第20話

 目を覚ますと、染みのついた白い天井が見えた。

「先輩。目、覚めましたか」

「……いま何時かしら」

「五時過ぎです。大丈夫ですか。貧血だったんですね。すみません、気づかなくて

 いや、貧血というより寝不足のほうが問題だったと思うのだけれど。まあどちらの条件も満たしてしまったのだろう。まったく情けがない。黙っている私に向かって、彼女は場を取り繕うように、焦って言葉に詰まりながら早口に話す。

 ケータイに何度か連絡があったこと。苗字が黒澤だったから、親だと思って電話にでて、状況を説明してあること。あと少ししたら車が学校まで迎えに来ること。それから、

「江連先輩、さっきまでいたんですけど半からバイトらしくて帰られました。ずっと心配していらしたんですよ」

 と、彼女は伝えた。その顔は、なんだか、愁うような色で。

 愁いという表現が果たして本当に正しいのかはわからない。子を思う親、というのは私は両親のそれしかしっかり見たことはないけれど、家族連れで電車やバスに乗り込んでくる親も、少し彼女に似た顔をしていることが多い。けれど、目の前の彼女の表情は果たしてそれだけではない。例えば、そう、苦しみに似た色も、たたえている。そうか。

「……恋しいのね」

 私の中の仮説を伝えると、原さんは明らかに動揺した。

「なに、言ってるんですか。違いますよ」

「そう」

「そうですよ。そんな、わたしが、江連先輩のこと好きなんて、そんなことあるわけないじゃないですか」

 彼女の目にたまったものを見て、私は起き上がり、近くのハンガーにかけてあった制服のポケットからハンカチを出して彼女に差し出すと、それが引き金になったかのように、ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝って行った。

「やだもう、先輩。好きなわけないじゃないですか。嫌いですよ。嫌い。なんで先輩はそう、何でもわかっちゃうんですか? 何でもわかっちゃうくせに、なんで分かってくれないんですか。どうして、なんで。先輩どうしたいんですか。もうわかんないですよ。これじゃ私、なんなんですか。もう意味わかんないです。わけわかんないです!」

 はて、と思う。この子は自分と江連君が仲良くなりたいから呼んだわけではないというのだろうか。

「早く付き合っちゃえばいいんですよ先輩たちなんか! そしたら全部、全部丸く収まるんですよぉ……。江連先輩と明希先輩、上島先輩と八代先輩。それで私。それでいいじゃないですか。イレギュラーとか要らないんですよ。全部うまくいくんですよ! なんでわかんないんですか先輩。なんなんですかほんと。こんなふうに思いたくないのになんで思わせるんですか。もう思いたくないんですっ!」

 実際にはこんなに聞き取りやすくはなかった。ところどころでつっかえながら、彼女は早口にまくし立てる。ああ、やっぱり彼は私のことが好きだった、ということか。けれど、「それなら貴方の気持ちは何処へ行くの」

 それを聞いて、その大きな目をゆがめた。一番言われたくないだろう言葉を私はきっとかけたのだろう。それくらいは私だって理解できているつもりだ。

「先輩だって! 上島先輩のこと遠ざけたじゃないですか! そういうことでしょうっ?」

 なんなんですかほんと、意味わかりません! 好きにしてくださいよ! と叫んで、彼女は私にハンカチを投げつけて、走り去っていった。

 それはこちらの台詞だと思う。どうやらひどく勘違いをしているようだったが、去年の校内マラソンで三分の一に入っていた彼女に、救護室担当だった私が追いつけるはずもない。随分湿り気を帯びたハンカチをポケットにしまい直し、ついでに上着を着てしまう。

「明希ちゃん起きたー?」

 ドアの開いた音ののち、間延びした養護教諭の声が聞こえる。なれなれしく名前を呼ぶのは、そういえばこの人もそうだった。

「ええ。迎えが来るから、もう帰るわ」

「そう。ゆっくりしていけばいいのにー」

「ゆっくりしていく場所でもないでしょう、此処は」

「ま、そうだけど。明希ちゃんの家結構遠いでしょ? 車もうちょっとかかるじゃん。俺仕事終わっちゃって暇なの。付き合ってよ」

 ちら、と携帯電話を見ると、到着まであと三十分は暇そうだった。黙って彼と対面するように座る。養護教諭は二つのマグカップにコーヒーを作る。作る、と言っても、小さな袋に入った粉をお湯で溶かすだけなのだけれど。出来上がったそれをわたしの目の前に置く。

 一口飲んで、騙された気分になった。

「ココア。美味しいでしょ」

「……そんなもの、ここにあったのね」

「そりゃあるよ、何でもあるよ? 欲しいものいってごらん?」

「先生の良識かしら」

「目の前に」

「ごめんなさい。聞き逃したわ」

「この部屋中にあふれてるでしょ」

 まず目の前にある頭髪の公務員らしからぬ赤さを指摘したかったが、馬鹿馬鹿しくて口を噤んだ。それを彼がどうとらえたのかは知らないが、ことり、とマグカップを置いた手を、組んだ脚の上に置いた。

「ストレス?」

「随分と率直に訊くのね。私自身よくわからないわ。そういうことに疎いのはよくご存じでしょう?」

「そうだねえ。でもやっぱり、何度でもいうけれど、ちゃんと気づいてあげないと辛いよ」

 耳に胼胝ができるほど聞かされた言葉だ。ああ、そういえば。

「好きにしたらいい、と言われたの。私は好きにしているのに、そんなことを言われて正直、心外だわ」

「ふうん……」

「なんだか、相手も勘違いをしているようなのよ」

「なるほどね。でも好きにしていいのなら、問題は半分解決してるね」

「そうなのかしら」

 うん。と彼は柔和に笑って、一口コーヒー(だと思う。たしかにコーヒーの匂いが漂っているから)を飲むと、また手を組んだ脚に乗せた。

「君はどうしたいの、明希ちゃん」

「私こそみんなが好きなようにすればいいと思っているわ。みんなが丸く、収まるように。それが一番だと思っているわ」

「そこに君がいなくても?」

「ええ」

「それは、調和のため? 自分のため?」

 そういわれて、分からなくなった。それをそのまま告げる。

 自分は調和を望んで、それはつまり、自分のため。そう即答できなかったことに、言ってから気が付いた。

 彼はそれに、気づいただろうか。

「じゃあ、明希ちゃんがどうしたいのかがわかったら、悩みは解決するね」

 はっとして逸らしていた目を見ると、彼は変わらず微笑んでいる。

「……私、帰るわ」

「そう。じゃあまたおいで。待ってるよ」

 ほとんど口をつけなかったココアを残して、帰ろうとドアを開けると、何かとぶつかって体制を崩す。反射的に受け身を取ろうとした腕を、力強く引かれる。

「ご、ごめん。大丈夫、黒澤さん」

 閉じた目を開くと、上島君が驚いた顔でこちらを凝視している。ゆっくりと、私がちゃんと立てるようにしてから、ようやく手を離した。

「大丈夫。ごめんなさい。不注意だったわ」

「いやいや、俺こそ。てかなんで保健室から? 具合悪いの?」

「ええ。でももう平気よ」

 そっか、と安心したような顔になる。それを見ると、やっぱり胸の奥が罪悪感に似た感情を持って、痛んだ。

「ごめんなさい。人を待たせているから、もう行くわ」

「あ、そうなの? じゃあ」

 何か言葉をつづけたようだったが、私の耳にはもう届かなかった。

 タイミングが悪いのだ。なんだか、どう説明していいのかわからない感情が、どす黒く胸を支配する。うれしい? 悲しい? 苦しい? わからなかった。

 キスの感触が戻ってきたような気がして、きつく唇を噛んだ。

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