5 飴細工の森
冷たい風を切って進むアドラーの速度にショーポッドが凍え始めた頃、それがようやく地平線の先に見えて来た。その時の驚きと言ったら、ショーポッドは思わず縄ばしごから手を離しそうになるほどであった。
「……なに、これ」
森一面が飴色に染まっているのだ。木々の形状はたしかに白樺。しかしその一本一本が、枝葉に至るまで薄く砂糖を溶かしたような色に変じ、その透明性を主張するかのように自らわずかな光を放っているのだった。
音に聞く『飴細工の森』の絢爛たる姿。一度の礼拝は百回の祈りに勝ると言うが、まさにショーポッドはそれを実感していた。
「こんなの、見たことない」
「琥珀よ。見ての通り全部」
「すごい……全部? あれが? あんなにあったら、アブレーズがまるまる買えちゃうよ」
「そうかもしれないわね」
夜闇の中にあって、薄明かりに浮かび上がる聖域。森に属する木の全てが、きらびやかな装飾を施されているようだ。
ショーポッドは足元で目を輝かせている。しかしエルナの瞳は、対照的に暗かった。
「バーンシュタイン……あなた、とうとう森の雫を全て吸い尽くしたのね」
遣る瀬無そうに首を振る。
「どうしたの、エルナ」
ショーポッドが耳ざとく聞きとがめたが、エルナは答えなかった。この美しい光景を作り上げる過程で、奪われた森の命。水という水を吸い尽くされた木々に思いを馳せれば、バーンシュタインという信徒がどれだけそれを、生命の雫を希求していたのかが見えてこようというものだ。
必死に生きようとあがき、森中の水を吸い上げた。
――それでもあなたは、足りないって言うの。いったい何を為そうとしているの、バーンシュタイン……
「エルナ」
「……バーンシュタインが心配だわ。こんな琥珀の中で、たった一人取り残されて。いくら信徒が食事を取らなくて済むとはいえ、雨水だけで長い時をしのげるとは到底思えない」
「誰か他に、バーンシュタインさんといたの」
「いたわ。森の木々や、生き物たちが。彼女が全て吸い尽くしてしまったから、ひとりぼっちだけれど」
「……この森全部を琥珀にしたの、バーンシュタインさんってこと」
ショーポッドが目を剥く。信じられないと言った様子だが、無理もないことだとエルナは思う。植物がそのままの形で琥珀となることそもそもが超常の現象であるのに加えて、視界いっぱいに広がる森全体の規模でその現象が展開されているのだから。
「そうよ。もしかすると、すでに危険な状態かも。これから降りるけれど、絶対に私から離れないで」
「分かってるけどどうして。お友達なんでしょ」
「私はそうだけどあなたは違う。バーンシュタインにとってあなたはとても良質な水袋でしかないわ」
飢えた獣が新鮮な肉に飛びつくように、バーンシュタインがもし、乾きのあまりに理性を失ってしまっていたとしたら、ショーポッドは危険にさらされることになるだろう。エルナは身震いする。これから会おうという友よ、どうか変わらずそのままでいて。
「じゃあ、降りるわよ」
決断に呼応して、アドラーが降下を始める。大きな螺旋を描きながら行われるそれは、巡航時と同じく揺れ一つ無い滑らかな物だった。地面が近づく。枯れ草色をした下草も、それぞれの輪郭が見えてくる。そのくらいの高さから、エルナが先んじて縄ばしごから手を離した。自由落下。着地との間隙は一秒もない。しかしその僅かな時間が経つ間に、エルナは身の危険を感じ、叫ぶ。
「――ルーシュン!!」
蛇は息をつく間も無く彼女の手元に現れると、目にもとまらぬ速さでエルナの着地点にとぐろを巻いた。エルナはその上に着地し、荒く浅い呼吸を繰り返す。
そして手を伸ばし、下草の様に見えたそれを、手折る。キィン……と澄んだ破砕音がする。およそ植物を採った音ではない。つまりこの足元に生える雑草ですらも、バーンシュタインによって琥珀と化していたのだった。
下草のように見えたその実態は、鋭く尖った琥珀の棘。 エルナの判断が一瞬でも遅れていたら、足元から串刺しになっていたことだろう。
「森の木どころか……本当に命という命を全て、吸い上げたのね」
「エルナ! なに? 何があったの?」
「地面も琥珀になってる。掃除をするからちょっと待って」
アドラーはその指示を受けて、降下を取りやめ上空を旋回する。ショーポッドが不安げな顔をしているのが目に入る。
それもそのはず。エルナ自身とて不安なのだ。
「……遅くなってごめん」
ルーシュンが道を切り拓こうとへし折っていく琥珀は、そのままエルナが背負った罪の堆積と同義だった。
琥珀は記録、あるいは記憶。草花が生きたという標そのもの。命だった物が魂を抜き取られ、記憶だけが屹立している。
魂は天へ、肉体は塩へ。それが泪の君の信徒が履行すべき原則であるとエルナは信じていた。しかしエルナと同じくらいに長く生きたバーンシュタインは、どうやら隠遁の中で別の答えを見出したようだった。その答えこそがこの琥珀の森であるのだろう。
ここは、バーンシュタインという、だれよりも泪の君と交歓し、そして誰よりも純潔に泪の君を信奉した信徒の……広大できらびやかな霊廟なのだ。
確かめる必要があった。この琥珀の森の、最奥にて待つ、最愛の友を問い詰めて。
なぜ私を待たなかったの、と。そう迫りながら。
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