第7話 殺意の出会い (7)

麗の部屋を出た後、極度の緊張から解放されて気を失ってしまった夕貴を抱き抱えたまま、がらんとした室内にぽつんと置かれた長椅子の上に寝かせる。借りてきたタオルケットを身体に掛け、ズキンズキンと痛む左手をかばうようにしてしばらく待つと、診察室のドアが開いて、私を呼ぶ声が聞こえた。


 治療を終えて戻ってもまだ目を覚まさない彼女を起こそうか迷ったが、私達以外誰もいないので、結局座って待つことにした。やがて、がばっと音が聞こえて、夕貴が目を開ける。いつの間にかうたた寝をしていたらしく、隣を見ると、夕貴が起き上がって口元を押さえている。


「トイレはあの左のドアよ。もう少しだけ我慢して」


 ふらつきながら慌てて歩くのを支えてトイレにつれていき、嘔吐する背中をさすってあげた。胃の中が空っぽになってもしばらく吐き続け、ずるずると座り込みそうになるのを引きずって再び長椅子に寝かせる。飲み物をもらってこようと立ち上がると、夕貴がすがるような瞳でこちらを見た。


「口をゆすぎたいでしょう。水を持ってくるから」


 ペットボトルを持って戻ると、夕貴を抱き起こして口をゆすがせる。少しだけ赤みの差した顔色に安心すると、寝かせた夕貴の隣に腰を下ろした。長椅子以外何もない空っぽの部屋を見回すと掠れた呟きが聞こえる。


「…………ここ、どこ?」


「一応、病院かな」


「一応?」


「そう。こういう怪我を扱う専門の病院」


 包帯を巻かれた左手を見せると、夕貴の顔が歪んだ。



「………………ごめん」


「?」


 小さく呟かれた言葉の意味が分からずに彼女を見ると、顔半分をタオルケットで隠したまま目元だけを覗かせてこちらを見ている。



「私が、あんな事言ったから…………」


「ふふふ」


 思わず笑い出すと、泣きそうな表情の夕貴は目を丸くした。


「そんな事心配しなくて良いのに」


「でも……」


 傷ついたのは私だが、それ以上に傷つけられたのは夕貴に違いなくて彼女の頭を優しく撫でる。抵抗する気力もないのか、されるがままの夕貴の髪はさらさらとした手触りで気持ちが良い。


「麗が考えて刺してくれたから、見た目ほど傷は大したことはないのよ」


「…………どういう事?」


「あの人、刃物を扱わせたら一流なの。狙った場所を正確に刺すことが出来る。それこそ骨や腱を傷つけないようにピックで刺すとかね。だからあれは、あの人なりのアピールの仕方。

…………まあ、滅多にするものでもないんだけどね」


 本当は夕貴をこれ以上私に関わらせない為の麗なりの思いやりなのだが、話したところできっと理解してくれないだろうと黙っておいた。


「良く頑張ったわね。怖かったでしょう」


 私の言葉にぎゅっと口を閉じると、タオルケットに潜り込む。しばらくして聞こえてくる小さな嗚咽が止むまでの間、タオルケット越しに彼女の頭を撫で続けた。


 落ち着いた夕貴を連れ出してビルから出ると、既に空は赤くなっていた。ちなみに、病院が事務所のすぐ下である事に気づいた夕貴は驚きを隠せなかった様で、顔がひきつっていた。


 未だに顔色の悪い彼女を気づかいながらアパートまで送り届ける間、どちらも無言のままだった。明日からまた仕事だが、この手ではしばらく難しいだろう、工場のおじさんおばさんに迷惑をかけることを心苦しく思っていると、いつの間にか夕貴のアパートの前に来ていた。


「それじゃあ、またね。夕貴」


「えっ?」


 私を見る夕貴が何故か驚く。彼女は私が逃げると思っているのだろうか、信用されていないな、と内心苦笑して、バックからペンとメモを取り出した。左手がほぼ使えないので少々いびつな文字になってしまったが仕方がない。


「これ、私の電話番号。麗から連絡があったらすぐに教えるから、何かあったら電話して」


「…………」


「〇〇センターって分かる?」


「町外れにある大きな工場の事?」


「そう。平日はそこで夕方まで働いているから。土日と平日の22時まではその近くのホームセンターのバックヤードにいる」


「…………」


「私は逃げたりしないから、安心して。

 明日から学校でしょう。夕貴は自分の生活を大切にしなさい。お母さんがいなくても大丈夫?」


 揺れる瞳が不安げでついつい励ますような口調になってしまったのを、はっとしたように夕貴の目に光が戻る。


「ば、馬鹿にしないでよ!

家の事なんて私がずっとしていたんだから……!!」


「それなら安心ね。

困った事があったら言うのよ」


「あんたなんかに、心配かけたりしない!」


「ふふふ、分かったわ。

今日はお疲れ様、またね」


 少しだけ元気が戻った夕貴に手を振ると、歩き出す。十歩も歩かないうちに後ろから呼び止められた。


「ねぇ!」


「何?」


「…………名前、何て言うの?」


「名前?」


 手に持ったメモ用紙を見せて拗ねた口調で訊ねられ、思わず聞き返した。てっきり知っているものだと思って、名前は書いていなかった。


「私の名前知らなかったの?」


「だって…………言わなかったじゃない」


「よくそれで私を探し当てたわね」


「昨日たまたま姿を見つけて、追いかけてきたの。

それに………………あんたみたいな美人、一度見たら忘れる訳ないじゃない」


「?」


「いいから早く!」


 拗ねた様な表情でごにょごにょと何か言っていたが、聞き取れずに黙っていると何故か怒られた。


「安西セイ、セイは片仮名。言っておくけど日本人よ」


「…………」


 納得しただろうと再び歩き出し、角を曲がる時に何気なく後ろを振り返ると、夕貴がまだ私を見つめていた。手を振ると彼女が再びむっとした表情を浮かべたのが分かり、思わずくすりと笑ってしまった。

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