6

 さっきまで、里奈が寝転んでいた温もりと匂いが付いたベッドに横たわり、レノンは考え込んでいた。

 あのアニメを真面目に観たことなんてないから今まで全く気にならなかったけど、題名だけ聞くと僕たち家族の設定そのまんまじゃないか? そんな偶然あるか? そして気になるの僕の母のことだ。この間まで会話をした記憶もある。突然いなくなったことにされるなんて不自然だ。だが、仏壇の遺影など物理的な証拠は全てそれを否定している。いくら里奈でも、そんな事をねつ造できるわけは無い。レノンは本棚にあるアルバムを取り出した。この時代にアルバムなんて物理的に写真をプリントして貼り付けた代物を丁寧に作成している家庭がどれだけ有るのか不明だが、彼の母親は昭和生まれで、テクノロジーに疎い人間だからかもしれないが、小学生のようにこういう切り貼りしたり、吹き出しをいれたりするのが好きだったのかもしれない。彼はアルバムの中でも比較的最近のものをえらんだ。その方が現実に存在して居たという確実性を得られると感じたからだ。だが、その期待も見事に裏切られた。中学の卒業式の写真をみると、保護者と一緒に撮影された集合写真には父しか写っていなかった。そして不自然に思ったのは、母親が写っている写真どころか、うちのカメラやスマートフォンで撮ったスナップ写真は一枚も無かった。つまり、うちの家族は誰も写真を撮っていない。元来父親はそういうことには無頓着だから、写真を撮っていない事もありうるが、母親ならまずそんな事は無く、どんな些細なイベントでも写真を撮りたがる人だ。それに、アルバムに一枚も貼らない訳がない。かわいい付箋にコメントを入れて、ペタペタといっぱい貼りまくるような人なのだ。レノンはページをパラパラとめくった。彼の中学入学式はちゃんと母親と父親揃って出席している。それが卒業式だけ母親不在はおかしい。らいなの高校卒業式と大学入学式、梢の小学校卒業式と中学入学式も同様だ。父親だけで母親の姿が無い。小一時間前に梢と話したとき母の事を聞いたが、良く覚えていないと言う。小学校五年で? と思ったが、梢が小学三年の終わりから入退院を繰り返していたということだから、おぼろげな記憶しか無いとしても仕方ないかも知れない。だいいち僕は何でそんな事を知って居るんだろうか? 自分の(本物と思っている)記憶ではそんな出来事は無かったはずだ。それなのに、母親が乳がんで入院していた医大病院の場所さえ記憶がある。本来ならあり得ないはずだ。そんな事を延々と考えている所為か既に時計の短針が文字盤の〝1〟を指し示しているというのにレノンは寝付けなかった。突然起きた記憶の齟齬ということもあるが、なによりケンカしながらも愛していた母が突然居なくなったことと代わりに現れた美少女(と彼の新しい母親である彼女の母)との出会いについて、偶然にしても不思議に一致するアニメーション番組の題名。

 彼は飛び起きて一階の居間に降りていった。例のアニメーションを見るためだ。夜中の一時だ、当然ながら居間には誰も居ない。いつもなら父と母が酒を飲んでくつろぎながら、深夜番組を見ている頃なのだが。父親は別の母親と新婚旅行中、(実の)母親はこの世に居ない。本来ならテレビ台の脇に(再婚では無く初婚の)二十年前の新婚当初の二人と、もう一つ彼が生まれた際に行ったお宮参りの写真があるはずだがそれすら無い。やはり新しい妻が居るのに昔の妻の写真は飾れないのは判るが、唯一の現在の自分との接点すら絶たれた様で悲しかった。

 彼はテレビを点けるため、リモコンを探した。が、いつもの場所テレビ台の脇に置いてない。彼女の(本来の)母親は几帳面な人間で、部屋が散らかっているのを許さない人だった。どちらかというとだらしがない父親はリモコンに限らず鞄でも携帯電話でもなんでも、いつもテーブルに無造作に置きっぱなしなのだが、母はいつもそれを就寝前に綺麗に片付けるのだ。また予め決められているかのように物を何時も同じ場所に置くと癖(というか、ポリシーなのだろうが)を持っている。そういう母親の元で育ったのだから、父はともかく子供たちも自然にそのように育つ。父親はIQ百四十級という天才的頭脳の持ち主である一方、仕事である研究開発以外の事に関してはからきしダメな人だが、子供たちは運が良いのか、頭脳面はともかく、そういう無頓着な性格は遺伝も影響も受けなかった。

 だが、今日に限れば部屋の中は、まるで父以外の家族は外出していて、父一人で留守番しているかのように、部屋の中は雑然としていた。ここの世界での母親はもういないのだから仕方ないのかもしれないが、梢は母に躾されなかったのだろうか? そして何時もの場所に置いてあるはずのリモコンも無い。この雑然とした部屋のどこかに埋もれているのは間違い無いはずなのだが。彼はテーブル、食卓、ソファの上など、一通りの場所を見回してみたのだが、目につく場所には無かった。

「こう言うときは、あそこだな」

彼は無造作に床に放置してあるマンガ数冊をめくりあげた。

「やっぱりね」お目当てのものを捜し当てるのはさほど時間はかからなかったようだ。

 実は梢には本にしおり代わりに、その辺にあるものを適当に挟んでおく癖があるのだ。レノンはやれやれとため息をつきながら、漫画本の一部に挟んであったリモコンをひょいと取り上げ、テレビの電源をばつんと投入した。

 夜中一時過ぎともなると、ろくな番組がない。マイナーな雛壇芸人の番組や、マニアックな車の番組、果てはパペットがしゃべっているだけの番組。だが、もともとそんな番組を見るためにテレビをつけた訳ではない。録画リストボタンを押して目当ての番組を探す。普通であれば妹が録画した大量の番組の中から目当ての作品を探すのは厄介な事なのだが、それでもその特異な題名はリストの中では異彩を放っていた為、見つけだすのはそう大した事でもなかった。その作品『俺の父親が再婚して、継母の娘がいきなり俺の許嫁になって同居することになったんだけど、どうしたら良い?』は既に三話まで放映されていた。今から全部見ると明け方近くまでなってしまうが、とりあえず眠くなるまでは頑張ってみよう、と彼は再生ボタンを押した。

 第一話はまず朝食のシーンから始まる。可愛らしい、いかにも萌え系の少女が朝食を用意していいて、テーブルにオムレツとサラダを置いた後、ふと天井を見上げ「お兄ちゃんまだ起きないのかな?」とつぶやく。シーンは一転して誰かの寝室。ベッド、本棚、机、机の上にはノートパソコン、本棚にはラノベらしい背表紙の小説がびっしり。それに美少女フィギュアが十数体。

 この手のアニメに良くあるアニメ、ゲームオタクというキャラクター設定のようだ。そして、痩せ形で髪の毛は長めの男性がブラケットもかけずに熟睡している。いや、たぶん最初はかけていたが、寝相が悪くて隅っこに追いやってしまっただけのようだ。時計はすでに朝の八時過ぎ。学校が近所にでも無い限り遅刻は確実だろう。だが、彼が起きる気配は全くない。放っておけばまだまだ惰眠をむさぼるつもりだろう。そこで突然大きな音を立てて扉が開く。先ほどの朝食を作っていた美少女だ。彼女は有無をいわさず、部屋に立ち入り窓のカーテンをがばっと開ける。すでに日は高くまで昇りまぶしい日差しがまるで我先に入ろうと争うかのように部屋にふりそそいだ。あまりにも眩しすぎたのか、少年は足下で猫のように丸まっているブラケットを、獲物をとらえるレパードのごとく掴んで引き寄せ、それに身体ごとくるまった。その様はまるで日を浴びて灰になってはいけないと、あわててケープでくるまるドラキュラのようだった。

 そんな兄の事を思いやるなんて気持ちはいっさい持ち合わせていない外道の様に、

「お兄ちゃん! 早く起きろ! 遅効するぞ!」と、彼女は絶叫し、強引に彼のブラケットをはぎ取った。彼は本当に吸血鬼のようにギャーッと叫んでベッドを飛び起きる。

「なんだ、ナナミか! 驚かすなよ!」と彼はぼさぼさの髪をかきあげ言った。

 次のカットは朝食のシーン。彼等以外家族はいない。

「父さんは?」と彼が妹に尋ねると、彼女は「なに寝ぼけてるの? 今日から新婚旅行でしょ?」と答える。彼は思い出したかのように「ああ。そうだっけ?」とつぶやいた。ここで彼は『そういえば、父さん再婚したんだっけ。しかし、母さん死んでからまだ三年しか経ってないのに。いくら寂しいって言っても、立ち直り早すぎるだろう』と心の声でささやいた。

「でも父さんもせっかちだよなあ。マリエさんといくら早く一緒になりたいからって結婚式は後回しで一緒に住むことにしちゃうんだもん」と彼が言うと、

「そうよね。だって先に引っ越しの荷物だけ送ってきて、その足で成田に行っちゃうくらいだし」と少女が答える。

「全く、成田離婚でもしちゃったらどうするんだろう?」

「でも、マリエさんの住んでいるマンションが契約が今月いっぱいだから焦ったんじゃない? 退去が先延ばしになると、それももったいないし」

「そうだよなぁ」

「お兄ちゃん! もう時間時間!」

「おっと、いっけね! もう行かないと」と彼は彼女の作ったオムレツだけ一気にかき込んで、鞄を持った。

「お兄ちゃん、トースト焼けてるよ!」とオーブントースターから焼きたてのトーストを出した。彼はそれをさっと鷲掴みにしてバターをざくっと塗りたくり口にくわえて自宅を出て行った

 ここまではよくある展開だと、レノンは感じた。だが母親が他界、父親が再婚というのは、現在の自身の境遇に似ている。もちろん自分の記憶にある本来の境遇ではなく(自分が正気であれば)、改変されたほうだ。しかし、ここまでの展開はよくある設定だ。似ていると言ってもたんなる偶然で片付けられるだろう。この番組で昨日のことが予言されているいうならと、昨日レノンは食パンを鷲掴みにして家を出ていなければいけないはずだが実際はそんなことはしていない。朝ご飯の用意だって別に妹はしてくれているわけではない。すくなくとも今日の朝はまったくそのような記憶は無く、いつものように起きて母親が用意した朝食をとったはずだ。いや、待てよ? 母さんは本当に今朝居たのだろうか? 記憶がない。テーブルに出ていたオムレツとトーストを食べただけだ。そこに母の姿はなかった。つまり朝食は母じゃなく妹が作ったのかもしれない。そういえば梢はあのときキッチンで見かけた気もする。良くは見ていなかったがエプロンのようなものをつけていたのかもしれない。どう考えてもパジャマでも制服でもない色合いのものを身につけていたのは何となく覚えている。そうだとするとそのときにはもうすでに自分の知っている世界では無くなっていたのかもしれない。もっとも僕の脳細胞、シナプスが異常をきたしていて、間違った記憶を前提にして勘違いしているだけかもしれない。三年前の母親の死を受け入れられず、妄想や幻影をずっと見ていたとか、精神世界に囚われていたと言う可能性もある。だがそれもおかしい。梢の言動や態度からそれは判る。自分を頭がおかしい人扱いしている素振りはないし、メンタルクリニックに通っているような形跡もない。通院しているなら、必ずなんらかの投薬があるはずだ。それともおかしくなったのは今朝からなのか? わからないが、この番組の続きをみれば幾分の疑問が解決するような気がした。僕はこの番組を見続ける必要がある。

 番組はCMをはさんで後半パートが始まった。主人公が住宅地の路地をトーストを咥えながら、遅刻遅刻とつぶやきながら小走りしているシーン。ネタになるほどのお約束シーンだ。次はカットが変わり、制服姿の女子高生が電車を降りるシーン。まだ腰から下しか見えず、容姿は不明だ。無駄にスカートがひらりとめくりあがり、ちらっとパンツらしき下着のようなものが見える。これもこの手のお色気系アニメにお約束シーンなのだろうが、意味あるのかはなはだ疑問。シーンが変わり駅の看板が映る。緑色の看板だからJR東日本の駅だ。大きくパンすると高校生がたくさん駅から出てくる。一瞬、本城駅の南口から降りてくる学生たちを見ているような既視感が襲う。当然ではあるが駅のモデルは本城みたいな辺鄙な駅ではなく東京の立川とか中央線の駅がモデルの様だ。モブの高校生は男子は顔のパーツすらマトモに描かれず、適当なものだが、女子は丁寧に描き込まれ、余程遠景の人物でない限りきちんとかわいく描いてある。監督の趣味なのか、視聴層を狙ったものなのか判らないが、こういう露骨に視聴者にこびた演出は苦手だ。次に一人の女子生徒にフォーカスされる。先ほどの上半身は描かれていなかったキャラクターで、おそらくメインヒロインだと思われる。小柄でほっそりとした黒髪ぱっつんのロングヘアーで、モブの生徒に比べ圧倒的に可愛らしく丁寧に描かれているので、メインヒロインらしく美少女設定と思われる。もっともこの手のアニメヒロインはたいてい可愛らしく描いてあるから、正直誰を見ても代わり映えしないきらいはあるのだが。そういえば、この容姿どことなく里奈を思わせる雰囲気がある。まさか彼女はアニメから出てきたヒロインなのだろうか? 馬鹿らしい、そんなのさすがにありない。レノンはなんでそんな突拍子もない事を思いついたのだろうか? と、自問した。彼は子供の頃見た、—おそらくディズニー映画だとは思うが—、白雪姫のようなお姫様が物語の世界から出てきて、現実の男性と恋をするストーリーの映画を家族で見に行ったことを思い出した。あれは映画の話だ。そんな事が現実に起こるなんてあり得ない。彼のそんな思惑を余所に物語は暫時進行していく。テレビ画面は既に主人公たちの学校の通学シーン。大勢の高校生が男女問わずある方向、学校が有る方向に向かって歩いている。例の彼女は他の学生らと同じ方向に歩いているが友達がいないのかひとりぼっちだ。彼女だけ制服が他の子と異なっていて、ほかの女子生徒はチェックのスカートに白いブラウスと赤いリボンという制服であるのに対して、彼女だけは里奈と同じようにセーラー服だった。この彼女もきっと転校生という設定に違いない。ひとりぼっちでいるのは知り合いがまだ居ないから、という設定なのだろう。レノンはこのアニメが現実の身の回りの人々と、あまりにも類似点が多いため、まるでデジャブ見ている様だ、と感じた。彼女は設定上、思わず人の目を引いてしまうほどの美少女という設定らしく、男子高校生のみならず、大学生、先生と男は皆一様に彼女に見とれて、あるものは鞄を落とす、あるものは電柱にぶつかる、あるものは散歩中の大型犬の足を踏みつけ噛みつかれるなどなど。

 シーンは代わり、例の主人公の男の子が口にパンを咥えながら走ってくる。ここまでくるともう先が見える。どうせ、こいつと女の子が出会い頭でぶつかるのだ。お約束だとしても、もう飽き飽きする展開だ。さらにぶつかった後で女の子とくんずほぐれつになったり、胸に顔を埋めてたり、ひどいのになると女の子の恥ずかしい部分に顔を埋めてたりするんだろう? くだらない。と、レノンはそんなお決まりのパターンを想定して辟易としていた。だが、この作品と現実が奇妙に同期シンクしているのではないか、という疑念を払拭しなければ、安心して眠ることも出来ないだろう。そう考えていた彼は、最後まで見届けるため下らない、と思いながらも我慢して観ていたのだが、見進めるうちに、単に設定が似ているだけで、現実の僕と里奈とは全く似ても似つかない話だと徐々に感じてきた。そう思い始めると、真剣に見ている自分の事が段々馬鹿らしくなってきた。そもそも設定が多少似ていても、それ程非現実的な事でもない。連れ子同士が兄妹になるなんて別に珍しい話でも無いのだ。そこからラノベ的展開でお互い愛し合うなんて話も無くは無いだろう。だって、血縁関係では無いわけだから。それこそ、忌むべき物だが兄妹同士の近親相姦はわりとあると聞くし、それが血縁関係じゃ無いなら、男と女、そういうことに発展するのは不思議では無いのだ。そう考えると、こんな下らない話を、これ以上見てても意味は無いし、時間も無駄だ。心のわだかまりも消えたし、もう寝ようと思っている矢先だった。少し意外な展開になったのだ。先ほどの美少女が期待に満ちた様子でひとり歩いていた。一方、主人公はパンを食べながら急ぎ足に進んでいる。少女が歩いている道の左手と主人公が走っている歩道の右手の塀は同じものだ。そして、塀で遮られて見通しが悪いその角にさしかかったとき、少年の右手より黒い影が飛び出してきた。その結果、彼らは出会い頭に衝突してしまい、お互いにその場にひっくり返ってしまった。最初のカットは主人公の少年だ。その場に先ほどまで食べていた食パンの切れ端、そして彼の鞄が落ちている。少年の上には少女と思わしき人物が覆い被さるように抱きついている。ここで、大抵の視聴者は次のシーンで少女が少年の上に乗っている所を想像するだろう。そして主人公が少女の身体の一部に手をかけていたり、あるいはお互い逆向きで重なって、少年の目の前には少女の露わになった下半身があったりするような展開を期待してしまうかも知れない。だが、実際の展開はもっと意表を突くものだった。確かに彼等は交差点の角で、出会い頭でぶつかったのだが、期待に反してその相手は少女では無く、金髪の流麗な美少年だったのだ。しかも、男性視聴者的には大して嬉しくもない展開で、その金髪少年が主人公の身体に覆い被さり、まるで少女漫画的な、美少年同士が今にもキスをしてしまうようなカットだった。なぜか、画面の隅には狙ったかのようなバラの花。

「アキト、大丈夫? 怪我は無いかい?」その男子は主人公『アキト』の顎に右手を軽く添え、甘い声でささやいた。

「うわ、ジョン! 気持ち悪っ!」彼はその手を払いのけた。

「ははっは! ゴメン、ゴメン! ただの冗談さ」金髪男子、ジョンは嫌みなくらいに爽やかな笑いだ。これまでの作品であれば、此処で衝突する相手はヒロインと相場が決まっている筈なのだと思うが、視聴者の裏をかく事を意図しているのだろうか、このようなギャグとも取れる展開にされていた。妹が好きな作家が原作と言う話だが、原作も同じなのだろうか。ついでに腐女子も取り込もうとしているような演出もあざとい。昨今、腐女子受けを狙った作品は飛び抜けて売り上げが伸びるという傾向があると言う話を聞くから、そういう要素も売り上げのためには必要なのだろうが、原作者やファンはどういう思いだろう? だが、話や演出の批評はどうでもいい。一番気になるのは、このジョンと言う金髪少年だ。名前から察するに外国人という設定だと思うが、だとするとまた僕の身の回りと酷似している設定だ。偶然の一致にしては何か出来過ぎている。主人公の友人的立場の人物が、金髪のイケメンなんていうキャラクター設定なんてありふれていすぎて別に珍しくも無いかもしれないが、レノンは背筋がぞわぞわするような気分に襲われた。

 そして、その疑念は、次のシーンでますます強まった。テレビの中の男子二人が埃を払いながら立ち上がると、そこには例の美少女が立っている。

「アキト君! 貴方に会いたかった!」少女は声を上げて主人公に抱きつく。そこで第一話は終了のようだ。番組はエンディングテーマとなった。レノンは薄ら寒さを覚え、一旦スイッチを切った。なんなんだ? この展開は? そっくりそのままじゃないか! これはただの偶然と言うには不自然すぎる。コーヒーでも飲んで心を落ち着けよう。レノンは冷蔵庫を開けて、アイスコーヒーのペットボトルを取ろうとしたが、何時もの場所に置いてあるはずのペットボトルが無くなっていた。代わりに置いてあるのは妹のコーヒー牛乳の紙パック。母さん、冷やすの忘れているな、と思ったが直ぐにこの世界での彼女は何年も前に他界していることを思い出した。アイスコーヒーの主な消費者は(他界していることになっている)母で、レノンも妹も偶にお裾分け程度に戴くくらいで、ほぼ飲むことは無い。特に妹は母が買ってくる無糖タイプのは苦いと言ってガムシロップ無しで手をつける事も無い。レノンもブラックを飲むほど大人の訳では無いので同じなのだが、試験勉強などで深夜まで起きている時は頭をシャキッとさせる為に黙って戴く(夜中に飲むためにいちいち寝ている母を起こすなんて出来ないし、そもそも母から飲むなとも言われてない)こともある。母が居ない世界ということはアイスコーヒー自体も買い置きしていない事になる。レノンはストックルームの扉を開けて、暗めの照明をたよりにアイスコーヒーを探したが、想定通りいつもの場所にそれは無かった。それどころかストックルーム自身も、以前まではぎっしり飲食料や日用品の買い置きがあった筈なのに、米、味噌、水など以外は殆ど何も無かった。唯一豊富に有るのはインスタントラーメンやレトルトカレーなどの調理の手間が要らない物と箱買いしてある缶ビールの箱。長年、男やもめで子育てをしていた所為か、料理など出来るわけ無い父にとっては、この程度の備蓄で充分だったのかも知れない。良く僕等兄妹はこんな酷い食生活でここまで成長出来た物だと、レノンは自ら感心した。結局ストックルームには水とビールくらいしか飲料はなく、コーヒーの類いは、インスタントすら無いことが判ったので、諦めて一リットルの紙パック半分程度しか残っていない牛乳で我慢した。あとマグカップ一杯分しか残っていない。妹が牛乳を飲みたがるだろうから、明日朝食の牛乳は諦めなければいけない。そうだ、里奈も牛乳を飲むかも知れない。だとすると、自分が飲んでしまったのは失敗だった。仕方ない、どちらかにはコーヒー牛乳で我慢して貰うしかない。

 レノンは、空になったマグカップを流しに置き、気を入れ直してもう一度さっきの続きを見る為にとしたのだが、先の展開がもし昨日の僕等の一日と同じだったら…、と考えると気分が悪くなりどうしても再生ボタンを押せなかった。そして、彼は下世話な深夜番組を見ながら、自分のくだらない考えを必死に頭から追い出そうと必死に他のことを考えようと苦悶していたが、結局そのままその場で寝入ってしまった。


 気が付くともう周りはとうに明るくなっていて、既に部屋の中は日差しに照らされ、夏の埼玉県北にふさわしく、早朝から蒸し風呂のように暑くなっていた。点けっぱなしだった筈のテレビはいつの間にか消えていて、そもそも点けていた事すらな記憶も消えていた。どこからか、涼しい風が吹いてくる。エアコンが切れていて暑くなっている筈なのにどこから吹いてくるのだろう? だが彼の認識とは実際は異なっていて、エアコンは弱設定ながらも一晩中運転されていた。彼が蒸し暑いと思っていたのには別の理由があった。

「ねえ、だーりん…」可愛い少女のアンニュイなささやきが耳元から発せられる。寝ぼけ眼で声のする方を見やるとほぼ裸同然の美少女が彼の体に絡みつくように抱きついている。暑いと感じていたのは彼女の体温と吐息の所為だ。先ほどの番組ならここで主人公はうわっと叫んで彼女から離れるのだろうが、現実の人間である彼は少々異なった。彼女を起こさない様に蔦のように絡みついている手、足をそっと解きながら、身体を離した。いつの間にかリビングで熟睡してしまった彼は、様子を見に来た里奈に発見され、彼女は寝ている彼を起こすこともなく、一緒に添い寝を始めたのだ。そしてレノンは自分が一糸まとわない姿になっていることに驚愕した。もしや、まさか一線を越えるような事をしでかしてしまったのだろうか? 彼は慌てて体中のあらゆる部分を点検したが、多少の汗や皮脂はともかく特にどこも汚れている部分はなかったし、ソファの周りやゴミ箱にティッシュやゴム製品(そんなものは父親以外常備しているはずは無いが)の残骸も無い。とりあえず一安心だ。彼はここで何故こんなことになったのかを思い出そうと今ひとたび彼女を見やった。里奈の寝顔はとても可愛くて、思わずキスしたくなるのだが、その一方でほぼ全裸同然の今の状態はとても目のやり場に困る。彼の体の一部も早朝と言うことで思春期男子特有の生理現象を発動してしまっている。此処を妹に見られたりしたら、とてもマズイ。未だ中学生でうぶな彼女がこんな所を見たら、一生軽蔑されて口も聞いてくれなくなることは確実だ。取りあえず、彼女の身体を隠さないと、と彼は彼女の身体を隠す物を探した。よく見れば、ソファの下に夏掛けが落ちている。ソファで寝入っている彼の為に持ってきてくれたのだ。結局添い寝しているうちに落ちてしまったのだが、こんなことで役に立つとは…。とにかく助かった。落ちている上掛けを拾い、そっと彼女にかけようと近づき彼女の寝顔をつい覗いてしまう。相変わらず、凄く可愛いな。肌はつるんとたまごみたいで、顎はタマゴの尖っている部分のように丸いながらもほっそりとしている。唇はぷくっと膨らんでいてまるで赤ん坊みたいだ。妹がまだ幼児だった頃を思い出した。彼女もこんな唇をしていたっけ。今は大きくなって彼女をまじまじと近くで見ることも無いから、判らないけれど未だこんな可愛い唇なのだろうか? レノンは彼女の顔をうっとりと見つめている自分の鼓動が高鳴るのを感じていた。昨日初めて会ったのに好きになってしまいそうだ。本当にこのまま一緒に暮らしてずっと仲良く暮らしたい。彼は彼女に恋をし始めていた。彼は理性に反して思わず彼女に顔を近づけ、次第に唇を彼女の口元に寄せていった。それからは時間が永遠に止まってしまうのでは無いかと言うくらいに引き延ばされているような感覚に陥った。後からあのとき実際に時間が延ばされているのでは無いかと考えることもあったが、このときにはそんな事なんて露にも思わなかった。かれの唇がようやく彼女の寝息を感じ取れるほどまで近づいたとき、異変が起きた。唐突もなく彼女がその大きな眼をかっと見開いのだ。目覚めで目を開いたというのとは様子が違った。あまりにも突然で、あまりにも大きかった。そして、いきなり大きな目で睨み付けられたレノンは驚き、そして自分の迂闊な行動で彼女に嫌われてしまった、もう二度と口も聞いてくれないだろうという絶望感に襲われた。しかもこれから、少なくとも高校を卒業するまで一つ屋根の下で過ごさなければいけないのだ。彼女にまず第一声で酷く罵られるだろうと彼は意気消沈した。でも言われても仕方ないのだ。いくら好かれてていようとも、出会って一日も経ってない女子が寝入っている隙にキスをしようなんて、いくらなんでも卑怯で軽蔑されるべき行動だ。彼は目を瞑って彼女の第一声を待っていた。

「レノン君!」彼女の第一声は、まるで地獄でお覗いてきたかのような恐怖に満ちた叫び声だった。 

「私、怖い! 怖いの! 私を助けて! 私を守って!」彼女は彼に思い切り抱きついてわんわんと泣き始めた。


「いったい、どうしたの? ああっ〜! 二人とも何やっているのよ!」リビングでの騒ぎに気が付いて、降りてきた梢が裸で抱き合っている彼等をみて、驚きの声を上げている。未だに何が起きているか理解が出来ていないらしく、ただ、ただ驚いてるのみだった。

「いや、勘違いだ。僕は何もしてない!」彼は妹が変に勘違いをしないように、必死に否定をしたが、物語でも現実でも大抵はこの手の言いわけは無用な誤解を引き起こす。

「はあ? 何言ってんのよ! 素っ裸で!」確かに此では説得力ゼロだ。彼女は何が起きているのか誤って理解したらしく、徐々に軽蔑な眼になってくる。どうも彼の懸念していた状況になりつつあるみたいだ。彼女は未だに泣きじゃくる里奈に駆け寄り、「おねいちゃん、大丈夫? 変なことされてない?」と彼女にさっきの夏掛けをかけた。彼女は何故か泣きじゃくるばかりで状況を説明してくれない。このままではレノンが悪者にされるばかりか、妹から絶縁状を叩きつけられ、家を追い出されるような状況になるかも知れない。

「おにいちゃん! 最低! 視界にいるだけでも汚れるわ! 早く出て行って!」梢は彼をキッと睨み付けた。彼は誤解を解こうと口開けるが、彼女はその機会すら与えてくれなかった。

「早く行かないと殺すわよ!」彼女はソファの上のリモコンをレノンに投げつけてきた。この目は本気だ。そして、次には漫画本、マグカップと飛んでくる。マグカップが窓ガラス当たり、床に落ちて割れた。幸いなことに防犯ガラスである窓ガラスはなんとも無い。彼女は、いよいよ投げるものが無くなり、今度はキッチンに向かった。包丁でも投げられたら、怪我じゃ済まなくなる。レノンは彼女が異動している隙を狙って、里奈に近づいた。彼女に何としても僕のみの潔白を証明して貰わなければいけない。

「おにいちゃん!」案の定、彼女はキッチンの扉から包丁を数本取り出して持っている。

「まて、包丁は投げるな! 里奈に当たるぞ!」まるで人質を取っているみたいだ。そういうつもりで里奈の所に行ったわけでも無いが、結果的にそう見えてしまっても仕方ない。

「おにいちゃん! 卑怯よ!」彼女は包丁を構えながら震えた声で言った。興奮して正常な判断が出来ない状態だ。

「はやく、おねいちゃんから離れて!」離れたら僕に包丁を投げるつもりだろうが。誤解が解けるまで離れるわけにいかない。

「いいか、よく聞け! 僕は彼女に何もしてない! 一線も越えていない! 身体検査すれば判るはずだ〜!」

「イヤよ! 汚らわしい!」彼女は未だ身構えている。少しでも離れたら、包丁を投げる筈。

「わかった」彼は里奈に見やり、彼女の顎に手をかけて自分のほうに顔に向けさせた。

「里奈、いや里奈さん。泣いてばかりいないでこの誤解を解いてよ。お願いだ、このままだと妹に殺される。そうなったら君を守ることも助けることも出来ない! お願いだ!」

「う、う、う、うん」ようやく彼女は話し始めようと、涙を拭った。そして、彼等の見まもるなか、ぽつぽつと話し始めた。

「昨日の、いいえ、もう今日ね。0時をだいぶ回っていたから。凄く寂しくてダーリンの部屋に行ったんだけど、居ないから心配になってリビングに行ったら、テレビが点けっぱなしなっていて、ダーリンはソファで寝ちゃってたの。起こすのも可哀想だなって思って、夏掛け持ってきた時に、ちょうど点けっぱなしになっていたテレビで昔の映画が流れていて、凄く怖いシーンがあったの。直ぐ消したんだけど、それでも怖くて怖くて。だから離れたくないってなって。一緒に居て欲しいなって。それでレノン君にくっついて寝ちゃったの」彼女は話し終わると、またしくしくと泣き始めた。

「なんで裸だったの?」

「それは…。私…」

「やっぱり、お兄ちゃんに脱がされたの? 女子が怖い映画見て弱気になっているところを狙うなんてホントにもう最低ね!」

「いやいや、ちがうって! 僕はなにも気が付かなかった。起きたら彼女が隣にいただけだよ!」

「そして、服を脱がせたと…」

「いや、だから…」

「服は自分で脱いだの」里奈は涙をまた拭った。

「え? じゃおねいちゃん最初からお兄ちゃんとエッチなことするつもりだったの?」梢は驚いていた。

「う〜ん、気分的にはそういうのもあるかも知れないけど、違うの。私、普段から家では殆ど裸なの」

「え〜! まさかの裸族なの?」レノンと梢は思わずそろえて声を上げた。

「うーん。そうかな。それにここって凄く暑いから。それに私凄く暑がりなの。だけどエアコン冷やしすぎてレノン君風邪引かせたら悪いし」彼女はようやく止まった涙を拭った。

「でも裸で抱き合ってたら、誤解しちゃうわよ」

「ごめんね。あの映画が凄く怖くて…。夢の中でも凄く息苦しくて、レノン君を見てつい抱きついちゃったの」

「そういうことなら…。でもお兄ちゃんは何で裸だったのよ! おねいちゃんは兎も角、 お兄ちゃんが素っ裸でいる理由にはならないけど!」

「これは…」自分でもTシャツと短パンだったのに何故裸だったのか、説明が付かない。だが、だんじておかしな事はしていない。と思う。

「レノン君は朝風呂に入っていたのよ」ようやく泣き止んだ里奈は毅然と梢に言った。

「朝風呂?」梢は怪訝な表情で言った。何下手な嘘言ってるのと言いたげだった。これが里奈ではなく、レノンであれば、開口一番嘘つき呼ばわりしていた筈だ。

「ホントなの? おにいちゃん?」

「僕からは、なんとも…」

「証拠見せてよ!」

証拠と言われても特に見せられ物はない。第一僕には風呂に入った記憶が無い。フォローしてくれたのは良いが直ぐバレるような嘘をつかれても参る。とレノンは思ったが、悪気は無いのだからと諦め、なんとか妹に巧く説明出来ないかと考えた。

「証拠ならあるわ!」また里奈が声を上げた。たのむからもう余計なことは言わないで欲しいのだが。

「どんな証拠?」梢も後に引かない。もうどうでも良いだろ、許嫁なんだぞ! 俺たち! と、レノンは許嫁と言うのを盾にして幕引きをしたい気分だった。もう、彼女と一生添い遂げるんだから、多少の間違いくらい勘弁してよ! べつに妊娠とかさせたわけでは無いんだから! ましてやエッチなことも、キスもしてないのに! 何でここまで揉めなきゃならないのだ? しかも梢はただの妹で本来なら祝福するしてくれる立場の筈なのに、なんで旦那の浮気現場で嫉妬の嵐で怒りまくる本妻の立場になっているんだ? 訳わからん! 

「簡単な事よ。お風呂場に行けば直ぐ判明するわ」里奈は自信満々に言った。また、なんてはったりをかけるんだ!

「確かにそうよね。でも下着とか置いてあっても、裸になるとき予め脱いできたってこともあるじゃん?」ほら、直ぐバレる。それにそこに脱いだという記憶なんてそもそも無い。

「それに朝風呂であれば、まだそんなに時間経ってないわ。シャワーでもお風呂でもハッキリと形跡ある筈でしょう?」また、途轍もないハッタリを。シャワーを浴びた形跡が残っているほど前に誰が入ったと言うんだ。たとえ僕の代わりに彼女が入ったとしても、それなりに時間が経っている。深夜の映画が怖くて泣きじゃくってった女の子がそのあと平然と風呂に行ったり、隠蔽工作出来るわけが無い。だから少なくとも、深夜映画の終わる時間より、後に彼女が風呂に入ったり隠蔽工作するのは無理だ。深夜映画は遅くとも午前四時前に終わるはず。すでに四時と言うのは深夜ではないし、早起きする人の為のモーニングショーが始まる時間だ。だから遅くとも四時以前。今は六時過ぎだから二時間は経過している。いくら夏でも二時間経過すれば浴室が冷えるには充分だ。僕が朝風呂はいったと主張するなら。少なくとも一時間前には入ってなければいけない。そうで無ければ一時間以上も、いや一時間でも素っ裸なのはおかしいからだ。逆にお風呂から上がったら里奈がリビングのソファで寝ていたから襲ったという余計な解釈を与える隙を与えることになる。いずれにしろ僕はこの一時間以内にシャワーすら浴びていないのだから、形跡など一切存在することなんてあり得ないから、梢がハッタリに屈して諦めてくれない限りはお終いだろう。僕は今後のなりふりを考えなければならないかも知れない。それこそフレッドに頼んで居候させて貰うしか無いだろうか? あれだけ広い所に住んでいるし、僕と彼は大親友だ(そう思っているのは僕だけかも知れないが)、当分は大丈夫だろう。ただし、彼は良くともお母さんがすこしきつめの感じだから、そこがネックだ。あと、不確定要素として彼の腹違いのお姉さん。大分年上とは聞いたがどんな人かも判らない。そんな女性と巧くやっていくなんて自信が無い。だって妹の梢ですら手懐けられないのだから当然だ。レノンが様々な思惑を巡らせている間、梢も熟考の末答えを出した。

「わたったわ」梢が声を上げるとレノンは一抹の期待を込め彼女を見た。だが、次の瞬間にそれは露と消えた。

「浴室でお風呂入った形跡があれば信じる」もうダメだ、レノンが絶望する顔を見て薄ら笑いを浮かべる梢。すでに兄に対する勝利を確信している様に思える。彼女にとっては、兄の淫らな行為による嫌悪感よりも単純に負けたくない一心が勝っていた。

「一緒に行きましょう。さあ、レノン君も」里奈は夏掛けをマントの様に羽織って身体を隠すと絶望的な現実を見せつけられることを拒否する彼の腕を引っ張り、先頭を切って浴室に進んだ。梢は包丁を数本抱えながら付いていこうとしたところを里奈に窘められ、包丁はキッチンに戻した。

「さあ、梢ちゃん。先にどうぞ。私たちが先に行ったら、細工したと思われても嫌だからね」

「そんなこと、思わないです」梢は憮然として言った。彼女が扉を開けると、さきほどまで誰か使っていた気配があった。脱衣所にはレノンの下着と短パン、それにバスタオルがカゴに入れてある。

「ほら、使用済みバスタオルが二つある」里奈が洗濯機を覗き、昨晩つかったバスタオルをツマミだした。籠には別のバスタオルが有り、それはレノンが昨晩使ったものでは無かった。

「それだけでは証拠にならない」梢は認めるつもりは無い。彼女が浴室を開けるとむっと熱気と湿気を感じた。

「まただよ」レノンがよく換気扇を入れ忘れることを知っている、妹らしいつぶやきだった。

「レノン君、換気扇入れない癖治らないね」里奈は彼の手を握った。

「ごめん、直ぐ忘れちゃんだよ」そんなこと彼女に話した覚えないが、父から聞いたのだろうか。一方、梢は浴室のひげそり、ボディタオル、石けん、シャンプーや排水溝までくまなく調べていた。

「私には解らない」梢の顔は疲れていた。どう考えてても、先ほどまで誰かが使用したのは間違いなかった。脱衣所のバスタオル、ボディタオルにシャンプー、排水溝と誰かが入った形跡があるからだ。ボディタオルとシャンプー、それに脱衣所の物はどう考えてもレノンの物。そして、彼女が信じさせるに決定的な証拠は排水溝であった。きれい好きな彼女は毎晩排水溝に詰まった髪の毛などのゴミを掃除する。しかも昨晩は彼女が最後に浴室に入ったのだ。しかも排水溝に詰まった髪の毛はどれも十センチに満たない短髪。入ったのが里奈なら長い髪の毛が一本でもある筈なのだが、存在しなかった。だから男子以外にシャワーを浴びた者は居ないということなのだ。極めつけは入浴後に浴室の換気扇を点けない、レノンの悪い癖。ここまで徹底していたら、信じざるを得ない。逆に疑う理由も無い。それにそもそも一時間くらいこんな騒ぎをしていて疲れたと言うのが彼女の本音だった。

「今回は信用してあげるけど、おにいちゃんは二度とおねいちゃんと添い寝したらダメだからね! しかも裸だったら、マジで刺して私も死ぬから!」梢は脅しとも本気っとも取れない恐ろしいことを言った。


 ようやく妹の誤解を解いた頃は既に朝の六時過ぎ、彼等は二度寝する余裕も無く寝不足でしょぼしょぼした眼をこすりながら、家を出た。

「一体、恐ろしい映画って何だったんだい?」駅まで彼女と一緒に歩きながらレノンは尋ねた。

「何でも無いわ…」そう言いつつも彼女は酷く怯えた顔をしていた。気が強い子だと思っていたのだが、結構臆病なのかな? 気の強さは臆病である事の裏返し。彼はそんな言葉を思い出した。誰の言葉だったろう? ふと頭に浮かんだ言葉なのだが、どんな偉人か思い出せない。父の言葉だろうか? まあ、どうでも良いかもしれない。ともかく、この話題にあまり触れて欲しくないと言うことは明らかだ。

「ところで、うちが田舎過ぎてゴメンね。こんな何にも無いところで」彼の自宅は本城に隣接する深石市の市街地外れにあるのだが、駅まで三キロ弱と遠いことに加え、バス路線からも外れていて、便利とは言いがたい場所であった。普段は駅までは自転車を使っているのだが、生憎昨日の一件で肝心の自転車も駅の駐輪場に置いたままだ。それに引っ越したばかりの里奈も自転車が無い。幸いにも昨日と打ってかわって、どんよりと立ちこめた雲のおかげで日差しは遮られ、いくぶんは過ごしやすい日だったため、まだ良かったが、やはり真夏で有ることには変わりない。日差しに代わりに酷い湿気で蒸し暑く不快なことには変わりなく、徒歩で遠距離を歩くには都合が良いとも言えなかった。二人は額に汗をにじませながら、田舎道を歩いた。

「自転車も買わないとだね。そうだ! 今日学校終わったら買いに行こうよ! 駅前のショッピングモールに大きいホームセンターがあるから、そこで選ぼうよ。父さんと母さんには今日ジーメールで連絡しておこう。あっちは時差が八時間あるから、丁度選んでる頃辺りにはチェックしているはず。きっとOKしてくれるよ。だって自転車くらい無いと通学するにも大変だからね」レノンは元気が無い里奈を心配して話題をいろいろとふってみる。だが、彼の話にもうわのそらで、ええ、とか、うん、とかの返事を繰り返すだけだった。彼女は機嫌が悪いうより、酷く心配なことがあり、それが頭から離れないだけだったのだが、レノンには判らなかった。彼は今朝の一件で、なにか彼女の機嫌を損ねていないだろうか心配であった。

 途中の傾斜がきつい坂を下り、堀の土手ぞいをしばらく進んだ。この土手は春に桜がたくさん咲きほころび、たいそう綺麗なところなのだが、既に季節は夏。此処の桜、里奈に見せてあげたいなあ、とレノンは思った。そしてそこから深石駅に着くまで彼等は終始無言だった。ただ、里奈はレノンの右手をしっかり握りしめていた。だが、その手は寒いわけでも無いのに何かに怯える小鳥のように終始小刻みに震えていた。


 この駅は街の規模に比べ、不釣り合いと思えるくらい無駄に立派な駅だった。いわゆるバブル末期に着工したものだからだろう。高度成長時代には、市内に大手電機メーカーを始め、いくつもの企業が存在していたが、バブル崩壊後軒並み倒産、リストラなどで半数以上も無くなった。おかげで、市街地は寂れきっており、駅前も例外では無かった。以前は駅前に五十年の歴史を持つ老舗の百貨店が有ったので、まだ活気はあったのだが、バブルの十数年後にやってきたリーマンショックにより、とどめを刺され倒産してしまった。そして、現在は建物も解体されて更地になってしまっている。そのせいで無駄に立派な駅は一層まわりの風景から浮きまくっている。始めてここの駅に降り立った人のほぼ全員が、立派な駅舎に対して駅前一等地がだだっぴろい空き地となってしまっているせいで、そのギャップに途方にくれるそうだ。隣の市の本城駅は駅舎は普通だが、マンションが林立するほど栄えているので、その落差を毎日見ているレノンは自分の地元が駅だけ立派な、情けないほどどうしようも無く田舎だと痛感するのである。

 彼等は学校のある本城駅方面のホームにへ降りていった。里奈は未だに言葉少なかったが、レノンの腕を両手でしがみつくようにしている。ホームは都内に向かう方面とは逆方向なので、サラリーマンや大学生は少なく、ほぼ本城市内に通う高校生が占めている。だが、レノンと同じ学校の生徒はごく少数で市内の別の高校(本城市内には彼の学校以外にも高校が七校もある)が大多数を占める。彼の学校は全国的に有名な進学校で有るが故に、地元出身の生徒だけでなく、県南や都内など遠方から通っている生徒や、さらにわざわざ地方から単身で上京して一人暮らしまでして通学している生徒も多いのだ。むしろ、地元出身の生徒は少数派で、都内、県南、地方出身の生徒が大半だった。だから、この深石駅から乗って行く生徒はそう多くなく、レノンと里奈以外の生徒は少なく、しかも別の中学出身者ばかりで彼等の知り合いは皆無だった。一方、逆方向である上り線は会社員、大学、高校生、熱海温泉でも行くのか、妙齢のおばさまの集団、何をやっているか不明なおじさん、おばさんなどでごった返している。下り線なんて比較ならない位、多くの人で目眩がするほどだった。これで自分たちが上りホームに行ったら、ホームから人が溢れてしまうのでは無いかとレノンはぼんやりといつも感じていることを今日も繰り返していた。だが、里奈はそんな事を露とも感じていなかった。彼女は例の『恐ろしい映画』のことが頭から離れず、その恐怖で周りのことなどとても気にもしていられなかった。彼女の唯一の心のよりどころはレノンのみで、彼がそばに付いていることが唯一の救いとなっていて、そのおかげで心を正気に保っていられた。もし彼が少しでも目の届かないところに行ってしまったら、彼女は数分で平常心を失って、狂い叫んでいたかもしれない。それほどまでに、現在の彼女は恐怖に心を蝕まれつつあった。そして、あと、ものの数分でその恐怖がピークに達してしまうなどと言うことは誰にも予見していなかった。彼女でさえも。




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