第6話

 眠たい目をこすり、割引で買った銀縁のダサいメガネを掛ける。

 部屋の外は暗く、雨が降っているようだ。窓を軽く開けていたからだろうか。布団が湿った空気を吸い込んでいた。しくったな、と寝ぼけた頭で思いながら、枕元に置いていた携帯を手で探す。再び布団の中に潜り込み、時間を確認する。

 九時だった。

「うっわー……まじか……」

 誰か電話とかしてこいよ、と行き場のない苛立ちを胸に起き上がる。どうせ間に合わないのなら、とメッセージアプリを開く。

 携帯会社からのおすすめ情報から二件。

 華音から五件。

 隣のクラスの男子から一件。

 クラスのグループから十件。

 好きなアーティストの最新情報が一件。

 隣のクラスの男子から一件。

 バイト先のグループから二件。

 同じクラスの男子から二件。

 そういえば委員をするようになってから、こういうの全体的に少なくなったな、と携帯を片手に大きく伸びをする。グループで盛り上がるクラスの会話も、俺にはついていけない話が増えてきた。バイト仲間のグループはついて行けるが。

 学校に電話しようとすると、着信履歴は琢馬で埋まっていた。これまでは別な男も混じってたのにな、なんて思ったり。気にするのは後でもいいか、と学校の電話番号を引っ張りだして、腹痛でうごけなかったと嘘をついた。

「……すっかり置いてけぼりだな」

 へら、と笑い、部屋着にしていた中学のジャージを脱いだ。九時十分。

「……だからー、この時『K』はどう思ってたのー? はい宮野」

「俺さっきもあたったんすけどセンセー」

 結局ちんたらちんたら自転車をこぎ、四時間目開始から二十分後に学校につくと、うちのクラスでは現代文の教師がゆるく授業を進めていた。遅刻届に「腹痛」と書いて学年主任を呼び出すと、電話を知っていたのかとても心配された。良心がちくりと痛んだが、無理せずしんどくなったらすぐに保健室に行くように言われたあと、ヘラヘラ笑いながら彼に背を向けたら、そんなものはどこかに飛んでいってしまっていた。

「重役出勤だな上島ぁ」

「はは、スミマセン」

 先生に届けを手渡し、自分の席に戻る間、誰も一言も、俺に声をかけなかった。ちらりと名簿を見ると、琢馬も遅刻だか欠席だかしているようで、右から二番目の列の、真ん中二つが空席になっていた。俺達の後ろである大池氏は携帯もいじれず、この三十分さぞや退屈したことだろう。申し訳ない。

 そんなくだらないことに心中で謝りながら、席に向かう。違和感。

「はいじゃあ続き、西川読んでー」

 座ったままぼそぼそと紡がれる、Kと「私」とお嬢さんの三角関係。何も知らない無垢な存在であるお嬢さんと、どこまでも真っ直ぐなK。二人とはある意味違う存在である「私」。大体そういう話だろう。詳しくは知らないが。黒澤さんは、全部読んだことがあるのだろうか。……そりゃああるだろうなあ。

 一時間目のノート借りなきゃなと隣の角田に声をかけようとしたら、彼は小声でまたその隣の宮野と話していた。入り込める雰囲気じゃないな、とその前の女子に声をかけようと思ったら、彼女は熱心にケータイをいじっている。こうやって視線をうろうろさせていたら、誰か一人くらい声をかけてくれてもよさそうなもんだけど。いま写せる分の板書をノートに記し始めた。

「はいじゃあここの『覚悟』ってなに、はい角田!」

「えっとぉー」

 へらへらっ、と角田も笑って、西川と目を合わせているのだろう。まあいいや、次の昼休みで誰かに借りよう。

「西川ー、弁当一緒に食お」

「いーよー」

 ゆるーくお願いしたらゆるーくOKされた。ついでにノートも聞くと、彼はそんなもん取っていないらしい。西川のツレも総じてそうらしい。そのくせ好成績を全科目で勝ち取ってる、目指せ国公立な連中だから質が悪い。他のやつに訊けばいいか、と途中でよったコンビニの袋を開ける。コーヒー牛乳と菓子パン数個。ややぎこちなく交わされる、他愛のない会話や議論の、どの発言の中にも俺はいなかった。

 違和感に耐えられず、チャットアプリで華音にSOSを発信すると、既読になったもののなかなか返信がない。軽く苛立ちを覚えながら、ゆっくり食べなきゃ居づらいな、と女子みたいなことを考えながら、へらへら笑いながらパンをかじる。

『ごめん』

 音を立てず、ただ震えてチャットの着信を告げる。そこにはそれだけ書かれていた。どういう意味だ? と小首をかしげてコーヒー牛乳をすする。しばらくして、立て続けに三通届く。

『今日放課後空いてる?』

『話があるの』

『私の教室に来て』

 返信しようとすると、もう一通。

『待ってる』

 ただそれだけの言葉なのに、どこか悲痛な色を内包している気がしてどきりとする。どうした。俺何かしたか。そりゃあ最近かまってやれないのは事実だが、それだってしかたのないことだ。仕事なんだから。華音だって馬鹿じゃないんだから、それくらいわかっているはずだろう。メールは全部返信するし、チャットだってする。電話も出るし掛ける。これ以上何が足りないんだ。わからなくて頭を抱えたくなる。それでも誰も俺のことなんか気にせず下らない議論を交わしている。

(なんだってんだよ、クソ)

「だから、その、距離を置きたいの。嫌いになったわけじゃないの。ただ……」

「……」

 呆然と話を聞きながら、それでも心のなかではぐちゃぐちゃの感情が渦巻いてる。なんだそれ。意味がわからん。どうして付き合ってもない女にふられなきゃならないのか。『嫌いになったわけじゃないけど』距離を置きたくて、暫く連絡したくなくて、ってそれ完全にふられてるじゃねえか。

「一方的に言って、ごめんなさい」と涙混じりの声でそう告げると、どうしてこんなことになったのかの理由も告げずに教室から走り去った。

 両手で顔を覆うと「は、は」と乾いた笑いが口から漏れて、教室に響く。はずだったのにさっぱり響かない。ふわり、とかすかに漂うのは紙とインクの匂い。

「……貴方は自分勝手だわ」

 凛とした、真っ直ぐな、聞く人に取っては心地よいかもしれないが、それでもその鋭さは武器となりうる、そんな声が背後からした。ああ、知ってる。俺はその声の持ち主を知っている。

「貴方は自分勝手だわ」

 再度、彼女はそういった。なんだっけこれ。どこかで似たようなシチュエーションを見かけた気がする。いや、見かけたのか? 違う。俺はこんな状況に出くわしたことはない。じゃあいつだ? その答えを探しているふりをして、俺は必死に顔をあげないように務めた。

「こうなることを予想していたんじゃないの。こうなることを望んでいたんじゃないの。いつも誰かと繋がりながら、面倒だと思っていたのではないの。それで、いざ望みどおりになったら、そうやっていらいらするのね。……私にもイライラしているの。こんな状況を作った私にまで。むしろ感謝すべきだとおもうけれど」

 質問でも、断定でもないその言葉の一つ一つが、俺の胸に突き刺さるようだった。見えない血が垂れて、垂れて、足元に小さな水たまりを作るような気がした。痛くないのに痛い。苦しくないのに苦しい。「わかったような口を利くな」と叫びたいのに、俺の口からは空気がヒュウヒュウと漏れるだけ。パイプの壊れた空気入れみたいだ。なんの役にも立ちはしない。ころり、と血でできた水たまりで音がした。指の隙間からそっと見ると、そこには銀色の筒。手にとって蓋を取り、繰り出すと真っ赤な口紅だった。これは、俺が渡したものだ。

「私に渡すべきではなかった」

 なんだってんだよ。なんだってんだよ。そう何度も繰り返すが、意味なんてありはしない。彼女の言っていることはどこまでも正しい。正しすぎて痛い。そうだ、正しいことが正しいとは限らないんだ。だから俺は、正しいことを隠して、そうやって生きてきたのにこいつは。

「散々相手に思わせぶりな行動をしておいて。付き合ってない相手に振られた。何を言っているの。彼女にしてみたら付き合っていたも同然だったのよ。貴方だってそれくらい、わかっていたんでしょう」

「……うるさいな!」

 ほぼ重ねるようにして叫んだ言葉は声になり、それと同時に振り返った俺は、口紅を持つ手で少女を殴った。鈍い音と、何かが何かに、食い込む感触。

「え……?」

 ドサリ、と長い髪の少女が倒れる音。手のひらを見ると、赤があった。口紅の赤ではない。これは、血だ。驚いて動かなくなった彼女を抱き上げると、殴った頭にナイフが突き刺さっていた。支えた腕に、彼女が凭れた胸に、乗った脚に、じんわりと生暖かい血が吸い込まれていく。けれども、黒いブレザーのせいでそれは気にならなかった。頭のなかに声が響いて。その声に合わせて腕の中の存在が微笑んだ気がした。

『貴方のその制服には、何人の血が染み込んでいるのかしら?』

 そして、私の制服にも。

 携帯のアラームが部屋に鳴り響く。はっと目を覚まし飛び起きて、アラームを止めもせずに布団から手を出して眺める。両手の両側の、どこにも血なんてついていない。それでも手の震えは止まらずに、とりあえずアラームを止めて、ついでに溜まったチャットを見る。華音との会話履歴を見ると、さっき交わした会話はなく、つまらない会話がただある。まだドキドキしている俺は先程までの事柄が全て夢であることを理解するのに時間を要した。

「柾ー! いつまで寝てるのー!?」

 部屋にかけた時計を見ようとして、見れなくてダサいメガネをかける。七時半。いつもより少し遅いが遅刻するほどではない。時計はちゃんと進んでる。十二に分けられて、秒針はカチコチ言いながら秒を刻んでいる。夢じゃない。これは夢じゃない。そしてさっきのは夢。そう思っていても確認せずにはいられなくて、電話帳を出して琢馬に電話した。

『おっはよぉー!! どうしたの朝からー!』

「テンションたけえー。いや、なんでもない」

『なんだそれぇー! それより今日さぁ、美桜ちゃん……あ、俺が今してるアイドル育成ゲームの女の子なんだけどーその子が夢に……あ、おねえそれ俺今日着るから! 優馬! ちゃんと座って食べるー!』

「お、おう」

 なんだか忙しそうだ。電話して悪かったな、と告げて電話を切る。休むなんてことはありえなさそうだ。んじゃあ後で学校で話す! と言っていたし、きっと大丈夫だ。

 さっきの夢が何を表しているのかわからないほど馬鹿じゃない。自分のストレスと不安だろう。夢診断なんていうのがあるらしいが、そんなのを知らなくたってそれくらいわかる。『貴方は自分勝手だわ』とさんざん繰り返された声が耳に残っている。それくらいわかってる。痛いほど。自分が一番にわかってる。と、思ってた。それでも一番わかっているのは俺じゃなくて、俺の回りにいる奴なんじゃないか? 思わせぶりにしておいて、口紅は結局黒澤さんに渡した。それは単に似合うからというのもあるけれど、ただ純粋にあの口紅を見た時に彼女が浮かんだからだ。それでも、華音の彼氏ごっこをしているのなら、彼女にあげるべきだったわけで……。

「柾ー!」

「起きてるよー!」

 お母さんにそう大声で返事して、ジャージをベッドに脱ぎ捨てた。

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