第6話 初めてだらけの夜

 時計の針は十二時を過ぎ、月明かりだけが薄く僕の部屋を照らしている。なんとも頼りない光だけど、静かな夜にはぴったりだった。

 ふわふわなカーペットの上であぐらをかき、手持ちぶさたを誤魔化すために感慨に浸る。片付け忘れていたお菓子の袋を避けて肘を突きあごをのせ、記憶の海を泳ぎ始める。

 思えば、姫野とあってから初めてのことだらけだった。初めて本音をぶつけて、初めて授業をサボって、初めて友達とファミレスに行って、初めて誰かに好きと言って、初めて愚痴に付き合わされて、初めてストレートな感情をぶつけられて、初めて抱く気持ちに体が追い付かなくて、初めて姫野と夜を共にして。

 今までの僕だったら考えられない。変化することを恐れていた僕が、たったの数日でここまで初めての経験を重ねるなんて。一週間前の僕に言ったら、きっと嘘をついていると思われるだろうな。

 隣で寝ている姫野との思い出は、間違いなく僕を変えるものだった。確かに、姫野は頑固で自己中心的であざとくて気分屋で、いつも僕を振り回してくる。一緒にいるだけで疲れてしまうけど、それでも、まぁ、悪い気分じゃない。そう思うのは姫野から悪意が感じられなかったり、悩みや辛い過去を打ち明けてくれたからだった。姫野が心を開いて接してくれたからこそ、僕も自然に接することができたんだろう。

「まったく……君といると退屈しないよ」

 面と向かって言えないことでも、今なら言える気がする。僕の独り言が聞こえているのは、夜空に浮かぶ半分の月ぐらいだろう。

 姫野の方に顔を向け、間抜けな横顔に話しかける。

「君は僕にたくさん初めてを教えてくれたよね。……僕はずっと、周囲の人間と距離を置いて、壁を作って、日常という壁の中に閉じ籠っていた。誰とも関わらない日常こそが、僕のちんけなプライドを守ってくれていると信じていた」

 他人を偽り傷付けることで、自分が傷付かないようにしていた。他人に失望されたくない、つまらない人間だと思われたくないから、誰とも関わらない道を選んできた。

 一番傷付いていたのは、自分自身だと知らずに。

「だけど、それは間違ってるって気付いた。僕は日常に守られていたんじゃなくて、閉じ込められていたんだ。独りでいないとダメなんだって。そうしたら、いつしか独りになることばかり考えていた。……だから嘘つきになってしまった」

 静かな寝息を相槌代わりに、姫野に今までの思いを吐露し続けた。

「そんな醜い僕の日常を君は壊して、手を差し伸べて、僕を外の世界に連れ出してくれた。そして、偽りのない君の笑顔に、僕は救われた」

 言葉を発する度に心が熱くなる。

「だから……その」

 一番伝えたい言葉が詰まる。気恥ずかしさと、静かな胸の高鳴りが邪魔をする。

 気持ちを落ち着かせるために一度だけ大きく深呼吸をする。それでも落ち着くには、かなりの時間を要した。

 だけど、今なら言える。

 むしろ、今しか言えない、こんなこと。

「ありがとう……。あのっ……本当にありがとう。それから、これからもよろしく…………姫野」

「……初めて名前で呼んでくれたね」

「えっ!? 起きてたの?」

 布団にくるまる姫野の横顔を見て、すっかり寝ていると勘違いしてしまった。

 となると、今までの僕の恥ずかしいポエムは全部聞かれていたってことなのか。絶望と羞恥が体内を走り回るのを感じた。

「ごめんね。騙すつもりとかは全然なかったんだけど、東雲君が東雲君のこと話してくれたから。つい聞き入っちゃった」

 姫野は僕の方を向くように寝返りをうち、布団からひょっこりと出している顔で薄く微笑む。夜目に慣れてきたせいで、見たくないものまで見えてしまう。あの笑みは僕のことを馬鹿にしているに決まっている。

「ど、どこから聞いてた?」

「君といると退屈しないってところから」

「それって、最初からってことだよね?」

「そうなっちゃうね」

 クスッと笑う姫野に、もうどんな顔をしたらいいのか分からなくなる。皮肉にも、僕を救ってくれた笑顔に精神的に殺されそうになっている。

 関節が外れるほど肩を落とす僕に、姫野は優しく言葉を続けた。

「本当の気持ちを打ち明けてくれて、ありがとう。東雲君のことだから寝てる私相手でも、すっごく勇気を振り絞ってくれたと思う。だから、嬉しい」

「……いつもみたいに馬鹿にしないの? 東雲君はお馬鹿でポエマーだねって」

「そんなひどいこと、私が言うと思う?」

「いつも言ってるじゃん」

「あれ、そうだっけ」

 自然と姫野と目が合って、二人して声を押さえて笑う。こんな他愛もない会話が、今はとても嬉しく思える。

「ふふっ、東雲君といるとずっと笑ってる気がする」

「僕は君といるとずっと笑われてる気がするよ」

「あれ、姫野って呼んでくれないの?」

 姫野は少し悲しそうに、だけどどこか楽しんでいるかのように眉をひそめる。相変わらず喜怒哀楽の変化が忙しいやつだ。

「あれは……その、言い間違っただけ」

「君と姫野を言い間違えたの? さすがにそれは無理があるよー」

 苦しい言い訳に図星の二文字が突き刺さる。

「まっ、呼びやすい方でいいよ。君でも、姫野でも。東雲君……いや、彰悟の好きにして」

 彰悟と呼ばれた瞬間、初めて姫野と出会った時の言葉を思い出した。脳内を走る電気が漏電し、身体中の血管を駆け巡った。

『ねぇ、君って東雲彰悟君だよね?』

 そうだ、もう一つ『初めて』があった。

「……ありがとう。君が初めてで、本当によかった」

 姫野は、初めて僕の名前を呼んでくれた友達だ。他の誰でもない、目の前にいる姫野大華が、僕の名前を呼んでくれた。

 その事実がすっと胸に染み込んで、初めて自分と彰悟という名前が一つになった気がした。

「ふふっ、なにそれ。答えになってないし、ちょっと意味深」

「気にしないでくれ。ちょっと初めて会った時のことを思い出しただけ」

 あの時姫野が話しかけてくれたからこそ、今の僕があると確信できる。まさかこうも早く、姫野と出会えてよかった思える日が来るとは。

「まだ三日前のことなのに、なーにお爺ちゃんみたいなこと言ってるの?」

「あれ、まだ三日しか経ってないのか。もうずっと前に会ってるような気がした」

 姫野も僕も時間も、随分と駆け足だ。ちょっと前まではただのクラスメイトだったのに、今となってはただ一人の大切な友達になってしまった。

「楽しい時間はあっという間だから、仕方ないよ。あっ、そうそう実は私ね、彰悟のことは入学式の時から知ってたんだよ」

 いつの間にか定着してしまった彰悟呼びに戸惑いながらも、姫野の言葉の意味を考える。

「入学式の時から……?」

 入学式、今となっては化石となってしまった記憶だ。期待を抱かずに不安だけを引きずりながら行ったことをなんとか掘り起こすが、他のことはほとんど思い出せない。当時も他人を避けていたんだろうけど、さすがに金髪の生徒がいたら記憶に残っていてもおかしくないはずだ。しかし微塵も心当たりがない。

「ごめん、君を見た覚えがない」

「そうだよね。だって私が彰悟のこと覗き見てただけだもん」

 やっぱり、このオオカミはストーカーなのかもしれない。

「覚えてるかなー? 入学式の帰りに男子二人組に話しかけられなかった?」

「男子……二人組。うーん」

 学校生活で僕に話しかけてきた人間はほんの一握りだ。口煩い教師と、提出物の催促をする学級委員と、金髪のオオカミぐらい。その他のとなると……。

「あっ、思い出した。一年の時に同じクラスだったあの二人か。名前は……なんだっけ。思い出せない」

「思い出さなくていいよ、あんなやつらの名前。それで、その二人に話しかけられて、彰悟がみえみえの嘘ついたの覚えてる?」

 思い出した。あの二人に遊びに誘われて、適当な嘘をついて誘いを断ったこと。それに腹をたてた二人が因縁をつけてきて、当時のクラスメイトに根も葉もない噂を流して僕が孤立するように仕向けたこと。さらにその二人はクラスの中心人物だったから、僕が完全に孤立するのに時間はかからなかったことも。

 ただ、その頃から日常に閉じ込められていたせいで、それすらも気に留めなかった。自業自得という言葉がよく似合う結末だが、忌々しい二人の記憶だけが頭の奥底にこびりついていた。

「うん、そうだった。君に説教されたあの場所で、ゲームセンターに行こうって言われて……興味なかったから、飼い犬が危篤とか言って帰った気がする」

 徐々に詳細な記憶が浮かび上がってくる。

 真新しい制服を纏った新入生達や、部活の勧誘に必死な先輩達で賑わう校門を避けるように裏口から逃げようとした時だ。弱者をなぶるような、いやらしい笑みで話しかけられたんだった。今思い出しただけでも鳥肌が立つ。

「そうそう、それ。それでね、彰悟が帰った後すごかったよ? 『俺達の優先順位は犬以下かよ!』『どうせ嘘だろ!』って怒鳴ってた。本当に最低なやつらだったよ」

 僕の言えることじゃないけど、なんとも陰湿な連中だ。僕がいなくなった後に散々文句をたらすなんて。

 僕を含め、世界中の人間がこのカーペットみたいにふわふわで優しい人間だったらいいのに。夜の闇で黒く染まったカーペットを撫でながらそう思った。

「それで、君はなんでそれを見てたの?」

 僕とあの二人がいたのは人気のない校舎裏だ。入学式という晴れ日なのにも関わらず、どうしてそんな場所にいたのか疑問に思った。

「あはは……実はね、金髪のこと生活指導の先生に怒られちゃって。あんなに怖い先生だってまだ知らなかったから、怒られた後に校舎裏でこっそり泣いてたの。そして、さっきの話に繋がるって感じ」

 ここでも金髪が関係してくるのか、と運命めいたものを感じざるを得ない。

「泣くぐらいならやめたらいいのに……って言っても、君は頑固だからやめなさそうだ」

「ご明察」

「まったく……いつも金髪のせいでひどい目に遭ってるっていうのに」

 言い終わると同時に、走馬灯のように、あの時の光景が鮮烈に脳裏に浮かぶ。

『また……それ?』

 僕が初めて姫野に嘘をついた時に言われた言葉。あの時の悲しい表情と共に鮮明に甦り、真実にたどり着く。あの時は分からなかった『また』と『それ』の正体。

 『それ』が指していたのは、ただの僕のくだらない嘘じゃない。僕が独りになるための嘘のことを指していてんだ。他の誰でもない、僕自身が傷付く嘘を、姫野はやめてほしかったんだ。

 そして『また』の正体は独りになるための嘘を、姫野にもついたことだ。差し伸べられた手を振り払う姿に、いてもたってもいられなくなったのだろう。実に姫野らしい。

『秘密の話だから校舎裏じゃなきゃダメなの』

 だからまた僕がひとりぼっちにならないように、あそこまで強引な行動をしたのか。頑なに校舎裏にこだわっていたのも、僕がひとりぼっちになった場所で、ひとりぼっちじゃなくなるため。因縁を断つために、あの場所を選んでくれたのか。

 姫野と初めて出会った時の言葉、行動、表情、全てが繋がる。バラバラだったピースが、一つの大きな絵になっていく感覚。

「……君にはいつも驚かされるよ」

 もちろんこれは僕の勝手な解釈に過ぎない。姫野の意図していることは他にあるかもしれない。

 ただ今の僕にはこれが心地良い。この身勝手な解釈が僕の中で、すとんとすわりのいい位置に収まる。

「もう、さっきからなに? 一人で話進めてさぁ」

 一人で納得している僕を見て不服なのか、風船よりも膨らんだ姫野の頬を人差し指で突っつく。すると空気が抜けて、僕の右手にかかる。くすぐったい。

「ねぇ、これからも仲良くしようね」

「うん、仲良くしよう。僕が休んだらノート見せてね。それと、修学旅行の班も一緒になろう」

「修学旅行の部屋は?」

「それは、別」

 それからも取り留めのない話は続いた。

 好きな曲、得意な料理、一番感動した本、飼うなら犬か猫か、そんなくだらない会話で、僕の部屋の中は埋め尽くされていった。

 僕たちは出会って一週間も経っていない。お互いに知らないこと、知りたいことがたくさんあった。自然と質問ばかりになって、まるで面接だった。本当の面接だったら、口は一文字に固く結んでおくのだろうけど、僕たちの面接は口角が上がりっぱなしだった。

「彰悟は将来の夢ってある?」

 宝くじが当たったらなにに使うか談義の終了後、僕が一番苦手とする質問が来てしまった。質問界の代表選手である彼に答えられたことは、正直な話一度もない。将来の夢なんてないからだ。

「将来の夢か……。今はまだ考え中。君は? なにかあるの?」

 ここでは嘘をつきたくないので、とりあえずお茶を濁す。そしてすかさず姫野にパスを送りつける。僕の将来の夢の話を掘り下げられないようにした。

「私はね、ステキなお嫁さんになること」

「お嫁さん……って、ふふっ。ステキな夢だね」

 幼稚園に通っていた頃、そんな夢を語っていた子がいた気がした。今の姫野は、その子とまったく同じ目をしている。きらきらと輝いていて、夜なのに眩しいくらいだ。

「あー笑ったな。私は真面目なのに」

「君がそんな純粋な夢を持っているなんて、ちょっと意外だったから、つい。それで、どうしてステキなお嫁さんになりたいの?」

「そんなの私が女の子だからに決まってるでしょ? 女の子なら誰だってステキなお嫁さんになるのが夢なんだから」

「それはちょっと偏見じゃないかな? ……なかにはステキなお姫様になりたい子だっているかもしれないよ」

「あっ! それは考えてなかった」

 二人して近所迷惑なんて考えずにお腹を押さえて笑う。深夜になるとどんなことでも笑ってしまう。いけないいけない。

 それでも楽しい時間はあっという間、もう日曜日の朝を迎えてしまった。こんなに憎らしい朝日を拝むのは明日のはずなんだけどな。時計も太陽もぶち壊したい衝動を押さえ、凝り固まった体をほぐすために大きく伸びをする。全身の骨が鳴り、心地好い痛みが走る。

「それじゃあ、彰悟のお母さんが起きないうちに帰るね。それとも、もう起きちゃってるかな?」

「それなら問題ない。母さんはいつも日曜日は午後までたっぷり寝てるから」

「そっか、それならよかった。一回ぐらい挨拶したかったけどなー。そういえば、お父さんは帰ってこないの?」

 上体を起こした姫野も控えめに伸びをする。窓から差し込む朝日によって金髪が輝きを増す。長く流れる金髪の手入れが隅々まで行き届いていることが見てとれる。

「父さんは出張。今頃本場のたこ焼きをおかずにお好み焼きを食べてるよ」

「ってことは大阪まで行ってるってこと? さすがに大阪まで挨拶に行く時間はないなー」

「君ならやりかねない」

 避難させておいたサンダルを持って姫野を玄関まで送る。僕たちの足取りは軽やかだった。

「彰悟、いつも振り回しちゃってごめんね」

 銀色のドアハンドルに手をかけた瞬間、突然しおらしい声での謝罪。ドアの方を向いたままだから姫野の表情は分からない。

「大丈夫、僕たちは時計みたいなものだから」

「時計?」

 金髪が微かに揺れる。

「うん、時計。せっかちな長針が君で、マイペースな短針が僕。短針の僕は、長針の君にいつも置いてきぼりを食らう。僕は必死に追いかけるけど、君のスピードには追い付かない。だから君が僕を迎えに来て、そして二つの針が重なる。でも楽しい時間も、針が重なる時間もあっという間に終わる。それでも、必ずまた針は重なる」

 心拍数がどんどん上昇していく。僕に似つかわしくない、格好つけたような例え話。微動だにしない姫野は、どう思っているのだろう。

 そこで肝心なことを言うのを忘れていた。話の道筋がずれてしまった。慌てて補足する。

「えっと、つまり。君に振り回されても、迷惑じゃないってことを言いたかった。時計の針が重なるのと同じで、それはもう、当たり前の光景なんだ。君が僕を振り回すのが、日常の一部なんだ」

 伝えたいことは全部伝えた。うまく伝えられている自信は、あまりない。やっぱり、ストレートに言った方がよかったかな。そんな心配をすると同時に、姫野の肩が震える。

「笑いたければ笑ってくれて構わない……覚悟はできてる」

 姫野は笑いを堪えるのに必死なんだろう。僕のポエムを聞いて笑いたいけど、母さんや時間帯等も考慮した結果、笑わない選択をしているんだ。

 目を瞑ってその時をじっと待つ。

 ……が、その時がいつになってもやって来ない。

 うっすら目を開けて見ても、姫野は同じ体勢のままだ。時が止まったと錯覚してしまう。しかし、ずっと震える姫野の肩のおかけで時が進んでいることが分かる。

「えっと……どうした?」

 僕が手を伸ばした時。

「彰悟は、本当にお馬鹿だね。結局私ってオオカミなのか時計の針なのかどっちなの?」

 姫野はドアハンドルを引き、ドアを開け放つ。玄関が眩しいぐらいの光に照らされ、春の陽気を乗せた風が吹き抜ける。

「でもね、ありがとう。忘れないよ、さっきの言葉。じゃあね」

 僕は最後まで姫野の表情は見ることは叶わなかった。春の光に溶けていった姫野の真意を考えていたが、ドアが閉まる音で現実に戻される。

 ただ、姫野の声は少しだけ濡れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る