第30話 移りゆく心 (5)

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何かを焼く香ばしい匂いが鼻に届いて目が覚めた。いつもより少し遅い時間に、夕貴が寝過ごしたのかと思いながら起き上がる。


「おはよ」


「……夕貴、学校は?」


 Tシャツとハーフパンツ姿で朝食を運んできた夕貴は、一瞬不思議そうな顔をした後、私を見て笑った。


「今日は日曜日だよ」


「……」


「セイもご飯食べる?」


「……食べる」


 本音はもう少し寝ていたいが、朝食を二度手間にさせたくなくてぼんやりとした頭から眠気を追い出すため顔を洗いに向かった。トーストとスクランブルエッグにサラダという少し前の生活ではあり得なかった完璧な朝食がテーブルに置かれていて、私が座るとコーヒーが目の前に差し出される。


「はい、コーヒー」


「……ありがと」


「大丈夫?」


「……大丈夫」


 オフの日など滅多に無かったが、休みだと思うと身体も頭も思うように動かせない。いつもより反応が薄い私をちらちらと気づかう視線を受けながら、朝食を食べ始めた。


 足を伸ばして壁にもたれる様に座っていると、やがて、食器を洗い終えたらしい夕貴が部屋に入ってくる。以前、食事の後片付けをしようと申し出たのだが「私が好きでやっていることだから」と譲らず、家事に関しては一切を夕貴に任せてしまっている。元々寝るためだけに借りた部屋が、いつの間にか生活するための場所に変わっていくのを不思議な気持ちで眺めていた。


「セイ。仕事はいいの?」


「……麗から休めって言われた」


「そっか、疲れてたものね」


 ふと、昨夜の夕貴の言葉を思い出す。仕事柄、感情を表に出さない様にしているのだが、付き合いが長い麗にバレるのは仕方がないとしても、どうして夕貴は分かったのだろう。夕貴に気づかれる程、顔に表れていたのだろうか。


 目の前の夕貴と視線が合うと、さっと顔を背けられた。ほんのりと赤い頬にきっと昨夜の私の行動を思い出したに違いない。そんな純粋さが眩しくもあり、羨ましくもあった。自分の汚れた身体を思い返すと、閉め出したはずの感情が胸に溢れてきそうになる。目を閉じて思考も感情もシャットアウトすると、とろとろと微睡みに落ちていった。


 ふわり、と何かが身体に掛けられる感触に反射的に手を払って飛び起きる。


「あっ、ご、ごめん……」


 夕貴がタオルケットを手に持って立ちすくんでいた。どうやらうたた寝をした私に掛けようとしてくれていたらしい。


「……ありがと」


 夕貴からタオルケットを受けとると、そのまま横になった。夕貴が使っていたタオルケットらしく、ほんのりとした彼女の匂いに夕貴を抱きしめているような気がして不思議と心地よかった。


 このままずっと眠ってしまおうか、そう思うも今日は日曜日だったことを思い出す。夕貴がこの部屋に住んでから少なくともどこかに出掛けた記憶はない。二人とも休みが合う日なんてもうないだろうし、折角空いた時間が出来たのなら、日頃の食事のお礼に夕貴を連れ出してやりたかった。眠気にあがなう様に目を閉じたまま、未だに傍にいる夕貴に声をかける。


「……夕貴、今日、何か予定があるの?」


「ううん」


「……お昼、外に、食べに行かない?」


「えっ、私が何か作るから、別にいいよ」


「……折角、二人とも休みだし……それとも、私と出掛けるの、嫌?」


「そっ、そんな事ないよ!一緒に行きたい!」


「……良かった、……二時間だけ、寝かせてね」


 慌てた様な夕貴の声を聞きながら、再びゆっくりと眠りに身を委ねた。





 夢を見た。


 懐かしいあの人が立っている。やつれながらも少しも損なわれていない人目を惹く顔立ち、優しい眼差し、寂しげな微笑み――あの時から何も変わらない良子さんがそこにいた。


「良子さん……」


 もう何度も何度も見た夢の光景だと分かっているのに、それでも彼女に手を伸ばしてしまう。

 叶わないと頭では分かっていても、心が引きずられてしまう。せめて、夢の中だけでもいいから、触れたい、抱きしめたい、もう一度声を聞きたい……


 私を心配そうに見つめる顔にそっと手を伸ばすと、温かい肌を感じて思わず微笑んだ。触れられた彼女はいつものように少し困ったような表情で見ている。


「良子さん」


『どうしたの、セイ』


 ああ、ようやく貴女に触れることが出来た。

 そんな顔しないで、良子さんを困らせたい訳じゃないの、貴女にもう一度伝えたかった言葉があるの。



「好きだよ」


 幻でも構わない、もうすぐ夢ですらも会えなくなると分かっているから。

 きっと、これが最後の告白。

 「さよなら」の代わりに、どうしても伝えたかった言葉を、真っ直ぐに見つめて、ありったけの想いを込めて、もう会えない貴女に届くように。


 驚いて動かない顔に手を添えてゆっくりと引き寄せた。もっともっと良子さんを感じたくて、そのまま顔を近づけて、唇が重なるその前に目を閉じる……




「セ、セイっ!!」


 身体を押し返されると同時に、大声で名前を呼ばれて目が覚めた。


 見慣れた部屋の中、目の前に見慣れた夕貴の顔があり、ぱちぱちと瞬きして自分の状況を確認する。


「……………」


 夢を見ていたのだとようやく認識すると、赤い顔の夕貴が逃げるように後ずさりする。どうやら夢の中の良子さんと目の前の夕貴を勘違いしてキスしようとしたらしい。


「ごめん、寝ぼけてた」


「………………うん」


「私、何か言ってた?」


「…………ううん」


「そう」


 時計を見ると一時間ほど眠っていたらしく、テーブルには教科書が閉じた状態で重ねられている。深い眠りのお陰が、夢で良子さんに会えた為か、いつになくすっきりした感じで身体が軽い。


「夕貴、宿題終わったの?」


「あ、……うん」


「それなら、準備して出掛けようか」


「……うん」


 呆然としていた夕貴に声をかけると、はっとしたように立ち上がり洋服を取りに行った。腕を伸ばして身体をほぐすと、自分も着替えるため、引き出しを物色する。動きやすい格好が良いだろうとタンクトップにパーカー、ジーンズを選び、財布とスマホをバックに入れて戸締まりを確認していると、洗面所から夕貴が出てきた。白いワンピースにカーディガンを羽織った彼女は少女というには大人びて、女性というには幼い不思議な印象を受ける。制服かTシャツしか見たことのない夕貴の新鮮な姿に驚いていると、ようやく顔の赤みの引いた夕貴が、じろじろと見ていた私に気づいた。


「どうしたの?」


「凄く似合ってるわね、その服」


「!

 馬鹿!!」


 素直に褒めただけなのに、罵倒で返ってくる言葉が久しぶりで、再び赤くなる顔を背けて玄関に向かう夕貴に気づかれないよう笑いながら、彼女の後を追って玄関を出た。

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