第8話 孤独な心 (1) ~夕貴~

前書き


暑い夏はじっとしているだけでも億劫ですね。我が家で飼っている猫は全身真っ黒な為、夏は特に苦手なようです。外飼い猫なので、木陰を見つけては横になる姿に、いつか干からびてしまうのではと思えてしまいます。

ちなみに、名前は『ネコ』です。



「おはよう、夕貴」


 教室に入ると嬉しげにかけられた友人の挨拶が、随分懐久しぶりに思えて微笑み返す。


「おはよう、京子」


「お母さん大変だったね」


「うん、京子も色々ありがとう」


「私の事なんて気にしなくていいって。それより…………夕貴、顔色が悪いけど、大丈夫?」


「あ、うん。大丈夫」


 私を気づかってくれる友人にお礼を言って席に着く。見慣れたはずの教室の光景に、この数日の出来事が夢だったんじゃないかと思ってしまう。けれども、首に貼った絆創膏が夢ではないということを教えていた。


 机の中の大量のプリントを取り出し、一通り目を通す。身体の弱い母の助けになりたくて、子供の頃から将来の夢は医者になることだった。選んだ高校は、上位の成績者に授業料減免の優遇措置がある学校で、家計の為必死で勉強せざるを得なかった。母がいなくなった今、ある程度の残されたお金はあるものの、収入の目処はなく、支出は少ないに越したことはなくて休んだ分を少しでも埋めなければならない。内心の焦りを隠しながらも京子と笑顔で会話をする。やがてチャイムがなり、授業の開始が知らされた。



 四時間目の体育はバレーだった。目の前では男女に別れてのミニゲームが行われており、一つのボールを追いかけて接戦が繰り広げられているのをぼんやり眺めていた。


 忌引き明けの私を、先生もクラスの皆も心配して気遣ってくれた。その度にお礼を言い、笑って見せたが、内心は複雑だった。学校では優等生である私が、先日殺意を持って見知らぬ女性に切りつけたなどここでは誰も信用しないだろう。ニュースで流れる殺人犯の知人が「そんな事をする人には見えなかった」とコメントするのを眺めていたが、実際同じ立場に立ってみれば皆一様に同じコメントをするに違いない。


 人は幾つもの感情を隠しておける生き物なのか。母親の死に加え、安西セイとの出会いが、私の価値観と人生を大いに混乱させ揺るがしていた。


 彼女と別れた後、一人で過ごすアパートは母親の生前の名残が未だ残っていて、嫌でも孤独を思い知らされた。目を閉じれば、様々な思い出と共に、笑顔でピックを振りかざした神山麗の姿がよみがえる。ほとんど寝付けないまま学校の支度を進めていた今朝、チャイムが鳴って現れたのは私が殺そうとした女性だった。


「おはよう、夕貴」


「…………おはよう」


 内心驚きながらも私の素っ気ない態度を気にすることなく、彼女は手に持ってきた袋を私に押し付けた。


「昨日の残りで悪いのだけど、良かったら食べてくれない。

一応賞味期限も確認したから」


 袋の中はパンやジュースが幾つも入っていた。無理矢理受け取らせる彼女に一応お礼を言う。昨日名前を聞いて知ってはいるものの、呼ぶことなんて出来ずに困っていると不意に彼女が私の額に手を当てる。


「!?

 な、何するのよ!?」


「昨日あまり眠れなかった?

少し熱っぽいわよ」


「…………心配いらないから、ほっといて!」


「麗のせいでしょう。悪かったわね」


 彼女の眉が少しだけ下がり、淡々とした口調にほんの僅かに後悔が混じって聞こえた。向けられた視線を受け止めることが出来なくて俯くと包帯を巻かれた手が目に入る。自分の方が余程酷い怪我をしているのに、私ばかり心配する彼女が何故か憎くてたまらない。溢れだしそうになる涙を握りしめた拳で我慢していると、ぽんぽんと頭を撫でられる。


「それじゃあ、気をつけてね」


 私の様子に気がついたらしく、小さく苦笑しながら立ち去った彼女を思い出す。


会った時から感情をまるで見せないあの人はどうして殺されることを望むのだろう。何故母親と関係を持ったのだろう。そして、どうして私を心配してくれるのだろう。


「立野さん」


呼ばれて顔を上げると、先生が心配そうに私を見つめている。


「ぼーとしてるみたいだけど、大丈夫?」


「……えっ?」


 いつの間にか試合は終わっていたらしく、皆休憩の為に立ち上がっている。


「顔色も悪いし、少し保健室で休んで行きなさい」


「はい…………」


「先生、私が付き添います」


「お願いね、堀田さん」


 試合が終わった京子が私の手を取って支えてくれる。ゆっくり歩き出し体育館を出ると、爽やかな風が身体に吹き付けた。空は綺麗に晴れ渡り初夏を思わせる陽気が心地好かった。


「夕貴、大丈夫?」


「うん、ごめんね。京子」


 身体を支えてくれる京子の体温に、あの時の光景がよみがえった。


『夕貴』


 怖くて震えていた私に優しく呼び掛ける声。襲いくる吐き気と凄まじい恐怖の中、私を励ますようにあの人は優しく笑っていた。


「ゆ、夕貴?

そんなに辛いの?」


「えっ?」


 驚く京子の声で我にかえる。気がつくと涙がぽろぽろとこぼれていた。拭っても拭っても涙は止まらなくて、結局そのまま保健室のベッドに寝かされた。消毒液の匂いの残る布団にくるまれて、彼女に抱き寄せられたことを思い出す。


『大丈夫だから』


 何故かその言葉を思い出すと、疲れきった身体がスイッチを切るようにあっという間に深い眠りに包まれていった。


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