第9話

 ポケットの中からバイブ音がしたのは、昼休みの中ごろだった。

「もしもし?」

「黒澤です。上島君の携帯電話かしら?」

「はいはい、どうした?」

 連絡先を登録しているのだからわかるのだが、きちんと自己紹介するところが彼女らしい。

「突然電話してごめんなさい。今日の仕事に変更があったから電話したわ」

「今日? 今日は一週間前だから仕事なしだろ?」

「そのはずなんだけれど、今年からテスト期間も図書室を開けることになったのよ。貴方、塾には通ってなかったかしら?」

「いいや、でもあれだ……バイトが」

 彼女は少し、電話の向こうで黙る。まじめな彼女がどう思ったのかはわからないが、相変わらず感情のわかりにくい声が返ってくる。

「今日は?」

「今日は休み」

「そう。じゃあ、来れるかしら? 図書室内の管理だけで、図書の貸し借りは無いはずだから、勉強をしていたらいいわ」

 面倒だな。と思いつつも、それでも今日することと言えば、ドラマの録り溜めを消化したり、いつもみたいにメッセージアプリでくだらない会話をするくらいだ。やることはない。

「了解。じゃあ放課後」

「ええ。それじゃあ失礼するわ」

 こちらから切らないと、向こうは切らないパターンだ。そう判断してさっさと切る。ため息をつくと、一緒に食べていた琢馬が廊下に出てきていた。「だれー? 華音ちゃーん?」

「いいや、黒澤さん」

「ふぅううん……へええ……」

「いや、そういうのじゃないから」

「は~あ、俺も塾じゃなかったら行くんだけどなあ」

 軽く伸びをしながらいう彼は、眉間に深いしわを寄せていた。塾? こいつ塾なんて行ってたっけ。でもまあ、突っ込むとめんどくせえか。行ってても別に不思議もないしなあ。俺みたいに学校に黙ってバイトしてるやつも大勢いるけれど。

「……」

 置いて行かれる、とおもうのはこの前の夢のせいだけじゃない。

 そんなことはよくわかっている。わかっている。

「もういいわ。下校時刻よ」

 いつも通り、より少し楽な仕事。静かな環境で珍しくまじめに睡眠学習をした俺は、くうっと伸びをした。そうやって目を開けようとしたけれどカーテンの隙間から光が漏れているのかとてもまぶしい。それでも周りを見ると、同じようにカーテンの隙間から漏れた光に照らされた埃が、まるでテレビで見たダイヤモンドダストみたいにちろちろ輝いていた。読書スペースにはもう人はおらず、その代りに、黒澤さんが部屋のカーテンを閉めていた。起きたのに気が付いたのか、最後の一つをしめてから、こちらに向かう。

「八代さん。……八代華音さん。彼女は貴方の『勉強』の邪魔をしたくないからって先に帰ったわ。そう伝えておいてくれって」

「あ、そう」

「あと鏡を見たほうがいいわ。シャツのボタンの跡、頬についているから」

「えっ」

 制服のポケットから差し出されたシンプルな鏡で顔を映す。その様を見て、黒澤さんはよそを向いたまま「嘘よ」と言った。相変わらずわかりにくいが、冗談を言うってことは、それなりに心を開いてくれつつあるんだろう。いいことだ。そうして鏡を彼女に返すと、彼女はまたこちらに背を向けて、小さな筒状のものを取り出して唇につけた。リップクリームだ。

「黒澤さん」

「なにかしら」

「……口紅、つけないの」

 それで少し、申し訳なさそうな、でも自分の意思の強そうな表情をして、こちらに向き直った。

「化粧はしたことがないの。生まれて今まで、記憶にある中ではたぶん一度も」

「してみたいとかは?」

「今のところは。少なくとも高校生の間は、したいと思わない。制服に化粧は似合わないわ」

「いま持ってる?」

 彼女は何度か瞬きをして、それから視線を落としてポケットを探る。それから箱を取り出してそれを俺の手のひらに乗せた。一度も取り出してないのだろうか、と思ったけれど何度か開けた跡があった。つけようとしたのか、興味があったのか、何となくなのかは、わからない。

 兎に角それをもう一度開けて、繰り出す。席を立って彼女の近くによって、唇にそれを当てた。唇が血の色になる。

 カーテンの隙間から光が漏れて、彼女の顔を輝かせる。

 まるで美術の便覧に載ってる、絵の中の女神ようだ。

 彼女のその目の中にいる自分が、何とも醜く思えて目を閉じる。

「……」

 そっと一瞬、触れるか触れない位そっと、そうっと、自分の唇と彼女の唇を合わせた。

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