快進撃 後編

 誠報学院が快進撃を巻き起こすより1年前の夏。県大会初戦で敗れた誠報学院野球部の3年生が引退すると、1年生だった成もベンチ入りできるようになった。しかし彼のストレートは球質が軽く、狙われると簡単に打たれてしまうという問題を抱えていた。打者を追い込めばスライダーを有効に使うことができるが、スライダー以外にストレートとカーブしか持ち球が無い当時の彼にとってこの問題は大きかった。

 対策としてシュートやツーシームといったストレートに近いスピードで小さく変化する球種の習得にも挑んだが、思うように操るまでには至らなかった。

 そんなある日の練習中。新たな球種に手応えを得られなかった成は休憩時間も肩を落としていた。そこにやってきたのは杏月だ。

「元気無いね」

 成は肩をすくめた。

「疲れてるからな」

 大きな瞳が成を射抜くように見据える。

「新しい変化球は上手くいってない?」

「まあ……そうだな」

 俯いていた成は顔を上げて杏月の顔を見た。長くてつやのある黒髪に、グラウンドで日差しに晒される時間が長いというのに透き通るような白い肌。高校生というよりもっと幼く見える童顔と華奢な体躯もあって、どこか儚さを感じさせる雰囲気が漂っている。

「ツーシームとか動くボールは流行ってるって聞くけど、実際に投げるのは難しいんだね」

「握り方を変えるだけのはずなんだけどな。まあセンスが無いんだよ」

「また成の悪い癖が出た」

 杏月は眉をひそめて不満を示した。

「成は絶対にすごいピッチャーだって。自信を持って投げれば甲子園も夢じゃないんだから」

「だといいけどな」

 甲子園。彼女は口癖と言ってもいいくらいこの固有名詞を口にすることが多かった。

 高校の部活で硬式野球をやっていれば、毎年春と夏に甲子園球場で行われる全国大会は誰もがほぼ例外なく夢見る舞台である。しかし、その夢が現実的なものであるかどうかはチームによって完全に異なっている。誠報学院は現実的ではない方だ。成は本気で甲子園を目指したい者は誠報学院なんかに入るべきではないと思っている。

 それなのに、杏月は甲子園へ続く夢物語を強く思い描き続けていた。女子である以上、彼女は公式戦に出場することすら認められていないのに。

 成はそんな彼女を素直に尊敬していた。特に目標も持たなかった彼が高校に入ってから大きく成長できた理由として、杏月の目標に対するひたむきさに感化されたことは大きい。

「速くて動くボールが難しいとなると……遅いストレートを投げるのはどうかな?」

「え?」

 突然の提案に思わず訊き返す。

「成はストレートを狙われると困るから、狙いを外すために動くボールを覚えようとしてるんだよね。だったら、ストレートの球速を変えてもバッターは狙いを絞りにくくなるんじゃないかな」

「そりゃスピードが全く違うストレートを投げられるなら、簡単に狙われることもないだろうけど……」

 成は少し考えたが、首を横に振った。

「腕の振りが変わってしまえばバッターはすぐにわかるから意味が無い。遅いストレートなんて、言うのは簡単だけど実戦で使うには高等技術……」

 そこまで言って成は再び考え込んだ。杏月が黙ってその様子を眺めている。やがて彼は杏月の顔をじっと見つめて言った。

「いや、もしかするといけるかも」

「本当?」

 杏月の表情がスイッチを切り替えられたかのごとく明るくなった。

「ああ。ちょっと試してみる」

 成は2年生の控え捕手・水守みずもりゆうをつかまえてブルペンで投げ込みを行った。


 投げ込みを見守っていた杏月が興奮気味に口を開く。

「すごい! 本当に遅いストレートだったね!」

「コントロールも悪くないし、腕の振りもそこまで変わってなかったと思う。これは使えるんじゃないか?」

 由も感心したように言った。彼は小学生の頃から一貫して捕手を務めていたが、ストレートと同じ腕の振りから繰り出される変化もしない遅球など受けたことはなかった。

 杏月が尋ねる。

「さっき遅いストレートは難しいって言ったよね。今のはどうやって投げたの?」

 成の背筋が心持ちピンと伸びる。

「実はこれ、ストレートじゃなくてチェンジアップなんだよ」

「チェンジアップ? そう言えばちょっと前まで投げてたよな」

「ああ。落ちる球が欲しくて練習してたんだ。上手くコントロールできないからやめたけどな」

「でもさっきのは落ちなかったしコントロールもできてたよね?」

 成は頷いた。

「握り方を変えたんだ。前に投げてたのがこうで、さっきのがこう」

 そう言って2人にそれぞれの握り方を見せた。前者では2つの縫い目に指がかかるように握っているが、後者では指にかかる縫い目が4つになっている。

「要は前にツーシームの握りで投げていたものをフォーシームの握りに変えたんだ。チェンジアップもストレートと同じでツーシームの握りにすれば変化しやすくなるし、フォーシームの方がコントロールはしやすい。個人差はあるだろうけどな」

 解説を受け杏月は感心したように頷いた。質問をぶつけたのは由である。

「フォーシームの方はなんで投げてなかったんだ?」

「…………」

 成は口をつぐんだ。2人が不思議そうに彼を見つめる。

 沈黙が流れた後で、成は2人の顔を見ずに言った。

「あまりに落ちないからだよ。いくらコントロールできても、こんなに変化しないボールはマウンドから見てて不安になる」

 由が意地悪く笑った。

「成って意外とチキンなところもあるんだな」

「だから言いたくなかったんだよ……」

 成は恨めしそうに由を見て、それから視線を杏月へ移す。

「でも、チェンジアップは落ちなきゃ意味が無いと思ってたから、たぶん1人で考えてもこのボールを使おうとはしなかったと思う。杏月のおかげで使えそうな球種が増えた。助かったよ」

 杏月がにっこりと笑った。

「感謝されるほどのことはしてないよ。でも役に立てたなら良かった。試合で使えるといいね」

「きっとたくさん使うさ」

 その言葉通り、成は「落ちないチェンジアップ」を武器として誠報学院の快進撃を巻き起こした。自分の活躍とこのエピソードを切り離すことはできないし、杏月がいなければエースにもなれなかったと思っている。だから「落ちないチェンジアップ」は彼にとって特別な意味を持っていた。




 準々決勝で久保田商業に勝利した日の夜。成はスマートフォンで高校野球関連のニュースを読み漁っていた。≪誠報学院が名門久保田商業を破り初の4強≫という記事があった。4年連続で初戦敗退していた弱小校の快進撃はなかなかセンセーショナルな話題である。

 しかし、この年に限ってはそれが霞んでしまう。同じ県の話題でこんな記事があった。

≪怪物2年生吉岡よしおか154キロ! 甲子園まであと2勝≫

 吉岡とは誠報学院が2日後の準決勝で対戦する白銀しろがね農業高校の4番とエースを兼任する吉岡輝雄てるおのことである。成と同じ2年生で、身長も彼と同じ175cmとピッチャーとして特別大きな体格ではない。しかし、その身体に搭載しているエンジンは他の投手と明確に異なっている。右腕から放たれるストレートの球速は150キロを超え、2年生ながら既にプロ野球チームのスカウトから熱視線を送られている。数々のメディアが彼を取り上げているから全国的な知名度も高く、この日の最速154キロも大きく報道された。成のこの日の最速は132キロである。誰も話題にしていない。

 吉岡が通う白銀農業も野球の強豪として知られていた。県民から「シロ農」と呼ばれることの多いその学校はこれまでに何度か甲子園に出場したことがある。中でも30年以上前に初出場ながら準決勝まで勝ち進み、当時最強と謳われていた強豪校を追い詰めたことは未だに県内で語り草となっている。

 しかし、久保田商業や武田体育大学付属高校といった県内の他の強豪に比べると、中学までに硬式野球を経験したことのある部員の数は圧倒的に少ない。エリートとは言えない選手たちを厳しい練習で鍛え上げて勝ち進むというチームカラーは、農業高校ということも含めてか「雑草軍団」と形容される。

 成は吉岡を特集する記事をいくつか読んだ。そのうちのある記事によると、吉岡は中学生の時にいくつかの野球強豪校から勧誘を受けていたらしい。しかし、彼はそれらを断ってシロ農に進学した。彼の父親の母校だったということもある。それに、彼は他の強豪校を倒して甲子園に出場するというわかりやすい夢を持っていた。その夢を共有しようと軟式野球時代の友人やライバルたちをシロ農へ誘ったという。漫画のようなエピソードだし、吉岡はまさに主人公といった風情の男だった。

 成は違う。小学4年生の時に学校の野球部に入った。そんなに強いチームでなかったこともあってチームメイトに比べれば実力はあり、進級と代替わりで自分たちの代がやってくるとエースになった。プロ野球選手――そんな野球少年らしい夢を持ったこともある。

 中学校の軟式野球部でもエースになった。この頃には既に自分がプロ野球選手になるのはあまりに現実離れしていると思うようになっていたが、凡人なりにある程度は優秀な投手なのではないかという小さな自信も抱いていた。

しかし現実として、成が野球の強豪として知られる高校から誘われることは全く無かった。このことで彼は自分への信頼を大きく損ねてしまった。

 無名校の誠報学院に入学したのは他の学校より家から近いという、ただそれだけの理由だった。

 高校入学を機に野球をやめようかとも思った。誠報学院の野球部に入っても甲子園出場はあまりに現実離れしているし、吉岡のように明確な目的意識を持てなかったからだ。

 それでも彼が野球部に入ったのは、小学校でも中学校でもエースだったから、高校でも野球をするのが自然だと考えたからである。「自然」というのは彼自身の感覚というより、周りがそう考えるだろうという予想だった。成は周囲が抱く「小桜成」という人物像に迎合しようとしていた。

 結果として、周囲の目には彼の人生が野球少年として比較的まっすぐ進んでいるように映るかもしれない。しかし、本人はそうではないという気持ちをどこかに抱いている。そんな彼がストレートに見える遅球「落ちないチェンジアップ」を駆使するピッチャーなのは因縁めいた話かもしれない。

 吉岡の活躍を報じた記事を読みながら考える。彼は自分と違い心から望んで高校野球をやっている。それが明るい未来へ繋がることも確信しているだろう。吉岡の人生はその未来へ向かって、彼が投じる150キロのストレートのようにまっすぐ突き進んでいく――。






 ――まっすぐ突き進んでいくストレートを、吉岡のバットが捉えた。

 マウンドに立つ成は振り返って打球の行方を見つめた。それはどんどん遠ざかっていき、最後はレフト後方のフェンスの向こう側へ落ちた。

 誠報学院と白銀農業の準決勝。1回裏、白銀農業は4番吉岡のスリーランホームランで先制した。

 成はグラブを軽く叩き、ダイヤモンドを駆けていく吉岡を見た。吉岡も成を見て、笑った。

 投げて、打って、走って、爽やかに笑う。吉岡が注目を集めるのは野球を全力で楽しむあどけない溌溂さも大きな要因だった。

 しかし、ここで吉岡が見せた笑みは爽やかなだけではなかった。それはどこか勝ち誇るような笑みだった。彼の中には同じ2年生エースの成を叩き潰さなければならないという使命感があったのかもしれない。

 成にはそんな吉岡の表情が「お前たちの快進撃はここまでだ」と言っているように見えた。

 準決勝の舞台である小野球場には吉岡目当てでやってきた大勢の観客が詰めかけていた。彼らが鳴りやまない大歓声を上げている。それを一身に受けて、吉岡がホームベースを踏んだ。

 そうかもしれないな、と成は思った。

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