第11話

 上島君とキスをした。

 想像すらしていなかった突然の出来事だったけれど、何も考えている暇なく唇は離れて、どういう感触だったのか、どういうことを思っていたのかは全く覚えにない。肩にのせられていた手の重みもすぐに消えて、「帰るわ、俺」とこちらに顔を見せずに言って、上島君は図書室を後にした。

 男性とこういうことをする……例えば、手をつないだり、キスをしたり、性行為に及んだり、俗にいう『付き合う』という状態でする幾つものことを、想像したことが全くないとは言わない。今のが、キス。物語の中で誓いを意味したり、呪いを解くまじないになったりする行為だったのだけど、私の心は驚くほどに澄んでいた。驚きすぎているのだろうか、と思ったけれど、どうやら違うようだ。

(私には意味のない行為、だったのかしら?)

 薬指で唇に触れると、しっとりとした感触。もうぬくもりはなく(そこが彼の唇と触れていた時にぬくもりがあったのかは思い出せないけれど)、離して指先を見ると、赤い。血。誰の血って、『彼女』の血だろう。

(上島君にとっては意味があったのかしら)

 前々から無価値・無意味と分かりながらも物を続けているような所がある彼の行動は、そういう意味では全く読めない。そういう意味では上島君はもっとも信用できない相手だろう。たぶん上島君自身も信用されていないことを理解しながらも、やめられないのだろう。

 ……可哀想な人。

 明日から気まずくならなければいいけれど、ときっと杞憂に終わることを考えながら、鞄を左肩に掛けた。

 果たして昨日の小さな悩みはやはり杞憂に終わり、彼は今日も始終図書室で睡眠学習にいそしんでいた。

 昨日のことはすべて、現実によく似た夢だったのではないか、と思うくらい昨日のことを繰り返している。下校時刻十分前を告げるチャイムが鳴るまで、昨日と変わらない生徒がグループで、あるいは個人で訪れては、PCで何かを調べたり、待ち合わせをしたり、勿論勉強したり本を読んだり。中には何かの授業の課題なのか、紙を切って、本屋のポップのようなものを作るのにこの部屋を使っていた。一つだけ違うとしたら、八代さんたちのグループが居ないことくらいだろう。

「上島君」

 呼びかけても返事はない。一度じゃ返事をしない所も、昨日と同じだ。

 カーテンのレールに金具が引っ掛かるのか、うまくいかない。それに対しても、上島君に対しても、二つの意味でため息をついてからもう一度呼びかけると、彼は小さく震えてから顔を上げたのがみえた。

「もういいわ。下校時間よ」

「……ん」

 上島君は小さく伸びをしてから、ポケットからケータイを取り出し何か操作をしながら自分の顔にペタペタと触れて、「トイレ行ってきていいっすか……」とまるで教師にするみたいな態度で私に外出の許可を求めてきた。軽く呆れながら「好きにしたらどうかしら」と言うと彼はのろのろとした動作で部屋を出ていった。昨日冗談を言ったことを気にしているのだとしたら、繰り返しているわけではないことの証明になるかしら、なんて思う。

 と、入り口に誰かの気配を感じてそちらを見やる。男性のお手洗いは早いというけれど、いくらなんでも早すぎだ。見回りの先生だろうか。さっき出してそのまま放ってある上島君の携帯電話を思う。取り上げは免れないだろう、と心の端で考えて、どうやらそうではないことに気付く。

「上島君なら今席をはずしてるわ、八代さん」

 声を掛けると、彼女は少し驚いたように半歩下がって、けれど何かを決心したようにまっすぐな目で私を射抜いた。鞄を肩に掛けたまま、ゆっくりとも早いともつかない速度でこちらに近づく。

「……ねえ、黒澤さん。柾の事、どう思ってるの」

「質問の意図が分からないけれど。同じ委員会の人、という回答であってるかしら?」

「そうじゃなくて!」

 私の発言にも自分自身の発言にもいらだつように、八代さんは眉根を寄せて泣きそうな表情を作る。

「少なくとも、貴方が想像しているような関係じゃあないわ」

 私はそう思っている。そう続けようとしてやめることを決めたくらいに、彼女は吠えるように、叫ぶように、泣き出すみたいに言った。

「じゃあ、黒澤さんはそういう関係じゃない人と、キスするのっ?」

 ああ、そのことを言いに来たのか。

 どこかで見ていたのか、とかいろいろ考えをめぐらせてみるが、話が広まっていたのなら今日落ち着いて過ごせたわけがないのだから、八代さん一人が知っているだけなのだろう。そういう意味では感謝しないといけないだろう。

 さてどう弁解したものか。上島君にこちらがしてもらいたいくらいだけれど、どうやらそれはかなわないらしい。

「好きでも何でもない人と、黒澤さんは、誰とでも、キスしちゃうの?」

「違うわ、そうじゃない」

「じゃあどうして」

 思わず返事をしてしまったことに激しく後悔した。どう答えていいものか考えているうちに、彼女の怒りは激しくなる一方だ。だんっと八代さんが勢いよく手を振り下ろした長机の上で、誰かが忘れた鋏が小さく飛び上がって、軽い音を立てる。震える指先が、鋏に触れるのを見て、頭の隅で警笛が鳴り響く。それと同時に腹が立ってきた。短気な方ではないけれど、ここまでするのなら上島君に直接言えばいいじゃないか。私よりも八代さんのほうがずっと彼と親しいだろう。呼吸の音が聞こえてくる。ふうふうというその端は震えて、泣きそうなのをこらえているのか、怒りに身を任せてしまうのを我慢しているのかは私には理解できなかった。

 ゆっくりとした動作で、鋏を両手にもって切っ先をこちらに向ける。カタカタと震える膝の音がこちらまで聞こえてきそう。「誓って」と彼女は言う。

「そんなつもりないなら、私から柾を取らないで。そういうこと、しないって誓って」

「……自分でそう言えばいいわ」

 その言葉に八代さんは肩をびくりと震わせる。ああ、図星なんだろう。この子も上島君と一緒だ。私を脅すことが、こういうことをすることが無意味だと理解しながらも、やめられないのだろう。とめられないのだろう。いいや、違う。上島君は意味がないことを知っているのか。一方で八代さんは、そこに何の意味があるかわからないけれど、押さえつけられなくなってしまったのだろう。そんなことを考えている間に八代さんは一気に間合いを詰めて、叫び声をあげながら飛び込んできた。

 刺すことなんてできやしない。そんな勇気、この子にはない。

 私の脇を狙って、そのまま支えを失って倒れそうになる私よりも頭半分くらい小さな八代さんの、その細い手首をつかんで、全身を体で支える。ざくり、と繊維が切れたみたいな音。

「貴方、他人の髪を切る勇気はあるのに、たった一言好きな人に好きと言う勇気もないのね」

 呆然としている八代さんの視線の先には、散らばる一束の髪があった。私の髪。まだ私に寄りかかってる軽い体を引き離し自分で立たせると、彼女は震えているらしい両の手を胸元でしっかりと握りしめていた。

「私に文句を言うのはお門違いというものよ。もうすぐ上島君も帰ってくるわ。一緒に帰りがてら、自分の気持ちを伝えてからにして」

「わ、たし。だって無理だよ。鬱陶しいって思われてる。怖いよ。ずっと彼女のふりだった。彼女みたいな顔して、そうしてたらきっと柾も本物にしてくれるって。でも絶対、黒澤さんみたいな綺麗な人が居たら、無茶だよ。でも誰にも伝えられなくて、私、ひどい」

「……何もしないでただ喚いて私に危害を加えただけだなんて、それこそひどいわ」

 と、タイミングを計っていたみたいに上島君が戻ってきた。

「華音、今日は帰ったんじゃあなかったのか? っていうかさっきこっちの方から叫び声聞こえてきたんだけど、っていうか、黒澤さん、髪」

「上島君」

 言葉を続けようとする上島君を止めて、私は言う。

「彼女、待っていたそうよ。戸締りはしておくから早く帰ったら」

「いや、俺も手伝う」

「貴方がすると大抵どこかの窓が開いたままになるのよ」

 どうしてかしらね、と言うと八代さんがもの言いたげな目で見てきたけれど、無視して開いていた最後のカーテンを閉めながらまた明日、という。上島君がそれに答えながら八代さんを呼ぶのを合図に、彼女は頷いて軽く駆け出した。けれどドアのあたりで一度だけ振り向いて言う。

「黒澤さん、ごめんなさい。……ありがとう」

「ええ」

 短く返して、私は戸締りを再開した。

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