10 まどろみ

 仙の琥珀がいらだった様子を見せる中、アドラーは木々の間を縫うように飛んだ。ショーポッドの肩にはアドラーの鋭い爪が食い込んでいたが、不思議と痛みは感じなかった。喰われかけたという体を凍てつかせる恐怖が、痛みという熱を霧散させていたのだ。

 放たれた鷹は主の下へ帰る。エルナの許へ。緊迫した表情。それと同時に当惑も見て取れる。何が起きているんだか分からない、しかし事態への対処は打った。さぁこれからどうする……どうしたらいい。ショーポッドへそう問いたげな視線。

 アドラーは一刻も惜しいとばかりに空中でショーポッドを放り出す。落下点には、琥珀の棘が待ち構えているかと思われたが、そこにはルーシュンが待っていてくれた。アドラーは再び飛び去り、巨大な仙の琥珀を牽制にかかる。

 悲壮な羽音を背にしながら、ショーポッドはエルナへ駆け寄った。礼を言うつもりだった。今まさに、命を救われたのだから。しかし近寄ったその時に、ショーポッドはエルナに首根っこを掴まれていた。エルナの矮躯からは想像も出来ないほど、強い力だった。

「何が起きてるの」

「待って、エルナ。私にもよく分かってないんだ」

「だったら起きたことをそのまま口に出して。早く……早く!」

 エルナはショーポッドの胸を激しく叩く。両手のこぶしは石のように固い。苛立ちと、悔悛とが塊となってショーポッドの胸を打つ。

 しかしショーポッドはそのことを口に出せないのだ。他ならぬバーンシュタインと、約束したから。

 エルナのために。

 エルナの幸せのために。

「……全部は、言えない」

「この非常事態になにを」

「約束、したんだ。バーンシュタインと」

 エルナが握りしめる拳が、少しだけ緩む。

「約束……?」

「うん……あたしに話せることは、これだけ。バーンシュタインは、仙の琥珀に食われてしまった。助け出さなきゃ」

「そんな。そんなことって」

 エルナは首を振る。

「塩の獣が主を食らうなんて……起こりえないわ。だって塩の獣は塩を食らって生きるんだもの。塩を持たない信徒を、どうして餌にしようとするって言うのよ」

「……っ。私に訊かれても分からないよ。エルナが知らないなら」

 真実から最も遠い、事実だけを話したつもりだったが、エルナの追求は鋭い。三百年の信徒としての積み重ねは伊達ではなかったのだと、ショーポッドは言葉に窮しながら悔やむ。

 改めて振り向くまでもなく、仙の琥珀が振るう暴威はショーポッドたちの耳に届いていた。琥珀の森がなぎ倒され、きらめく生命の抜け殻が、ぱらぱらと大地へ帰って行く。

「ということはバーンシュタインが自ら塩を摂った……? あり得ない。絶対にあり得ないわ。だってあの人は私に言ったもの。一緒に穢れのない楽園を作りましょう……って」

 エルナは肩から腕に掛けてを震わせ、嘆く。そしてやおら仙の琥珀に向き直って叫ぶ。

「止めて、バーンシュタイン! まだあなたと、理想郷を見られてないわ……! 信徒になった最初に約束したじゃない、連れて行ってくれるって!」

「エルナ! 落ち着いてよ!」

 ショーポッドが止めたがもう遅い。エルナが上げた渾身の叫びは、木々の間をくぐり抜け仙の琥珀へと届いてしまった。かの獣が振り返る。獰猛な笑みを、貌に貼り付けて。

「バーンシュタイン」

「エルナ、アドラーを呼び戻して! 早く!」

 分かっていた。エルナにだってその必要性は分かっていた。仙の琥珀がみるみるうちに距離を詰めてくる。琥珀の大樹たちをなぎ倒してまで。進みは遅いが、獣が持っている殺意、あるいは食欲という本能は、本物に違いなかった。

 それでもエルナは限界まで待った。獣の中にいるバーンシュタインが、何かの拍子に目を覚まして、覚ましたとして、仙の琥珀を止めてくれはしないかと。

「……ダメか」

 そうエルナが確信したのは、近づいてきた仙の琥珀が浮かべる笑みが、あまりに醜悪だったせいだ。肉と食に対する浅ましさが、貌全面に漲っている。

 バーンシュタインの意思が少しでも介在しているならば、そんな表情はとらないはずだ。

「アドラー、行くわよ」

 失意の内にエルナはしもべの名を呼んだ。瞬時に鷹が顕現する。飴細工の森に来る道のりで乗ってきたものより二倍近く大きい。

「ショーポッド、背に乗って。私は……戦う」

 そしてエルナの決意は、現れたルーシュンの方にこそ宿る。やめさせようとしたショーポッドだったが、エルナの全力が生み出した、その威容を目の当たりにして言葉を失う。

 この森にあるどの幹と比べても、今出現したルーシュンの身体の方が太いと確信できる、一抱えでは利かないような巨躯を持つ大蛇。その全長は言うに及ばず。とぐろを巻いたその姿勢においてなお、仙の琥珀より僅かに低い程度にまで高さを獲得し、鎮座して主の命令を待っている。

「エルナ……どこからこんなに……?」

「私はエルナ。洗礼名をアプシート。泪の君が暮れる悲嘆の涙の代行者。信徒の死を、看取るもの」

 エルナはショーポッドを一瞥もせずに呟く。目の前に猛然と迫る仙の琥珀を見据えながら。その鋭い視線に誘導されるように、ルーシュンが鎌首を持ち上げて、標的を視認する。

「我が洗礼の名において……バーンシュタイン。あなたの不名誉な死を、いまここで浄化する。行け!」

 号令と共に、二つのしもべが同時に動いた。アドラーはその場から真上に急上昇、背中に乗せたショーポッドを遙か上空、安全な場所へと逃がす。

 そしてルーシュンが攻勢に出る。木々の間をすり抜けるようにして巨躯を滑らせながら、低い姿勢で仙の琥珀へと迫る。仙の琥珀はそれに気付いた。足を止めた。しかし醜い笑顔は、貼り付いたままだ。

「バーンシュタインの身代わりを使っておきながら! その面は止めろ!」

 憤りはルーシュンに伝わる。即座にルーシュンが頭を跳ね上げて、加速の勢いのまま仙の琥珀の右腕を咬み――千切った。

「やった、案外いけるんじゃ……」

 上空から様子を見ているショーポッドは、僅かに差した希望の光を純粋に喜んだ。しかし次の瞬間、

「ダメか……流石にバーンシュタイン。私と同じだけ生きてるだけあるわ」

 エルナが舌打ちしたのとほぼ同時だった。千切れた腕の断面から、塩の波涛がざらざらと音を立てながら噴き出した。それが止むと、千切ったはずの腕が、元通りになってしまっている。

 ショーポッドは瞬間混乱するが、エルナが仙の琥珀について語ったことを思い出す。

『仙の琥珀の塩は特別に濃いわ。素肌で触れたら、ひとたまりも無く穢れを移されて……肉塊に戻ってしまうわ』

 その身体にあまりある密度の塩をため込んでいて、それが噴き出すことによって身体を治しているのではないかと予想が立つ。

 エルナも同じ推定をした。それ故に、単純な回答を鋭く追求する。

「なら……塩が尽きるまで噛み殺すまでよ!」

 エルナの叫びに呼応して、ルーシュンがその尾を激しく振り回す。大質量と遠心力の乗った一撃は、標的との間に合った琥珀の木を易々となぎ倒し、仙の琥珀の頭部をなぎ払う。粉砕。しかし腕の時と同じように、噴き出す塩の中から憎たらしい顔が復活する。

「くそっ、何でよ。返せ、バーンシュタインを返せぇっ!」

 激高するエルナ。ルーシュンの攻撃が更に加速する。

 戦況は常に、エルナとルーシュンの猛攻によって進行していた。破壊した部位の数はすでに二十では利かないほど。仙の琥珀からの攻撃は、今のところ無い。通常の戦闘であれば、エルナたちの優勢とみて間違いない。

 しかしエルナたちの攻撃の全てが、有効打になっていないとしたら……? 上空を旋回しているショーポッドの次第に醒めてきた頭に、その絶望的な可能性がよぎる。

 なぜなら、ショーポッドは見てしまっているから。自ら塩の穢れを噴き出し続ける内燃機関と成り果てた、哀れなバーンシュタインの姿を見てしまっているから。

 バーンシュタインがどれだけの量、塩を生み出し続けるのかは分からない。ただ、確かなことは二つ。絶望と希望が同居している。

 このままでは、じり貧であると言うこと。現にエルナの額には汗が滲んでいて、指示を出す声も次第に弱々しくなってきている。

 しかし希望も大きい。

 バーンシュタインはまだ、仙の琥珀の中で生き続けている。彼女が生きているからこそ、無限の塩が手に入るのだから。

 ショーポッドは臍を噛む。この推察はいい線行っていると自負がある。しかしバーンシュタインとの約束があった。この予想をエルナに話して納得させるには、バーンシュタインが辿った真の信徒としての末路を語って聞かせなければならない。それはバーンシュタインから、固く口止めされたことだ。

 ショーポッドが逡巡した、まさにその時だった。仙の琥珀が突如、ショーポッドを見上げた。彼の獣の真っ白な目と、目があう。ショーポッドは怖気を覚える。それは宿娼婦として働いてきたなかで、散々向けられた眼差しだったせいだ。

「な、何見てんだよ……」

 漏れた声が震えてしまうのも仕方が無い。仙の琥珀は自らの体を砕くルーシュンを意にも介さない。ショーポッドに狙いを定めたようだった。その屈強な足をたわませ、跳躍の姿勢を取る。そして跳ぶ。琥珀の枝葉をいとも容易く粉砕し、アドラーの高さまで至る。醜笑。真正面。凶爪が目にもとまらぬ速さで迫る。

 しかしアドラーも素早い。突如眼前に現れた仙の琥珀に対して回避行動。振り上げられた右の爪と逆方向に、急旋回。爪の軌跡から逃れることに成功する。アドラーは。

 この一連の急展開について行けなかったのは、ただ一人。アドラーによるとっさの回避にしがみつききれず、振り落とされてしまったショーポッドだった。城塞アブレーズの見張り塔より遙かに高い位置。ショーポッドはそこから落下を開始する身体を、妙に醒めた頭で客観視していた。

 ――これは……死ぬよね。

 仙の琥珀が着地する。長く伸びたルーシュンの胴体、その真上から。脆くも二つに分断され、苦悶に身を捩るルーシュン。エルナが息を呑んでいる。

 助けは期待できそうもない。

 ――どうせ拾った命だし……ここで返してもいいのかな。

 仙の琥珀が巻き上げた、きらめく琥珀の霧の中をショーポッドは落ちていく。それはまるで、この場には似つかわしくない祝福の花吹雪のように見える。きれいだな。これから落ちて死のうというのに、何を考えているんだか。実際には逆だ。諦めきっているから、こういう些事に目が行くのだ。だがもう十分に堪能した。近づく地面を見たくなくて、ショーポッドは目を閉じる。元々拾った命、飴細工の森をこの目で見ることが出来ただけで、幸せなのかも知れない。

 ――ああ、でも。

 嘆息と共にショーポッドは思い返す。

 ――せめて一回、帰りたかったな。

 この命をどうして拾うことができたのかを。エルナになにを言ったの。バーンシュタインの問いに、琥珀の木の高さに至ったいま答える。


 ――帰らなきゃ。パパとママのところへ……


 墜落。エルナは思わず顔を背け、目を覆う。その衝撃は重い音と共にショーポッドの頭蓋を容易く粉砕し、大地に肉塊と、信徒の身体を満たしている純水をまき散らす。

 ……そうなるはずだった。

 しかしエルナが予期した、水風船が弾けるような音はいつまでたっても聞こえてこない。自らの時間感覚が狂ったか? エルナは疑いながら、恐る恐る目を開ける。

 そして、驚愕する。

 ショーポッドの落下地点には、真っ白な堆積があった。

 塩の山であった。問題なのはその体積だ。軽く見積もっても、仙の琥珀の身体を構成するものより遙かに多い。

「……なに、これ」

 エルナは驚きを通り越して、戦慄すらしていた。

「これだけの穢れ……いや、ショーポッド。ショーポッド! 無事!」

「んん……」

 ショーポッドがうめき声で答える。自らを救った幸運に、いまだ気付いていない様子だった。

 だが、ことはそう悠長に構えてはいられないのだ。仙の琥珀が振り向いた。横たわるルーシュンの身体を踏み砕きながら。

「起きてショーポッド、死にボケてる場合じゃないわよ。手を取って」

「……手?」

「アドラーと行くから! いったん退くわ。ルーシュンを治さなきゃ」

 仙の琥珀が駆け出す。アドラーが急降下する。ショーポッドはその両方を見て、それから身体の下に敷いている塩の山を見る。それでどうやら、自分は助かったらしいとようやく腑に落ちる。

 塩の塊。エルナが見せてくれた獣を現出させる光景を、思い出す。

「これがあたしの獣なのかな」

「ショーポッド! 今!」

「分ぁかってるよっ」

 助け船と凶刃、僅かにアドラーの方が速かった。ショーポッドは鷹の足を掴み、上空へと逃れる。すると塩の山も同時に消え去り、仙の琥珀は勢い余って琥珀の林に衝突、その何本かをへし折って止まる。

 獣は振り向いて、二人の信徒を追いかけようとするが、林立し光り輝く森が彼を阻んだ。その隙にエルナたちは飛ぶ。

 来た道を逆戻りに、アブレーズの方向へ。そう判断したのはエルナだった。

「ねぇ! なんで街の方に誘導するの」

「川があったわ。大きな、流れの速い川」

 言われて、ショーポッドは思い出す。清水の流れる川が、確かにあった。

「あれに落とす。いくらバーンシュタインが三百年ため込んだ穢れといっても、いつか必ず尽きる。あの水量なら、溶かしきれる」

「……エルナ!」

 ショーポッドは、もう我慢ならなかった。

 同時に、今が最後の機会とも言えた。仙の琥珀を止めるための、最後の手立てを検討している今が、最後の機会だ。

「エルナ、聞いて欲しいことがあるんだ。落ち着いて、よく聞いて」

 バーンシュタインには申し訳ないことをしてしまう事になる。しかし、手前勝手だとは思いながら、ショーポッドは哀れな信徒バーンシュタインが祈った最期の願いを、広い意味で捉えようとする。

 彼女はエルナの幸せを守りたいと言った。そのために真実を秘匿すると。

 しかし、エルナはそのことで苦しんでいた。そして今も、バーンシュタインを救おうとするあまり誤った判断をしようとしている。

 それならば、エルナの幸せを願ってショーポッドはあの事を話そう。

「何よ、改まって」

 エルナの方も、身構えている。うすうすは感づいているのだろう。これから語られることが、なんについてなのか。


「バーンシュタインさんから聞いたこと。見たこと。いま話す。川に着くまでの間で――――」

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