鷹崎行きの電車は数分遅れで深石駅に到着した。この路線が遅れるのは何時ものことで、毎日なにがしかの理由で遅延している。数分遅れなどまだ許容できる方で、人身事故や線路立ち入りなどで三〇分以上の遅れは毎日のように発生しているのだから、まだまだ、まともに運行されている方と言える。

 レノンはまた遅延かとため息が出た。

「あまりよく知らないかも知れないけど、この路線はいつもこのくらい遅れてしまうんだよね。ただ、バスの時間に間に合わないかも知れないから、その時は歩く事になるけど」彼は彼女に話した。高校生だから駅から学校までの距離を歩く事は大して苦にはならないが、遅刻するのは厄介だ。今日は徒歩で駅まで来たから、普段より到着時刻は遅れ、いつも乗るはずの電車には乗れず、次の電車になってしまった。おかげでスクールバスの発車時刻には間に合わない。かといって、路線バスでは運行時刻とバス停の関係(田舎町の宿命で本数が少ないことに加え、学校直通ではなく、バス停が遠く結構な距離を歩かなければいけない)もあり、歩いて行った方が速い。

「うん…」里奈は少し不安そうな面持ちで返事をした。

「大丈夫?」レノンは彼女が心配になり、顔を覗いた。あらためて見ると、彼女は彫りが深く目鼻立ちがくっきりとしていて、整った顔立ちをしている。しかも肌はニキビなどひとつもなく、まるで桃のようにつるんとしていて綺麗だ。勿論、校則で化粧は禁止されているから、彼女もすっぴんのはずだけど、化粧なんて全く不要だと感じるほど美しい。本当に非の打ち所がない美少女なのだが、何故、昨日始めて会った僕が惚れられてしまったのか、全くもって理解出来ないとレノンは思って居た。もちろん彼も比較的整った顔立ちをしているのだが、元々地味な性格の彼にはその自覚が無かった。

 レノンは元気のない彼女が心配で不安だった。いったい何があったのだろう? 怖い夢を見たと話していたが、たかが夢じゃ無いか? なにか正夢にでもなりそうな予感でもするのだろうか? 

 たかが夢ごときでこれほどおびえる彼女に、何か精神的に問題を抱えているのでは無いかと彼は疑い始めた。そして次第に彼女の精神的に弱い面が、彼を頼るという事に至っているのでは無いかという思いを強めていった。そして、このことが自分が彼女の支えになるべきだと決意をするきっかけになったのだった。

 十分弱遅れで到着した鷹崎行き普通電車は普段より混雑していた。遅れた分、乗客が増えたのだから仕方無いと言える。普段はがらがらで、ちらほら空席も目立つのに、空席どころかつり革ですらまともに掴めない混雑ぶりだった。ようやく確保したスペースだったが、身長が余り高くない里奈はつり革を掴むのもやっとなので、代わりにレノンの身体に手を回して彼の体をしっかりと掴んでいた。

 電車が丁度、市境の河川橋にさしかかる時異変が起きた。

『緊急停車します。アテンションプリーズ…」という自動音声による警告と共に電車が急停車をした。レノンは里奈を守ろうと思わず彼女の身体を抱え込んだ。余りにも急な停車であるため、車内には女子高生のきゃーっという叫び声やおじさんのうわっといううめき声などが飛び交って騒然とするとともに、立っている人達がだだだだっと雪崩のように将棋倒しになった。ごく一部の人には倒れてしまった者もいた。レノン達は車両端の車椅子スペースとトイレの間という比較的良い場所にいたため、将棋倒しにも巻き込まれなかったが、急停車の所為で窓ガラスに激しく頭を打ち付けた。彼女を守ろうと手が塞がっていたため自由がきかなかったのだ。

「な、なんなんだ…?」彼は打ち付けた頭をさすりながら悪態をついた。里奈が心配そうに彼を見上げる。

「レノン君…」大丈夫? と言おうとしたがそこまで言葉が出なかった。

「うん、未だ死んでないよ。でも凄く痛い…」彼は苦悶の表情を浮かべながら頭を抑えた。

「ごめんなさい、レノン君…」彼女は申し訳なさそうに謝った。

「君のせいじゃない。謝ることないよ。でもなんで急停車なんて…」彼は彼女の肩を抱きしめた。

『ただいま、緊急停止信号受信したため急停車しました。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが、今暫くお待ちください。なお、車外に出ることは大変危険です。くれぐれもおやめ戴きますようにお願いいたします』女性車掌の車内アナウンスだ。少なくともこの電車にトラブルがあった訳ではないから先行電車で人身事故や線路内立ち入りでないかぎり、暫くすれば動いてくれるのだが、そうでない限りすこし厄介だ。

『お客様にお知らせ致します。ただいま本城駅においてトラブル発生のため暫く運転を見合わせます。お客様にはご迷惑をおかけしますが、今暫くお待ちください。なお、車外に出ることは大変危険です。くれぐれもおやめくださるよう御願いします』女性車掌のアナウンスがまた有る。一瞬、里奈がレノンの腕を強く握りしめた。何をこんなに怯えている? 駅でトラブルというのが昨晩の怖い夢と言うのに一致しているのだろうか? それにしても駅のトラブルってなんだ? 故障とか人身事故なら最初からそう伝えるはずだ。では無いとすると、それ以外のトラブルが発生したのでは無いか? 例えばケンカとか? だがケンカごときで電車が止まるだろうか? 車内アナウンスを聞いてからの里奈の異常な怯え方から、レノンは一抹の不安を感じた。

『Some people might say my life is in a rut』突然、レノンの携帯が鳴り始めた。着信メロディは父が好きだった、The JamというバンドのGoing Underground。これはフレッドからの電話だ。普段はメールかSNSでしか連絡してこないくせに珍しい。なにか急用なのだろうか? 電車の中であるにもかかわらず、レノンは受話ボタンを押して電話に出た。よほど急を要する事なのだとおもったからだ。

「レノンか?」声がうわずっている。何かよからぬ事が起きていると直ぐに感づいた。

「うん。どうした? いま電車の中だから、手短に…」

「本城駅に着いていないなら、今すぐ、電車から下りて、家に帰るべきだヨ。今こっち(本城駅)は大変な事になっているヨ」珍しくフレッドが焦ってたどたどしく答えた。

「大変な事ってなんだ?」

「どうも駅でテロが会ったみたいだヨ。うちの学生を含めて何人も死人が出ているみたいだヨ」彼はたどたどしくも早口で答えた。直ぐにでもここから逃げて欲しいのかも知れない。

「お、お前は大丈夫なのかよ?」

「僕は大丈夫だヨ。未だ自宅から出ていない。でも駅の様子は大変だよ。パトカーが何台も来ているし、テレビでも臨時ニュースが流れているヨ。嘘だと思うなら、ユーチューブでもツイッターでもコンファーム《確認》してみてヨ」受話器から漏れ出たフレッドの声を聞いた里奈は呆然として、倒れそうになるが、何とかレノンの腕にしがみつき、必死になって体勢を崩すまいと頑張っていた。

 レノンは彼の言われたとおりユーチューブを開いた。最新のトレンドを見るとほぼ全てがその事件に関するもので、そのうち最新と思われる某テレビ局の動画を開いてみた。

『現場は騒然としております。犠牲者は今のところ一〇人以上ですが、今後もっと増えるかもしれません。複数人による犯行と思われておりますが、犯人については詳細はわかっておりませんが、未確認情報でありますがアジア系外国人と言う話も出ておりますが国籍などは明らかではありません。関連は判っておりませんが、本日、皇太子殿下夫妻が本城市をご訪問されるというご予定もあり、殿下を狙った犯行との指摘もあります。また詳細がわかり次第ご報告します。現場からは以上です』女性アナウンサーの現場リポート動画を聞いた里奈はついには失神をして、その場に倒れ込んでしまった。


 次第に現場本城駅でのトラブルが明らかになってくると同時に電車の運行再開はますます怪しくなり、ついに痺れを切らした乗客の一部が車内アナウンスの静止も無視して、非常用レバーを倒し、車外に降り始めた。一旦そうなると後はなし崩しに皆車外に降り始める。とうぜん電車はすべて運行停止状態なのだろうが、危険な行為ではある。だが、一時間以上も足止めされては誰でも痺れをきらすし、今後の運転再開も絶望的とあれば、だれもがいけないと思いつつも同じ行動を取るだろう。

 殆どの人間は電車から降りてしまったが、レノンたちは、里奈が暫く気を失っていた所為もあり、最後まで車内に取り残された。ついにはJRもこのまま運行が再開することは困難と判断したのか、車内から出るようにと車掌が車内を巡回し始めた。車掌が彼らが二人きりで残っていることを見つけた時、ようやく里奈は気が付いたのだが、それからというもの顔を真っ青にして、私の所為だ、私が悪いんだと泣きじゃくり始めた。

「里奈さん、大丈夫かい?」レノンは彼女の様子に不安になりながらも何とか落ち着かせようと必死に彼女に話しかけた。それでも彼女は、

「私の所為よ…」何度も繰り返していた。

「学校に行けなかったのは君のせいじゃないよ。それに一つ前の電車に乗っていたなら、事件に巻き込まれていたんだから、逆に運が良かったんだよ」彼は学校に行けなかったことについて自分の所為だと彼女が泣いているのだと思っていたが、次の言葉でそれは勘違いであると知った。

「そうじゃないの! あの《・・》事件はわたしの所為なの!」彼女は彼を見上げ涙をぽろぽろと溢れさせた。

「なんでそんな事を言うんだい?」彼女の突拍子も名答えに困惑して彼は言った。

「私が昨日あんなテレビ番組を見たからだわ…」彼女は青い顔でつぶやいた。

 テレビ番組? どういう関係があるんだ? だいいちどんなテレビ番組だ? 怖い夢と言っていたはずだが、テレビ番組と関係あるのか? もしそうだとすればとんでもない誇大妄想だ。

普通であればテレビ番組で怖い番組をみて、それがきっかけで怖い夢を見たとしても、この事件と関連付けやしない。偶然見た夢と偶然同じだったとしても、それはただの偶然だと思うはず。

それとも、予知夢だと思ったのだろうか? 自分が見た夢が現実になるという経験が何度か有れば、そういう考えに至ってしまうこともあるかも知れないが、だとしても馬鹿げている。誇大妄想なのか予知夢なのかわからないが、いずれにしても彼女はメンタル思ったより深刻な問題を抱えているのではないかと、レノンは考えた。

「とにかく、もう降りよう。降りて学校に行かなくちゃ」彼は彼女を抱き起こして、電車のドアに手をかけた。

「行っちゃダメ!」彼女は悲痛な叫び声を上げた。まるで彼が戦争か何かにで二度と帰らぬ人になるのを恐れる様に。

 その時、レノンの電話がまた鳴動した。

「レノン! 今どこにイル?」フレッドだ。

「まだ、同じ場所。岡戸と本城駅の間くらい」

「そうか! 本城駅じゃなくて、ヨカッタヨ。学校は休校になったからそのまま帰るべきダヨ。警察が規制線を貼っていて、駅周辺から移動制限されていて、ここから全く出られないから、助けられないケド、君たちは急いで本城からできるだけ離れた方が良いヨ」

「学校が休校って、まだメールもSNSも来ていないぞ」

「ボクは電話で直接先生に聞いたンだよ。今、回線も混雑しててメールも配信も遅れているンじゃないか? ボクも、もう何十回も君に電話してようやく繋がったんだカラネ」

「そうなんだ。とにかく連絡ありがとう。じゃ、こっちは帰ることにするよ。ちょっと里奈さんが、いま気が動転しててすぐ動ける状態では無いけど…」

「そうか。ま、女の子だから仕方ないネ。気をつけて帰ってくれヨ。まだテロリストがうろうろしてるかも知れないからネ。あと、心配だから、家着いたらまた連絡してくれヨ」

「ありがとう、友よ」レオンはフレッドの電話を切ると彼女に向き合い、そっと抱いた。我ながら随分大胆な事をしてしまった。と、彼は少し照れくさくなった。

「里奈さん、今日は休校だから学校に行かなくても良いみたいだ。だから一緒に家に帰ろう」彼が泣きじゃくる里奈の涙を拭ってあげ、手を握ると彼女は泣きながらも小さく頷いた。


 乗客のうちが、主に学生を中心に殆どの人間は登校を諦め、岡戸駅方面に歩いて戻ったが、それでも乗客の一〜二割ほどにあたる社会人は、仕事を休めないのか本城駅方面に徒歩で向かった。この危険な状況でわざわざ行くのは危険だとフレッドは言っていたが、レノンはわざわざ見知らぬ人たちに話す気にもなれなかった。

 自宅に帰ることを選択したレノンたちだったのだが、あいにく、ここから自宅までの交通手段が無かった。手前の岡戸駅までは二〜三kmと歩けない距離では無いが、そこから自宅に直接戻る公共交通機関はタクシーくらいしか無い。だが、この状況ではそのタクシーさえ捕まえることも困難であろう。生憎、父も現在の母も新婚旅行中で居ないし、父母以外にで唯一自動車免許を持つ姉も現在では別居中だ。だから彼らは数キロの経路を徒歩で帰らざるを得なかった。

 今朝、駅には着くまでは梅雨でどんよりと曇った天気だったのに、こういうときに限り快晴に変わっていた。じりじりと日が照りつける誰も居ない線路を二人でてくてくと歩いて行くのは、いつか映画で見た北海道の廃線になった線路を恋人同士で歩くシーンを思いおこさせると、レノンは感じた。

 彼等はそこで歩きながら話をした。彼女は自分が見た夢が現実になったらどう思うと彼に尋ねた。自分の夢が叶うなら凄く良いことじゃないか? と彼は言った。

「そうよね。普通…」と彼女は一言言ったきり、そのまま黙ってしまった。彼女の表情に笑顔が戻ることは無かった。


 レノンたちが這々の体で自宅に着くと、梢は既に帰宅しており、リビングでテレビ見ている最中だった。

「ただいまあ。疲れたあ」レノンは鞄をソファに放り投げて、汗でびっしょりのワイシャツを脱ぎ捨て、Tシャツを脱ぎ去ろうと両手でめくりあげようとした。

「もう! お兄ちゃん! レディー二人の前でみっともないまねしないで!」梢はレノンの手をはたいて脱がせるのを止めさせた。

「ええ? 俺たちこの熱い中を烏賊子(深石市の境にある本城市の街)から歩いてきたんだぜ?」レノンは理不尽な要求をする梢に抗議するが、そんな事を素直に聞き入れる彼女では無かった。

「里奈お姉ちゃんだって同じでしょ? お兄ちゃんは男なんだから諦めなさいヨ!」梢は譲らない。こんな時だけ男だから我慢しろって理不尽だとレノンは思った。

「さ、里奈お姉ちゃん! 暑かったでしょ! カルピス持ってくるから待ってて」梢は言うと冷蔵庫に置いてあるカルピス桃の缶を取り出して里奈に渡した。

「梢ちゃん、ありがとう…」里奈はほっとした表情で火照った頬に冷えたカルピスの缶を当てて、少しでも身体を冷やそうとした。

「梢! おれにもカルピス持ってきて!」とレノンが頼んだが、彼女は彼には冷たく、

「自分でやって! 男でしょ!」とあしらった。相変わらず冷てえ妹だとレノンは思った。仕方ないので、冷蔵庫まで行くのだが肝心のカルピスは残ってない。

「カルピスないよ!」彼は庫内をくまなく探したが、父のビール缶しかみつからず、思わず叫んだ。

「ああ、さっき私も飲んじゃったからもう無くなっちゃたかも! ごめん!」とペロリと舌を出す。

「ええ? じゃ何を飲めば良いんだよ!」彼の身体を脱力感が襲った。

「水でも飲んだら?」レノンの想定どおり、梢は冷たく言い放った。その場にがっくり肩を落とした、レノンは諦めて食器棚からコップを取り出して、冷凍庫から氷を取り出そうとしたが、氷すらなかった。彼はさらにがっかりして、水道からコップに水を注ぎ、その生ぬるい水をごくごくと飲み干した。乾きを癒やすことが出来たがこれでは火照りを納めることが出来ない。

「おれ、シャワー浴びてくる!」彼はぷいっと部屋を出ようとした所で、また梢が呼び止めた。

「お兄ちゃん! 里奈お姉ちゃんだって汗でびしょびしょなんだから、先に行かせてあげなさいよ! さ、里奈お姉ちゃん、タオルと着替え持ってくるから、シャワー浴びちゃって!」そう言い放った梢はタオルと彼女の下着と部屋着を取りに行った。

 妹にこれだけ蔑められるなんて理不尽すぎると、レノンは思ったのだが、一方でシャワーを里奈に譲ることは当然のことだと彼も理解していた。ここは一つ大人になら無ければと考えた彼は里奈に、

「里奈さん、先にシャワーどうぞ。俺は暫く此処にいるよ」と話した。だが彼女の返事は意外だった、いや、ある意味当然だったのかも知れない。

「わたし、一人でいるのは怖い。レノン君、ついてきてくれる?」彼女は少しもじもじした態度をにじませながらも、彼に言った。その言葉の意味を察知した彼だが、一方女の子と一緒にシャワーというイベントに、彼の鼓動は急激に高まっていき、ただでさえ火照りが収まらないのに、一層顔を紅潮させるに至ってしまった。

「いや、それは少しマズイよ! 梢に見つかったら殺されてしまう!」

「でも、離れて欲しくない! もし少しでも離れると思うと、私はどうかしてしまうわ!」彼女は再び顔をくしゃくしゃしながら泣きそうになってしまう。

「妹の梢が一緒なら大丈夫だろ? 梢に頼んで一緒にシャワー浴びれば良い」そんな事で納得しないのは判っている。

「ダメよ! 貴方じゃ無いとダメなの!」彼女はやはりレノンでは無いとダメなようだ。何故そこまで出会ったばかりの僕はこれほどまでに信頼されているんだろうか? 彼は不思議にかんじながらも、

「じゃ、判ったよ。ただし一緒にお風呂に入るのはさすがにまだ早いよ。だって、僕等まだ十五歳だろ? だから、君がシャワーを浴びている間は脱衣所で待っている。それでいいかな? それに一緒に入ったら僕は鼻血を流して、貧血で倒れてしまうし…」それに僕の大事なところが変化してしまうのを君に見られるのは恥ずかしい。だって僕が実は凄くエッチな奴だと思われて軽蔑されてしまうだろうし、そんな事は絶対に気が付かれたくない。

「うん、判ったわ。でも約束して! 私たちはこれからずっと一緒。一生離れない! ネ?」彼女が少しだけ微笑んだ気がしたとレノンは感じた。


「ええ? もう信じられない!」梢が里奈のバスタオルと部屋着を抱え脱衣所に入るとバスルームを背中にして座り込んでいるレノンを見て呆れながら言った。

「だって、里奈さんが僕に離れないで欲しいと言うんだから仕方ないだろう! それに見ての通り僕は覗きなんて一切出来ない!」彼の言うことにいっさい嘘は無かった。なぜなら、頭をぐるぐるとバスタオルで覆って視界を外部から遮断していたからだ。さらにバスルームに背中を向けている物だから、これで覗いていると言うのなら、それは因縁を付けているに等しい。

「そうだとしても音は聞こえているでしょう!」彼女は顔を真っ赤にしていった。音が聞こえたからなんだと言うのだ? もうこれは言いがかりとしか言えないでは無いか? と彼は思った。

「音は聞こえてしまうが仕方ない。もしも彼女が失神してしまったりとか何かあったら助けることも出来ないじゃ無いか!」

「それは、そうかもしれないけど! 女の子としてはシャワーの音聞かれたりとかするのは、男の子がイヤラシいこと考えていると思うと耐えられないわけ!」梢は顔を真っ赤にして必死に抗議してくる。確かにイヤラシいことを全く考えていないわけでは無い。だが、健康な高校男子なら当然だ。オヤジだってそう言っていた。だが、ここではそれを悟られるのはまずい。なぜならこんなことで妹に弱みを握られるのは後々、自分にとって振り見なる。ここは一つ、なるべく冷静に対応して、そんな事にはまるで興味が無いという所を立証しておかなければいけない。と、レノンが考えていた矢先、何の前触れも無く、背後の扉がガラッと開いた。もちろん、レノンには見ることは出来ないが、里奈が一糸まとわぬ姿でそこに立っているという事は容易に想像ついた。

「梢ちゃん、大丈夫よ。それにレノン君に側に居て欲しいって頼んだのは私だもん。それに彼はとても紳士なの。一緒に入りたいっていう私に、そういうのは大人になってからにしようって、自分でバスタオルを顔に巻いて見ない様にしてくれたんだもん」里奈はレノンの頭に巻いてあるタオルをぽんっと叩いて、梢に事の成り行きを話した。そして、次の瞬間、彼の頭に巻いてあるタオルぱっと取り去ると、しゃがみ込んで彼の頬に顔をよせ、軽くキスをしたのだ。余りの急な彼女の行動に、レノンは頭の理解が追いつけず、なにが起こったか判らず、きょとんとするばかりだった。

 梢は彼女がいきなりとった大胆な行動に面食らいながら慌てて、彼女にバスタオルと着替えを渡して、

「お姉ちゃん! 男はオオカミなんだから油断してはダメだよ! 兄貴は人畜無害そうに見えるけど、エロエロ大成人なんだから! だって、ベッドの下に…」と梢が言い切らないうちに、レノンは、

「うわああ! 黙れ! 下郎が!」と顔を真っ赤にして大声を上げた。ベッドの下には里奈に見られたく無い物が隠してある。彼女に秘密がバレたら、きっと二度と口も聞いて貰えない、と彼は考えていた。だが、彼女は既にそんな事は百も承知だったみたいで、

「レノン君! 大丈夫だよ! 男の子ならそんな本を持っていても当たり前だって思って居るから!」とさらっと言ってのけた。だが、ある意味純情なレノンはいきなり秘密を突かれたことに動揺し、顔が真っ赤になった。しかもよせば良いのに、それを必死に否定するという愚行を犯してしまったのだ。

「いや、そんな物、僕は持っていないぞ! だって僕は女の子に興味なんて無いし! ましてやエッチなことなんて汚らわしいし! それに、まだ高校生の僕には早すぎるし、それに勉強の事しか頭にないガリ勉だし!」端から見れば、この焦り様から図星を突かれたとバレバレなのだが。彼女はさらに追い打ちをかけるように、

「大丈夫だよ! レノン君! 男の子なんだから、エッチに興味無いわけないって判るもん。それにエッチじゃなかったら里奈は寂しいし!」などとのたまう物だから、彼の思考回路は羞恥心の処理でオーバーフロー寸前であった。さらに酷いことに彼女は、裸のままかれの首にうでを回し彼を抱きしめるものだから、背中に感じる彼女の胸と素肌の柔らかい感触でレノンの身体は遂にオーバーヒートし、その場で意識を失った。


 レノンが目を覚ますと里奈に膝枕をされてうちわで扇がれていた。

「ゴメンネ、レノン君。君には未だ刺激強すぎたよね」彼女が優しげに微笑んだ。自宅までの恐怖に震えた彼女の不安定な精神状態は何処かに消えさり、今はとても安定しているように見受けられる。

「里奈さん! もう僕をからかうのは止めてよ! もう、僕がどうにかなっちゃいそうじゃ無いか!」彼は恥ずかしさを誤魔化そうと彼女に先ほどの件を抗議した。きっと僕にブラフ《はったり》をかけたに違いない。だからあんなことを口走ったのだ。と、彼は考えていた。だが、彼女の答えは意外なものだった。

「別にからかったわけではないの。私の本当の気持ち。でも、今の《・・》レノン君だったら、からかわれたと思っても仕方無いわね。だって、まだ付き合い始めて…、知り合ってから二日しか経ってないんだもん。でも、そのうちきっと私の気持ちを判ってくれるわ」彼女はかれの髪の毛をさわさわと撫でながら、まるで赤子をあやす母親の様に微笑んだ。

「君は僕の気持ちに気が付いているってこと?」彼は少し不安げに尋ねた。表には出していないが、彼女のことをただの女性では無く、一人の女の子として好きになり始めていたからだ。だが、その想いがただ単に綺麗な女の子に好きと言われて舞い上がっているだけなのか、本気で愛おしいと思う感情なのかは未だ良く判らなかった。彼女に万が一なにか有った場合、僕は命を投げ出して彼女を救うほど彼女を愛しているのだろうか? 人生の十六年間のうち、たった二日だけしか一緒に居ない人にそんな感情が芽生えることがあるのだろうか? 今の彼には彼女のことは容姿と好意を持たれていること以外に彼女を気にかける要素がないのに、愛しているなんていうのは偽物の愛でしかないのでは? と言う疑問が頭から離れずにいた。

「貴方は私のことを愛している。ずっと前から。そしてこれからも。だから私は貴方を未来永劫信頼するの」彼女はレノンの頭に手を回して、彼の額にそっと口づけをした。まるで赤子を愛おしむように。

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妄想と夢の狭間で 諸田 狐 @foxmoloda

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