退部 前編

 成の練習ペースは一向に変わる気配を見せなかった。あからさまに手を抜いているわけでないにしろ、以前の真面目に練習していた彼を見ていれば違いは明らかだった。

 それでも成に諫言する者が殆どいないのは、彼と周囲の実力差によるところもある。少なくとも成以上のピッチングを見せられる投手がいないチームなだけに、彼に口出しできる人物はあまりいなかった。

 それに成の投球で何試合か勝つことができたからといって、甲子園が現実的になるわけではないという諦めもあった。厳しい練習をしても仕方ないという点では成に近い感情を抱く部員も多かったのである。

 成自身に真面目に練習すべきという思いが無いわけではないし、これまではそうしてきた。しかし、一度経験してしまったそれをやめる解放感が彼の心を捉えて離さない。

 成は外野の奥をぼんやりと走りながら考えた。もう一度頑張ってみたところで何があるだろう。最終的にまた吉岡に負けるのは嫌だった。

 夏の大会は運が良かっただけと思うことにしているが、それでも勝つ度に何かが積み上げられていく感触はあった。だが、そうして積み上げられたものは一発のホームランで簡単に崩れていった。またあれを味わうくらいなら最初から努力なんてしない方が良いとすら思う。

 成がランニングをやめて休憩していると、そこに杏月がやってきた。

「成は野球が好き?」

 杏月の顔を見る。いつも通り綺麗な顔をしていると思うが、何を考えているかは読み取れない。

「どうして急にそんなことを訊くんだ?」

「なんとなく、かな」

 成はもう一度杏月の顔を見てから、質問の答えを考えた。柚葉には「そこまで好きでもない」と言った。しかし、だからといって嫌いというほどでもない。明確な答えなど持ち合わせていなかった。

「わからないな」

 素直に口にした。

「嫌いだったらもうやめてると思うけど、好きかって言われるとわからない。ただ、自分が野球をする理由を訊かれたとして、好きだからとは答えないと思う」

 もし吉岡のように野球が自分の明るい未来を拓いてくれると確信できたら――かつて自分が夢見たようになれたら自信を持って好きと言えるんだろうけど、と成は思う。

 杏月は短く「そっか」と言っただけだった。成はその表情を見ていない。




 9月も終わりが近づいていた。成にとって特に変わった出来事は無かった。少なくとも、夏に負けて失った何かはまだ彼の中に戻っていない。

 些細な変化を挙げるとすれば、キャッチャーの由がよく話しかけてくるようになった。練習中だけでなく授業の合間の休み時間にわざわざ成のクラスを訪れることもある。成はいつもそれを適当にあしらっていた。由との仲は良い方だったけど、だからと言って常に一緒にいたいわけでもない。孤独を好むとまでは言わずとも、成は人付き合いが好きなタイプではなかった。ピッチャーというポジションの魅力を問われたら、マウンドの上が自分だけの世界と思えることだとはっきり答える男である。

 しかし成以上にマウンドで自分の世界を表現できる男もいる。例えばそれは白銀農業の吉岡輝雄である。各地区の代表校が集まって行われた秋の県大会は、夏に続き白銀農業の優勝という結果で幕を閉じた。

 成はその結果について「やっぱり」と思っている。「やっぱり吉岡には敵わない」と。そう思った時、彼は胸を小さな針で突かれたような痛みを覚える気がしたし、一種の安堵感を得たような気もした。

 そして9月は最後の日である30日を迎えた。いつも通り部活へ向かう成は、いつもと違う何かが起こるなど思ってもいない。

 いつも通りに練習が始まる。いつも通りにウォームアップをして、キャッチボールをして、走って、投げ込んで、練習メニューを消化する。

 投げ込みをしている時、成のストレートを捕球した由が叫んだ。

「いいぞ! ストレート走ってる!」

 由がボールを投げ返し、成がそれをグラブで掴む。

 嘘つけ、と思った。今日はいつも以上にボールが指にかかっていない。この状態で試合に登板したら大炎上もいいところだろうと成は感じている。

 しかし、そのあたりの感覚がもっと鈍ければ由に騙されていたかもしれないとも思う。由がミットで捕球する時の音が気持ち良く響いていたからだ。どうやら彼の捕球技術が向上しているらしい。

 いつも通りに練習が終わっていく。クールダウンの運動を済ませ、最後に部員全員で輪になって堀田監督の話を聞けば解散である。その際の堀田監督は話が短いことで好評を得ていた。監督自身、長々と話しても飽きられるだけで野球が上手くなるわけではないと考えていた。

 そんなわけで、いつもなら監督の訓示は短く終わる。この日はそうでなかった。自分の話が終わると、彼はこう言った。

「えー、今日は荻村から話がある。それじゃ、荻村」

 部員たちの視線が杏月に向いた。杏月は彼らの表情をぐるりと見渡し、柚葉と目が合うと僅かに微笑んで、それから口を開いた。

「えっと、いきなりですが今日で部活をやめることになりました。今まで色々と迷惑をかけることもありましたが、皆と一緒に部活ができて、大会でもベンチに入ることができて、とても楽しかったです。これからも皆を応援しているのは変わらないし、活躍を祈っています。今までありがとうございました」

 すらすらと言い終えて杏月は頭を下げた。部員たちはどよめきつつも、どこからともなく拍手が起こるとそれが輪の全体へ広がっていく。

 それが収まってから堀田監督は言った。

「荻村にはこれまですごくお世話になったし俺も残念だが、本人の意志を尊重したいと思う。これから荻村の分もというつもりで頑張って、来年は今年の悔しさを晴らそう」

 部員たちの返事がグラウンドに響いた。

「じゃあ最後に挨拶をして練習を終わろう」

 輪が解かれ、部員たちは一塁線に沿って一列に並ぶ。グラウンドに向かって礼をしてから解散となるのが誠報学院野球部の習慣となっていた。

 しかし、輪が解かれた直後、成はその場に立ちつくしたまま動くことができなかった。さらに言えば、彼は杏月の話が終わってから拍手も監督への返事もしていない。

「成? ボーっとして、どうしたんだ?」

 由に声をかけられたことでようやく我に返る。

「あ、ああ。ちょっと考え事をしていた。悪い」

 その様子を怪訝に思いつつも、由は敢えて冗談っぽく笑った。

「杏月がやめて柚葉じゃスコア書けないだろって?」

「まあ……そうだな」

 柚葉がスコアを書けないマネージャーと揶揄されるのは、誠報学院野球部における定番のネタだった。誰よりもそれを好んで口にするのが成である。

 しかし、今の成にとっては限りなくどうでもいいことに思われた。




 グラウンドへの挨拶も終わり、部員たちは帰り支度を始めている。柚葉は荷物をまとめている成の背中に声をかけた。

「成、一緒に帰ろうよ。今日は私もチャリだよ」

 その声で振り向いた成はうつろな視線を柚葉に向けて言った。

「そうするか」

 2人は自転車置き場に向かい、それぞれの自転車に跨ると並んで漕ぎだした。昔から、成と柚葉が2人でいる時に成から話し始めることはあまりない。

「杏月のこと、ショックだった?」

「ショックというか……。びっくりしたのが大きいかな」

 他にも成の胸中で渦巻く感情は存在しているのだが、上手く言葉にならなかった。

「お前はどうなんだよ。あまり驚いてないように見えるけど」

「私は……」

 少しの逡巡の後で柚葉は言った。

「ちょっと前から杏月に聞いてたんだよ。やめるかもって」

「そうか」

 成はそれだけ言った。感情の渦がいっそう強まった。

 2人はしばらく互いに無言で進んでいった。田舎の街並みはかつてそれなりに活気があっただろうに今ではすっかりさびれてしまっていて、なんとなく成を不安な気持ちにさせる。自分もこうなってしまうのではないだろうか。

 唐突に沈黙を破られたのは交差点で信号待ちをしている時だった。

「勉強に集中したいんだって」

 成が柚葉を見た。

「杏月は国立大志望なんだけど、今のままだと微妙らしくて。部活をやめて勉強に専念しようかって、ずっと悩んでたみたい」

「そうか」

 杏月は甲子園を夢見ていたのに、進学という現実がそれを道半ばで終わらせてしまった。やはり夢を実現させる力を持った主人公になれる人間なんて僅かしかいないのだと成は思う。

「本当に残念だけど……でも、仕方ないよね。将来のことも大事だし」

「だな」

 信号が青になった。成は地面を蹴って進みだしながら、将来という言葉について考えてみる。幼い頃から大人に言われ続けてきたそれは、最初は不明瞭に揺らめいているだけなのに、日に日に実態を持ち始めて日常を侵食するようになる。かつてはキラキラと宝石のように輝いていると思っていたはずなのに、いざ目の前に現れると苔むした岩のように暗くて冷たい。

 そうして多くの人々は自分が特別でないことに気づいていく。

 成は天を仰いだ。曇った夜空に星は見えなかった。

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