11 バーンシュタインの走馬灯
――走馬灯というものを、私たち泪の君の信徒も見るのねぇ……。
塩に遮られた視界、それは真っ暗なものだとバーンシュタインは思っていた。友との約束を破った罰に、友を遺して逝く罰に。泪の君にも愛想を尽かされ、漣(アイレン)の暗い褥へと収監されていくのだと思っていた。
しかし、どうやら。泪の君は。三百と数十の長い時を仕えた敬虔な信徒に、彼女の望みを誰よりも忠実に叶えたバーンシュタインに、僅かではあるが特別な恩賜をくださるようだった。
もっとも、それは必ずしも幸せを招くとは言い切れない。過ぎ去った思い出を今、取り戻すことが。死にゆく今、取り戻すことが、本当に幸せだろうか。
幻に揺蕩うバーンシュタイン本人に、それはわからない。彼女はただ、溺れるように。目の前を流れ行く思い出を――エルナとの思い出を、噛み締めていた。
†
その娘には、何もなかった。
家も、頼りも、金も、食料も、何なら身に纏っていたのだろう衣服ですらボロボロに裂けてもはや失われそうだった。激しく降る大粒の雨に対して、その護りは明らかに薄い。
ただし、それだけだ。この乱世、そう珍しくはない。何もかもを失ってうら若い娘一人、無事で済むわけもないのだが……どこから逃げ延びてきたのか、木の靴すら脱ぎ捨てて裸足。全身の擦り傷から血をにじませながら、それでも彼女の蕾はまだ保たれているように見えた。
そんな一人の娘だが、いよいよ進退窮まったようだった。街道へ無様にうつ伏せになり、体を投げ出して、荒い呼吸を繰り返すばかり。顔を見れば真っ赤に紅潮していて、なにか熱病の類を罹患していることがわかる。
娘は花を守るものだ。だが命を落とそうとしてまでそれを堅守した者には、ついぞお目にかかったことが無かった。生きるだけなら、もっと楽な方法はいくらでもある。花街に迷い込んだり、だれか適当な相手を見つけて転がり込んだり……もっとも、そのどれも、寿命という観点では大して変わらないのだが。
――大したものねぇ。
声をかけたのは興味……というよりも、いたずら心からだった。
「ねぇ、あなた。それを守るために、こんなところまで逃げてきたっていうの?」
もはや動かないだろうと思われていた娘の体は、私の声へ反射的に跳ね上がった。川辺に打ち上げられた川魚のようにビタンと一回跳ねて仰向きになったが、しかし立ち上がるには至らず、顔をこちらに向けるに留まった。
「止めて! 触らないで!」
娘はそう叫んだ。
叫んだのだった。どこにそんな体力が残っていたのか。強く興味をそそられた。
「ねぇ、話を聞いて、私の顔を見て。同じ女よ」
「来ないで! 来ない……で……!」
拒絶の叫びも力強かったが、それも最初のうちのこと。娘は体を蝕む熱病に咳き込んだ。そしてそのすみれ色をした瞳を苦しそうに細めて、
「来な……いで……」
それでも私を拒絶した。
背筋にぞくぞくとした興奮が走った。
泪の君の信徒となって、もう数十年が経つ。最初の十年で拒絶には慣れた。今は人目に付かぬよう放浪の日々。そう言えば、ヒトと話すのも何十年ぶりかも知れない。死体はこの世の中にいくらでも落ちているが、その声を聞く方法は、泪の君も授けてはくれなかった。
――心底思うわ。それで良かったって。
物を言う死体など、未練の塊に決まっている。祭儀の最中にやいのやいのと騒がれては適わない。死人に口なし、そうあれかし。しかし目の前の娘は――まだ生きている。
まだ生きていて、こうまで激しく私を――洗礼名バーンシュタインを拒むのだ。強い言葉の力というものは素晴らしい。掠れて消えてしまいそうだった感情をかき立てられる。
放棄。このまま見捨ててしまおうか?
嗜虐。それとも、奪ってやろうか?
あるいは、博愛なんて感情が、残っているのだろうか。
そのいずれかは分からないが、私の中に強い感情が芽生えたのは確かで、それは体をかっと熱くさせる、久しく忘れていた感覚だった。
それで、顔をのぞき込むくらいに距離を詰めた。彼女にはもはや後ずさるだけの体力も残されていないようだった。心底恐怖している様子だけが、否定を繰り返す首の動きから見て取れる。
荒れ放題のすみれ色の髪。同じ色の瞳。勝ち気な印象を受ける相貌は、今や恐怖に歪んでいる。
その頬を……挟み込む。
「最初の質問に答えてもらっていないわ。あなた、どうして。こんな所まで逃げてきたの?」
蹂躙、と言う行為はあまり好きではない。しかしそれ以上に、私の言葉を聞き入れようとしないのはもっと腹立たしかった。
本当なら首筋でも押さえるべきだったか。だが、娘は意外にも、頬を挟んだだけで消沈してしまった。雨粒は娘の額を打つ。
「…………なんで、知りたいの」
諦観に塗れた声が出た。
「特に。単純な興味よ。その結果あなたをどうこうしようって言うわけじゃ無いの。ただ、ここまで真摯に純潔でいようとしたあなたに、ちょっとだけ興味があるだけ」
「興味って……なによ」
言葉が険を持つ。気位の高い性格が発露していた。
「行き倒れ、身寄りも無い……。そんな私に抱く興味なんて、一つしか無い。私をこのまま、どこかへ引きずり渡すつもりでしょう。女だからって、油断ならないわ……」
「存外しゃべれるのね、あなた。ちょっと、気に入ったかも」
「なによそれ……穴さえあれば良いんでしょう、あなたたちは」
「ちょっと、その誤解はよして頂戴」
背筋に怖気が走った。花街に人を送り込むための案内人だと思われていたのだった。
「私はただ、死にゆくあなたとこうしておしゃべりしていたいだけ。それだけならいいでしょう? そうさせてくれるなら、然る後にあなたの魂を、天に送ってあげる……。無垢なまま、穢れ無き天国へ。死体も残らないわ。下衆の中でもとびきりの異常者に散らされることもない。どう、いい取引だと思わない?」
「どうしてそんなことが出来るの」
「疑り深いのね、あなた……おっと、私としたことが。私はもう正体を明かしたって言うのに、あなたのことは何にも知らない。いつまでも”あなた”じゃ、他人行儀でつまらないわ。お名前は? お嬢さん」
軽い気持ちでそう尋ねた。しかし娘は答えなかった。
その時娘が浮かべた表情を、何と形容すればいいのか。ありとあらゆる嫌悪の感情をるつぼに鋳溶かして、それを攪拌しているかのような、赤熱しているにもかかわらず混沌とした紫色を呈する、激しい嫌忌の表出であった。
その名を口にしようとしたのだろうか。しかし喉からは唸り声しか出ない。そもそも、口が開こうとしない。震えるほど強く歯を食いしばっていては開くはずもない。瞳からは内に込めた圧力に押し出されるように、涙が次から次へと溢れ出している。
どうしたの。そう尋ねようとしたその時だった。
――ぱきん、がりっ……
と破砕音がし、娘が血を吐いた。
奥歯をかみ砕いたのだ。
口に出すまいと堪えるあまり、彼女は自らの生命を削る方を選んだ。
その妄執。その決意。
体中の熱が一気に上がるのを感じた。
換言すれば、この娘に惹かれてしまっていた。
「あら……ごめんなさい。そんなに、自分の名前が嫌い?」
「名前……なんか無いわ」
「ない?」
「家族も……もらった名前も……。捨ててきた」
「どうして?」
「汚いから」
もはや動きもままならない腕で、”名無し”を名乗った娘は目を覆った。
嗚咽がその後の空間を支配する。枯れない涙はたった今へし折った歯の痛みによるものか、これまで耐えてきた辛苦の表出か……両方であるに違いない。
そしてその嗚咽が、先の答えが。「汚いから」と人の世を、自らを呪ったその答えが――――
――――私を決定的に、この娘へ釘付けにしたのだった。
「ふふ、ふふふ! そうよね、ヒトは汚いわよね……!」
突然おおきな笑い声を上げた私に、 叩き付けるような大雨の音を裂いて上がった笑い声に、きっと名無しは戦慄したことだろう。
しかしそんなの、知ったことではない。
ああ、泪の君よ。盛大に泣いて下さい。この哀れな名無しに祝福を。
人の世から逃れようと、その身一つで走り続けた勇敢なる娘に恩寵を。
『泣いて下さるのですか、泪の君よ!』
この詠唱を、私自らが使う日が来るとは、思っていなかったのだが。
『流して下さるのですか、全ての澱を!』
手のひらをナイフで切り裂き、溢れ出す体液と泪の君の雫を混ぜ合わせる。手のひらで形作った水盆に溜まるのは、純に無垢なる生命の雫。清らかなる魂の上澄み。
全ての塩を洗いて流す、何物にも勝る薬なり。
『ならば一滴、救い給え……母なる土の、哀れな娘を!』
名無しには何が起きているのか分からない。異能の業に怯え、震え…………かつて私もそうだった。
だが、彼女には。彼女にこそ。この恩賜は必要だ。
なぜなら彼女が逃げ出したかったのは、状況でも、薄汚い腕でもなく――――自らの身、そのものの穢れからなのだから。
『哀れなるこの血と肉の傀儡に、どうか御身の抱擁を――与え給え……!』
詠唱は果て、手の器にはあふれかえる清らかなる水。
「口を開けて、エルナ」
「……エルナ?」
「そう。今私がつけた名前よ。これからあなたは……別の生き物になる」
「別の……生き物?」
「そうよ。あなたの体に宿った穢れ、血のつながり、生きる上で受け取ってきた全ての汚いもの。それを全部吐き出して、信徒になるの」
「信徒?」
「そう。雨雲の御簾の上にまします我らが愛しき娘、泪の君(トレーネイン)の信徒に」
少女は――もはやエルナと呼ぶが、エルナは困惑していて然るべきだった。
別の生き物?
泪の君?
その信徒?
目の前で無尽に溢れ出すこの水は何?
口を開けろとはどう言うこと?
「……分かった」
よほど、苦痛から逃れたいという気持ちの方が勝ったのだろう。エルナはそうした当惑の一切を跳ね飛ばし、私の言ったことを受け入れた。そして私の前に、小さな口を開けた。
紅い粘膜で覆われた口腔が見える。それは歯の砕けた出血によって、殊更に鮮やかな色彩を得ていた。
穢れの色を。呪いの色を。それをこれから、私の水が洗い流す。
「素直でよろしい……。それじゃあ、いらっしゃい、こちら側へ……ふふ」
エルナに水盆を傾けると、彼女は流れ出る水を何の抵抗もなく受け入れた。
……笑みが漏れるのも、仕方が無いでしょう?
だって私が見初めた娘が、泪の君の――いいえ、私の物になるんだもの。
自らの身の穢れを嫌忌して、ここまで逃げてきた娘。自分からはどうあっても逃げられないのに、それでも逃げ出そうと試みた娘。その信条だけでもうお腹いっぱい。その潔癖さ故に、エルナは信徒に、私の共にふさわしい。
注ぎ込んだ水はそのまま下半身から溢れて出ていく。そこには忌々しく穢れた塩が溶け込んでいる。
大抵は塩が析出してとんでもないことになってしまうのだが……この娘は何処まで純潔なのだろう。体を洗い清めさらさらと流れでた水に、塩の気配は欠片もないのだった。
その驚き故に私は、止め時を見誤った。気付いたときにはエルナが水を拒み、咳き込んでいた。
「あらぁ、ごめんなさい。苦しかったかしら」
「…………」
エルナは黙った。しかしそれが、感嘆によるものであることを――私は知っている。
「…………痛くない。熱くない」
「そうよ。あなたを蝕む物はもうなにもない」
「なにも……? 本当に? 体が軽いわ。まるでなにも詰まってないみたいに」
「私と同じことを言うのねぇ……、もしかしたらきっと、信徒になるヒトはみんな、同じ感想を抱くのかも知れないわね。だって、穢れは重すぎるから……ともあれ、ようこそ。泪の君の膝元へ」
「泪の君……」
エルナは繰り返した。
「私は、エルナ……」
かみしめるようにもう一度。
すると、今や透明を感じるほどに透き通った薄紫色の瞳に、涙が生じた。
「……もう、誰からも追いかけられずに済むの?」
「いいえ、残念ながらそうはならないわ」
縋るような言葉は、容赦なくたたき折らなければならない。
「泪の君の信徒は、その葬法から徹底的に慈恵の光に弾圧される。正体を明かそうものなら、もうその街にはいられないと心得なさい」
なぜなら、事実に反するから。
「それに、いくら穢れを全部払ったからと言っても……私たちが女の体をしていることには変わりないわ。連中は相手を選ばない。それがたとえ、忌むべき異端者であったとしても……むしろ、異端者だから、好んでいたぶる節もあるんじゃないかしらね」
エルナの顔が、再び不安に染まる。
それでいい。
「でもね」
それでいいんだ。私の目的はつまるところ、その恐怖に根ざしたものなのだから。
「私と一緒にいれば、大丈夫。もう何年も信徒をやってきた。身の振り方も、御し方も……戦い方も分かってるわ。全部教えてあげる。私と一緒に来るというのなら」
誰が何と言おうと、この子は私のものだ。私が見出し、私が作り上げた、他の誰よりも純粋な信徒。
疑うことばかりしてきて、やっと信じることを覚え始めたひな鳥。今こそ、私という親鳥を刷り込んでやる。
エルナ……エルナ。
「……分かった。あなたに付いていく」
その言葉に私は天を仰いだ。
ああ、エルナ! ありがとう……。これで私も、後顧の憂いが断てるというもの。
天にまします泪の君。私の邪心は単に人恋しさだけではないのです。
これで私は、あなたの望む最大限の献身に、この身をやつすことが出来るのですから。
「ふふ、賢明な判断ね。それじゃあこれからよろしく、エルナ」
「……名前」
「あら、名乗っていなかったかしら。私の名はバーンシュタイン。洗礼名よ。あなたと一緒で、名前を捨てたクチ」
「あなたも……?」
「そう言えば、あなたにも洗礼名が必要ね。どうしましょうか……」
呟いてエルナを見た。すると彼女は、それこそ降り注ぐ雨粒のような大粒の涙を流していたのだった。
その涙はなにに由来するものなのか……。仲間を見つけたことか、命が助かったことか――あるいは、自らという穢れから解放されたことに対する、無上の喜びかも知れない。
故にその涙は純潔で清廉。私は手を伸ばすと、その涙を一粒、そっと拭った。
「そうね。アプシート(涙の麗)。これこそあなたにふさわしいわ」
「アプシート……?」
「こんなに清らかな涙、初めて見たもの……。さぁ、エルナ・アプシート。私と一緒に来て? そうしたら分かるはずよ。あなたが正しかったことが」
「……最初から疑ってなんか無かったわ」
存外に勝ち気な性質だったようで、それが今、命の危機と生まれ変わりを経て蘇ってきたようだった。
良い兆候だ。
「ええ。そうでしょうね。でも百回の祈りですら一回の礼拝には及ばない。見て回りましょう、エルナ。この世がいかに穢れていることか」
「悪趣味だわ……でも、気に入った。私が逃げ出そうとした世界がどんな有様なのか…………他の家族の様子も見てみたいわ」
「その意気。ついでに他の信徒への顔合わせもしちゃいましょうね。さぁ、立てる?」
手を差し伸べる。エルナはそれを払った。そして二本の足ですっくと立つと、
「よろしく、バーンシュタイン」
素っ気なくそう言った。
勝ち気な娘は嫌いじゃない。側に置いて、きっと退屈しないだろうから。
私の色にどうやって染め上げてやろうか……とか、そんな邪心も、少し芽生えたりもしながら。
「それじゃあ、いきましょう。エルナ・アプシート」
†
あれから、三百年も経つのねぇ。バーンシュタインは揺蕩う意識の中、感慨深い思いと、臍を咬む様な嫉妬を感じている。
私のものだった。エルナは私だけのものだった。けれどそんなエルナが、私と同じように信徒を連れてきた。この感情をどう言い表せば良いのか分からない。単に嫉妬と呼ぶだけでは、胸の空くような爽快さが説明できない。
それはきっと、矛盾しない事柄をむりやり矛盾させようとしているからに違いなかった。エルナが私の信徒であることと、彼女が新しい信徒を連れてきたことは両立しうる。それを矛盾として片付けようとするから、心が軋轢に泣くのだ。
バーンシュタインにはエルナしかいなかったが、エルナには私という師と、守るべき徒弟がいる。
――そうか。
喜び、なのだ。
巣から飛び立とうとする雛を、親鳥はきっと喜ばしく見送るものだろう。
ならばそこには一抹の寂しさがあっても、おかしくはない。
趣の違う感情二つ。バーンシュタインはくすくすと笑う。ああ、可笑しい。やはり、エルナ。あなたは特別だわ。いとしい人。
そして、ごめんなさい。
こんな別れの形になってしまって。
――せめてお別れぐらいは、言いたかったわねぇ。
塩に融けていく意識の中、バーンシュタインは思った。
思ってももう、止められないのだった。
彼女の体はすでに、仙の琥珀のものになってしまっているのだから。
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