6 仙の琥珀”バーンシュタイン”
ルーシュンが琥珀の草原を、小気味よい音を立てながら折り進む。高い音で鳴るそれは華やかな旋律を奏でている。しかしエルナの浮かない表情がその音楽に浸ることを許さない。
エルナが終始目を伏せているのは足下を確かめているばかりではない。今折り取っている草花の一本一本は、言うなれば副葬品だった。バーンシュタインが築き上げた命の記憶達。飴色をした森の深奥にうずくまっているバーンシュタインの門出を彩る道連れ。それを折り取って進むなら、エルナ達は墓荒らしに他ならない。
――ごめんねバーンシュタイン。
心の中でその名を、エルナが呼んだまさにその時だった。夜闇を照らす灯りがさっと、陰った。
「……! 下がって、ショーポッド」
「え?」
答える間もなく、強い揺れがエルナ達を襲った。それが一匹の巨大な生物の着地によるものだと、ショーポッドは吹きすさんだ琥珀の嵐から顔をかばいながらようやく認識した。
否、生物と呼んで良いのかどうか……それはショーポッドが短い生涯の中で見てきたどの動物にも当てはまらない、歪な形状をしていた。
二本の足で立っている。しかしその爪先にはプレート・メイルすら引き裂きそうなほどに鋭利な爪が三本生えていた。膝関節はヒトと逆向きに折れ、着地の衝撃を吸収するようたわみ、非常に筋肉質に発達した脚がぐっと縮んで、そこから膨大な量の塩がざらざらと流れ落ちた。
見上げてみれば、城門に立つ見張り台もかくや、という巨躯。その体中には、びっしりと攻撃的な棘が生えている。気付いてみれば前肢もあり、その形状は五本の指に手首と肘をもつ、ヒトと同じものだった。鋭利な爪がそれぞれの指に付いていることを除けば。
一切が純白であるにもかかわらず、その瞳には獲物を射すくめる鋭い眼光を宿している。子どもの背丈ほどもありそうな牙の隙間から声なき威嚇のうめき声。生臭い吐息まで感じられそうだ。
狼。そういう噂に聞いたことしかない生き物に似ていると思った。二本脚で立つその様を名付けるなら人狼とでも呼ぶべきだろう。獰猛で、しかし理知的で。故に縄張りを侵す者を許さない。これが仙の琥珀と呼ばれる怪物だった。
相対して鎌首をもたげたルーシュンも、それなりの大蛇ではあったがなんと頼りないことか。あの屈強で獰猛な腕にかかれば、ひとひねりでちぎり捨てられてしまうだろう。
「……残念だわ。旧友の匂いすら忘れたの、バーンシュタイン」
緊張にうわずった声でエルナが問うた。すると、答えがあった。森中の木々から少しずつ漏れた囁きが耳元で収束して結実したのような、不思議な響き方をしていた。
「忘れるはずもないわ、愛しい我が友。だからこうしてあなたを拒むのよ。何か心変わりがあったのでしょう? 以前のあなたなら、軽々に他人を連れ歩きはしなかった」
ため息には湿り気が混ざっているように聞こえた。エルナが答えに窮していると、眼前の塩の獣が一歩、足音を立てて踏み出した。
「それはなに? 信徒なのは分かったけれど……洗礼を授けたの? まさか、あなたが?」
「そうよ、そうだけど、待って。私は何も変わっちゃいないわ。ただ泪の君との約定を果たしただけ。穢れ多き者にこそ福音を。そうでしょ?」
「そして私との約束を忘れたというわけね。ここにあるのは二人だけ。私たちだけの琥珀の花園。そうでしょう? そうだったわよね」
仙の琥珀がもう一歩、その屈強な脚を踏み出した。彼我の距離はもはや凶爪の間合いに一歩の余裕すらない。
「エルナ、そのあばずれに何の用があるの? なぜ、ここまで連れてきたの? 差し出しなさいな、愛しい友。そうしたら、言葉の通りに無かったことにしてあげる」
「待って。これにはいろいろと経緯があって」
「聞いてないわぁ、そんなこと。今ここに、私たち以外の誰かが立ち入ったこと。その事実が全てで、それが許せないだけなのよ、私は」
含み笑いの混ざった軽快な口ぶりだったが、仙の琥珀から発せられる殺意は衰えるどころか、さらに増したように思えた。エルナはその圧で、言葉に窮してしまっている。
過度の緊張に晒されたとき、エルナは拳を開いたり閉じたりする癖があるのだとショーポッドはその時気付いた。そしてその緊張を背負うべくは、本当はショーポッド自身であるべきことも。元々死んだつもりでいたところに、命を拾ったのだという実感があまり湧いていないせいかもしれないが、自分が殺されようとしていることに何ら疑問を感じていなかったのだった。
だが、それを自覚したいま、そうされては困るという理由が一つ、浮かび上がってきた。
「待った! バーンシュタイン……さん」
「汚らわしい体で私の名を呼ぶな……!」
勇気を振り絞って呼びかければ、獣が声なき咆吼を上げ、同時にバーンシュタインの嫌悪に震えた声が響き渡った。しかし、ここで怯んでしまっては交渉にならない。
「聞いて。エルナは何にも悪くない。あたしが頼んだのよ。泪の君の信徒ってのに、なってみたかったからさ」
「エリー、本当? あなたがわざわざ、正体を明かすような真似をしたってことかしら?」
話を合わせろ、とエルナに目配せするショーポッド。状況が飲み込めずに目を白黒させていたエルナだったが、「どうなの、エリー」と再び促されて、ようやくショーポッドの意図を汲むことが出来た。
「……ええ。ほんとに、すぐ死んでしまいそうだったし……あなたの言うとおり、この娘の穢れがあまりにひどいんだから。泪の君の恩賜を除けなきゃと思ったのよ」
「そのとき、泪の君の信徒って素敵だと思ったもんだよ。便利な獣も出せるし、雨に濡れても冷たくないし……なんせこんな、軽い体でいられるんだから」
「っ……ひどい理解ね。エルナ、何も教えずにこの娘を信徒にしたというわけね」
「まぁまぁ、最後まで聞いて。つまり何が言いたいかっていうと……エルナに約束を破らせたのはあたし。煮るなり焼くなり、バラして琥珀の養分にするなり好きにして」
「!? ショーポッド!?」
「だけどさ」
折角話を合わせたのに、と困惑するエルナを、ショーポッドは手で制した。
「あたしだって折角拾ったこの命、捨てたくは無いワケ。この琥珀の森が……二人にとって大切な場所なのは分かった。だからあたしはその外で待ってる。それじゃあダメかな、バーンシュタインさん」
「呼ぶな、といっているのよ」
再び鋭い声で刺すバーンシュタイン。しかしそこには先ほどまでの激情は見られなかった。
「外で待つ、といったわね、女。この森の外には、獣も不粋な旅人もいるかも知れない。折角拾った命を……あなたは捨てたいの、捨てたくないの」
「生きられそうな方を選んでるだけ。せっかくエルナにもらった命だもん、大事にしたいんだけど。あんたがあたしを食い散らかそうって言うなら、外に出るしかないなってね」
ショーポッドは「じゃあね」と言い捨てると、進んできた琥珀の道へ踵を返して、歩き出す。
「……ショーポッド、本気?」
「本気も本気よ。また誰かに捕まってどうこうされる方が、この場でバラバラにされるよりいくらかマシさ」
背中を丸めて立ち去ろうとするショーポッドを、エルナが引き留めようとする。
「バカなの!? せっかく私が助けたのに、それを無碍にしようなんて許さないわよ。あなたまだ、獣の出し方すら分からないんだから……私も戻る」
「エリー? なんですって?」
「あの娘に身を守る術を教えないと。私が約束を破っちゃったのが無駄になる。ごめんねバーンシュタイン、ちょっとだけ待ってて。すぐに戻るから……」
「ああ、良い! 良いわそんなことしなくて!」
バーンシュタインが叫んだ。エルナは再びおどおどし始めたが、背中を向けていたショーポッドは、気取られぬように浅くため息を吐いた。
「こんなときにあなたと片時でも離れるなんて、耐えられないわ。すぐ側にいてよ、エリー」
「ショーポッドは?」
エルナが尋ねた。するとバーンシュタインはしばし沈黙し、
「……そういえば、私も一つ約束したわね。エリー、それを今守りましょう。ここにいることを許すわ、あばずれ。存分に琥珀の匂いを嗅いで帰ると良いわ」
そういって、ショーポッドを受け入れたのだった。
「それにしてもエルナ。面白い娘を信徒にしたものね……こんな身で信徒だなんて、ああ、おかしい」
渇いた含み笑いが、不気味に響く。ショーポッドは生唾を呑み込んだ。直後響き渡ったのは、薄氷のように繊細な声質にはとても似合わぬ哄笑だった。
それが何を意味しているのか分からず、ショーポッドはエルナに助けを求めた。しかしエルナにも、その真意はくみ取れないらしい。しかしルーシュンに臨戦態勢を解くよう指示しているということは、どうやら狙い通り、この場に張り詰めていた緊張の糸は切れたようだった。
「降ろして、仙の琥珀。彼女らはどうやら、皆様ご同胞らしいわ」
高笑いの最後に、吐き出しきった空気を求めて風切り音を鳴らしながら、バーンシュタインがそう命じた。すると獣は――仙の琥珀は、彼の背中に手を伸ばすと、一握りの楕円形をした輝物を厳かに置いた。
ヒトが優に一人は中に納まるような、巨大な琥珀だった。そして実際に、その糖蜜が香るように純粋で穢れのない色をしたその中には、少女が一人横たわっていたのだった。豊かな金髪にくるぶしまで長く伸びた白い外套を纏い、その相貌は丘陵地帯に吹くおだやかな風を思わせる柔らかな美貌……しかし、その体躯は、外套の上からでも分かるほどに痩せ細っていた。
ショーポッドを驚かせたのは、直後のエルナの行動だった。破顔すると、一目散に琥珀の棺桶へ向けて駆け出したのである。
「バニー!」
琥珀の内から起き上がった少女も、そうしたエルナを見てにっこりと笑ったものだった。純血にして高潔、穢れの一切を許さないという厳格な印象をうけた声とは全くかけ離れていた。柔らかな笑顔だった。
「久しいわね、エルナ」
「良かった、また会えて本当に嬉しいわ。バニー……、バニー……!」
抱き合ってお互いの髪に頬を埋める二人。エルナが持つすみれ色の長髪に対して、バーンシュタインのそれはあくまでも琥珀を想起させる金髪だった。蔦が伸びるような癖毛になっているのは、元々なのだろうか。それとも――
『看取りに行くのよ、彼女を』
エルナの言葉を忘れるショーポッドではない。
だから、ショーポッドは黙ってその光景を見つめていた。
彼女たちはそれを知っているから、ああして抱きしめあえる。これから始まる、別れの時に際して、後悔の無いように。
「…………いいなぁ」
ぽろりとこぼれ落ちたのは、この場にはまるで配慮の足りない言葉だったが、それも無理からぬことだった。
ショーポッド自身には、これほどまでに純粋で、ただ愛だけを受け渡しするような抱擁の機会など、これまでなかったからだ。
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