泪の君の愁雨 -バーンシュタインの走馬灯ー

瑞田多理

プロローグ 

 ちょうど目的の領地に足を踏み入れた頃だった。吸い込まれそうなほどの星空だったのが突然、漆黒の帳に塗り込められた。

 雨のにおいがした。湿り気の香りだ。

 旅人、エルナ・アプシートは空を見上げ、足を止めた。はじめは薄墨のようだった雨雲は次第に厚みを増し、暗色を濃くしていく。もうしばらくすれば、この平原は北国特有の冷たい霧雨に包まれるだろうと思われた。風はない。背の低い下草は、ところどころ色あせた枯草色を呈していて、間もなく訪れる厳しい冬を予感させる。

 門出にあたって、雨は何よりの祝福だ。

「よかったね。泪の君も、あなたのために泣いて下さろうとしてる」

 エルナは消え入りそうな声で呟き、湿った空気を深く吸い込んだ。

 彼女の蒼白な肌も、唇も、尋常ならぬ無理な旅程のおかげで荒れ果てていた。やや目じりの上がった勝ち気な印象の眼窩は、しかし深い隈が浮かんでいるせいで、もともと大きな紫色の瞳が飛び出して見え、一見した印象は骸骨のそれに近い。

 菫色の豊かな長髪はささくれて広がり、それはそのまま、人魂からにじみ出る紫の霊根を連想させる。

 幽鬼じみたうつろな相貌。背格好は未だ娘と呼んでも差し支えない。そんな彼女をこうまで駆り立てたのは、いったい何なのか。

 五千を超すヒトが暮らす辺境都市、城塞アブレーズは少し先に黒くそびえている。

宿は目の前。酒場はすぐ。肩は痺れ、背嚢の重みをもはや感じないほど。

しかしエルナは――祈った。その場に膝をつき、手を組んで額にあて、陳謝するように祈った。

 閉じた瞼の内側が真っ赤に塗りつぶされる。長く止めていた息を、ゆっくりと吐き出す。

すると雨が降った。優しい霧雨は荒れ果てた彼女の肌を撫でて潤した。

秋雨の中、問うた。


――私は何をしに来た。


 泪の君の巡礼たる私――エルナ・アプシートは、何をしに来た。

 そう問われれば、表す言葉はいくらでもある。会いに来た、遺しに来た、抱きしめに来た、――見送りに来た。

 それでも、敢えて何か一つを選べというのなら。

「もうすぐ着くわ、あなたの所へ。だから待っていて、仙の琥珀……置いていかないで」


――この暖かな慈悲の涙に濡れて、私は……あれと一緒に、泣きに来たのかも知れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る