幼馴染
秋の大会が終わった後も成の気分は戻らなかった。夏の大会前よりずっと軽い内容の練習を続けて日々をやり過ごしていく。
9月中旬のある日。成は練習が終わるなりさっさと帰り支度を済ませた。夏の大会前にはよく居残りして自主練習をしていたのだが、それをしようと考えることもなく自転車置き場へ向かう。
その途中で声をかけられた。
「成、帰るの?」
話しかけてきた相手を見て成は言った。
「スコアを書けないマネージャーさんじゃないですか」
「その呼び方やめてよ」
成に声をかけたショートヘアの少女は頬を膨らませて不満を主張した。彼女は成と同じ2年生で、名前は
「はいはい。で、何か用?」
「今から帰るなら一緒に帰ろうよ」
「まあいいけど」
グラウンドを出て自転車置き場に着くと、成は自分の自転車の元へ向かった。それに柚葉も付いてくる。
「お前、自分のチャリは?」
「今日は歩いて来たから。成はチャリ押してってよ」
「そうか。俺はもう帰るからな。また明日」
「ごめん待って! 私が悪かったよ! お願いだから!」
結局成は柚葉の荷物を自転車のカゴに入れ、彼女と共に帰路に就いた。どこか寂寥感の漂う田舎の街並みを2人で並んで歩いていく。
「一緒に帰るのも久しぶりだよね」
少し緊張した面持ちで柚葉が切り出した。
「そう言えばそうだな」
「なんか最近は元気無さそうだったから誘いにくかったし」
「元気が無いと誘いにくいものなのか?」
「そっとしておくのも優しさかなーとか思うじゃん」
成は溜息をついた。
「じゃあなんで今日は誘ってきたんだ。おかげで、せっかくチャリで来たのに歩く羽目になった」
「だって」
柚葉が唐突に歩みを止めた。数歩前に出る格好となった成も立ち止まって振り返ると、まっすぐな視線が向けられていた。
「だって、いつまでも元に戻らないじゃん。いつまで夏の負けを引きずってるの」
成は目を逸らした。
「別に引きずっちゃいない」
「ならどうして前より手を抜いてるの。真面目にやってもシロ農のピッチャーみたくなれないって思ったからでしょ」
図星を指された成の表情が歪む。
「そんな簡単に諦めなくてもいいじゃん。プロ野球選手になりたいって言ってた頃の方がかっこよかったよ」
「いつの話だよ」
「確かに150キロを出すのは才能かもしれないけどさ、練習してたらそういう才能のある相手にだって勝てるかもしれないんだよ。夢を見るのに才能なんて関係ないじゃん」
「夢か」
成が苦々しく吐き捨てた。
「そんなものに何の意味があるんだ」
「意味って……」
1台の車が成たちの側を走り去っていった。遠ざかるそれを一瞥し、成は口を開く。
「いや、わかってる。夢が無い人生なんて虚しいよな。目の前の出来事を処理するだけで生きていくなんて、そんなのはまるでロボットだ」
柚葉が口を開きかけたが、成はそれを無視して続けた。
「そんな人生を続けていたら心が死んでいく。そうやって生きた死体にならないために夢を見る。よく晴がそういうことを言っていた。あいつらしいよな」
晴とは成の姉で大学生の小桜
「でもそれはあいつの考えで俺には関係ない。まあ仮に俺に夢があるとすれば、普通に生きることだな」
成は全く楽しさを感じさせない笑みを浮かべた。
「主役じゃなくていい。普通に働いて、たまに美味しいものを食べたり旅行したりする。そういう人生が俺の夢なんだ。別に野球のために必死になる必要は無い」
その言葉を耳にして、柚葉は自分の身体が怒りと悲しみで震えるのを感じた。成が高校でも野球を続けると聞いたときにマネージャーとして野球部に入ろうと決めたのはこんな姿を見るためではなかった。感情の渦に飲まれそうな中で声を絞り出す。
「何それ。諦めただけだよね。本当は野球で夢を見たいのに、自分で限界を作って勝手にやめちゃっただけじゃん。晴ちゃんはそういうのを心が死んでるって言ったんじゃないの」
成は肩をすくめた。
「さあな。俺にもあのバカ姉さんが何を考えてるかなんてよくわからない。でもな」
一瞬、成はそれを言うべきかどうか迷った。それでも結局は言葉を止めようとしなかった。
「俺の夢はお前のためにあるんじゃないんだよ」
柚葉が目を見開いた。成の言葉は止まらない。
「俺は俺のために夢を見るし、どんな夢を見るか選ぶのも俺だ。お前の言う通り、俺は野球の限界を自分で決めてるよ。それを超えるために頑張ろうとは思えない。そこまで野球が好きでもないからな」
何かを言おうと柚葉は口を動かしたが、言葉が出てこない。
「叶わない、叶える気の無い夢なんて辛いだけだろ。今以上に頑張るなんて自分のためにならない。俺はそれほど特別じゃないんだ」
自嘲の笑みを浮かべて成は俯いた。言うべきでなかったような気もする。心の中で思っていたことではあるが、それは言葉にした途端に力を持ち始めて、大事な何かを奪ってしまうように感じた。
しばらくの間、2人の間を沈黙が支配した。それを破ったのは柚葉の嗚咽だった。
成は顔を上げ、苦笑いして言った。
「泣くなよ」
「成の馬鹿。本当に馬鹿」
涙を溢れさせながらも、柚葉の瞳は成をまっすぐに射抜いた。成は自分の胸が痛むのを感じた。
柚葉のように、周囲の人々が自分に対して期待と心配を抱いていることを成自身も理解している。それでもなお、彼は自分自身にそれほど強い感情を抱くことができない。
成の脳裏には夏に見せつけられた吉岡の笑顔が未だに残っていた。彼は野球の結果は大部分が運だと思っているけれど、それで片付けられない何かも確かに存在する。あんなに速く、まっすぐ進んでいく存在にはなれやしない。
「帰ろう。遅くなると家の人が心配するだろ」
成は再び自転車を押して歩き始めた。柚葉も付いていく。2人は軽く別れの挨拶をする以外に他の会話をすることも無かった。
翌朝、成は自分のクラスである2年A組の教室へ行くのを億劫に感じた。よく考えてみればそうでない日など存在しないような気もするが、いつも以上に足が重かった。
その理由は簡単で、前日の帰りのことがあって柚葉と顔を合わせるのが気まずいのだ。柚葉も成と同じA組の生徒だった。どういうわけか席まで隣である。今の席は夏休み明けにくじ引きで決まったものだ。夏の県大会で運を使いきったのだろうかと成は思った。
教室の引き戸を開けて自分の席を確認する。隣の席には既に柚葉が座っていた。
「おはよう、成」
「……おはよう」
席に向かうと、柚葉の方から声をかけてきた。とりあえず成の目にはいつもと変わらない様子のように映った。
成は自分から切り出した。
「あー、その、なんだ。昨日は悪かったな」
照れくさそうに言う姿に柚葉が笑う。
「別に気にしてないよ。まあ成がああいうことを考えてるんだって思って少し悲しかったけど、だからって成の中だけで抱え込んでてなんて言えないじゃん」
そう言うと彼女の笑顔は成をからかうようなものに変化した。
「でも私以外の人には言わない方がいいかもね」
成はかぶりを振った。
「あんな話、見境なく話さないって」
「それもそっか」
柚葉が昨日のことを気にする様子を全く見せなかったので、成の心はだんだんと軽くなっていった。しかし、柚葉の表情が一転して真剣なものに変わる。
「本当に、杏月にはあんなこと言っちゃダメだよ」
多額の金銭が動く契約を交わすかのごとく、柚葉は念を押した。
なぜ彼女だけ名指しなのかと成は不思議に思ったが、確かに野球部で彼女ほど勝利にこだわっている者は選手の中ですら存在しないかもしれない。それを思えば下手なことを言うべきでないことも納得できた。
「わかった」
「絶対だからね」
柚葉はさらに何事かを言おうとしたが、結局はやめた。成は自分が泣いたことに罪悪感は感じているだろうけど、吉岡に敗れ傷ついた心の根本が変わったわけではない。
幼馴染として長いこと身近にいるうちに、彼が自分の望む反応をくれなさそうな時の見当はつくようになっていた。
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