8 夜這い

 その晩は、三者三様に夢を見たのだろう。

 ショーポッドは悪夢に飛び起きた。起きざまに洞の天辺へ盛大に頭をぶつけたが、その痛みよりも陰惨な記憶からの解放による安堵が勝った。

 四肢を掴まれ身動きも取れず、ただ屹立した赤黒い肉棒を受け入れざるを得ない。獣めいた生臭い吐息が頬にかかり、大変恐ろしかった。

 幾度となく同じような経験をしてきたが、花を散らした瞬間の記憶は鮮烈だ。当時のショーポッドは盛大な抵抗を止めなかった。それが余計に連中の劣情をそそったのだろう。後にどのようなひどい目に遭わされることになるのか、ショーポッドは知っている。知っているから、その直前で飛び起きて、体が自由に動くこと、手首、足首に痣がないこと……それから、股ぐらに薄汚いものが垂れていないことを確認し、

「……」

 肩を抱いて震えていた。冬を間近に控えた外気は確かに冷たかったが、夢の中で抱いた絶望からくる怖気には到底及ばない。さらに言えば、その当時は、それが日常になるなんて、全く予想も出来なかった。その恐怖にはいつまで経っても慣れはしなかった。覚えたのは、無抵抗でいれば、相手はさっさと満足して帰るということだけ。天井の木目の数を数えていれば、悪夢は去り、店主から幾ばくかの金が貰える。宿娼婦として生きる日常とはその繰り返しだった。それが一生涯、子を孕んでしまい宿から蹴り出されるまで続くのだ。そう思っていた。

 太陽信仰が、聞いて呆れる。

 日の光の下では品行方正に務める彼らだが、陽光が没した後、即ち夜の乱れぶりといったら言葉に表すのも憚られるほどだ。昼間の禁欲的で敬虔な態度とは打って変わって、夜中は享楽にふけり騒ぎに騒ぐ。酒が飛び交い、拳も飛びかう。ショーポッドを襲った彼らも、きっと同じように誰かを生け贄にしてきたのだろう。

 そんな、身に降りかかる痛みや恐れを思い返していたからだろうか。突然かけられた声に、ショーポッドは体を硬くして身構えてしまったのだった。夜もまだ明けない時分だったから、尚更だ。

「眠れない? ショーポッドさん?」

 声の主はバーンシュタインだった。

「バーンシュタイン、さん? どこですか」

「ここよ、ここ」

 促されるままに洞から下を覗くと、バーンシュタインは意外にも琥珀の大地へ彼女自身の足で立っていた。昼間見たのと同じ、くるぶしまで長く伸びた白い外套に豊かな金髪……しかし、その色彩は夜のせいか、幽かにくすんで見える。

「今は、仙の琥珀は連れていないんですね」

「あら、いるわよ。すぐそこに……。あなたも一度や二度、見たはずよねぇ」

 問われて、ショーポッドは思い出す。確かにエルナは、虚空から塩を生み出して二匹の獣を形作った。しかし仙の琥珀ほどの大きさを持った獣もまた、例外なく散らすことが出来、集めることが出来るとは。

「わかった。それで、あたしに何の用事?」

「ウソでしょう。あなたの方から頼み込んだって言うのは」

 ピシッ――――

 と音を立てて、琥珀の洞にひびが入ったかのような、ショーポッドはそんな錯覚を覚えた。しかし答えた。

「……二つ聞きたい。どうしてそう思う?」

「舐めないで貰える? 三百年近い付き合いなの。あの子の狼狽えた声音を聞き逃すほど、呆けてはいないわ。とっても分かりやすいんだもの、あの子。真実を話すときは立て板に水のようなのに、少しでも自分の考えやウソが混じると途端に……良いわ、あの子の話は。それで? もう一つの質問は?」

「じゃあ、二つ目。そうわかっていながら、なんであたしと喋ってるんだ。あたしになんの用。始末しに来た……って感じじゃなさそうね?」

「いいえ、返答次第によっては」

「まだるっこしいな。用件はなに」

「あなた……エルナに何を言ったの」

 バーンシュタインは突き刺すような語調でショーポッドに問うた。

「あの子が自分から信徒を増やすなんて……あまつさえ連れ回すなんて、私の知ってるエルナじゃ絶対にあり得ない。あなた、何を言って、あの子を口説いたの。それとも……たぶらかしたの?」

「……」

 ショーポッドは思い出す。あの雨の中、蛇の天蓋の下、うわごとのように何を口にしたんだったか。

 それはあのことに相違なかった。きっと、残される家族のことだ。自分が今際の際に思い浮かべることなど、それしか無い。

 ショーポッドは思い出す。そして、その結果エルナはどんな表情を浮かべたか。

 それは見た目相応の少女らしい、狼狽と憤りと、それらの混じったとても愛おしい――

「……言えない」

「へぇ?」

「まず第一に、この言葉はあたしだけのものじゃない。あの子のものでもあるから。聞くならあの子の口から直接聞いて」

 ――もっとも、それが出来ないから、あたしのほうに来たんだよね。

 言外にそう含ませる。

「それで?」

「もう一つは……冷静に考えてみれば、こんな願い、小っ恥ずかしくて口に出せないっての。他人が今際の際に思い描いた願いを探ろうなんて、墓荒らしだって尻尾を巻いて逃げ出すよ。そう思わない」

 ショーポッドは上、バーンシュタインは下だ。もっとも仙の琥珀が現れてしまいさえすれば、その力関係は儚く崩れ去る。

 聞こえるはずのない琥珀の風鳴りを現調するかのような、静寂の時。その最中、空を割ってでたのは失笑だった。

 バーンシュタインのものだ。

「……上出来よ。あなたにも人に言えない事情があるようで安心したわ。そうで無ければ、今この場で粉砕してやろうと思ったのに」

「合格点を貰えたってことで、いいのかな」

「ええ、志願の資格はあったということね。そういう物を託す相手が、信仰ですものね……ふふ、楽しみ」

 バーンシュタインは破顔しつつも、「ただし」と付け加える。

「それだけではいけないわ。あなたの望みは結構。しかし私たちの仲間になるというのなら、泪の君(トレーネイン)が何を望んでおられるのか。それを知ってもらわないと」

「泪の君が……? それを教えに来てくれたって言うんだ」

「いいえ。ただの散歩。でも知りたいというなら、今から教えてあげても良いわ。降りてこられる?」

 ショーポッドは躊躇った。自らをあばずれ呼ばわりし、森に侵入することすら拒もうとした相手が、今こうして手を差し伸べようとしている。

 信用して良いものだろうか。降りていった次の瞬間、現出した仙の琥珀に頭から呑み込まれてしまうのでは……。

「…………分かった。降りる」

 それでもショーポッドが話を聞くことを選んだのは、ごく単純な理由だった。

 知りたいという気持ちだった。好奇心……とは少し違う。飛翔中の会話で、エルナがそのことに全く触れなかったという事実が、ショーポッドの足を動かした。

 あえて話さなかったのか、それとも本当に知らなかったのか。

 バーンシュタインとエルナは――三十年というおおきな年の差はあるにしても――ほぼ同じ時を経て今ここに立っている。しかし方や見送る側、方や看取られる側だ。いうなれば寿命とでも呼ぶべき物に大差がついたその理由が、その知識の差にあるのだとしたら。

 それを知らせないために、ショーポッドはそれを知っておく必要があった。

 エルナは恩人だ。死なせたくはない。

 意を決して飛び降りようとすると、洞の縁にはおおきな白い手のひらがあった。仙の琥珀のものだ。乗れ、ということらしい。

「どうしたの? はやくいらっしゃい」

 バーンシュタインは一人で歩いて行ってしまう。しかしその歩調は危うい、一歩踏み出す度に体が倒れそうな程ぶれて、彼女の美しい金髪がまるで幽火のように揺れているのだった。

 限界の体力を削ってまでして、ショーポッドに伝えたいこととなれば、よほどの重大事に違いない。ならばショーポッドの方も、それに応じなければならなかった。勇気を振り絞り、暴虐を型に押し込めたような手のひらに、足を乗せる。

 仙の琥珀は手のひらにショーポッドが座り込んだのを見て取ると、歩き出した。ほとんど揺れは感じなかった。バーンシュタインを運ぶのと同じくらいに敬虔な気遣いが見られた。

 塩でできた、毛皮。ざらざらする物かと思えば、それは時折撫でさせて貰っていた犬の毛を彷彿とさせる柔らかさを持っていた。それはエルナの呼んだアドラーについても同様だったことを、ショーポッドは思い出し、

「そういえば……」

 ここに来るまでの飛行程に思いを寄せながら、一つの疑問を口にした。

 エルナは塩の獣であるアドラーに触れないよう、わざわざ縄ばしごを使ってまで距離を置いた。

 しかし昨日、バーンシュタインは。

 仙の琥珀のおおきな手のひらの上で、何事もなく眠っていなかったか?

 塩、穢れ。信徒はそれに触れられない、ということ。

 ショーポッドは混乱を覚え、考えるのを止めた。恐らく、その矛盾が、これから解き明かされるのだろう。

 瀕死のバーンシュタイン、仙の琥珀とまでよばれるに至った、魔女によって。

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