7 思い出
エルナは様々なことをバーンシュタインに話した。それをショーポッドは端に座って聞いていた。
それは巡り巡った旅路の中で得た、飴細工の森より外の世界の物語。店を構えた商人たちのちょっとした小競り合いのような他愛のないものから、一国と一国が果たし合うような合戦場の惨禍に至るまで、彼女の頭の中には、そうした出来事がいくら語っても尽きないほどに綴られていたのだった。
「そもそもあいつらが全部悪いのよ。私の国が、それより南への交易路を全部つぶしちゃって。交通の要衝なのを良いことに独自の税関を設けて、行き来する商人から銭をふんだくろうってわけ」
「随分思い切った真似をしたわね。愚行、暗君って言葉がよく似合うわ」
「でしょう? 当時の国王……誰だったっけ……ああ、ガルデンって言ったっけ。あれが国民に発布した触書が傑作だったわ。見てみて」
「どれどれ…………なによ、これ。用意も無しにこんな……むせちゃうじゃない。結局、自分の無策を大々的に、世間様に触れ回ったわけね」
盛り上がってきたわね、と喜びを露わにするバーンシュタイン。エルナも合わせて不敵に笑ってみせる。
「触書を見て、まっとうな頭を持った人間はみんな、兵士も含めて別の国に亡命しようとした。でも、真っ黒なガルデン王サマがそれを見逃すはずもないでしょ」
「反逆者には死を。ああ、なんてまっとうな暴君ですこと」
「何よりあほくさかったのが、交易を止めたことによって他の国々が何も動かないと思っていた所よね……他国が着々と出兵の準備を進めている中」
「クモが共食いをするように、口減らしをしていたって。もはや喜劇だわ」
「間抜けよねぇ。そして連合軍十万の軍勢が城壁の前に殺到したとき……国には一般人を含めて、たったの三万人しか残っていなかった」
「それで、ガルデン王家は結局滅びてしまったのね。ふふ、残念……とは思ってなさそうね? その清々したお顔を見ると」
「うん。なんの感慨も無い」
立て板に水といった風のやりとり。それを傍で聞くショーポッドは思ったものだった。
――この子、本当に三百年生きたんだな……。
ガルデン大戦の発端と結末については、少しばかり学のないものでも知っている。叙事詩になるほどの大事であり、珍事でもあったからだ。
故にエルナが何気なく取り出した『国民に発布した触書』など、考古学者に見せよう物なら心臓を射貫かれて死んでしまうような歴史的遺物である。のぞき込んだ感じも、特にニセモノと言った風体ではなかったし……何よりエルナが生き生きと言った「何の感慨もない」の一言が、それに付帯した笑顔が、あまりに鮮やかすぎて。ショーポッドは疑う気を無くしてしまったのだった。
と、なると気になるのは自分自身のことで。
「ねぇ、エルナ」
「なによ、今いいところなのにぃ」
バーンシュタインがねちっこく咎めるが、ショーポッドは続けた。
「あたしもさ、エルナみたいに、三百年とか生きられるわけ?」
「何よ突然」
「あら、何も教えてあげなかったの? エリー。可哀想に……」
「あなたの所に向かうので精一杯だったのよ!」
「そうなの。なら仕方ないわねぇ。名前は? お嬢ちゃん」
バーンシュタインがショーポッドを指して笑った。しかし、冷たい視線だ。
「ショーポッドといいます」
「そう。じゃあショーポッド、あなた長生きはしたい?」
「そりゃあ、まぁ……」
「なら、あなたは泪の君に仕える素質の、一番外堀をすでに築いているのねぇ。なぜなら私たちは、老いないから」
「へぇ……そうなんですね」
なにかの冗談だろう。エルナに助けを求めると、しかし頼みの彼女もゆっくりと頷いたのだった。
「ヒトは。生きる上で塩を――穢れをその身のうちに取り込み続けて、やがて穢れそのものとなって。大地として横たわった巨人そのものと同じように動かなくなる。それが老い。
でも私たち信徒は。信仰に対する恩賜でそれを体の外に出すことが出来る。故に私たちは、ヒトを捨てた時点から老いることはないってわけ」
「なんなら私たちのなれそめを聞かせてあげてもよくってよ? どのくらい前になるかしら、アブレーズとか言うけったいな街が出来るより、ずっと昔だったわよねぇ」
「そう……だっけ。ちょっと記憶が怪しいけど」
「ちょっと。唯一無二の朋友だって、藁をも掴むように縋ってきたのはあなたの方じゃないの」
「バッ……! 変な脚色入れないで! 泪の君に仕えるようになったのはほとんど同じ時期だったでしょう、あなたも、私も」
「三十年という時間差を同じ時期と丸めちゃうのが、あなたの可愛いところよねぇ……まぁ、そんな感じよ。信じてもらえた?」
三十年という人の一生が終わりかねないような長い時間が、彼女らにとってはまるで端数だということ。それが外連味もなく出てきたことで、ショーポッドが疑う余地は無くなった。
再び歓談を始めた二人。取り残されたショーポッドは仕方なく、この場に残された唯一の生物……と呼んで良いのか。仙の琥珀に目を向けた。
改めて見ると、本当におおきな獣だった。伏せて命を待つその体は、山なりにたわんだ背の頂上が、アブレーズの民家における二階の窓に匹敵する高さを持っている。雪への備えとして高く拵えられる、アブレーズの民家のだ。
それが僅かに膨らんだり、縮んだりしていて、塩で出来た白い瞼を降ろしている様子は、まるで眠っているかのようだ。目につく物全てを咬みちぎらんばかりだった恐ろしい顔も、こうしてみればただの犬のようで、頭を撫でてみても良さそうに思える。
「触っちゃだめよ。今すぐ死にたいのでなければ」
そっと伸ばした手を、エルナの鋭い指摘が払い落とす。
「ごめん……。おっかないから? 凶暴だから?」
「違う。そもそも信徒は塩に触れないからよ。バーンシュタインの話を聞いてた? 私たちは塩を追い出すことで不死になる。それが塩を取り込んでしまったら、どうなると思う」
「生身の人間に戻っちゃう……の」
「それで済めば良いけど。仙の琥珀の塩は特別に濃いわ。素肌で触れたら、ひとたまりも無く穢れを移されて……肉塊に戻ってしまうわ」
「言ってくれるわね。私が手塩にかけて育て上げた、可愛い獣なのに」
「……バカ。そうだから私を呼んだのでしょう」
エルナは旧友の顎を強く摘まみ、顔を彼女の方に向けさせて目と目を繋いだ。
「一体どこからこれだけの穢れを集めてきたの。罪もない植物から、魂の糧である水を奪ってまで、体を保たなければならないほどの、穢れを」
言葉を切ったエルナ。そして、
「あなたを殺さなければならないほどの穢れを、どうして私に相談もなく受け入れたの。聞かせてよ」
声は小さかったが、それは痛切な叫びだった。
対してバーンシュタインは……始めにショーポッドを出迎えたときのような含み笑いを漏らした。
「変わらないわねぇ。三百年前からずっと、優しい、少女のままのエルナ。あなたはそうよね。ヒトの穢れを避けるために、あの女神様に仕えているのよね」
「話を逸らさないで……!」
エルナが初めて見せた激高の兆しだった。バーンシュタインは顔に添えられた手を振り払うと、それを野に咲く草花が風を受け流すかのように無視した。
「今日はもう休みなさい。空の旅は疲れたでしょう。エルナはともかくショーポッド、あなたは」
エルナのために「いいえ」と言うべきだったのだろうか。しかしその逡巡の間に、目の前にしていた獣が気だるそうに立ち上がった。
「琥珀の洞で良ければ、寝床はいくらでもあるもの、好きなところを使って。常世のどんな宿よりも、素敵な天蓋だと思うわ……」
「バーンシュタイン!」
「私も少し眠るわね。あぁ、疲れた。誰かとこんなに話したのは、何十年ぶりのことだもの」
バーンシュタインが浮かべたのは、最初に相対した時に見せた不敵な笑みではなく、まさしく琥珀の君と呼ぶにふさわしい、その宝玉の優しい輝きにちなんだかのような微笑であった。満ち足りた、とでも言いたげな。そんな印象の。
「明日話すわ、エルナ。今日のことは今日のこと。旧友との再会は楽しかったわ。良い思い出にさせてちょうだい。辛いことは、全部明日にまとめましょ」
食い下がろうとしていたエルナが、追求を歯ぎしりと共に呑み込むと、見計らったかのように仙の琥珀がうやうやしく主を抱え上げた。
鋭い爪が彼女を傷つけぬように。その所作は獣という外見に到底そぐわない。まるで聖者の葬送にかかわる司祭がそれを取り扱うような、敬虔な配慮が見えた。
だから余計に、エルナはそれ以上何も言えなかったし、握りしめた拳から血液の代わりとなる透明なさらりとした液体が滲み溢れているのにも気付かないほどに、惑っていたのだった。
「エルナ?」
ショーポッドの呼びかけにも、気付かないほど。
「エルナ……エルナ! 手から……なんか出てる」
「……ありがとう」
エルナは頷くと、顔を覆い、そして天を仰いだ。手から流れ出している透明な液体が彼女の頬を伝って落ちた。頬を伝って、透明な体液が流れ落ちる様子がまるで落涙しているかのようにも見えて、ショーポッドはどきりとさせられたものだった。
実際のところ、泣いていてもおかしくないように見えたのだった。エルナはバーンシュタインのこととなると、こんなにも声を荒げられるのだから。
「泣いているの、エルナ。胸貸そうか。自慢じゃないけど、こいつの包容力には自信があるよ」
「笑わせないで。何故あなたの胸で泣かなきゃならないの……それに、そもそも泣いてなどいないわ」
「そっか……ごめん」
仙の琥珀が地響きと呼んでも過言ではない足音を立てて遠ざかっていく。彼の巨大な背中が丸チーズの一個分にまで小さくなった頃、エルナは言う。
「今のガルデン対戦の顛末、会う度に話しているの」
「え……!?」
バーンシュタインの様子を思い出す。彼女は噴き出すだけでは飽き足らず、手を打ってまでその顛末に喜悦を露わにしていた。ショーポッドは躊躇ったが、訊かずにはいられなかった。
「……忘れてる。そういうこと」
「そうかも……いえ、ごまかしは止めましょう。そうだわ。彼女は過去の記憶を維持できていない」
爪を噛むのか、地団駄を踏むのか……エルナはどちらもしなかったが、ずっと側に侍っていたルーシュンは、解けて消えていく最中、長くおおきな擦過音調のため息を吐いた。
「なぜ、バーンシュタイン! 最も死を厭う敬虔な信徒のあなたが……なぜ、穢れに呑まれて消え去ろうとしているの!」
悲嘆の声は、去りゆくバーンシュタインの背中に、きっと響かなかっただろう。よしんば届いていたとしても、彼女は眠っているのだから。せいぜい三日月がわずかに首を傾げる程度の会話に、疲れ果ててしまって。
ショーポッドは何も言えなかった。
”辛いこと”……恐らく、看取りのことだろう。その行為はきっと、泪の君の信徒達にとって言葉以上の意味を持っていて、ショーポッドはそれを知らない。
しかし、そんなことはどうだっていい。エルナが下唇をかみしめて耐えている。その事実だけがショーポッドにとっては重要だった。
彼女を苛むのは友を失うということへの悲しみであり、張り裂けそうな胸の痛みを口から漏らさないように、必死に堪えているに違いなかった。
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