第7話 私になるまでの私

 私の名前は、元々は『華』になる予定だったらしい。姫野という名字と合わせて、野に咲く華のお姫様、という意味合いを持たせたかったのだ。この話は、私が物心がついた時にお母さんから聞いた話だ。

 大華という名前を貰ってから、私の人生は始まった。新生児の平均値を大きく上回る体重で生まれたため、不本意ながら『華』から『大華』になった。単純に体が大きかったから『大』という頭文字が付いた。

 この話を聞いた時、自分の名前に心理的な距離を置くようになった。女の子にとって体の大きさから由来する名前をつけられれば、当然の結果だった。

 それでも姫野という名字はお気に入りだった。絵本に登場するお姫様を思わせたから。

 姫野。私がお父さんとお母さんからもらった大切な名前。

 お父さんとお母さんが大学生の頃、同じ名字だからって単純な理由で仲良くなって、そこからトントン拍子でお付き合いから結婚まで話が進んだとか。私もいつかはそんな運命の人と出会ってみたい。

 自分たちの馴れ初めを話すお母さんは顔を真っ赤にしていた。お母さんはいつでも綺麗だし、優しいし、自慢のお母さんだ。欲を言えば私の名前を『華』にしてほしかった。お母さんを大好きな気持ちは変わらないけど、それだけが不満だった。

 そんな私は物静かなお母さんに影響されて、本を読むことが好きだった。楽しい物語も、悲しい物語も、幸せな物語も大好きだった。痛い物語は、ちょっとだけ苦手だった。

 小学校から帰ると、ランドセルを放り投げて一目散に読書中のお母さんの膝の上に乗り、読みかけの本を広げた。お母さんはなにも言わずにそれを受け入れてくれていた。お母さんは私の頭の上に本を置くと、背筋が伸びてちょうど読みやすいと言っていた。

 お母さんは私のやることなすこと、全て応援してくれた。とても優しかった。それでも、間違っていることは叱ってくれる。やっぱり自慢のお母さんだ。

 そしてお互いに自分の本を読み進めていると、その内に玄関が開く音がする。帰宅を告げる声が家の中に響くと、私たちは顔を見合わせ、読みかけの本に栞を挟んで玄関に向かう。

 お仕事から帰ってきた冴えない顔のお父さんを、声を揃えておかえりなさいと言って労う。お母さんがスーツのジャケットを、私が鞄を運んであげるのが日課だった。

 そしてお母さんが晩御飯の用意をし始めた時、お父さんに学校での出来事を話した。友達の少なかった私は、お父さんに勉強のことをたくさん話した。テストで良い点数を取ったこと、算数の難しい問題が解けたこと、読書感想文が学年の最優秀賞に選ばれたこと。お父さんは嬉しそうに頷いて、頭を撫でてくれた。大きくて無骨な掌だったけど、とても温かかった。

 そんな仲良しな私たちを見て、お母さんが嫉妬するのだ。なに話してるの? お母さんも仲間に入れて、って。断る理由なんてどこにもなかった。

 そして美味しい晩御飯を食べながら、お父さんに話していたことをお母さんにも話す。そうすると、今度は小さくて柔らかい掌が頭を撫でてくれた。とても温かかった。

 でも苦手な野菜を残していたのがバレて、こつんとおでこを指で弾かれた。私は大袈裟におでこをさすって痛がって見せる。お父さんとお母さんはそんな私を見て笑ってくれた。

 幸せでお腹を満たした後、お風呂に入る。しっかり三十秒数えて、肩まで湯船に浸かって温まった。シャンプーはまだ少しだけ苦手。目に入ってしみる。そしてお風呂から出たら、お母さんに髪を乾かしてもらう。小さな頃からの習慣になっていて、なかなかこれが抜けなかった。いつかは自分で乾かさないと、なんて心の片隅で思いながらお母さんに甘えた。

 パジャマに着替えた私は、入学のお祝いで買ってもらった学習机に宿題を広げる。可愛いキャラクターが描かれている鉛筆を握り、下手っぴな字で解答欄を埋めていく。尖っていた鉛筆の先っちょが丸くなる頃に宿題は終わる。いつもこんな感じだ。

 充実した疲労感でリビングに向かう。お父さんはお酒を飲んでいて顔が真っ赤になっていた。お父さんはお酒が弱いくせに、お酒が大好きだった。そんなお父さんに、ほどほどにしてね、と優しくたしなめるお母さんの顔もほんのり赤くなっていた。きっと一緒にお酒を飲んでいたのだろう。

 邪魔したら悪いかな、と思って自分の部屋に引き返そうとした時、お母さんに呼び止められた。一緒にテレビ見ない? って。私は喜んでお母さんの膝の上に座った。お父さんとお母さんは、私が一緒にいる時にお酒は飲まなかった。その代わりに、みんなしてバラエティー番組でお腹が痛くなるまで笑った。

 笑い疲れた私を、お父さんは抱き抱えてベッドまで連れていってくれた。半分寝ていたせいか、お父さんがなにを言っているのかは聞き取れなかったけど、口の動きでおやすみと言っているのが分かった。私も精一杯おやすみ、と返そうとしたけど、瞼と一緒に口も閉じてしまった。

 その晩はとても幸せな夢を見た。誰もいない遊園地で、列に並ぶことなくジェットコースターやメリーゴーランドで遊ぶ夢だ。この広い遊園地にいるのは、私とお父さんとお母さんの三人だけ。どれだけ走っても誰にもぶつからない、ポップコーンだってクレープだって食べ放題。まるで天国のようだった。

 でも楽しい時間はあっという間。夢から覚めるとカーテンの隙間から差す朝日に目を細めた。ふかふかのベッドの上で欠伸をする。大きくて間抜けな欠伸だ。

 二度寝の誘惑を断ち切って着替えを済ませる。お気に入りの黄色のスカートを揺らしながらリビングに向かう。トーストの焼ける良い匂いがした。その中にお父さんの好きなコーヒーの匂いも混じっている。私にはあの苦い飲み物の良さがまるで分からない。お父さんが毎朝飲んでいるのはなんでだろう、健康のためなのかな?

 ほどなくして私に気付いた二人は、おはようと朝の挨拶をしてくれる。私も元気よくおはようと返事をする。そしてお母さん特製の朝食を口にする。もぐもぐよく噛みながら、テレビを見つめる。難しいことを話す大人達がテレビの中にいた。貿易とか、国際関係とか興味のない言葉ばかりで溢れていた。バラエティー番組は、朝はやっていないらしい。

 朝食を済ませ、身支度を整えたお父さんが固そうな靴を履いて、いってきますと言う。私とお母さんは声を合わせて、いってらっしゃいと言う。冴えない顔のお父さんの背中は、大きく見えた。

 今日は学校が開校記念日だからお休み。宿題は終わってるし、やることは一つしかない。

 朝食で使った食器を洗い終えたお母さんに手招きされる。

 ちょっと待ってて!

 急いで自室のランドセルの中から、図書室で借りてきた本たちを取り出す。それらを床に並べ、どれを読もうかちょっとだけ悩んだ。数秒後、一番厚みのある本を持っていった。

 そしてお母さんの膝の上に座って、厚い本を読み始める。私の好きな楽しい冒険の物語だった。でも半分ぐらい読んだところで、いつの間にか眠ってしまった。

 目が覚めるとお母さんの膝の上なことに変わりはないけど、膝の上にあるのは私の頭だけだった。温かくて、良い匂いがする。私を優しく撫でてくれるお母さんに嘘をついて、まだ夢の中にいるふりを続けた。私はお母さんの膝の上が大好き。お母さんのふわふわな膝枕が大好き。だから、ずっと、こうしていたかった。

 しばらくすると、玄関が開く音がする。お父さんが帰ってきたんだ。わざとらしく目を擦って、お母さんと一緒に玄関に向かう。いつものようにおかえりと言ったけど、妙な違和感があった。お父さんが、なにも言わずに入ってきたからだ。

 どうしたの? 具合でも悪いの? って、二人して心配した。そうしたら、お父さんがいきなり泣き崩れた。子供の私よりもわんわん大声で泣いた。ただ事じゃないと察したお母さんは、私に部屋に行くように言った。お母さんの真剣な目が少しだけ怖かった。

 毛布にくるまって寒さと恐怖から身を守っていた。読書にぴったりな季節だったけど、お母さんの膝の上じゃないと寒かった。

 ちょっとだけ時間が経った。多分、一時間ぐらい。退屈でうとうとし始めた時、リビングから大きな音がした。びっくりした私は急いで部屋を飛び出して、リビングに駆けた。

 すると、お母さんが床に倒れていた。眠っているわけじゃないのは、子供の私でもすぐに分かった。だって、お父さんがすごい目で床に転がっているお母さんを睨んでいるから。お父さんのあんなに怖い顔は初めて見た。それでも私はお母さんが心配で、お母さんに駆け寄った。

 大丈夫? ねぇ、お母さん。

 体を揺すったら、弱々しい声でなにかを言っているくれているのが分かった。うまく聞き取れなかったから、耳を近づけてみる。

 に、げ、て。

 そう聞き取った時には、もう遅かった。私は誰かに思いっきり髪を引っ張られた。

 痛い、離して。

 そう叫んだら、引っ張る力が増した。誰? 誰がこんなひどいことをするの? そう思った。

 痛みに悶えていると、ゴミでも捨てるかのように乱雑に床に放り投げられた。放り投げられた時に、床に頭を打った。視界がぐらついて、ぶつけたところがじんじん痛む。

 涙で滲む視界に映ったのは、あの目をしたお父さんの姿だった。もしかして、私をゴミみたいに投げたのは、お父さんなの? 私の頭の中は混乱でいっぱいになった。

 どうして。

 全ての疑問と不安が言葉になって頭に浮かぶ時に、この四文字が付いて回った。

 混乱と涙で溺れた私は、いつの間にか気を失った。

 次に目覚めたら、知らない天井が視界いっぱいに広がった。真っ白で、無機質で、つまらない天井だった。

 そんな天井から目をそらすように私は痛む頭を必死に動かして、辺りを見渡した。腕から管が生えていて、見たことのない機械に繋がっている。気持ち悪いと思って、そっぽを向いた。そうしたら、頬にガーゼを付けたお母さんが、隣のベッドにいた。真っ白なベッドで、弱々しく眠っていた。

 そこでようやく理解した。そうか、私はお父さんに暴力を振るわれて、病院にいるんだ。私の頭に包帯が巻かれているのも、それが理由なんだ。

 私は自分の怪我よりも、お父さんとお母さんが心配になった。お父さんは今、どこで、なにをしているんだろうか。もう、泣き止んだのだろうか。お母さんの怪我はすぐに治るのだろうか。ちゃんと目を覚まして、一緒に本を読んでくれるのだろうか。

 また、三人で幸せに暮らせるんだろうか。

 不安で不安で仕方なかった。

 私は小さな胸をぎゅっと抱き締めて、不安と戦った。

 そんな私に気が付いたのか、お母さんが目を覚ました。

 大華、大丈夫?

 お母さんは自分の心配より、私の心配をしてくれた。やっぱりお母さんは優しい。私は涙でぐしゃぐしゃになりながら、大丈夫と応えた。

 それからお父さんになにがあったのか、お母さんに訊いてみた。期待した答えは返ってこなかった。

 大丈夫、ちょっと混乱してただけだよ。大華は心配しないで。すぐに良くなるから。

 お母さんは管の生えた手で私をたくさん撫でてくれた。

 それからすぐに退院できた私たちは、久しぶりに家に帰った。懐かしい匂いがした。

 結局、病院でお父さんに会うことはなかった。

 それからお父さんがいない日々を送った。心にぽっかり穴が空いた気分。お母さんはどこか寂しそうだったけど、安心してる感じがした。

 そんな日々も終わって、ある日の夕方にお父さんが帰ってきた。おかえりって、いつもみたいに出迎えたけど、お父さんは私たちを無視してリビングに向かった。お父さんの背中って、こんなに丸まってたっけ?

 後を追ってリビングに行くと、いつものビールじゃなくて、真っ赤なワインを飲んでいた。グラスに注ぎもしないで、そのまま瓶に口をつけて飲んでいた。いつものお父さんからだと想像もつかない姿に目眩を起こした。

 この人は、本当に私のお父さんなの?

 私は怖くなって自分の部屋に逃げ込んだ。毛布で身を守った。その日は怖くて怖くてたまらなかった。またお父さんに痛いことをされるのではないかと思っていた。あのドアを引きちぎって私の部屋に押し入って、私の髪も同じように力の限り引きちぎるのではないかと。そんなことを考えていたら、半ば気絶する形で眠っていた。

 翌朝、学校に行く準備を終えて、お父さんのいなくなったリビングで朝食をとった。テーブルの上には、お酒の瓶が何本も置いてあった。それに、キッチンから酸っぱい臭いが漂っていた。私の知っている朝の匂いじゃなかった。

 それでもお母さんはいつもと変わらない声で、いってらっしゃいと言ってくれた。私もいってきますって返したけど、あの真っ赤に充血したお母さんの目が目蓋の裏にこびりついた。

 放心状態のまま学校を終え、家の扉を開ける。喉に突っかかったただいまを絞り出すのに、額に汗が浮かぶほどの労力を要した。

 ランドセルを部屋にそっと置いて、読みかけだった厚い本を持ってリビングに行った。きっと今頃、お母さんが本を読んで私を待ってくれているはず。あの扉を開けたら、私に優しく微笑んで、手招きをして、膝の上に乗せてくれるはず。不安を期待で塗り替えて扉を開ける。

 最初に感じたのは、変な臭いだった。今まで一度も嗅いだことのない、いかにも健康に悪そうな臭い。それに部屋中煙くて、白い靄がかかっている。鼻を押さえて中を見渡すと、お父さんが煙草を咥えていた。初めて見た。お父さんが家の中で煙草を吸っている姿。お父さんが煙草を吸っているのは知っていた。だけど、家では、私の前では、吸ったことなんてなかった。

 どうして。

 私は扉を開けたままその場で固まってしまった。お母さんは、どこに行ったの。優しかったお父さんは、どこに消えてしまったの。そんなことを考えていたら、お父さんが私の名前を何度も口にしていた。呆然としていたから、気付くのが遅れてしまった。呼ばれている、と思って煙を吐くお父さんの目の前に立った。

 なに、お父さん。

 いつもの調子で言ったつもりだった。実際は声が震えていたと思う。お父さんは感情の籠っていない目で私を見据えた。

 手、出せ。

 いつものお父さんの口調じゃなかった。だけど、私はそれに従う。本を床に置いて、両手を揃えて差し出した。するとお父さんはなんの躊躇もなく、さもそれが当然のように煙草の火を私の掌に押し付けた。

 私は痛みと熱さに悶絶した。床を這いつくばり、声にならない声で叫んだ。助けて。誰か助けて。お母さん。

 なに灰皿が暴れてんだよ。

 お父さんは物みたいに、いや、物以下の扱いで私の髪の毛を鷲掴みにした。そして、同じところにまた煙草の火を押し付けた。

 何度もお父さんに謝った。理由もよく分からないまま、涙を流しながら何度も、何度も。すると、髪を掴む力がなくなり、解放された。そしてお父さんの啜り泣く声が聞こえる。

 ごめん、ごめん。

 何度も、何度も私に謝った。煙草の火は涙で消えてしまった。私はもうどうしていいか分からず、そのまま何十分もその場でお父さんの謝罪を聞き続けた。お母さんが買い物から帰ってくるまで。

 その日の夜、お母さんから真面目な話をされた。お父さんは会社をクビになったらしい。そして完璧主義だったお父さんは自暴自棄になり、酒に溺れ、家では絶対に吸わなかった煙草をリビングで吸って、憎んでいた暴力を振るうようになってしまった。

 今ね、お父さんは心が不安定なの。そっとしておいてあげてね、大華。

 当時はその言葉をそのまま受け止めていたが、今考えてみると、お父さんに関わってはいけない、という意味だったのかもしれない。

 私は素直に頷いた。今は、そっとしておいてあげよう。いつものお父さんに戻るまで。私の期待はくすんだ宝石みたいに輝いていた。

 でも、いつものお父さんに戻ることはなかった。

 ある日の朝、お父さんがお酒を飲んでいる隣で朝食をとっていた。もう、

あの朝の匂いはしなくなっていた。代わりにお酒と煙草の臭いが充満している。

 私は内心怯えていた。どうしてここで食べなくてはいけないのだろう。他のところで食べればいいのに。でも、お母さんの怯えた目を見たら、きっと私が触れてはいけない話なのだと子供ながらに察してしまった。

 きっと、お母さんの心はお父さんに縛られている。首輪を巻かれ、鎖に繋がれて逃げられなくなってるんだ。

 テレビの音もなく、会話もなくとても静かな食事だった。私は食欲があまりなく、少しずつゆっくり食べていた。お母さんが作ってくれた料理だから、絶対に残したくない。食欲不振とお母さんへの愛だったら、お母さんへの愛の方が断然大きい。私は我慢して食べ進めた。

 すると突然、隣からテーブルを叩く音。テーブルの上にあるお酒の空き瓶が跳ねる。

 ちんたら食ってるんじゃねぇよ。

 そう言って怒ったお父さんは、私の食べかけの朝ごはんをゴミ箱に放り込んだ。お母さんがせっかく作ってくれた料理を。あの時、私にしたみたいに。乱雑に捨てた。お母さんの頬に、一筋の雫が音もなく流れていった。

 その時から私はご飯を急いで食べるようになった。急いで食べると、私の小さな口は、すぐにいっぱいになってしまう。それでも必死に大きく口を開けて、噛んで、飲み込んで、噛んで、飲み込んでを繰り返した。味は、ほとんどしなかった。

 そんな私を否定するように、お父さんは私のために作ってくれたお母さんの料理をゴミ箱に捨てるようになった。お前の態度が気に入らない、らしい。頻度こそ多くなかったものの、なにも悪いことをしていないお母さんの料理を捨てることだけは許せなかった。

 そしてそれと時を同じくして、学校生活に支障をきたし始めた。幸い、掌の煙草の痕は残らずに済んだ。でも、私の心の傷は癒えるどころかひどく化膿していった。

 私は、誰かと話すことに臆病になっていた。ただでさえ物静かだった私は、ついになにも喋らなくなった。数少ない友達も、それっきり離れていった。そこで気付いた。きっと、友達だと思っていたのは私だけなんだと。あの子たちからしたら、私はただの暇潰しの道具にすぎないということを。そしてこれは、後にもっと思い知ることになる。

 クラスで完全に孤立した私は、休み時間も鉛筆を握りしめて、先が丸くなっても勉強し続けた。そうすると誰とも話さなくて済むし、なにより不安が紛れた。勉強は私の身を外の世界から守る壁なんだと学んだ。

 何度か読書もしようとしたが、お父さんに煙草の火を押し付けられてから、内容が全く頭に入らなくなってしまった。教科書とかなら大丈夫なんだけど、物語を読もうとすると、掌の見えない痕が疼き、心臓が不自然に脈打つ。それっきり教科書以外の本は読まなくなってしまった。

 そんな生活を送っていく中、お父さんの暴力は日常の一部になっていった。

 酒を持ってこいと命令され、冷蔵庫から何種類もある内の一本を持っていく。すると、俺の飲みたいやつじゃない。と、激怒して暴力を振るわれた。頬が真っ赤に腫れるまで叩かれた。あまりに理不尽な暴力だった。

 またある日は、お母さんをずっと殴ったり蹴ったりしていた。お母さんは蹲ってずっと耐えていた。私はそれを見てお母さんを助けにいった。

 お母さんをいじめないで。

 私の涙の訴えは、お父さんには届かなかった。結局、私たちは気絶するまでお父さんの暴力に耐えていた。

 気が付いたら私は自室のベッドの上で眠っていた。傍らにはお母さんが死んだように私のベッドに突っ伏している。

 私は絆創膏だらけの拳を握りしめ、いつかお父さんを殺さなくちゃいけないと思った。私とお母さんをいじめる悪いやつは、生きてちゃいけない。この手で仕返しをしてやるんだ、と。

 それでも、それはできなかった。あの日の優しいお父さんの笑顔がちらつくのだ。どれだけ憎んでも、あの笑顔だけは忘れられなかった。そんな自分が悔しくて、体の痛みも忘れて泣いてしまった。

 日に日に体に痣が増えていく。ついには学校の先生に心配された。虐待をされていないか、と。違う、私は虐待をされているんじゃない。お母さんを守っているんだ。そう思っていたから、答えは決まって、いいえ、だった。

 そんな痣だらけの人間が黙々と勉強をしている姿は、さぞ不気味に見えたのだろう。クラスメイト達は私を汚物のように扱った。私や私の持ち物は病原菌と呼ばれ、誰も触れることはなくなった。しかし不思議なことに、病原菌であるはずの私の持ち物が時々ゴミ箱の中に落ちていることがある。こんなところにしまったはずなんてないのに。みんな触りたがらないはずなのに。誰かが人の物を勝手にゴミ箱に捨てるはずないのに。そう思って体操服を拾い上げる。もう何度目か分からない。私はこれをいじめだと薄々認識はしていたが、誰かになにか言うことが怖くなっていたから、言い返すことも相談することもできなかった。

 それでもある日、私を遠くからなじる声に、友達だと思っていた数人が声を上げた。

 大華ちゃんの悪口言わないで。

 私は嬉しくなって、泣きそうになってしまった。こんな醜い私でも、庇ってくれる人がいるんだ。そう思うと心が熱くなった。

 だけど、そううまくはいかないのが人生だ。私が希望に満ちた顔をするやいなや、友達だと思っていた数人が邪悪な笑みを浮かべる。

 あれ、期待しちゃった? ばーか、演技だよ。

 そう言い残して、どこかへ立ち去ってしまった。

 一瞬なにが起きたのか理解できなかった。私が今、なにをされたのか、あの子たちがなにをしたのか。それでも黄色のスカートは、涙で汚れてしまった。それっきり、私は誰とも口を利けなくなった。

 学校にも家にも居場所がなくなった日々は中学校まで続いた。地元の中学校にそのまま全員揃って進学したため、いじめはそのまま続いた。私がいじめられることで他の人がいじめられないなら、まぁ、それはそれでいいか、と自分に言い聞かせて平静を保った。

 それでも安らぎの時間はあった。お父さんが寝ている、という条件付きだったけど。

 中学生になった私は、お母さんの身長を追い越した。もう、膝の上に乗ることは叶わないだろう。それでも、お父さんが寝ている隙をついて、お母さんと肩を並べて本を読むことで私は生きる気力を細々と紡いでいった。本といっても、物語ではなくて教科書だった。当時の私には手から溢れるほどの幸福だった。

 あっ、姫野さんいたんだ。影薄くて気付かなかった。

 きたねぇからこっち来んなよ!

 いてもいなくても変わんないから、死んじゃえば? 楽になるよ。

 そんな言葉がどこかへ飛んでいってくれるのを感じていた。

 時は流れて高校受験を控えた冬のこと。お母さんがパートで稼いでくれたお金で、私は地元を遠く離れた県立高校を一校だけ受験した。なぜ地元の高校ではないのか、それには理由があった。

 私が中学を卒業した後は就職して、お母さんの支えになりたいと相談した時だった。お母さんは当然私を応援してくれるものだと思っていた。私も少しでもお母さんの力になりたかった。でも、お母さんは傷だらけの手で私を撫でて、そっと叱ってくれた。

 ダメ。大華は進学しなさい。

 もちろん断った。今のままでは、お母さんの身も心ももたないことは明白だった。私がこれ以上経済的負担をかけるわけにはいかない。私は何度も反発した。私の最初で最後の反抗期だった。たったの二時間だった。

 それでもお母さんは譲らなかった。ある一つの決断をしたから。

 離婚。

 お父さんとお母さんは近々離婚をするらしい。そして無事離婚したら、ここを離れて遠くに引っ越すことも。お父さんがそんな話に応じるとは到底思えなかったけど、背中の傷を見せてもらった時に納得してしまった。大きな大きな、そう、フライパンぐらいの大きさの円形の火傷の痕だった。

 お母さんは、鎖を断ち切る決意をしたのだ。

 お母さんがこんな大きな決断をした理由の一つに心当たりがあった。お父さんから逃げるのはもちろんだが、きっと私が学校でいじめられているのを知っていたからだ。それもそうだ、毎日ぼろぼろに薄汚れて帰ってくる娘を見たら誰だってそう思うだろう。

 だからね、大華はもうなにも心配しなくていいんだよ。

 そう言って私をぎゅっと抱き締めてくれた。お酒と煙草の臭いが染み付いていたけど、あの日と変わらない、優しくて、良い匂いがまだ残っていた。

 私はお母さんの腕のなかで泣きじゃくった。

 私の合格発表を機に、正式にお父さんとお母さんは離婚をした。そして私が通う高校の近くまで二人で引っ越し、新たな生活を始めた。狭くて汚いアパートだったけど、お父さんがいないというだけで聖域のように感じられた。

 そこで私は決意した。私もなにか変えよう。お母さんがお父さんの暴力に耐えながら離婚を決意したように。現状を変える、強い力が欲しかった。

 閑静な住宅街の近くにあるアパートの一室に積み上げられた段ボールの封を開封しながら、どう変えようか悩んでいた。変えると言っても、なにをどうしたらいいのかさっぱり分からなかった。

 そして一つの段ボールの封を開けた時だった。もうとっくの昔に捨てたと思っていた、お気に入りの黄色のスカートが出てきた。色は褪せて、糸は綻んでいるし、かび臭い。きっと、お母さんがとっておいてくれたんだ。私がお気に入りだったのを知っていたから。

 自然と涙が溢れてくる。あの時の幸せだった三人を思い出して。いじめられていた時の弱い自分を思い出して。そして、お父さんの笑顔を思い出して。

 だからこそ、昔を思い出すからこそ、私はこれにしなくちゃいけないと強く思った。毒をもって毒を制す。過去を乗り越えるためには、これしかないと思った。

 私の決意は、ここで固まった。

「お母さん、私、金髪にする」

 今までの私では考えられないだろう。突然グレたのでは、と考える人がほとんどだろうけど、お母さんは違った。お母さんだけは、私の本当の気持ちと決意を理解してくれた。

 お母さんは一度だけ大きく頷き、なにも言わずにそっと頭を撫でてくれた。

 

 

 

 そして私は、彼に出会う。

 涙をひとしきり流し終わった後、見え見えの嘘をついていた彼を見つけた。

 あの時の私と同じひとりぼっちを。

 ひとりぼっちの辛さは誰よりも知っているつもりだったから、彼を放っておけなかった。

 それでも一年かかってしまった。一年待たせてしまった。去年は同じクラスになれなかったけど、今年は同じクラスだ。

 私は私を変えたんだ。

 そう思って勇気を振り絞る。去年は一度も成功しなかった、友達作り。今日こそは成功させるぞ。

 みんな私の金髪を怖がってしまうし、距離感もうまくつかめなかったから友達がただの一人もできずに一年が過ぎてしまった。それでも一度金髪にしたからには、絶対に金髪のまま友達を作ってやるんだ。

 そして彼には、幸せになってもらおう。

 あの時の私と、同じになってほしくないから。

 私と友達になることで、ひとりぼっちじゃないことの大切さを伝えよう。

 って、ちょっとおこがましいかな。

 でも、私が友達になれなくても、せめて私以外の友達を作ってもらおう。

 お腹もいっぱいだし、なんとかなる。そう意気込んで、勢いよく立ち上がる。

 自慢の金髪を揺らしながら、一歩ずつ、ゆっくりと彼に近づく。

 彼の背中が、だんだん近くなる。

 緊張で体の芯が震える。

 逸る鼓動を抑え、彼の前に回り込む。

 彼が起きる様子は全くない。

 だけど、大丈夫。綿密に彼のことは下調べしたのだ。

 名前はもちろん、下駄箱の位置も、自習の時の過ごし方も。

 友達になるために。

 ちょっと気持ち悪いかな? やり過ぎだったかな? 友達になるのになんの役立つのかな? なんて思ったりもしたけど、これが今の私の全力だ。

 呼吸を整え、何度も練習してきたあの台詞を口にする。

 

「ねぇ、君って東雲彰悟くんだよね?」

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