1 なつかしき城塞

 城塞アブレーズ。人の世の北端と呼んでも過言ではない辺境に、なぜこのような大城塞が戦の備えを取っているのか。それを覚えている物はそう多くない。

 かつて、この街は常に襲撃の危機にさらされていた。ここよりもさらに北に広がる不気味な針葉樹林『飴細工の森』、その向こうに高くそびえる霊峰。それらを超えてやってくる蛮族や……魔物たちへの備えのためだった。

 もっとも、遠い過去の話だ。蛮族どもはきっと、天然の要害をわざわざ超えてこちらに攻め入るよりも割の良い略奪の手段を覚えたのだろうし、魔なる物は長い年月を経て随分減った。

 かつて溢れるほどいた『塩の獣』たち。彼らは皆雨に溶け、地へと帰ったのだろう。

「そうね……他のみんなは、地へと帰ったのでしょうね」

 役目を終えた城塞。その中へと通された旅人、エルナ・アプシートは、去った獣たちへ祈りを捧げた手を降ろすと、懐かしい街並みを見渡した。

 太陽はまだ落ちたばかり。かの恩賜は未だ人々の中に活気として息づいている。

 外灯の松明に火を付けて回る背の高い男は、霧雨に種火が消えないよう手を尽していた。

 真っ赤に燃える炎が備えられた薪にまで突き上げると、その一帯に仮初めの昼が訪れる。

 夜の神よ。常闇を司る優しき母よ。まだ我々は眠らない。あなたの揺り籠に身を委ねるのは、もう少しだけ待って欲しい。ヒトという生き物は夜から逃れるためにあらゆる手段を用いてきたし、これからもそうするのだろう。

「そうよ。夜闇も、雨の冷たさも。はヒトにとっては恐怖でしかないものね……」

 灯火に照らし出された温かな情景は、エルナの記憶とそう変わらない。懐かしいものだ。西門の正面に構えている大商店はこんな時間でも、自前の篝火をふんだんに焚いて大声を張り上げている。疲れ切った旅人向けの品物――乾いていない肉や新鮮な果実。多少割高なのもかつてと相違ない。

 外灯がぽっと灯る度、郷愁がエルナの胸をさらった。クリーム色をした土壁、鋭く伸びる三角屋根。香る夕餉の温もり。全てがあの頃のまま。

「良かった。何事もなかったのね……でも」

 よみがえる郷愁は平和を守り抜いたことの証左。しかしエルナは眉をひそめた。道行く人々の姿が、妙に剣呑だったからだ。

 武装している。

 正規兵ではない。そのうろんな風体と身のやつし方は、明らかに傭兵達だった。平和とは不釣り合いな手合い。それらが暗闇から逃れようとしている街を、手斧を吊る金具の音も高らかに闊歩しているのだった。

 追い立てられるように突き進んできた旅路の中で、敢えて一晩の休息を求めることに決めたのは、その時だった。

「いったい何が……あの子とは無関係だと良いけれど」

 エルナは下卑た笑い声を挙げる傭兵達とすれ違いながら、まず酒場を目指した。良かれ悪かれ、情報を得るには酒の席が手っ取り早い。そこにはきっと口の緩んだ酔漢達と、彼らの声を聴いている店主と下働きがいるはずだ。

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