2 ショーポッド
そうして立ち寄ったアブレーズの陽気な酒場の一つ”白ウサギ亭”は、歓声に満ちて盛況だった。
樫を組み合わせて作ったジョッキを打ち合う音。野太い野次の真ん中には一つの円卓があり、グリズリーもかくやという大柄な男たちが腕相撲に興じている。腕前は拮抗しているようで、なかなか勝負が付かない。はち切れそうなほどに盛り上がった力こぶには、いつの戦場で受けた物か、お互いに稲妻のような裂傷がいくつも刻まれている。
他のテーブルを見てみれば、四、五人で固まり、尋常でない量のジョッキを空にしている剛胆な男たちの姿。やはり戦士、傭兵。あるいはならず者の類だろう。
酒の力によりつまびらかにされた彼らの性根が、目つきからはっきりと読み取れる。命のやりとりを日常とする、殺伐とした気配だ。鉄火場のにおいがした。
女の客はエルナただ一人。このような場にわざわざ足を運ぶ地元の女などいないだろう。扉をくぐった際に耳にした口笛が、耳から離れない。
「……これだから、酒場っていうのは嫌いなのよ」
舌打ち一つ。エルナは気持ちを切り替えて、情報収集に移る。
店主と下働きの娘たちは、エルナの知るそれとは変わっていた。下働きたちはくるくるとよく働いている。店主の方は、静かに酒場の秩序を守ると言うよりは、傭兵達と同じように場を燃えさからせることを得意としているような風体をしていた。
周囲から注がれる好奇の目が邪魔だった。エルナは目を閉じ、周囲の喧噪に耳を傾ける。
大規模な出兵が企図されているようだった。その噂を聞きつけた腕自慢の強者が、こぞって集まっている様子だ。彼らのような人種は、自らの命がどれだけ高く売れるかを競っている節がある。
「相当に払いの良い戦場なんでしょうね……やっぱり」
魂まで凍えるような冬を待つ、このような北方の地まではるばるやって来たのだから。
辺境の地。隣国は隊商を組んで二週間もかかるほどの遙か南方。北に広がるのは広大な森林。
こんなひなびた地の一体どこに、それほど熱い戦場があるというのか。
――心当たりが無いと言えば嘘になる。
なぜならエルナ自身も多分、その場所に向かっているのだ。
深くため息を吐いた。それを見計らったかのように、励ますような明るい声がかけられた。
「――辛気くさい顔しないの、旅人さん。まるで蝋人形みたいじゃないの」
旅人――エルナは胡乱げに顔を上げる。すると蜂蜜酒で満たされたジョッキが勢いよく目の前に降ってきた。
跳ねた小麦色のしずくが、鼻先にかかった。
ジョッキを運んできた看板娘は橙色の癖毛をしていた。それにライトグリーンに輝く瞳が印象的だった。快活さという言葉が姿を持ったかのような笑顔だった。死人のような顔と表された自身の相貌を思い出して比較すると、尚更まぶしく感じられる。
「ただでさえ死人みたいな造作してるのに。見てるこっちまでカチコチになっちゃいそう」
悪びれもせずに、看板娘は笑った。
「……跳ねたわ」
「うちの蜂蜜酒は謹製だもの。口から呑むだけじゃ勿体ない。サービス、サービス」
冗談めかして彼女は笑う。そしてけろりと言う。
「それに――本当に死人だったら困るから」
エルナは身構える。
いつもの、あれだ。
「『陽光を背に負え』?」
「『我ら光ある慈恵の実りである』」
「『地に足を立てろ』?」
「『我ら温みある慈愛の寵児である』」
「はいいいよー。ようこそアブレーズへ、旅人さん」
エルナが淀みなく応じたのを見て取ると、看板娘はもう一度、からりとした声で笑った。
「そうだよね。そんなわけないよね、死人だなんて。あたし、ショーポッド。よろしくね」
「エルナよ。旅の身空では行く先々でそれを聞かれて、もううんざり。『慈恵の光』のお決まり事を諳んじられない者など、この大陸にいるのかしら」
「いるらしいよ、それが。覚えているのだけれど、口に出せないようなタイプが。『
彼女の視線を追えば、床に刻まれた斧による傷跡と、建物の年代には不釣り合いに新しいテーブルがあった。戦闘の痕跡だ。こんな酒場においても、迫害は存在するようだった。
大陸において信仰されている神といえば、その祖を辿れば三つと一つに集約される。
日の光と大地の恵みを司る太陽神『慈恵の光』。
太陽神が不在の夜を見守る、安らかなる女神『夜の揺り籠』。
そして彼女らを遮って涙する多感な娘『泪の君』。
他に『漣』と呼ばれる海神がある。この四神のうちどれを奉ずるかによって、人は四つの集団に分かれている。最も大きな勢力が慈恵の光、ついで夜の揺り籠がある。それら二者で全人間の九割が占められているだろうとエルナは推測している。なにせエルナは、まだ生存している仲間を一人しか見たことがない。死体は何度か見た。処刑の現場も見たことがある。胸を痛めるばかりだった。
エルナ自身は、泪の君の信徒であった。そのうえで慈恵の光が用いる聖句を平然と口にした。ショーポッドはともかく、自らの主神をも欺いた形になる。しかしエルナに罪の意識は無い。
この偽りはエルナが泪の君の信徒として生きていくために必要不可欠な悪徳であった。太陽の威光を背負った彼らは異教の者に――特に、太陽の恵みを遮る雨の信徒に対して――容赦しない。いかに泪の君の信徒がしなやかであるとは言え……無用な苦痛は避けたいものだ。
――懐かしい。
エルナは蜂蜜酒を口に含むと、その美味に舌鼓を打ったかのように偽りながら苦笑した。
信徒である自らにも、そういった時期があったためだ。
――どれほど前のことだろう。信徒になってすぐのことだ。
ショーポッドはこちらのもてあそぶような視線に気づいた様子もない。
――もう記憶もおぼろげだが……ざっと三百年は前のことか。
「それで、ショーポッドさん。この人手は一体、何処に向かおうとしているの」
「あら、それを知らずに来たの。折が悪かったね……」
ショーポッドは肩をすくめた。そして、まるで耳をそばだてている誰かを警戒するかのように、エルナの耳に唇を近づけて言った。
「北方よ。塩の獣の討伐。飴細工の森って聞いたことある? あそこに居座っているでっかい化け物がいて……」
「『仙の琥珀』。聞いたことがあるわ」
「そうよ。ときどき、領境の川を越えてこっちまでやってくるようになったもんだから、いい加減狩ってしまおうって領主様が。太陽の威光の名の下に、ってね」
「そう。そんなに立派に」
「え?」
小声でエルナが吐きだした、感嘆とも嘆息ともとれる呟きは、酒場の喧噪に紛れてショーポッドの耳には届かなかったようだった。
「……いいえ、何でも無いわ」
エルナは思い出深い町並みを想って、深いため息をつく。残念ながら、アブレーズ領は完全に敵だ。
エルナの信仰が、この街と相反していることは先刻知れたばかりだ。
それに加えてもう一つ、エルナ個人の利害が、決定的にこの街と敵対した。エルナは仙の琥珀と呼ばれる塩の獣に用があって、この北方の地へ再び赴いたのだ。
何度も、何度も、それに会うためにここへ来ていた。この町並みが思い出深いのは、たんに回数を重ねたからだけではない。その一回ごとに、仙の琥珀と呼ばれる彼女との深い交歓があったからだ。
理由など一つでいい。仙の琥珀が、エルナの最も古い友人の一つだったから。それだけのことだった。
「大丈夫? 顔が真っ青……って、元からか」
「そんなことないわよ。それよりも、私にばっかり絡んでいて良いの。他の客は?」
「お酒が足りないみたいね。はい、蜂蜜酒追加ー。これはあたしの奢りよ、可愛らしい旅人さん」
「可愛らしい……っ!」
――何様のつもり? こちとら齢三百と十七を数えようってところなんですけど?
ショーポッドの何気ない褒め言葉に、エルナは苛立ち言い返しそうになったが、直前で呑み込む。ヒトを意識して避けてきたせいで、人間模様の機微に対しては少女然とした幼さをエルナは残していた。そうした少女の常である驕りだけは、三百十七人前だった。目の前の給仕は若く見積もって二十五、六くらいだろうか。エルナの方が優に十倍も生きている。軽んじられるのは業腹だったが、身の上がばれてしまうのは避けなければならなかった。
「……ふん、安いお世辞ね」
「そんなに怒ることないでしょ。褒めてるんだから」
「それで褒めたつもりなの。淑女には淑女なりの、年輪のような美しさがにじみ出るものよ……」
「どこからどう見ても、あんたは十七くらいのお嬢さんだけどね」
ショーポッドがエルナの隣に腰掛け、エルナの紫色をした瞳をのぞき込んで言う。
その時ショーポッドが見せた物憂げな表情を、エルナは瞬時に理解する。憐れみの中に羨望の入り交じったその顔は、例えて言うなら曲芸団の檻に囚われた獣が、表にいる同胞を見る目に似ている。
「まだ何にも知らない。酸いも甘いも、苦いも辛いも。初心な子のままなんだね」
「……今度こそ怒っていいかしら。バカにしないで」
声を荒げてエルナは言い返す。
「なにも要らないし、知りたくもないわ。ただ私は、何も知らないわけじゃない。つらいだけは……尋常の人よりも積み上げてきたつもりよ」
ショーポッドが檻の中の獣であるなら、エルナは常に檻の外で生き延びてきた獣だった。自由な、しかし何の支えもない、孤独な獣。エルナはショーポッドの緑眼を睨み返す。するとショーポッドが、申し訳なさそうに目を伏せる。
「悪かった。若いのに苦労してきたんだね……その真っ黒なクマ」
「……分かればいいわ」
ふん、と鼻を鳴らしてエルナは溜飲を下す。ただ、ショーポッドが匂わせた彼女の辛苦の方が気に掛ってはいる。その歳にして人の体験してきた辛苦を包み込もうとするその性根は、歪んでいるのだろうか。それとも、真っ直ぐであるが故の優しさなのだろうか。
「それで、あなたの方はいったい何を積み上げてきたって言うの。給仕の下働きは長いんでしょう。体捌きを見ていれば分かるわ……」
「ええ。給仕も長いわ」
「私ほどじゃあないけれど、色々苦労しているんでしょうね」
そう付け加えることをエルナは忘れなかった。単純に蛇足であった。しかしショーポッドは気にした様子もなく、浅い溜息と共に答えた。
「本当に、色々あるわ。気ままな旅の身も色々とつらそうだけれど、お姉さんくらいの歳になると自分だけじゃままならないことが増えてきてね……」
「何をサボっていやがる、ショーポッド」
ショーポッドは遠い目をしていたが、差し込まれた苛立ちの募る声に身を震わせる。
話に割り込んだのは酒場の店主だった。脂ぎったはげ頭の両脇から、白い縮れ毛が茂っている。背はショーポッドよりも低いが、客と同じように太い腕をがっしりと組んでいて、見下すように見開かれた眼もまた恫喝の色を含んでいて、エルナの手を蜂蜜酒に伸ばさせる。威圧的で、恐ろしかった。
「はいよ、旦那。すみません。久方ぶりに若い女の子が来たもんで、ちょっと話し込んじゃいました」
応じるショーポッドは、慣れた物なのだろうか、落ち着いている。しかしエルナは違和感に気付く。ショーポッドはエルナと店主の間に割って入るように、わざわざ位置を直した。そして怯えているエルナの肩を優しく、しかし鋭くトントンと叩くのだった。その指先は震えていた。まるで何か切迫した事情に突き動かされるかのように。
はっとしてエルナは周囲を見渡す。あれほど盛り上がっていた酒場の中で、声を上げるのは今や店主とショーポッドのみ。他の下働きの女たちはどこに行ったのだろう……? 客の数もいつの間にか減っている。残っているのは僅かに二組だけ。
酒宴を切り上げて帰ったのだろうか。それにしては時間が早すぎる。エルナの頭の中で構成されていく筋書き。
ショーポッドの言葉を思い出す。「給仕『も』長い」と。
それはエルナにとって、最も耐え難い想像だった。
「……宿娼婦。ショーポッド、あなた」
「マスター。何をしようとしてるのか、もう一度考え直した方がいいんじゃないですか。この子はお客さんですよ。あたしらみたいな使い勝手のいいもんじゃない」
「だが今夜は盛況だった。皆まで言わせるなよショーポッド。足りないんだよ」
エルナは一人蚊帳の外。しかし獣の群れに囲まれていることは瞬時に察せられる。店主の下卑た笑い声を皮切りに、二組合計十二名が一斉に立ち上がったからだ。いずれも筋骨隆々たる大男たち。
「お代はもうもらっちまったんだ……旅の人、せいぜい楽しんでくれ。嫌じゃないだろう、こういうのは」
無茶苦茶なふるまいだった。しかし夜を迎えた慈恵の光の従者は、得てして横暴なのであった。
怖気がエルナの体を駆け巡った。彼らの狙いは……エルナ自身に他ならない。
こうした好色の眼差しを向けられるのは、そうした状況を徹底的に避けてきたエルナにとって初めてのことだった。血走った眼、漏れ出す生臭そうな吐息。気色が悪い。気持ちが悪い。
逃げ出すよりも、憤るよりも、エルナは先にえずいた。ショーポッドが振り返り、その背中を抱こうとする。しかしエルナは、
「触ら……ないで!」
ショーポッドの手を払い除けると、ひとりよろめきながら出入り口を目指す。
その前に立ちはだかるように一人、猪のような体躯をした大男が立ちはだかり、エルナを押し返す。エルナは堪らず尻餅をつき、「ひゃん」と弱々しい声を挙げてしまう。それが男達の劣情に火を付ける。はやし立てる声。罵声。耳を塞ぎたくなる。しかしそのための腕はすでに、猪男の暴腕の中にあった。
万事休す。エルナは臍を噛む。
――使うしかないか。あの子たちを。
ねじり上げられたエルナの手の中に、どこからともなく堆積する白い結晶があった。猪男がそれに気付き、首を傾げる。
その結晶は塩。この世に遍く行き渡った穢れの結実。源なる罪、死辱の証。
集めて起き上がるは、塩の獣。泪の君の信徒が操る忠実なる僕。それを顕すことは、エルナ自身の信仰を露わにすることに他ならない。故にこのような、命と誇りに関わる瞬間にしか、エルナが人前でこれを用いることはない。
――お願い、ルーシュン。私の最初の友達…………
獣の名を心の中で呼び、まさにそれを顕現させようとした、その時だった。
重く、しかし痛快な打撃音が、エルナの頭上で響いた。エルナの白髪に液体がかかり、香りからそれが蜂蜜酒であることが分かる。見上げれば猪男の鼻っ柱にジョッキが直撃しており、振り向けばショーポッドが投擲の姿勢を終えている。
ジョッキの重みに蜂蜜酒の質量が加わり、その一撃は大の男を悶絶させる威力を持った。エルナを縛る拘束が……解ける!
「はよ行け! 二発目はないよ!」
ショーポッドが叫ぶ。エルナは一も二もなくそれに従う。
扉を勢いよく蹴破って駆け出して、店から離れた所で思う。追っ手は来るだろうか。撒かなければならない。
そして、残されたショーポッドはどうなるのだろうか。
想像に難くない。まだ降り続いていた雨の中、エルナは身を震わせる。
長い時間を生きてきて、こういった状況に出会ったことが無いわけではない。エルナは関わろうとしなかった。それは自身が泪の君の信徒であることを明かすことであり、危険をはらんだ行為でしかなかったからだ。
今まではそうしてきた。しかし今回は。
エルナは逡巡する。しかし後ろから迫る足音に気付き、足を動かす。
雨は、北国にふさわしくとても冷たいものだった。信徒であるエルナからですら、体温を奪っていく。
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