第18話
帰宅して、食事を終えたらなんだかどっと疲れがやってきて、軽くシャワーを浴びてベッドに倒れこんだ。
(誰かに名前を呼ばれるのは、久しぶりだわ)
明希ちゃん、明希、明希。
耳の裏。頭の奥から八代さん、改め華音の声が泉の水のように湧き上がる。それに混じって、相変わらず他の人の声が混じる。ケータイから流れ出す朝のアラート。窓を開けて聞こえてきた雀の声。おはようの挨拶をする両親、ニュースを伝えるキャスター、近所の小学校に通う子供の歓声、バスに乗っている他校の女子高生たち、大学生のイヤフォンから漏れる低音、学校のチャイム。その他いろいろ。湧いた水の行先はきっと頭の中全体だわ。埋め尽くして、けれど洪水はまだ一度も起こしたことはない。自我はどんどん沈んで行く。上島君の声。イメージとして浮かぶ彼の顔。明希、明希という華音の声。その二つばかりが何故か大きくて、引き寄せられていく。
「眠れないわ」
そう声に出して、目を開ける。途端に音の奔流は嘘みたいに消えた。一日の記憶の整理をしているだけだと分かっていても、いやなものだ。明日はテストの最終日だから、私たちの仕事も再開される。他の人と比べて疲れやすいのだから、寝不足は許されない。
しっかりと布団にもぐりこんで、枕元に置いたコンボで小さくイージーリスニングを流す。緩やかな音楽。雨音の混じるその音楽。さざ波だった心をフラットな状態に変えていくイメージを作る。
『黒澤さん』、『明希』。
上島君と華音の声が重なる。
ごろん、と寝返りを打つ。フラットになりかけた心が、ぐあんと波打ったイメージが伝わる。それはどんどん言葉と、外から微かに聞こえる雨の音に飲み込まれて、揺らいで揺らいで、揺らいだ。枕元に置いた携帯電話の背面がひかって、新着メールを伝える。原さんからだった。
*
なんだかちっとも眠れなかったけれど、三時間あったテストはどれもいつも通りにこなせたのでまあよかった。ふう、とため息をついて鞄を肩にかけ、脇に吊るした傘を取ろうとする。
「明希、待って!」
教室の奥から、ふわふわした髪の少女が駆けてくる。「もう帰るの?」人懐っこい笑みを浮かべて、華音は言う。
「今からケーキ屋さんいくの。一緒にどう?」
「いえ。私は委員の仕事があるの」
「そうなんだ」
しょぼん、とする。が、すぐにこう切り出す。
「じゃあ今度……お休みの日とかに、わたしと食べに行く?」
「華音と、ケーキを? でも私、あまり外食はしないの」
「甘いもの、きらい? それとも時間、ないとか」
「塾もアルバイトも無いから、時間はあるし、嫌いなわけではないけれど」
「じゃあ、決まりね! 大丈夫、わたし奢るよ」
「華音ー。バス来ちゃうよー?」
「今行く! じゃあ黒澤さん、日曜日のえーと、二時に駅前のベンチで!」
ぽんぽんと言葉が出てくる彼女は正直にすごいと思うが、けれどその陰になんだか無理を感じる。無理やりに気分を上げているようだ。
「じゃあね、明希!」
「また明日」
手を振ってくる彼女に小さく返す。廊下から、私たちの関係性についてあれこれ聞かれているらしい声がする。やはり、私がこんなふうに誰かと喋っていると不思議なのだろう。(住む世界が、違うのよ)誰かにそう言い聞かせる。それでも望んでしまったのは、少し冷静さを欠いていたからだろうか。それとも。いや、そんなことはどうでもいいのかもしれない。傘を手に取った。
廊下は、次のテストを受ける者ともう帰る者でごった返していた。図書室前の机のある広場も、きっと提出物の仕上げに追い打ちをかける生徒でごった返しているのだろうなとため息が出る。少し時間をずらしたいが、この教室も次のテストで使うのだろう。ゆっくり行くしかない。と、後ろから肩を叩かれた。
「江連君」
「呼んでるのに気付かないから。ごめん、びっくりした?」
「いいえ。江連君はもう帰り?」
「テストは終わったけど、提出物がさー。図書室にパソコンあるよね」
「多分すべて貸し出し中だと思うわ。コンピュータ室を借りたほうがいいと思うけれど」
「だよねー」
あっはっは、と笑う。そういって、自然に私を窓側に寄せる。意識しているのかは知らないが、どちらにしても大したものである。
「にしてもさー、ひどいんだよ今回の課題。絶対終わりっこない量出すんだもん」
「毎日コツコツしないからじゃあないかしら」
「うちパソコンいっつもちびが占領するんだよー」
愚痴を言いながら、私をちゃんと図書室まで送ってくれる。この人は私に気でもあるのかしら。と思う。自意識過剰かもしれない。誰にでもそうしているのかもしれないけれど、実際告白を受けたことは幾度かある。こうやってたくさん話したことのある人なこともあったし、全く話したことがないひとにもされたことがある。後者の場合は、何がしたいのかよくわからなかったけれど。
「黒澤さん?」
「あ、いえ。何でもないわ。そう。華音のことを考えていたの」
「華音? ああ、華音ちゃんのこと。なんで急に?」
「私たち、お友達になったのよ」
そういうと何とも間抜けだが、事実なのだから仕方がないだろう。こんなことを聞く義理がどこにあると思ったが、友達ならあるのではないだろうか。
「彼女、相当無理をしている気がするわ」
「あー……そうかもねえ……」
訳知り顔になる彼は、隠し事をするのが苦手なタイプなのだろう。右往左往する目玉。目を回してしまいそうだ。
「まあ、そういうのは、本人の問題だから、黒澤さんは黒澤さんの思うようにやればいいと思うよ」
「そう」
図書室の扉を開ける。「じゃあ俺、コンピュータ室借りてくるわ」ばいばーいと人懐っこい顔で大げさに手を振って出ていった。棚に荷物を預けて、傘を立て掛けてから、司書の先生に挨拶した。一言二言、会話を交わす。上島君は準備室で作業しているらしい。
「あ、おはよー」
「おはよう」
というにはもう遅いかしら。けれどつられて口から出てしまったのだから仕方がない。また新しい本が来たらしい。在ってないようなものだった図書室を、自習室からちゃんとした図書室にし始めたのは5年前からのことらしい。時代遅れになりつつあるアナログな貸し出しシステムを捨て、統計で出された貸し出しの少ない本を捨て、アンケートで欲しい本を聞いて入荷する。利用者も増え、図書室が目的で入学する生徒も出るほどだ。まあ、私のことだけれど。
「どこまで終わったの?」
「こっちの一箱は終わった。いまこれ半分くらいかな」
「そう。ありがとう」
昔コンピュータ室にあったのであろう、型遅れのノートパソコン。起動するだけで何分もかかるそれをなんとか蔵書の管理に利用している。オペレーティングシステムは、最新からざっと……四つくらい前のものだろうか。起動を待っている間、開封しかされていない箱の中身をざっと見る。どれから読もうかしらと物色していると、一際うるさかったファンの音が落ち着き始めた。
「今日は、アルバイトは無いのね」
ふと思いついて、そう尋ねた。
「ああ。しばらく休み貰ったっていうか、押し付けられたっていうか。今日は途中で帰ったりはない」
「そう」
「まあ二人もいるし、あと二箱だし、すぐ終わるんじゃないかな」
「どうかしら」
「俺一人で結構頑張ったんだけど……」
へら、と笑ったのにつられて、少し笑った。けれどこんなことをして本当にいいのだろうか。こうやって、一緒に笑うべき相手を、この人はずっと間違っている。いや、違う。こうやってここにいることが、私の居場所が間違っているのではなかろうか。
そう考えると、ずきり、と胸が痛んだ。
「ならその箱が終わったら、帰っていいわ」
椅子に座って、登録のためのソフトを起動する。「明日の作業も、平気よ」目を合わせないように気を使いながら告げる。
「なんで」
「明日からは原さんが来れるから、三人も要らないのよ」
「でも力仕事とか、あるじゃん」
「司書の先生、テストが終わったから、もう少しこちらに構えるそうなの。だから大丈夫よ」
「でも俺、副委員長だし」
「原さんもよ。というか、原さんが言っていたの。これまで来れなくて悪かったから、貴方には休んでほしいそうよ」
何かを言おうと口を開いて、うっかり見てしまった目は怒りと焦りをないまぜにしたような色をしていた。なん、だよ。たしかにそう唇は動いたけれど、声にはなっていなかった。
「だから、私たちは大丈夫。ありがとう」
私たち。そう。彼らと私達は、生きる世界が違う。
ぷしゅん、と間抜けな音を立てて、コンピュータは突然再起動を始める。具合が悪かったが、限界が近いのだろう。これでは仕事になりそうにない。
「やっぱり、もう駄目ね。カウンターのパソコンで仕事をするわ。じゃあ」
箱を二箱もって、私は準備室から出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます