第17話

 テストが終わって、そのまま病院で検査。平日なのに妙に混んでいて、帰りがすっかり遅くなってしまった。もらった薬とさっきまで読んでいた本を鞄にしまって、薬局を出る。とうに葉桜になってしまった桜並木の青々としている筈の葉が、夕焼けを照り返してほんの少し染まっていた。

(気持ちがいいわ)

 もっと早い時間に終わったら、近くの公園のベンチでゆったり読書に耽るのもいいだろうけれど、もうじき日も暮れて、嘘みたいに暗くなってしまうのだろう。

 先ほどまで電源を落としていた携帯電話が振動しているのが、鞄の持ち手を通して伝わる。取り出して表示をみると、親からのメールだった。早く帰ってこいとでもいう内容だろう。無視をしてしまうのは簡単だったが、うっかり心配させて車を出させてしまったら申し訳ない。今からバスに乗りますと返信した。

 メールの受信欄は、ネットショッピングサイトから来た商品の発送情報などであふれかえっている。昨日頼んだ新刊は、明日の昼には届きそうだ。親に言っておかないと。

 バスに乗り込む。幸い車内はガラガラで、出口に近い席に座れた。駅前につくと学生がざっと乗り込んで、にわかに騒がしくなった。目の前に立って音楽を聞いているのは見知った学生だった。視線に気づいたのか、彼女もヘッドフォンを外す。

「こんにちは、八代さん」

「こんにちは! 黒澤さんも、今から帰りなの?」

「ええ。今日は少し病院で――」

 検査があったから、といいかけてやめる。そんなことを彼女に伝えても、仕方ないことだった。「病院に、知り合いの見舞いに行っていたの」さら、と髪をいじると、いつもならもっとついてくるはずの髪は途中で指を離れた。もう慣れたと思っていたのに。

 その様子に気づいたのか、八代さんは少し表情を曇らせた。

「……痛んでいたから、元々切ろうと思っていたの。悩む手間が省けたわ」

 フォローになってるだろうか。彼女は口を開いて何かを言おうとした。しかしそれは、学生のグループから聞こえてきた笑い声にかき消されてしまった。普通ならそれに負けない位大きな声で会話をするものだと思うけれど、どうやら八代さんはそういうのは好まないらしい。むしろ苦手、嫌いと言ってもいいんじゃあないだろうか。ああ、だから、上島君のことが好きなのか。彼もあまりうるさいタイプではない。

 暫く黙ったまま、目を合わせるわけでもなく、ヘッドフォンをし直すでもなく、本を開くわけでもケータイを開くわけでもなく、ただじっと私たちはバスに揺られた。ブザー音。停止。人が降りる。また出発。ブザー音。停止。それを繰り返して、また車内はガラガラになった。

「座る?」

「あ、うん、座るね」

 ぎこちない動作で私の隣に座る。私と喋るのは、やはり少し気まずいのだろうか。

「家。遠いのね」

「うん。この一つ先。黒澤さんも遠いんだね」

「ええ。私はその先よ」

 会話は止まる。

「ねえ、黒澤さん」

「なにかしら」

「黒澤さんって、下の名前、なんていうの?」

「アキ」

「季節の秋?」

「いいえ。明るい希望で、明希」

「そう、なんだ」

 そういうと、彼女はまた押し黙って、制服のスカートをきゅっとにぎった。こぶしが少し白む。ふわふわした横髪が邪魔で、表情もわからない。知っていても向こうの名前を聞くのが礼儀なのかしら、と息を吸うと、彼女はくるりとこちらを向いて、「ね、ねえ!」と少し声を張った。

「……なにかしら」

「あのね、黒澤さんのこと、明希ちゃんって、呼んでいいかな!」

 真剣なまなざしで、こちらを射抜いてくる。少し黙っていると、彼女は次のようにまくし立てた。

「わたし、これまでずっと、柾のことでいっぱいいっぱいだった。わたしね、告白もしてなかったのに、少し思い上がってた。でもね、好きになるってことも奇跡だって、出会えることも奇跡だって、黒澤さんと話して気付けたの。いろいろ考えたんだけど、今ね、少し柾と、離れてみてるの。でも毎日結局連絡しちゃうんだけどね。でもちょっとなんだよ! 今はいろんなものを見て、考えてみたいの。それで、黒澤さんと友達になりたい。……散々、その、ひどいことしたのに、これ以上なにいってんのって感じだよね。でも、わたし本気なの! 迷惑、かな」

 泣きそうだけど、泣かない目は少しもうるんでいなかった。「そう」と言いかけて、口を噤む。噤んでしまってから、思い出す。『出会えることも奇跡』だと、私と話して気付けたと彼女は言う。私はその奇跡を、いつも通りまた溝に捨てるのだろうか。

「いいわ。でも『ちゃん』はやめて頂戴。随分と若がえった気分になるもの」

「じゃあ何て呼べばいい。『さん』は、他人行儀だよね?」

「呼び捨てで構わないわ」

「じゃあ、明希」

「なにかしら、華音さん」

 えへへ、と照れ笑いして、彼女は言う。

「華音『さん』、はやめてくれないかな。一気に歳を取ったみたいだもん」

「では、華音」

「うん。なあに明希」

 また彼女は、えへへと笑う。そんなふうに笑われるとこちらも照れてしまいそうだ。と、ブザーが鳴る。

「行かなきゃ。……また明日ね、明希」

「ええ。また明日、華音」

 バスを降りた彼女は、見えなくなるまでずっと、バスに、いや私に手を振っていた。

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