第35話 移りゆく心 (10)
前書き
久しぶりに友人と食事に行きました。職場や日常の愚痴に相づちを打って、笑い合って。
苦労が多くていつも大変そうな彼女ですが、彼女は「いつも大変そうだね」と私を心配してくれます。友人の方が余程大変な思いをしているはずなのに、お互い自分の事は案外見えないものなのかな……と思ったりしました。
◇
部屋に入って荷物を片付けていると、バックの中に包装紙に包まれたマグカップを思い出した。捨ててしまおうかと包装紙を破ろうとしたものの、結局、そのまま部屋の片隅にしまう。
「こんなはずじゃなかったのにな…………」
楽しい一日になるはずだった今日を壊してしまったのは自分で、何よりも夕貴を傷つけた事が酷く辛い。自分の不甲斐なさに下唇を噛んで拳を握りしめた。
電気をつけたままタオルケットを被って横になっていると、静かにドアが開いて、夕貴が入ってきた。どんな顔で会えば良いか分からなくて、背を向けると目を閉じて眠った振りをする。しばらく部屋の前に立ち尽くしていた様だが、やがて洗面所に向かったらしく、足音が遠ざかるのが聞こえた。
きっと、夕貴は私から離れるだろう、そう思うと胸の奥がまた痛んだ。電気を消して布団に潜る彼女が、結局何を思っていたかは分からなかった。
一睡も出来ないまま夜が明ける。夕貴も同じだったらしく、彼女の寝息がようやく聞こえたのは一時間ほど前だった。明け方の薄暗い室内で身体を起こすと、そっと夕貴の傍に近づく。頬に張り付いた髪と閉じていても分かる腫れた瞼に、夕貴がずっと泣いていた事を知り、思わず手を伸ばそうとする自分をぐっと抑え込む。
あれほどまで言えば、夕貴もきっと私から離れるだろう。この子にはこれからも未来があるのだ。傍で支えて、一緒に笑ってくれる人間など星の数ほどいるに違いなくて、傷つけるなら傷は浅いほど良い。だから、もう、私が離れるしかないのだ。
「………………」
いつしか自分の視界がぼやけているのに気がついて、目元を指でなぞると冷たい感触があった。自分が泣いていることに気がつくと、いたたまれなくなってその場から逃げるように、それでも夕貴を起こさないように外に逃げ出した。
「…………ここで何してるの?」
麗の呆れたような声に薄く目を開ける。どこにも行くあてがなくて向かった先は麗の事務所だった。ソファーに長々と横たわったまま動かない私を一瞥すると、奥のデスクに向かう。事務所の鍵を勝手にこじ開けて入ったのだから、麗が呆れるのも無理はない。
「セキュリティをもう少し強化した方がいいかしら…………」
私に聞かせるような呟きを無視して再び目を閉じる。蛍光灯の光が眩しくて片腕で目を覆うように庇った。僅かに薫る麗の香水の香りがふわりと近づくのが分かったが、そのままでいると、唇に柔らかい感触を感じる。
「…………随分ご機嫌斜めじゃない。あの子と喧嘩でもしたの?」
「………………」
夕貴の寝顔を思い出しそうになり、ぎゅっと唇を噛むと頭上からくすくすと笑う声が聞こえる。
「セイ。
…………あの子の事、忘れさせてあげようか?」
耳元に吐息と一緒に囁かれた言葉に反応せずにいると、一呼吸置いて再び唇を塞がれる。麗の香りの中で閉じたままの唇をこじ開けられ、舌をからめ取られる。空っぽの心は何も感じなくて、ただ麗を受け入れていた。どのくらいそうしていたのか分からないまま、突然終わりを告げたキスにぼんやりと目を開けると、麗が見下ろしていた。
「…………」
「今日はやめておくわ」
視線だけで訊ねた私に苦笑いしながら麗が立ち上がり、バックからコンパクトを取り出すと、乱れたルージュを塗り直す。
「一方的なセックスなんて全然楽しくないから」
「………………ごめん、麗」
デスクに戻り書類を捲る音が聞こえた頃、小さく呟いた謝罪にふっと麗の雰囲気が和らいだ気がして、滲む涙を隠すように再び腕で目を覆った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます