第12話

 小説を読むスピードが格段に落ちている。

 ……というのも、多分視界の端に映る居眠り常習犯と、それを眺める少女の所為なのだけれど。これまでだったらきっとそんな視線や人物に気付くことはあってもそれを気にすることはなかったはずなのに、おかしい。

 もうすぐチャイムが鳴る十分前だ。腕に付けた時計を確認して、スピンを読めたところまで移動させるが、案の定あまり動かない。ほかにも読みたい本が沢山あるのに。そう溜息を吐いていると、ぱたぱたと八代さんが近づいて、上島君の肩をそっとゆすった。

「柾、起きて」

「んー……」

 どろり、とどす黒い負の感情が生まれて、胸を満たして消えた。その一瞬の吐き気を催すような感情に思わず目を閉じて、けど開けて、まるで自宅のように寛ぐその姿をしり目に、三人しか残っていない図書室を空にする作業を始めた。

* 

 鍵を職員室に返して、近くのトイレに入る。強すぎる芳香剤の匂いが鼻を刺すようだ。ぐぐっと蛇口をひねると勢いよく水が噴き出して、制服の裾を濡らした。手を入れると余計に飛び散り、すぐに引いた。……顔を洗ったり、手を洗ったりしたいわけじゃない。さっきの胸の内がドロドロとするあの感覚を味わってからすっきりしない心を落ち着けたかったのだ。水はひたすら、大きくも小さくもない音を立てながら流れていく。

(なにをしているの、私は)

 ふと視線を上げると、いつも通り愛想のない顔をした自分が見えた。昨日までとは違うのは、髪の長さ。意味もなく伸ばし続けていた、腰のあたりまであった長い髪は、胸の真ん中あたりにで真一文字に切りそろえた。その鏡の端に、見覚えのあるふんわりとした髪がのぞく。

「……黒澤さん?」

「なにかしら」

 反射的に蛇口をしめて、ハンカチで手をふく。今の行動に理由を望まれても、自分自身理解なんてできていないのだから。彼女は私を、正確には私の髪をみて、泣きそうな表情で言った。

「あ、あの、この前はごめんなさい」

「気にしてないわ。……わざわざ、謝りに来てくれたのかしら?」

「えっと……それもあるけど、もともとはちょっと手を洗いたかっただけ」

「そう」

 可愛らしいキャラクターが描かれたハンカチを出して、彼女は蛇口をひねった。

「毎日毎日、図書室に通い詰めて勉強熱心なのね」

「そ、そんなことない! 頭悪いから、詰め込まなきゃ間に合わないの。黒澤さんはいっつも本、読んでるの?」

「ええ」

「すごいね。私、すぐ眠たくなっちゃうから。どんな本読んでるの?」

「……色々よ。現代文学とか、新書とか。面白そうなものはなんでも」

「ふうん、じゃあ琢馬君が読むような、漫画みたいな表紙のやつ、」

「ライトノベルかしら? 私は進んでは読まないけれど」

 ライトノベルっていうんだね。わたしはあんまり読まないから。そういって苦笑いした。

「でもジャンル問わずたくさんなんてすごいね。これまで何冊くらいの本読んだの?」

「わからないわ。けれど、図書室の本はこの前入ってきたもの以外なら、ほとんどを読んだかしらね」

 大きな目を見張るようにすると、少しオーバーなくらい驚いた。「すごい!」

 無邪気に言葉を重ねているその様を思わずじっと見つめてしまった。まるで子犬みたいだわ。と昔飼っていたマルチーズを思い出す。ふわふわした髪。くりっとした目。その目がふと申し訳なさそうな、気まずそうな表情を作って、ごめん、と呟いた。

 あとに続く言葉を待っていると、きゅっと眉根を寄せた。言いにくいのだろうか。

「……本は、星の数ほどあるわ」

 ぽつり、と呟くように言うと、彼女はまた、表情を変えて、その目は困惑に揺れた。

「人は、文字に思いを託す。だから、同じような筋書でも、テーマはそれぞれ違う。逆も同じ。同じ物語は、一つとしてないわ」

「どういう、こと?」

「出会うという確率は天文学的なものよ。それを好きになるって、私はそこに神秘すら感じるわ」

 きっとこれは人間も同じよ。出会いの確率。好きになる確率。大切にすべき、奇跡。

「出ましょう。人を待たせているんでしょう?」

「う、うん!」

 けれど私は、どうしてかしら。

 どうして人との出会いの奇跡を、軌跡としようとしないのかしら。

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