第3話「爪と剣戟」

 ――私は全てを思い出していた。

 空から闇が落ちてきて、何もかも飲み込んでしまったことを。

 あれに飲み込まれる瞬間、私は死を覚悟した。

 

 今、私の目の前にあるのは、荒寥とした街だ。

 私は死後の世界にいるのだろうか。

 妹を守り切れなかった罪で、私は地獄にいるのか。

 だが、手に残った熱が、私に現実であることを感じさせた。


(……アキちゃん!)


 手を握りしめ、失われた感触を思い出す。

 ――妹を探さなければ。


 ポケットにスマホが入っていたことを思い出し、探ってみる。


(……あった!)


 幸いなことに、見た目は無傷だった。

 しかし、いくら操作しても反応がない。

 闇に飲み込まれた衝撃で壊れてしまったのだろうか。


「アキちゃ――――――んッ!!」


 大声で妹の名前を呼んだ。

 街に私の声が響き渡るが、返事はない。

 私は意を決して街を歩きだした。

 

 乾いた空気が頬に触れる。色を失った街がそこにあった。

 立ち並ぶ家々は植物が絡みつき、ヒビが入って朽ちている。

 石畳の地面はひび割れ、ところどころ木の根のようなものが顔を覗かせている。

 

(ずっと昔に、滅んだ街……?)

 

 そんな風に感じた。

 妙なことに、私のいた家の周りには建物がなく、広場のようになっていた。街にぽっかりとあいた空間に、ぽつりと一軒だけ家が建っている。なぜこの家だけ周囲から取り残されているんだろう。

 

「アキちゃ――――――ん!!!」


 音のしない街に、私の声が何度も反響する。

 相変わらず返事はない。


「アキちゃ――――――ん!! どこ――――っ!?」


 名前を呼びながら通りを歩く。

 人の気配は一切感じられない。

 時折吹いた風が石を転がし、カラカラと音がした。


「アキちゃ――――――ん! いるなら返事して――――っ!」


 呼びかけるたびに、私の中で不安が大きくなる。

 この世界に一人、自分だけが取り残されていることを想像した。

 ここは本当に死後の世界で、どこまで行っても虚無の空間が続いているのかもしれない。

 妹を呼ぶ声が、次第に弱々しくなっていった。


「アキちゃん……」


 足が止まる。泣き出してその場に蹲りたかった。

 ……だが。


 ギシッ。

 

 不意に耳がその音をとらえた。体が強張り、冷や汗が背中を伝う。

 風の音ではない。石が転がる音でもない。アキちゃんがいれば、とっくに返事をしているだろう。

 それ以外の、何か。


 得体のしれない場所の、得体のしれない音に、言い知れぬ恐怖を感じた。

 音は右手の廃屋から聞こえてきたようだった。私は嫌がる体に鞭打ち、ゆっくりとその方向を見た。


 崩れた壁に、屋根を失った家屋。それ以外は何もない。

 喉がからからに乾いていた。唾を一つ飲み込む。

 そうしてしばらく見つめていたが、何もない。

 杞憂だったんだと、自分に言い聞かせようとした。

 その時。


 私の目が大きく見開く。

 崩れた壁の、向こうの景色との境目。そこで微かに、何かの一部分が蠢くのを見たのだ。


「ヒッ」


 喉から堪えようもなく悲鳴が漏れると、私は駆け出した。

 全身を支配する恐怖に突き動かされながら、必死で足を動かした。

 どこでもいい。この恐怖から解放される場所に行きたい。その一心で、がむしゃらに街を走る。

 だが、どこまでも続く朽ちた街に、そんな場所は見つからなかった。

 

 ギシッ。ギシッ。


「いやぁぁぁぁ――――――――――っ!!」


 通り過ぎた家のどこかで、何かの蠢く音がする。私の幻聴でなければ、間違いなく何かがいるのだ。

 私は涙を浮かべながら、半狂乱の様相で走った。だが、体力が尽きた私は、足をもつれさせて転んでしまった。


「ぐっ……!」


 立たないと。立って逃げないと。

 今にも音の主が追い付いてくる。ほら、顔を上げて。

 私は通りの向こうを見た。

 

 そこに、いた。


 顔を覆う薄汚れた毛に、黒く大きな双眸。頭からは二つの大きな耳が後ろに伸びている。およそ人間とはかけ離れた頭部でありながら、体は人間とよく似ていた。半人半獣の怪物がそこにいた。

 昏い双眸が、私をじっと見つめている。その目からは、なんの感情もうかがい知ることができなかった。


「……ひ」


 私はすくんで動けない。

 怪物も微動だにせず、沈黙の時が流れる。

 だが、やがて周囲の建物から、次々と怪物が現れだした。


「や、やだあぁッッ!!」


 たまらず私は叫び、立ち上がって逃げ出した。

 もう嫌だ。ここにいたくない。誰か、誰か助けて。誰か。アキちゃん。お父さん。

 走り出した足に、唐突に熱を感じた。


「あうっ!」


 直後に鋭い痛みが走る。足が裂け、血が出ていた。

 視界の端に、きらめく怪物の爪が見えた。あれで切られたのだ。

 私は何が何だかわからなくなって、ただ足を動かした。

 時折閃光のようなものが走り、そのたびに体のどこかに痛みが走った。

 そしてとうとう石に躓き、その場で転んでしまう。

 痛みに涙があふれてくる。

 怪物が私を取り囲んでいた。無機質な目が私を見ている。


 どうしよう、どうすれば、どうすればいい? アキちゃん。たすけて。

 そうだ、つぶそう。空き缶みたいに。あれならたぶんいける。

 あ、でもどうやってやるんだっけ。さわってつぶしてたっけ?

 さわる? さわるの? アレに? 一度にあんなにつぶせるの?

 し、しゅうちゅうしないと。つ、つぶれ、つぶれ、あ、ああ、あ。

 

 怪物の爪が私の鼻先まで伸びたとき、私は目を瞑った。

 私は死ぬと思った。


 …………だが、いつまでたってもその瞬間は訪れなかった。

 恐る恐る目を開ける。

 そこには、体を両断された怪物たちの体が転がっていた。


「……え?」


 なぜ? と思うと同時に、隣に怪物とは違う何かが立っていることに気付いた。


 そこにあるのは、二本の足である。私は視線を少しずつ上げて、足の上にあるものを見ようとした。

 視線が頭までたどり着き、獣ではないことを知る。

 頭の形は人に見える。というか、人だ。

 

 人だ!!

 

 それを認識した瞬間、私の不安が一気に消えた。顔は角度の問題でよくわからないが、多分男性だと思う。目の前にあるのは、女性の体格ではない。

 

 彼は大きな剣を手にしていた。そしてゆっくりと、それを正面に構える。

 私がその切っ先にあるものを見ると、怪物の群れがそこにいた。私が逃げ出す前よりずいぶん多い。一体どこに隠れていたのか。


「フッ」


 わずかな呼気とともに、彼が動いた。

 風が動く気配を感じると同時に、彼が目の前から消える。

 私が気付いた時には、すでに怪物たちに肉薄していた。


 剣閃が煌めき、怪物が二つに裂ける。

 それを見た次の瞬間には、別の場所で怪物が切り裂かれる。


(は、速い)


 風が通り過ぎるがごとく、怪物が斃れていく。

 ほんの数回瞬きをする間に、怪物がことごとく肉塊と化した。

 あまりにも速い。私は彼の動きを目で追うことができなかった。


 周囲に動くものがいなくなると、彼は止まった。

 息は全く乱れていない。剣を振り払い、怪物の体液を落とす。


 ふと、彼が何かに気が付いたかのように遠くを見た。

 そしてチッと舌打ちをする。

 私がその方角を見ると、怪物の一団が押し寄せてきているのがわかった。まだいるのか。

 

「××××××××××××××××」


 彼が何かつぶやく。しかし、うまく聞き取ることができなかった。

 彼は腰を落とし、剣を低く構える。


 急に空気の流れを感じた。

 風が吹いたのかと思ったが、すぐに違うとわかった。


 空気が渦を巻くように彼の剣に吸い込まれていく。

 彼の剣から、金属をこすり合わせるような甲高い音が鳴り響く。

 空気が大きくうねるとともに、音も大きくなる。

 

「ハァッ!!」


 裂帛の気合を発し、剣を真横に薙ぎ払った。

 ヒィンッ、という形容しがたい高音が響く。


 解き放たれた斬撃が、建物もろとも怪物を両断した。

 建物が一切の抵抗なく切り裂かれ、残骸が道を塞ぐ。


 彼は残骸を一瞥すると、私に向かって走り出した。

 私のそばまで来ると、有無を言わせず私を担ぎ上げる。

 

「え?」


 抗議する間もなく、すごいスピードで走り出す。

 彼が小さく細い笛を鳴らすと、どこからともなく巨大な犬のような動物が現れた。彼は私を担いだまま飛び上がり、器用に巨大犬に乗った。

 乗り移ると、犬はぐんと加速し、街から離れだす。

 

「ひぃわわわわっっっ」


 間抜けな声が喉から洩れる。でも怖いのだからしょうがない。

 私は彼の肩にかつがれ、後ろ向きに犬に乗っているのだ。めちゃくちゃ高くて怖い。

 

「こ、怖い! せめて前を向かせてよ!」


 しかし、私の抗議は聞き入れられることなく、街が見えなくなるまでその状態は続いた。

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