 その成はと言えば、ついに肘の状態を理由にして部活を休んだ。本当は健康そのものだから病院には行かない。家族には休むことを伝えていないから家にも帰りにくい。それで彼は自宅の近くにある市立図書館へ向かった。

 昔からそこは勉強の必要がある時に訪れる場所だった。静かで集中できるからということもあるが、それ以上に家にいると姉の晴がうるさいからというのが大きな理由である。大学生となった晴が家を出た後も、成は時折ここに来る。その甲斐もあって彼の成績は優秀な部類だった。

 そしてこの日も勉強をするつもりでいた。杏月の退部から2週間近く彼が考えていたのは、自分も彼女と同じように将来のため勉強すべきではないかということだった。

 特に強い動機も無く高校野球を始めたにも関わらず、夏の大会でベスト4まで勝ち進むことができた。それで思い出作りはもう十分だと考え始めていたのだ。

 甲子園へ向けた最後のチャンスをかけて汗と涙にまみれつつ来年の夏に挑むのも、青春の香りに溢れていて一興だとは思う。全国の多くの球児はそうするわけだ。甲子園へのリアリティは感じられないままに。成はそのことに耐えられる気がしなかった。

 彼は望みの無い一瞬の夢より必ずやってくる未来に備えるべきだと考えた。自分が何者になるかなんてわからないけど、勉学に励んで損はしないはずだ。

 しかし図書館に着いてみると、勉強をしようという気になることはできなかった。鞄から筆記用具や教科書を出すこともせずに小説を読み耽っている。成は夢にも現実にも向き合う力を持っていなかった。

 読書が一段落し、机の上に左肘を置いて頬杖をつく。何気なく窓の外を眺めると、空の色が前に見た時から変化していた。夏よりも明らかに日が短くなっている。これから寒い季節がやってくるのだ。

「やっぱりここにいた」

 その声で成は現実に引き戻された。顔を上げると、目の前に柚葉が立っている。成は思わず乾いた笑みを浮かべた。

「なんでここに?」

 そう声を絞り出すのがやっとだった。

 柚葉の表情と声色は不満を隠さなかった。

「それ、私のセリフなんだけど」

「そりゃそうだよな……」

 肘の違和感で部活を休んだ成が図書館にいるのはおかしな話だ。だからこそ、柚葉が成を探して図書館に来るのもおかしな話ということになる。

「マジな話、なんで俺がここにいるってわかったんだよ」

「仮病とわかってたから病院には行かないと思ったし」

「ばれてたか……」

 成は頬杖をついたまま苦笑した。

「前に怪我した時は教室とかでも肘に負担をかけないように気を付けてたじゃん。でも、今回は全く気にしてなかったからね」

「意外とめざといなお前……」

 成はお手上げとばかりに肩をすくめた。

「それで成がどこに行くか考えたらここかなって。前に杏月がやめた理由を話して、成もそうしようと思ってるんじゃないかって思ったら案の定だよ」

「エスパーかよ」

「それくらいわかるよ」

 得意げに胸を張って、柚葉は成を見下ろした。

「まあ、勉強はしてなかったみたいだけど」

「返す言葉も無いな」

 柚葉は成が座っているすぐ隣の椅子に座った。

「成は、野球に未練が無いの?」

「さあな。わからない」

 柚葉は目を丸くした。

「はっきり無いって言われるかと思った」

「お前から見て、俺は未練が無さそうに見えるか?」

「ううん。でも、意地になってそう言うかなって」

「意地になっても仕方ないことくらい、俺もわかってるからな」

 成は自嘲するように笑った。その表情を見つめ、柚葉が遠慮がちに口を開く。

「未練が残ってると思うなら、別にやめなくてもいいと思うよ」

「晴らさなくてもいいだろ」

 柚葉の言葉が終わるのを待たずに始まった成の言葉は、次第に語気が強まっていった。

「誰だって後悔を抱えながら生きてるもんだろ。未練はすべて晴らさなきゃいけないなんて、そんな生き方は辛いに決まってる。晴らさなくても辛いのはわかってるよ。でも、俺はもう野球で本気になれない」

 柚葉は俯いて黙り込んでいる。

「未練はあるにせよ、夏に準決勝までいけた達成感もある。もう十分だろ。本気になれないのにやっても、本気でやってる人たちに失礼だ」

 離れた席でどこかの高校の制服を着て勉強している人が見えた。いよいよ差し迫った受験へ向けて努力をしている3年生かもしれない。

 柚葉が静かに口を開く。

「本気の人って、杏月とか?」

「特定の誰かってわけじゃないけど、確かにあいつは本気だったな」

「私もそう思う。だから杏月はこんな中途半端にやめさせられて、悔しかったと思うよ」

 杏月もああやって必死に勉強しているのだろうか。どこかの高校の生徒を見ながら考えていた成は、思考と聞こえてきた声との間に齟齬が生じてることに気づいた。

「やめさせられた?」

 問われた柚葉が頷く。

「誰に」

「親に」

 思考が驚きで埋められようとする中、成は柚葉からもたらされた事実に整合性を見出していた。杏月本人が将来のことを真剣に考えているにせよ、部活に心血を注いてきた彼女がこの中途半端な時期に自ら退部するなど、確かにおかしい。

「それは……辛いな」

 辛いなんてものではなかったかもしれないが、それしか言葉が出てこない。

「辛かったと思うよ。自分でプレーするわけでもないのに甲子園なんて馬鹿馬鹿しいとまで言われて」

 柚葉が悔しそうに言った。成は彼女にそのことを話した時の杏月もそうだったのかもしれないと思った。

「この学校で甲子園なんか絶対に無理って言われたって。杏月も反論したかっただろうけど、秋の大会があれだったから何を言っても説得力が無い」

 成は目を伏せた。

「悪かったよ」

「別に謝ってほしいわけじゃないよ。でも……来年もシロ農のあのピッチャーがいるのにどうやって勝つんだとも言われたんだって」

 同じことは成も考えていた。吉岡には勝てない。杏月はそのことに気づいていただろう。それは夢見る彼女を、親と一緒になって追い詰めていたことになるのかもしれない。

「杏月はさ、成が投げ勝つって言いたかったと思うよ。でも、いつまでたっても成がこの調子だから諦めるしかなかった。……やっぱり成は謝って。謝ってよ」

「……ごめん」

 成は素直に頭を下げた。柚葉は何か言いたげにしばらく成を見て、結局何も言わず机に突っ伏した。やがて身体が小刻みに震えだし、嗚咽が漏れ聞こえた。

 ただ茫然として、成は泣き伏す柚葉を見た。彼女は顔を上げないままで言う。

「シロ農に勝ってよ……」

 柚葉を見るのがいたたまれなくなって視線を移すと、さっきまで読んでいた小説の表紙が目に入る。主人公の活躍がなかなか爽快な物語だった。

「勝って、杏月の夢は絶対無理じゃないって、杏月が本気だったのは正しくて、それをやめさせるのは間違ってるって、証明してよ」

 図書館の静寂の中を柚葉のすすり泣く声が泳いでいく。

 成は小説から目を離し、今度は天井を見上げた。前髪が視界に入ってくる。

 杏月は甲子園出場を心の底から目指していた。そのために部活に、プレーする部員たちに、真摯な態度で向き合っていた。成をエースにした「落ちないチェンジアップ」もそうやって生まれたものだ。彼女が成の悩みを共有して解決策を一緒に考えてくれなければ、夏の大会で4試合も勝つことはできなかった。

 その彼女に対して自分は何ができたのだろう。桂陽高校との試合を思い出す。9回表、ツーアウト満塁、フルカウント。由が出したストレートのサインに首を振って、成はチェンジアップを選択した。それはストレートと違って少しだけ落ちたから、決勝点の押し出しに繋がってしまった。杏月がくれた武器で杏月の夢を断った。恩を仇で返したのだ。

 苦い記憶を辿る成の脳裏に、杏月の声が響く。

 ――成は野球が好き?

 前にも考えたことだが、おそらく特に好きというわけではない。それが成にとっての事実だ。曲がりなりにも野球を続けているのは好きだからではなく、それが自然という惰性でしかない。

 自然とは成自身にとってではなく、彼が考える周囲の人々にとってである。成は他人に合わせて野球をやってきたのだ。それならば、自分が野球をする姿に期待してくれた人を裏切ったままでやめるのは余計に情けなくないか?

 机に置かれた小説の上に手のひらを乗せる。表紙に書かれたタイトルが隠れる。成はおもむろに口を開いた。

「俺は……野球をやっても自分のためにならないと思ってる」

 溜まっていた感情に形を与えるように、言葉を紡いでいく。

「どんなに頑張っても吉岡みたくはなれない。あのレベルは生まれ持った素質が違うんだ。絶対に勝てないとわかってるのに続けても虚しいだけだろ」

 柚葉が顔を上げた。ぐしゃぐしゃになった顔で何も言わず、ただ淋しそうに成を見た。

「俺は俺のことを信頼できないし、自分のための野球はできないんだよ。…………でも」

 胸の中で鬱屈した何かを浄化させようとせんばかりに、成の肺は新鮮な空気を取り込んだ。再び、声を発する。

「杏月のために……俺は杏月のためにもう一度頑張ってみようと思う」

 成は言った。自分に言い聞かせるように。

「野球には10割打つバッターも全く打たれないピッチャーもいない。勝負の綾が重なれば、1試合くらいはシロ農にだって勝てるかもしれない。絶対勝てるとは言えないけど、それでも絶対に勝って、杏月が野球部にいたことが無駄じゃないと証明してみせる。そのためにやれることをやるよ」

「成……」

 柚葉は自分の中に芽吹きだした感情たちを上手く言葉にできなかった。しかし、その表情は少しずつ明るさを取り戻している。

「今まで悪かったな。信用できないかもしれないけど、これからはちゃんと練習して、シロ農に勝ちにいく。杏月のために」

 柚葉の瞳に残っていた涙が頬を滑り落ちていく。彼女は深く頷き、成を見据えた。

「信用してる。嘘だったら許さないからね」

「ああ」

 失っていた何かが、成の中に戻っていた。


 2人は図書館を出た。

「じゃあまた明日」

 柚葉がきょとんとした表情で成を見る。

「何言ってるの? 部活に行くんだよ?」

「いや、今日は病院に行くから休むと伝えてるし……」

「成。私がなんで部活の時間でここに来たと思ってるの?」

 真顔で追及する柚葉を前に、成は苦笑いをするしかなかった。

「皆に言っちゃったんだよ。成は病院なんかには行ってない、間違いなくサボりなので連れ戻してきますって。だから私は成を連れて戻らなきゃいけないし、成も皆に謝らなきゃいけないんだよ」

「余計なことを……」

「今まで散々楽をしてきたんだから、このくらいはしてくれなきゃ」

 柚葉はにっこりと笑った。




 成と柚葉は自転車を漕いで誠報学院の野球グラウンドへ向かった。成たちが到着するなり部員たちはナイター用の照明が照らすグラウンドで輪になって、即席のミーティングを開催した。

 そこで成は深々と頭を下げてから話し始めた。

「今日は嘘をついて勝手に練習を休んで、本当にすみませんでした。……それから、夏の大会が終わってからずっと、目標を失くして練習も適当にやっていました。本当にごめんなさい」

 部員たちは成の話を真面目に聞いている。

「でも、やっぱり、夏に勝てなかったシロ農に勝ちたいです。だからこれからは気合いを入れて練習します。どうか、練習に復帰させてください」

 成はもう一度頭を下げた。

 しばらくの沈黙の後、溜息が聞こえてきた。それを発したのはキャプテンの類だ。

「まあ、お前がいないと始まらないからな。悔しい話だが」

 成が顔を上げると、類は微笑みを携えていた。

「俺たちも成だけを責めることはできない。成以外にも、俺も含めて先輩たちの時のような勝ちへの執念が足りていなかったと思う。少なくとも、結果が出ないのは成個人じゃなくてチームの問題だ」

 由も頷いた。

「せっかく成が気合いを入れるって言ったんだから、俺らも盛り上げていかないといけないよな。一緒に頑張ろうぜ、成」

 他にも何人かの2年生が成に声をかけたが、彼を責める者はいなかった。成は無事に部活への復帰を果たすことができた。

 ミーティングが終わってから空を見上げてみた。そこでは星々が優しく光を放っていた。

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