4 泪の君の信徒たち
アブレーズ領を脱したエルナたちは、北に進路を取り飛翔していた。
エルナは足元で、必死に縄ばしごにしがみついているショーポッドを見やる。無理もないことだった。鳥の足に乗るという経験など、およそただの人間として生きていればまずない。この目のくらむような高さも、この風を切るような速度も経験することはなかっただろう。このまったく日常からかけ離れた経験が、ショーポッドにとっておあつらえ向きの洗礼となることをエルナは願っている。ショーポッド、あなたはもう尋常の人には戻れないのよ、と。
「せっかくの遊覧飛行だもの、もう少し周りの景色を楽しんでもいいんじゃない」
「ばばばバカ言わないで……! 落ち、落ちたら死ぬよ死ぬんだよこんな高さ!」
「さっきまで死にかけてたくせに今更何を」
「拾った命だからなおさら怖いの!」
「へぇ、そう」
「なにその、気のない返事……! この冷血女ぁ……」
「冷血女……言い得て妙だわ。私たちを言い表すのに、これ以上無いほど正確な言葉かも」
「あたし、たち?」
自らが言い放った暴言が自分自身にも返ってきたことに、ショーポッドが僅かに傷つきながらも聞き返してくる。
「泪の君の信徒が、ってこと。みんなエルナみたいに意地悪だってこと? あたしをその中に入れるの、やめてよぉ」
「なんだかいじめてるみたいで気分が良くないわ。ちょっとだけ話を聞く余裕はある? 私たちがなぜ冷血なのか、説明してあげる」
「手短にね……揺れてはないけど、高さで……吐きそう」
「ちょっと、縄ばしごにはかけないでよ。じゃあ、始めましょうか」
エルナは咳払いをする。ショーポッドには悪いが、少し長くなる話だ。
「……私たち泪の君(トレーネイン)の信徒は、生きとし生けるもの全てを看取る為に生まれ落ちたものだわ」
「そう……看取り?」
「ええ。看取り。あらゆる命という命を見送るための存在なの」
「葬礼ならどの信者でもやるよ。あの慈恵の光の連中だって、亡骸は燃やして天に返すとか言ってたき火してる。それとは違うって言うわけ」
「まったく違うわ。そもそも根本にある目的が異なる。ショーポッド、あなたはこの世の生命が、何をこね上げてできているか知っている?」
「子種と愛液じゃないの」
元宿娼婦らしくショーポッドが即答すると、エルナは体を大きく震わせてそれを否定する。
「違う。汚らわしい……。もっとおおきな視点で見れば、それは”水”と”土”で出来ている。それが神代から続く記述。あらゆる信仰の礎」
ショーポッドは意外そうな顔を見せた。
「本当に? 慈恵の光の連中が、そんなこと言ってるの聞いたことないよ」
「あの街では本当に敬虔な従者に出会えなかったんでしょうね。もっとも、もしそんなものがいるのだとしたら……だけど」
二人の脳裏に、アブレーズで体験した危機、あるいは惨禍がまざまざと思い出される。もちろん、一本の木が森そのものを表すものではない。しかしエルナが彼らに覚えている諦観は三百年分の蓄積から来る物であり、ショーポッドにとってのそれは身体に直接刻まれた恐怖に他ならない。
「話を戻していい? 震えてるわ、ショーポッド」
「うん、ごめん。続けて」
ショーポッドはなおも遠くを見ている。それはもしかすると、あの地獄から逃げ出したのだという実感を得たいのだろうか。それとも単に、吐きそうなのを堪えているだけなのだろうか。
「じゃあ、話を戻して……。その水というのが、泪の君から賜る涙。つまり雨。純粋な命の糧よ」
「じゃあ土って言うのは?」
「そのままの意味よ。あなたや私が立っている、大地。神代に倒れた巨人の――しかばね」
「しかばね? あたしたち、死体の上で暮らしてるってこと?」
「そうなるわ。かつて博愛と勇壮さに満ち、この世界を作り上げた原初の巨人。その屍が腐り果てて生じたのがこの大地と……そこに含まれる死辱の塩」
「……」
「命の材料はこの二つ。泪の君の下さる純粋な魂が、死辱の塩を吸い上げて肉という形にして、大地から一時引き剥がす。生きとし生けるもの全てがそう。『塩の穢れ』よ。生命である限り逃れられない、呪い」
「…………」
ショーポッドは答えない。元々蒼白な顔が更に蒼くなっていくのにエルナは気が気でなかったが、まだ話は折り返しに至ったばかりだ。
「大丈夫、ショーポッド」
「……ぎりぎり。神代の話なんてまともに聞いたの初めてだったから、ちょっとびっくりしちゃった。それでまたちょっと酔った」
「話を聞く余裕はあったみたいで、何よりだわ」
するとショーポッドが、アドラーの足に乗ってから始めて、遠い地平線の彼方からエルナへと視線を持ち上げて言った。
「今すぐ、するっと全部納得できるわけじゃないよ。だけどエルナが、三百年生きたエルナがそう言うんだから、間違いないんでしょう。いったん信用する」
「……話が早くて助かるわ」
真っ直ぐな信頼を向けられ、むず痒い思いをするエルナ。
「じゃあ、もうちょっとだけ聞いて。生き物はみな、『塩の穢れ』を纏っている。これはいいわね」
「うん」
「それを祓ってあげるのが、私たちの責務なの。無垢なる魂の雫である、純粋な水に戻してあげること。それこそが、私たちの行う、看取り」
「埋葬や火葬とは、違うんだ」
「結局地面に埋めてしまうのでは、塩の穢れまでそのまま地面に還ってしまう。それではわざわざ、泪の君が涙をこぼしてまで命を受肉させた意味が無いわ。そこで私たち信徒の出番がやってくる。命を地面に還すことなく、直接天に還すことが必要になるというわけ。他の信者がする葬法とは、根本が異なるのよ」
「……分かったような、分からないような。そうしたら、残った『塩』はどこへ……?」
ショーポッドは少しだけ俯く。そして何かを閃いたような顔を上げる。
「塩の獣? そのアドラーも、もしかして?」
「あなた、見かけによらず結構聡明なのね。見直したわ」
「見かけによらず、は余計ですぅー!」
「ともあれ、あなたの言うとおり。私たちが吸い上げた穢れは、私たち自身のものも含めて塩の獣が受け持つことになっている。塩の獣は私たちの権能であり、責務よ。一度大地から引き剥がされた塩の穢れを集積して作りあげる手駒にして……見送ってきた命の総量」
エルナがその瞬間、遠くを見るような目をする。切なさと懐かしさが同居した、悲しげな目を。
ショーポッドはルーシュンと呼ばれた蛇のことを思い出す。一抱えもあるような大蛇だった。ショーポッドを覆い隠してなお、余裕があるほどの。
塩とは穢れ。生きた物の穢れ。即ち、それだけの死を……エルナは見てきたことになる。
「三百年生きてきたって言うのは、本当なんだね」
冗談めかしてショーポッドが言うと、エルナは自分自身が神妙な顔をしていたことに気付く。すぐさまそれを打ち消すように、わざと大仰な態度を取って言う。
「何よ今更。疑ってたの? そうよ。私の信徒としての遍歴は誰にも恥じるところのない完璧な物よ。感謝することね、完全無欠な信徒である私の側にいられることを!」
「はいはい、ありがとうございます」
「なによ、その気のない返事」
二人はしばし見つめ合い、どちらからともなくクスクスと笑う。しかしショーポッドは高さに対する緊張の方が勝り、また地平線の彼方へと目線を移す。
「……じゃあ、仙の琥珀って言う大化け物も、そうやってたくさんの命を見送ってきたおかげで、あんなに大きくなったんだ」
「そうよ。そのはず。信徒の名をバーンシュタイン……何をやってるのかしら、あのバカ」
「看取りに行くの」
ショーポッドが沈痛な声で尋ねる。
「なぜ、そう思うの。ただ訪ねていくだけよ、と言ったら」
「嘘でしょ。だって、さっきからエルナ、ずっと泣きそうな顔してる」
「……!」
想定の埒外から飛んできた指摘に、エルナは空いた右手で自分の顔をなで回すという愚行をとってしまう。普段の自分の顔と、何が違う? 無為な行為だ。そんなことを確認したところで、現状も、エルナの心も何も変わりはしないというのに。
「飛んでから始まったことじゃない。酒場にいたときからずっとそうだったよ。今にも死にそうな顔。エルナ、泪の君の信徒だって事を差し引いてもだよ」
「そんなはずはないわ。これまで何人の信徒を見送ってきたと思っているの。もう、慣れっこだわこんなこと」
エルナは否定しようとするが、ショーポッドが見上げた真摯な眼差しに、射止められてしまう。
「慣れないよ。別れは」
縋りたくなってしまう。ショーポッドの甘い言葉に。
親友の最期だから。毅然としていなければならないのに。
この看取りを失敗してはならないと、気を張っていなければならないのに。
「……これ以上余計なこと言うと振り落とすわよ」
エルナには強情を張ることしか出来ない。ショーポッドは本気にしたわけではないだろうが、それっきり黙りこんでいてくれた。
最初の問いに答えよう。冷血女というのは、半分正しくて半分間違っている。
泪の君の信徒の身体には、肉を維持する為の穢れであるところの血潮は通っていない。彼女らの身体を満たすのは、透明な純水である。
しかし、冷血という言葉が示すところの冷徹さに関して言えば――ショーポッドが指摘したとおり、エルナも心までは、完全に凍り付いてはいなかったのであった。
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