第46話 ある医師の独白

前書き


最近、やたらと勘違いが多いです。特に、曜日の間違いが多くて、今日もごみの日だと思って燃えるごみを出しに行ったら、明日でした。先日は一ヶ月後の行事を勘違いして、朝早く現地で待っていました。

自分ではきちんとカレンダーを見ているつもりなんですけどね~

勘違いって恐ろしい……



暦の上では春なのに、昨日までずっと底冷えのする寒さが続いていたが、今日は一転して穏やかな日和となった。ようやく片付いた所用を終わらせ時間を確認すると、隣の看護師が苦笑する。


「先生、そんなに気になるなら、さっさと行ったらどうです?」


「? どうしてかね?」


「だって、退院が決まってから、ずっとそわそわしていましたもの」


 自覚していただけに、まるで秘密を見つかったような恥ずかしさを覚える。


「そりゃあ、まあ、仕方ないだろう?」


 隣の彼女に同意を求めると、彼女は笑いながらも頷いてくれた。あの時、彼女も一緒にいたのだから、私がこの日を心待ちにしていたのは分からないでもないのだろう。


「美人ですものね、彼女」


「馬鹿、そんなつもりじゃないよ」


 茶化す看護師に苦笑する。確かに彼女は美人だが、定年間近の自分にとってはむしろ孫の様な存在だ。


「しかし、無事に退院出来て本当に良かった」


 医師という大変な職業について長いが、こんな時、本当に頑張って良かったと思える。


「先生の腕が良かったからですよ」


「いや、私などまだまだだよ」


「そんな謙遜することないじゃないですか。彼女も感謝していましたよ」


「いや、謙遜ではないよ。

上には上がいるものだ。幾つになっても学ばなければいけないことは多いものさ」


 あの時の手術を思い出す。殆ど手遅れに近い状態で運ばれた彼女を偶々居合わせた恩師が受け持ってくれたからこそ、こうして笑っていられるのだ。あの淀みない動きと的確な処置がなければ、彼女はきっと助からなかっただろう。恩師が病院を引退して長いが、その経歴に恥じない素晴らしい手術だった。


 それだけではない。あの夜、担当だった内科の医師の都合が急に悪くなって、外科の自分が夜勤に入っていなかったら。あの時、救急車が近くを通りかかっていなかったなら。恩師がいなかったなら。


幾つもの『偶然』が重なって彼女は助かったのだ。神の存在なんて信じていないが、彼女を巡る不思議な力を感じずにはいられない。


「それでは、少し挨拶してくるよ」


「ええ、ごゆっくり」


 笑顔の看護師に送り出され、そういえば、病室の番号を覚えていなかった事を思い出し、苦笑いして病室の番号を確認する。


「ええと……立野晴さんは………405号室か」




 すれ違う患者に挨拶を交わしながら、病室を確認するとドアをノックした。


「はい」


 返事を待ってドアを開けると、ベッドに腰かけた女性がこちらを向く。救急搬送されてから意識不明の状態が長かった彼女からすれば、私への面識はないだろうが、白衣を着た姿にピンときたらしく、微笑んで迎えてくれた。


「立野さんにとっては、初めまして、かな」


「もしかして、手術を担当して下さった先生ですか?

お陰様でこうして退院することが出来ます。本当にありがとうございました」


 頷いた私にゆっくり立ち上がると綺麗な動作で頭を下げる。同僚の担当医の話ではもう少しリハビリが必要らしいが、その回復ぶりに安堵した。



「私よりもあなたを助けてくれた方が本来はここに来るべきなのですが、代わりにおめでとうと伝えて欲しいと言われていまして」


「そうなんですか。看護師さんからも先生がいてくださったから助かったのだと聞いていました。私にとっては先生も恩人です」


「本当にあなたは幸運でしたね。

まるで、誰かがあなたに『生きてほしい』と願ったように偶然が重なったとしか思えませんよ」


 その言葉を聞いて立野さんが微笑んだ。その表情に僅かに苦いものを感じて、言葉を付け加える。


「ただ、これだけは覚えておいて下さい。

 私達はあくまで手助けをしただけの存在であって、あなた自身が生きることを望んだからこそ、こうして今があるのですよ」


「…………そうですね」


 何かを思い出すように視線を下げた後、ふっと微笑む。先程とは違う嬉しそうな微笑みに思わず笑い返した。


「しかし、大変でしたな。見知らぬ男に人違いで刺されて死にかけるなんて」


「本当ですね。犯人は捕まったと聞きましたが……」


「ええ、愛人関係のもつれから逆恨みの犯行だったらしいですよ」


「そうですか……」


 俯く立野さんに余計な事を告げてしまったことを後悔する。あの事件は容疑者が県議員だったこともあり、新聞やテレビで大々的に報じられた為、つい口にしてしまったが、被害者の彼女にとっては未だに癒えない大きな傷に違いない。


「ご家族の誰かが迎えに来られるのですか?」


 傍らに置かれたアタッシュケースに視線を移し、慌てて話題を逸らすと、顔を上げた立野さんに笑みがこぼれた。


「ええ、従姉妹が迎えに……もうそろそろ来る頃だと」


「従姉妹さん、ですか?」


「私も彼女も既に両親を無くしていまして、家族と言えるのは彼女しかいないのです」


「それは、また、大変でしたな」


 たった一人の身内を失うところだった彼女の従姉妹に思わず同情する。そういえば、看護師が噂話をいくつか話していたのを思い出した。


「確か、高校生と聞きましたが……」


「はい、今月無事に卒業しました。残念ながら卒業式は間に合わなかったのですが」


「それは、残念でしたね。あなたの看病をしながら医大を目指して受験勉強をしている苦学生がいると、看護師が誉めていましたよ」


私の言葉に照れながらも微笑む彼女は、まるで自分の事のように打ち明けてくれる。


「はい。お陰様で無事に合格出来ました」


「そうですか、それは、良かった!」


 薄幸の女性の明るい話題に、私も嬉しくなる。世の中悪い事ばかりではないのだ。


「先生の後輩になるかもしれませんので、その時は宜しくお願いしますね」


 いたずら顔で告げる立野さんに「その時は任せて下さい」と笑い返すと、ポケットの電話が音をたてた。どうやら、呼び出しのようだ。


「それでは、私はこれで失礼します。

 退院、おめでとうございます。従姉妹さんにも宜しく」


「はい、ありがとうございました」


 笑顔で別れて病室を出ると、電話を取り出す。看護師からの連絡を聞きながら、廊下の向こうから、控えめに、小走りする少女とすれ違う。確かに見覚えある彼女が笑顔で病室に入るのを見送ると、電話を切ってナースステーションに向かった。

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