落ちないチェンジアップ

平都カケル

1章:2年夏

快進撃 前編

 その年の夏、県立誠報学院高校硬式野球部は快進撃を見せていた。

 5年ぶりに県大会の初戦を突破すると、そのまま2回戦と3回戦も勝ち上がった。15年前に現在の校名となってから初めてベスト8まで駒を進め、この日の準々決勝では県内屈指の野球名門校として知られる久保田商業高校と対戦している。

 「久保商」の愛称で知られるこの学校は、昨年夏の県大会を制して甲子園に出場している。代替わりこそしているが、強豪校であることに変わりはない。試合前に誠報学院の勝利を予想する者は皆無と言って差し支えなかった。

 しかし、8回まで試合が終わって9回の攻防に入ったとき、4-3と1点をリードしているのは誠報学院だった。

 9回表のマウンドには、背番号1を背負った誠報学院の先発投手・小桜こざくらなるが立っている。175cmの身長でやや細身の体格をした2年生の左投手サウスポー。長い前髪の間からやや気怠さを感じさせる瞳で打者を見据えている。高校球児にしては珍しく髪形が丸刈りでないのは、野球部の堀田ほった監督が部員たちに対し丸刈りにすることを禁止しているからだ。

 丸刈りにしても強くなるわけじゃないから髪型は自由にするが、1人でも丸刈りにすると他の部員が不真面目だというレッテルを貼られかねない。だから丸刈りにしたい人には悪いが禁止する。それが堀田監督の理屈だった。彼は選手としても指導者としても野球経験には乏しくどこか頼りのない人物だったが、部員たちには親しまれていた。

 ベンチから試合を見守る堀田監督は自分が率いるチームの快進撃を嬉しく思いつつも、困惑した思いも抱いている。試合で勝てなくとも部活を楽しむことで生徒たちの高校生活を充実させたい。そんな思いで指導してきたチームが甲子園まであと3勝と迫り、そのうち1勝を掴みかけている。目の前の現実をそれとして受け入れることにためらいがあった。

 誠報学院はそういう、勝つことに自分たちが驚いてしまうようなチームだった。そんなチームでエースを任されている成もまた、勝利への気迫を前面に押し出すタイプの投手ではない。直球の最速は133キロ。同年代の全体で見ればそれなりに優秀な部類かもしれないが、大きく騒がれるほどでもない。成自身も直球で押していくより、打者のタイミングを外してかわすことこそがピッチングの肝だと考えていた。

 彼はストレートの他にスライダー、カーブ、チェンジアップという3種類の変化球を投げる。打者を2ストライクと追い込んだ後に三振を狙って投げる“ウイニングショット”はスライダーだ。しかし、最も“特徴的な”球種ということになると、それはチェンジアップである。大抵の場合、チェンジアップと言えば遅いスピードで沈む軌道の変化球を指すが、彼のチェンジアップは遅い球速ながらほぼ沈まなかった。成自身はこの球を「落ちないチェンジアップ」と呼んでいる。打者がスライダーと思って見逃せばそのままストライクゾーンを通過したり、ストレートと思って打ちにいくと引っかけて凡打に倒れたりする。成はこのボールによって投球の幅を手に入れた。そのことが彼を2年生ながらエースの座に押し上げ、快進撃の立役者とさせた要因だった。

 9回表が始まり、成はそれまでと変わらず淡々とボールを投げ込んでいた。彼はランナーがいてもいなくてもセットポジションから投げ始めるスタイルを変えない。3年生のキャッチャーが出すサインを確認して頷く。ボールを胸の前でセットし、ゆっくり右脚を上げる。膝が腰くらいの高さまで上がったところで両手を叩き合わせると、テークバックに入っていく。

 右足がホームベースに向けて踏み出された時、成の両腕は弓を引くような形になっている。そこから腕を振るというより、身体全体を回転させるような意識でリリースに向かっていく。腕の角度は上手投げと横手投げの中間。いわゆるスリークォーターである。

 そのフォームから繰り出される腕の振りは、どの球種でも殆ど変わらない。直球と変化球を同じ腕の振りで投げると口で言えば簡単だが、これはプロでも苦労する者が多い技術である。成はそれを意識するでもなく身につけていた。その代わり、多彩な変化球を操るほどの器用さは無い。

 成は9回表も「落ちないチェンジアップ」を織り交ぜた投球で久保商打線からあっさりツーアウトを奪った。誠報学院にとって現校名での最高記録をさらに塗り替えるベスト4まであとアウト1つである。

 そして迎えた打者もサードへのゴロに打ち取った。しかし、この打球を三塁手のグラブが弾いてしまう。土壇場から幸運な形で同点のランナーを出塁させ、三塁側の久保田商業応援席が沸いた。

 この時、両チームの監督と選手たちは1ヶ月ほど前に対戦した時のことを思い出している。現在の校名になる前の誠報学院は久保田商業と同じく商業高校だった。その縁で野球部が毎年交流試合を行っているのだ。

 その試合でも成が先発して好投した。7回を終えて2-2の同点。成が久保商打線をよく抑えての善戦だった。

 迎えた8回、成はツーアウトからランナーを許した。そこから久保商打線を止められなくなり、3つ目のアウトを奪うまでに3点を失ってしまった。

 最後の最後、あと一歩というところで成の集中力が切れてしまった。経験豊富な強豪校はその隙を突いてくる。誠報学院の多くの選手たちはそう感じていた。

 ところが、マウンドに立つ成本人の捉え方は違う。彼はピッチングの大半が運であると考えている。交流試合で打たれたのは不運が続いたからとしか思っていない。

 どんなに素晴らしいボールを投げても球審にストライクと言ってもらえないことがある。バッターが上手く打ってくることもある。弱い当たりに打ち取っても飛んだところが悪くてヒットになることがある。もちろんその逆に運が味方をしてくれることもある。成にとってのピッチングとはそういうものである。その中で彼にできることは、どんなボールを投げれば打ち取る確率が最大になるか考え続け、一球ごとにベストの投球を目指すこと。付随する結果はコントロールできない要素が多すぎるから、頓着しないのが成の思考法だった。

 準々決勝のあと1人で勝利というところからランナーが出てしまった。しかも1ヶ月ほど前に似た状況からの敗北を経験している。その状況においても成はエラーをした三塁手に不満を抱いたり、逆転されてしまうのではという不安を感じたりはしない。むしろ、野球は打者が3割も打てば褒められる競技なのだから、確率的には何とかなる公算の方が高いだろうと思っている。何とかする、ではなく。

 チームの命運を握るエースの考え方としては無責任と言えるかもしれない。しかし、結果に一喜一憂せず、常に変わらない投球を可能にするメンタリティが彼の活躍を引き出したことも事実である。

 結局、成は最後のバッターをセンターフライに仕留めた。バッターは「落ちないチェンジアップ」にタイミングが合わず、身体が前に泳いでいた。

 この試合27個目のアウトを確認した誠報学院の選手たちと、一塁側応援席に陣取った誠報学院応援団は既に甲子園出場を決めたのかと錯覚するほどの大騒ぎだった。

 その一方で成は、左の拳でグラブを軽く叩くだけでマウンドを降りた。彼にとっては良い結果も含めて運だから、大きく喜ぶことはしない。

 試合後の挨拶も済ませ、クールダウンのキャッチボールをしようとする成の元に誠報学院の制服を着た少女が走り寄ってきた。野球部のマネージャーであり、記録員としてベンチ入りしている2年生の荻村おぎむら杏月あづきである。誠報学院には彼女ともう1人の2年生の女子マネージャーがいるのだが、チームでスコアブックを書けるのが杏月しかいないため彼女がベンチ入りしている。

 杏月は成に向けて一言だけ口にした。

「お疲れさま」

 成は照れ混じりに微笑んで頷いた。勝利も敗北も大半が運と考える成にとって、自分のピッチングで快進撃を巻き起こしているこの夏がいささか空虚なものだったとしてもおかしくない。そうならない理由があるとすれば、自分のピッチングの中に杏月の存在があって、ピッチングの結果で彼女が喜んでくれることだった。

 「落ちないチェンジアップ」は杏月が関わって生まれた変化球だった。

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