2章:2年秋

土俵際

 誠報学院と白銀農業の準決勝は誠報学院の先攻で始まった。1回表は誠報学院の打線が吉岡のストレートに圧倒され、3人で攻撃を終えている。

 その裏に成がマウンドへ上がったが、ヒット、バント、四球、そしてホームランという立ち上がりになった。吉岡とは対照的である。

 その後、3回までは追加点を許さなかった成だが、4回、5回と得点を奪われた。結局、6回表に打席が回ったところで代打を出され、5回5失点という結果でマウンドを降りている。

 6回裏に登板した誠報学院の3年生投手は簡単に2点を奪われてしまった。結局、誠報学院は0-7というスコアで7回コールド負けを喫した。吉岡はストレートが最速152キロを計測し、2安打しか許さず完封という投球成績だった。

 こうして誠報学院の快進撃は終わってしまったのである。




 夏の大会で敗北することは3年生にとって高校野球の終わりを意味する。一方、下級生にとっては新たな始まりでもある。準決勝の翌日から誠報学院の野球部は再始動した。

 新しいキャプテンには3年生がいた時からショートのレギュラーだった2年生の石垣るいが就任した。新チームを引っ張る上で初めに彼が気にしたのは、中学校時代からのチームメイトであり新チームでもエースを任せられるだろう成の状態だった。

 成は新チームでの練習をスローペースで始めた。夏の大会をほぼ1人で投げ抜き活躍した代償として、彼の身体にはダメージが残っていた。まずはそれを回復しなければならない。

 しかし、元の状態に戻るよりも先に問題が起こった。左肘に違和感を覚えたのだ。

 病院へ行くと、医者からしばらく安静にするよう言われた。そうすればさほど長い時間を必要とせずに治るはずだと。その通りにしてみると、1週間ほどで肘の違和感は消え、身体的な問題は無くなった。

元の状態に戻らなかったのはメンタルだった。

 治るまでの間、成は肘に負担をかけないためにボールを投げず、全体的に軽めの練習を続けていた。周りより楽な練習をしていても文句を言われることがない。やがて彼は楽な練習に一種の心地良さを感じるようになった。

 成は甲子園という目標にはリアリティを感じていなかった。とはいえそれが手抜きをする理由になるとは思っていなかったし、杏月に刺激されたこともあって練習は真面目に取り組んでいた。打者を打ち取るための最善策を追究することは好きだったし、そのために多くのことを考えて努力を重ねてきた。夏の活躍はそのことが土台になっている。

 しかしその努力から離れてみると、使命感のダムにせき止められていた解放感がどっと押し寄せてきた。それは成の心を甘く誘惑した。野球部の練習に不満を抱いていたわけではない。けれども、誘惑に強い魅力を感じてしまう。それは心のどこかに傷を負っていたからでもある。

 今まで頑張ってきたのは何だったんだろう。成の率直な思いである。これから卒業までどれだけ必死に頑張っても、生身で空を飛べないように、吉岡のような投手にはなれない。それが自分の限界なのだ。だったら、これからは卒業まで緩く楽しくやればいいんじゃないか。成はそんな風に考えるようになっていた。

 肘の状態が治った後も成の練習ペースは上がらない。頼みのエースがそんな状態だから、誠報学院は試合をしてもなかなか勝つことができなかった。


 8月に入って夏の甲子園大会が開幕した。県大会を優勝した白銀農業は全国の舞台でも吉岡の投打に渡る活躍でベスト8まで勝ち進んだ。低空飛行を続ける誠報学院とは対照的である。

 そんな中で、成はマネージャーの杏月から声をかけられることがあった。

「身体の調子はどう?」

 できるだけいつも通りにと意識しつつ、成は口を開いた。

「悪くはないな。良くもないけど」

「そっか」

 成は杏月から目を逸らした。彼女の澄んだ瞳は、成の全てを見透かしてしまうのではないかと思った。

「成」

 その瞳で彼を捉えたまま、杏月は言う。

「他の人がどうあれ、成はすごいピッチャーなんだからね。甲子園にだっていけるんだから」

 成は曖昧な返事をしただけだった。杏月の眼差しは寂しげだったが、彼を責めるようなことは言わなかった。




 夏休みが終わり9月になると秋の大会がやってくる。誠報学院の場合、秋の公式戦は県北大会から始まる。県北地区からは成績上位の5校が県大会に出場できることになっている。県大会で3位以内に入れば地方大会に出場することができ、そこで決勝まで勝ち進むことができれば春の甲子園出場がほぼ確定する。

 もっとも、春の甲子園というのは誠報学院にとって非現実的すぎる話である。これまでの歴史から考えれば、県大会に出場できれば十分な成績と言えた。

 県北大会の初戦はそのことを証明するような試合になった。対戦した鷹代たかしろ商業高校は夏の甲子園に出場したこともある県北の強豪校である。誠報学院はこの相手に実力差をはっきり見せつけられた。

 練習量に比例してキレも落ちた成の投球は簡単に捉えられた。夏に比べてチームの守備力が明らかに落ちていたこともあって炎上し、6回途中7失点。チームも2-10で7回コールド負けという屈辱を味わっている。

 試合後のミーティングで堀田監督は切り替えて次の試合へ臨むよう言った。県北大会はトーナメント戦だが、一度負けてもチャンスがある。決勝に進出した2校を除くチームは敗者復活戦へ回され、そこから3校が県大会への出場権を得られるのである。

 誠報学院は敗者復活戦で2勝すれば県大会に出場することができる。最初の試合に勝ちさえすれば次の試合で負けても第5代表決定戦に回されるので、土俵際の誠報学院にとって敗者復活戦は初戦が最大の山場だった。

 その初戦の相手は桂陽けいよう高校である。県のベスト8より上に勝ち進んだことは無い。決して強い相手ではなかった。

 しかも、桂陽高校は前の試合でエースの松本投手に打球が直撃して負傷降板を余儀なくされるアクシデントに見舞われていた。後遺症が残るような重傷ではなかったが、誠報学院戦での登板は不可能と見られていた。

 その試合直前、誠報学院キャプテンの類がメンバー表の交換を済ませてチームに合流した。4番打者の中嶋が類に声をかけた。

「あっちの先発は?」

「背番号18の小木という投手だそうだ」

「なるほど」

 そう言いつつも、中嶋は小木という名前に心当たりが無かった。それならば大した投手ではないだろうとも思った。そもそも、桂陽にそんな投手がいるはずもないのだが。

 一方で成はその名前を記憶していた。

「桂陽の小木って練習試合で投げてなかったか」

「そうだったか?」

 類も覚えていないようで首をひねる。

「背番号18、1年生の小木……そうだね。夏休みの練習試合で投げてる」

 杏月が過去のスコアブックを見て言った。

「本当か。その時はどうだった?」

「球種は殆どストレートとカーブで、結果は2回2失点だね」

 類に尋ねられた杏月は淀みなく答えた。彼女が書くスコアブックにはできる限り球種や球速といった情報もメモされている。

「要するに、打てない相手ではないってことだろ?」

 話を聞いていた二塁手の竹村が言った。チーム全体に安心した雰囲気が流れた。

 先発としてマウンドに上がる成も、この試合に関してはどうにかなると思っている。桂陽高校の打力は元々大したものではないし、自分の投球に関しても技術的な部分は前の試合よりいくらか修正できているつもりだった。


 桂陽高校の先攻で試合が始まった。成は1回表の桂陽打線を三者凡退に抑えた。

 その裏、桂陽高校の先発・小木がマウンドに上がった。誠報学院のトップバッターを務める類が右打席に入る。

 右腕の小木はノーワインドアップモーションで投球に入った。腕の角度はサイドスローに近いスリークォーター。

 類は初球のストレートを見逃した。

「ストライク!」

 球審が高らかに告げた。小木が安心したように小さく笑う。

 この初球の場面、桂陽高校のキャッチャーはミットをど真ん中のコースに構えていた。そこにめがけて投じられた小木のストレートは、コース的にさほど難しい球ではなかった。試合会場の田宮球場にスピードガンは無いが、ストレートそのものもおそらく115キロ前後の球速しか出ておらず大した威力は無い。類はスイングすれば高い確率でヒットを打てたはずだった。

 それなのに初球を見逃したのは、後が無いという気負いが強すぎて慎重になった結果である。それが大会前は全くの無名だった小木に投球のリズムを与えてしまう。

 そこから小木は2球目、3球目とストレートを続け、1ボール2ストライクと類を追い込んだ。4球目、小木は初めて変化球を投じた。それはこの試合を左右することになる球種だった。

 小木の手を離れた白球は大きく山なりの軌道を描き、ゆらゆらと落ちながらキャッチャーミットへ向かっていく。ストレートよりも40キロほど遅いであろう超スローカーブ。類は見逃し、球審にボールと判定されたが、特異な変化球にまばらに埋まった観客席がどよめいた。

 続く5球目は高めのストレートだった。類はスイングしたが、完全に振り遅れている。直前のスローカーブにタイミングを崩されたのだ。空振り三振。

 それから小木はスローカーブを巧みに使った投球で初回を抑えた。山なりの軌道を描くこのボールはスイングしても上手く捉えることが難しい。なかなかヒットにすることはできず、だからと言って見逃してもタイミングを崩されてストレートへの対応が難しくなる。

 小木は狙い通り打者をかく乱できているのを見る度に純朴そうな丸顔を綻ばせた。


 2回表。成は初回に続き桂陽高校の攻撃を無得点に封じた。その裏、誠報学院の選手たちは攻撃前に円陣を組んで小木への対策を話し合う。

「あのピッチャーはカーブを使うって言ってたけど、前もあんなスローカーブだったか?」

「だったら絶対に覚えてるだろ」

 竹村の質問にライトを守る近藤が返答した。類が投球練習する小木に視線を向けながら言う。

「前の試合では隠していたか、あるいは大会前になって身につけたということだろう。どちらにせよ、それを考えても仕方ない」

 堀田監督が頷いた。

「ストレートもスローカーブもどちらもというのは難しいだろう。しっかり狙い球を絞っていこう」

 しかし、そのアドバイスを意識しても誠報学院打線のバットはあまり快音を響かせられなかった。元々打線が強くないこともあって完全に翻弄されている。

 一方の成も好投し、試合は投手戦となった。

 8回を終えてスコアは1-1の同点。両先発の投げ合いが続いている。そして9回表。マウンドに立つ成は2本のヒットと四球で二死満塁のピンチを背負っていた。

 その場面で迎えた打者に対し、成は落ちないチェンジアップから入った。やや甘いコースだったが打者が見逃してストライク。2球目もチェンジアップを投じ、外角へのボール球になった。

 3球目は外角にストレートを投じた。打者がスイングしたもののバットは空を切る。この打者はこれまでの打席でも成のストレートに対応できていなかった。

 成は4球目に決め球のスライダーを投じたが、力んでしまい低めへのボール球となった。カウントは2ボール2ストライク。

 秋になって捕手のレギュラーを掴んだ由が5球目のサインを送った。彼は打者が対応しきれていないストレートで勝負をかけようと考えていたのだが、マウンド上の成はサインを見て首を横に振った。

 結局、5球目もスライダーを続けた。しかし、このボールも4球目と同じように低めへ外れた。3ボール2ストライク。二死満塁でフルカウント。

 勝負の6球目。由は再びストレートのサインを送った。キャッチャーマスクの隙間から、またも首を横に振る成の姿が見えた。

 それを見た由は途方に暮れてしまった。四球も許されない満塁の場面だ。さっきまでの2球を見ていればスライダーを続けることはできない。カーブなら打者の意表を突ける可能性もあるが、空振りを奪いやすい球種ではないし、長打にされるリスクも大きい。どう考えてもストレートがこの状況における最適解である。成は何を考えているのかと思った。

 由はもう一度ストレートのサインを出そうかとも思ったが、自分の意志を貫けなかった。新チームになってから成は投げ込みを減らしている。必然的に由が投球を受ける回数も少なくなっていたため、自分が彼の投球を理解しきれていないのではと思った。それに今まで控えだった自分と違い、成は夏の公式戦を5試合も経験しているのだ。そう思った時、由は怖気づいていた。消去法でチェンジアップのサインを送った。

 成はそれを見て頷いた。いつも通りのスリークォーターからストレートと変わらない腕の振りで遅球が投じられ、アウトローの厳しいコースへ向かっていく。成の狙い通りだった。狙い通りでなかったのは、そのチェンジアップが少し「落ちた」ということである。成は「落ちないチェンジアップ」と呼んでいるが、あくまでもチェンジアップであり、ストレートより回転が少ない分だけボールは僅かに沈む軌道を描く。それなのに厳しいコースを狙い過ぎた。

 打者が見逃したチェンジアップを、由がミットを被せるようにして捕球した。

 球審は少し間を置いてから告げた。

「ボール」

 9回表、桂陽高校が押し出しの四球で1点を勝ち越した。

 なおも満塁のピンチは続いたが、追加点を防いで9回表を終えた。最後の攻撃に臨む誠報学院が背負うビハインドは1点である。

 9回裏、先頭打者は6番を打つ成だった。内角に投じられたストレートを引っ張ると、打球は一二塁間を抜けていった。同点のランナーとして一塁に出塁する。

 続く橋本は三塁への弱いゴロを放った。三塁手は前に出てきて捕球すると、二塁は間に合わないと判断して一塁へ送球したが、この送球が逸れた。ベースを離れて捕球した一塁手が戻ってくるより先に橋本が一塁へ到達した。相手のエラーでサヨナラのランナーも出塁し、誠報学院のベンチが沸く。

 ところが次打者の近藤はバントを失敗してしまった。打ち上がったフライをキャッチャーがファールグラウンドで捕球し、スコアボードに赤い光がひとつ灯った。

 堀田監督は次の9番打者・古川に替えて代打の花田を送った。花田は小木のストレートを捉えたが、ライナーが飛んだ先は三塁手の正面だった。がっちりと捕球されてツーアウト。

 誠報学院ベンチの空気は目に見えて重くなったが、1番打者の類は粘りを見せた。フルカウントで迎えた9球目を見逃し、四球をもぎ取る。これでツーアウト満塁。表の桂陽高校と同じシチュエーションである。

 打席に2番の竹村が入り、桂陽は守備のタイムを取った。内野陣がマウンドに輪を作り、1年生投手の小木に声をかける。

 タイムが明け、初球に投じられたのはストレートだった。しかし、ストライクゾーンに決まらない。2球目もストレートを続けたが、またもボールになった。

 キャッチャーがマウンドに駆け寄って声をかけた。小木はその言葉に頷いている。

 三塁からその様子を眺めている成はピッチャー目線で考えて、桂陽高校にとってこの場面は厳しいと思っている。この場面で力むなというのは無理な話である。経験に乏しい小木なら尚更だ。冷静さを取り戻して抑えるには、もはや開き直るしかない。

 その意味で、この日の小木は冴えていた。

 竹村への3球目はスローカーブだった。見事に裏をかいている。やや甘いコースながら手を出せずストライク。

 小木はさらにスローカーブを続けた。今度は低めに投じられる。しかし、これはボールと判定された。3ボール1ストライク。小木の方が追い込まれたことになる。

 成は考えた。次の5球目、竹村はストレートに狙いを絞るだろう。自分がバッターでもそうする。スローカーブは高めに入ると低めよりずっと打ちやすくなるから、ピッチャーは低めを狙って投げなければならない。しかし四球も許されないこの場面で低めに決めることは容易ではない。だから普通ならカーブなんて選択はできないのだ。

 とはいえ、それで竹村がストレートを狙ってくることは桂陽バッテリーも読んでいるだろう。この場面、小木が完全に開き直っているとしたら?

 小木は成の疑問に山なりのスローカーブで答えた。竹村は手を出さない。出せなかった。キャッチャーがミットを構えた通り低めに投じられた白球が、球審の右手を上げさせた。二死満塁、フルカウント。9回表と全く同じ状況になった。

 6球目。小木はキャッチャーから送られたサインに力強く頷いた。サイドスロー気味のスリークォーターというフォームで思い切り腕を振る。

 最後はストレートだった。低めに構えられたミットへ吸い込まれるような投球を竹村はあっさり見送った。予想外のスローカーブを続けられた彼は迷いを拭えていなかった。

「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」

 球審の叫びは、試合終了と同時に誠報学院の短い秋の終わりをも意味していた。

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