第3話 殺意の出会い (3)

「えっ!?」


 後ろで戸惑ったような声が聞こえたが、振り返る事なく歩き進めた。路地を曲がり古ぼけたアパートの扉の中に入ると、ワンルームと言えば聞こえは良いが、四畳一間の小さな空間だ。電気をつけ服を脱ぎ捨てると、そのまま浴室に直行する。


シャワーをひねり、熱いお湯を身体に当てながら目を閉じると、微かに聞こえたドアの開閉音に小さくため息をついた。先程の一件でわざわざ見逃してやったのに懲りずに来るところをみれば、諦めは悪いらしい。だからといって怪我をさせる訳にもいかない。ここは一度、自分の力不足を知ってもらうのが一番手早く済ませる方法かもしれないと思い、シャワーを止めて身体にバスタオルを巻き浴室を出た。相手を待たせていると思うとゆっくり浴びる気にもなれない。


「っ!!」


 ドアを開けた途端、自棄気味の殺意と共に再び先程のナイフが襲いかかってくる。左手を突き出して手のひらに受け止めると、衝撃と痛みが伝わるが、構わずナイフを握りしめる。


「!?」


「だから言ったでしょう。こんなおもちゃじゃ刺すのは難しいって。手のひらすら貫通していないのに心臓まで届くはずもないじゃない」


 予想していなかった事態に驚いたのか、私が顔色一つ変えなかった事に驚いたのか、夕貴は思わずといったようにナイフから手を離し後ずさった。ふと、彼女が靴下で部屋に上がっているのに気がつくと、玄関にはスニーカーがきちんと揃えておいてあった。その律儀さが何となく可笑しくて思わず小さく笑い、立ち尽くす夕貴の横を抜ける。タオルを持ってきて狭い台所に置くと、ナイフを手から抜いた。滲み出して滴り落ちる血に彼女が息を飲む声が聞こえる。


 水道で洗い傷口をぎゅっと押さえると、みるみるうちに血がにじみ出す。何枚か準備したタオルはあっという間に全て赤色に染まってしまった。最後の一枚をきつく巻き付けて止血すると、自分が服を着ていない事を思い出した。


「着替えたいから、そこを退いてくれる?」


 弾かれたように身体が跳ねて、おずおずと退いた先の押し入れの中から服と下着を取り出す。ブラジャーのホックをつけようと試みるが、片手だけでは流石に難しくてトレーナーを羽織るだけにした。ついでに救急箱から包帯、ガーゼ、消毒液を出してタオルを外す。傷跡は惨たらしいが痛みもそれほどではないし、指も全てきちんと曲がるので腱が傷ついた様でもない。しばらく不自由だが仕方ないと手早く処置を済ませて、ふと顔を上げると夕貴と目が合った。


「家に帰らなくて良いの?」


 言われた事が理解出来ないという表情の彼女は、何度か口を開きかける。


「ああ、警察に届け出ようなんて考えてないから安心して」


「……どうして」


「?」


「どうして、そんな平然としていられるのよ!」


「簡単なことよ。あなたじゃ私を殺せないから」


「!?

 そっ、それなら私を殺すなり、学校に連絡するなり、警察を呼ぶなりすれば良いでしょう!」


「それは出来ないわ」


「どうしてよ!

 あんたなら殺すくらい簡単でしょうが!!」



「あなたが立野夕貴だから」


「な、なにそれ?」


 苛立つ夕貴を無視して洗濯機のスイッチを入れ、血のついたタオルはビニール袋に入れてゴミ箱に捨てた。布団を敷いて電気を消せば、今日の仕事はもうおしまいだ。


「私、そろそろ寝るから出ていってくれる?」


「ば、馬鹿にしないでよ!!」


 苛ついた様に夕貴が掴みかかってくる。私より少し低い身長の彼女が見上げるように睨み付けると、彼女がつけているのだろう甘い香りが鼻に届いた。


拳が飛んでくるのを甘んじて受ける。がっ、と音がしたがそれくらいで私が倒れるはずもなく、むしろ殴った本人が痛みで顔をしかめ、三回程繰り返すと夕貴の腕が上がらなくなった。


「これで気が済んだ?」


「!!」


 荒い息でにらむ夕貴は悔しそうな表情を浮かべている。気力だけで立っているような彼女は、それでも必死で掴みかかろうとする。


「ねぇ、どうして私がそんなに憎いの?」


 彼女の母親と関わりはあったものの、夕貴に憎まれる理由が分からなくて尋ねると、信じられない、といった表情を浮かべた。


「…………母さんにあんな事したくせに、覚えてないの?」


 彼女の言葉から一つだけ思い付く心当たりに、思わず見返した。あれを見られていたのか、と思うも、それがどうして恨みになるのか分からない。


「お金を払って彼女を抱いた事?」


「!!」


 私の言葉に傷ついた様に顔を歪める夕貴を見て、随分感情の豊かな子だと思う。


「あの人だって一人の女性だし、恋愛するなら反対なんてしない。相手が同性でも別に偏見がある訳じゃない。

だけど、だけど……!!」


 にらむ瞳は押さえきれない悔し涙でにじんでいた。


「母さん、あれから苦しんでいたわ……隠れて何度も泣いていた。“ごめんなさい“って言っていた……私には心配いらないからって笑っていたくせに、ずっと……」


「…………」


「そこまで後悔するなら、あんな事しないで欲しかった!

 元々身体が弱くて、無理ばかりしていたのに…………働けなくなったからって…………」


 震える声に悲しみの色が混じっていく。ぼろぼろと零れる涙が落ちるのを黙って見つめていた。


「もっと早く気がついていれば、助けてあげられたかもしれないのに! お金がないのなら、高校を辞めて私が働けば済む話だった。

あんなに苦しむ必要なんてなかったのに!」


「…………だから、私を殺したかったの?」


 私の言葉が気に入らなかったらしく、きっとにらむ視線は鋭い。


「当たり前でしょう! 私はあんたが憎い!

 苦しんだ母さんの分まであんたも苦しんで死ねば良いのよ!!」


 なおも殴りかかろうとする夕貴を取り押えながら、彼女を見る。誰かにこれ程の感情をぶつけられたことなんてない、彼女の母親さえもこんなに強く感情を向けてくれなかったのに。

 彼女の死を知らなければ良かったのだろうか、むしろ、彼女の娘によってきちんと知った事に感謝すべきなのか、混乱する頭の中で一つだけはっきりしているのは立野良子がこの世にもういない、という事実。悲しみも悔しさもない、ただずっと心の支えにしていたものが突然無くなって、残ったのは行き場のない想いだけ。


 感情なんて置き忘れた様な自分にまだこれだけの気持ちが残っていた事に内心で驚きつつ、彼女の娘とこんな形で出会った事に運命を感じた。彼女の娘が私の死を望むなら、彼女の為に死んでも良いのかもしれない。いや本当は、心のどこかで生きることに意味のない人生に区切りをつけたかったのかもしれない。だけど、夕貴の手を汚すわけにはいかなくて、考えを巡らせる。


「あなたの気持ちは分かったわ。

 だけど、あなたじゃ私は殺せない。それは分かるでしょう」


「くっ……!!」


 手を拘束されて身動き出来ない事に苛立つ夕貴に諭すよう話しかける。


「だから、頼めば良いわ」


「何をよっ!!」


「私を殺してくれる人を」


「えっ……?」


 思わずといった様に手の力が抜け、彼女が私を見上げた。

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