第5話 過去を変えるオオカミ
僕はその日は夜更かしをすると、知らないうちに決めていた。毎週その日だけ、決まって眠らずに朝日を迎える。ゲームで沸騰した頭が冷えるまで、のめり込んだ漫画の世界から脱出するまで。
金曜日の深夜、あの時間が無限に感じられる全能感が堪らなく好きだった。
しかし、昨日だけは違った。帰宅するやいなや、水底に沈殿する泥のように着実に、ゆっくりと眠りに落ちていった。
普段の僕からしたら不健康、世間一般的に見たら健康的とされる早朝に目が覚めた。
土曜日の早朝、重いまぶたを擦りながら一階の浴室でシャワーを浴びる。いつもより温度を高くして、昨日までの疲労をさっと洗い流す。
歯磨きもついでに済まし、まだ就寝中の母さんを起こさないように、静かに朝食を作る。作ると言っても、食パンに野菜とチーズを挟んだだけの手抜き。作るのも一瞬だし、食べるのも一瞬だった。
義務的な朝食を終え、二階の自室に戻る。今日はなにもすることがないから、土曜日も日曜日もぐうたらして過ごすんだろうな。
いつもの日常だ。こんな日常が毎日続けばいいのに。
そんな幸せを噛み締めつつ、ベッドに横になる。立っているのも座っているのも面倒なお年頃なのだ。ベッドでごろごろしながら漫画を読むに限る。
壁一面の本棚から、もう何周目かも分からない漫画を取り出す。分かりきった展開、記憶にこびりついた戦闘シーン、暗唱ができるようになった決め台詞。
そんな退屈な時間を過ごしていたせいか、いつの間にか僕はまた眠ってしまっていた。退屈だったけど、気持ちのいい寝落ちだった。
おやつの食べ頃を過ぎた頃の話になる。僕は漫画を手にしたまま起きた。読みかけのページはそこで時が止まっていて、一ページも進んでいない。
どうせこの先に起こる展開など知っているから、今から読む気にはならない。本棚に返してリビングに向かう。
階下のリビングのテーブルには、いつも通り置き手紙があった。母さんがすでに仕事へ行ったことの証であるそれを手に取る。
『彰悟へ
お昼は作ったから温めて食べてね 母より』
見慣れた美しい文字だった。ただ、誰が誰に向けて書いているのかは明白なので、いい加減名前は省略したらどうなんだと、後で母さんにアドバイスをしよう。
「彰悟、か……」
彰悟、自分はそんな名前だったな、なんて思った。親しい友人なんていないから、下の名前で呼ばれたことはない。クラスメイトや教師からは、東雲としか呼ばれたことはない。両親はもちろん下の名前で呼んでいるが、家にいることの方が少ない。
書き慣れているが、聞き慣れていないその名前に距離を感じながらテレビをつける。
お昼のテレビは華やかだった。長方形の箱の中で、綺麗な人やかっこいい人が活躍している。嫌いじゃなかった。人間という生物は、距離が遠すぎると嫉妬なんてできない。物理的な距離でも、心理的な距離でも。だから、箱の中の人たちに嫉妬なんてしたことない。したところで意味もない。
静かすぎる家を誤魔化すのに、嫌いではない音を垂れ流すのは最適だった。
「まただ……いけない」
一人になると、どうも変なことばかり考えてしまう。非生産的なことを考えるのは、この世で最も非生産的だ。
頭をぶんぶん振って、変な考えを床に落とす。後で掃除しておかないと。
職場の母さんに日頃の感謝を込めて、遅めの昼食を済ませた。とても美味しかったけど、料理の味しかしなかった。おかしなことを言っているけど、僕はそう思う。料理に味以外のなにを求めているんだか、自分で自分が理解できない。
そして食後に背伸びをしてブラックコーヒーを淹れた。父さんが毎晩飲んでいるインスタントのものだった。苦くて苦くて堪らなかったけど、我慢して飲み干した。
食器類を全て流しに置いて、華やかな箱を見つめていた。
そんな時だった。家のインターフォンが鳴った。華やかな箱以外が発する音だ。
「今、出ます」
きっとインターフォンを押した人には聞こえていないだろう。
部屋着のスウェットを引きずりながら玄関へと向かう。フローリングの床は、僕の体温を奪っていった。
「どなた様ですか」
扉を開けた瞬間、差し込む陽の光に目を細める。
「わあっ。食べに来たよ。これよくない? オオカミっぽくて」
「……っ!」
人間という生物は、驚愕の感情が一定値を越えると声を発しなくなることが判明した。
「あれ、感動の再会に声も出ないの? それとも、声帯の使い方忘れちゃった?」
「ど、どうして君がここにいるんだ!?」
扉を開けたら、麗らかな春に相応しい格好のオオカミが立っていた。殺害予告付きで。どこぞの子豚になった気分だ。
「暇だったから、東雲くん成分を補給しに来たの。あっ、お昼食べに来たんじゃないからね、勘違いしないでよ」
「ち、違う。そうじゃない。いや、それもそうなんだけど、どうやってここまで」
姫野に住所を教えた覚えはこれっぽっちもない。ましてや、家に招いたことなんてないし、どうしてここに住んでいるのがバレたんだ。
「あ、目的じゃなくて手段の方か。それなら簡単、表札だよ。東雲なんて珍しい名字、そうそういないからね。それに、ほら。一緒に帰った時にご近所さんだって分かったし、結構簡単に見つけられたよ」
「君はストーカーか……」
漫画で読んだことがある。盲目な愛は人を殺すことがある。よく分からない理由で僕に付きまとうこのオオカミも、いずれは僕を食い殺すかもしれない。
「ストーカーじゃないって。どっちかっていうと……やんでれ? だっけ」
一般市民の僕からしたらストーカーとヤンデレの違いなんて、ざるそばともりそばほどの違いしかない。多分この考えは、いろんな人から怒られるだろうけど。
「意味分かって言ってるの?」
「うーん、調べたけどよく分かんなかった」
どうしてそんな言葉を調べようと思ったのやら。
「そーれーよーり、いつまでレディを外に立たせる気?」
腰に手を当て、いかにも怒ってますよアピールをしてきた。あまりに面倒だ。ただ、追い返すのも居心地が悪い。
「……狭い家ですが、あがっていってください」
「あらあら、ありがとうございますわ」
上機嫌の姫野をお手洗いに案内し、その後に僕の部屋へと案内した。つけっぱなしだった華やかな箱は、姫野が手を洗っている間に黙らせておいた。これ以上、僕の家に音はいらない。
「おー、ここが東雲くんの部屋かー。いかにも男の子の部屋って感じするー。おー! 本棚おっきい! 漫画ぎっしり!」
博物館に来た子供に負けないぐらいに僕の部屋をきょろきょろしている。そんなに物珍しいものは置いてないんだけど。まぁ、壁一面が本棚なわけだし、ちょっとした図書館みたいな雰囲気はある。ほとんどが父さんから譲り受けたものだが。
それにしても両親がいなくて本当によかった。不幸中の幸いだ。友達がいない僕が、異性を部屋に連れ込んだなんて発覚したら、変な勘違いをして絶対に茶化してくる。あの二人は仕事ばっかりのクセに、僕をいじる時だけは小学生みたいになる。
「ご両親は、今日はいないの?」
漫画の背中を眺めながらだった。僕の頭が透けているか疑ってしまうタイミングだ。
「二人とも仕事。家にいる方が珍しい」
落ち着かない姫野に、新品同様の学習机の椅子に腰掛けながら答えた。
「そっか。忙しいんだね」
「まぁ……そうだね」
「東雲くん」
本棚を眺める姫野の後ろ姿をぼーっと眺めていたら、スカートを翻してくるりと一回転。本の背表紙と姫野が背中合わせになる。
思わず視線がぶつかり、唾を飲み込んだ。
「ご両親がいないからって、えっちなことはなしだよ!」
胸の前で人差し指を交差させ、バッテンを作る姫野に目眩がした。頭痛で鉛より重くなった頭を右手で支える。最近判明したことだが、僕の偏頭痛は姫野がおかしな言動をした時に発生しやすい。
「……お菓子取ってくる」
「無視しないでよ!」
あーだこーだ喚いている姫野を置き去りにして、キッチンでパックのオレンジジュース、二人分のグラス、菓子類を抱える。落とさないように慎重に階段を上った。
「お待たせ」
「あっ、おかえり。気が利くね」
静かになった姫野は僕の方を振り向いて、招待状を見せびらかすように微笑んだ。なんて白々しさ、なんて図太さ。ここにわざわざ来てあげた、と言わんばかりの顔だ。
「突然来たとはいえ、一応客人だからね。最低限もてなさないと」
「突然って……東雲くん、ちゃんとRING見た?」
RING? 何だっけと思っていたら、姫野が呆れた目で自分のスマホを左右に揺らす。あっ、あの通信アプリのことかと思って、部屋の中央の丸テーブルに手持ちを置き、枕元のスマホを確認する。
そこには十五通ものメッセージが届いていた。受信した時間を見るに、僕がちょうど寝落ちした直後みたいだ。
『東雲くん、ごきげんよー!』
『ねぇねぇ。今日暇だから、東雲くんの家行っていい?』
三十分たっぷりと間を置いて、メッセージが続く。
『あれ、まだ寝てたりする?』
『休みだからって寝坊はよくないよー』
ここで一つ不在着信があった。
『もしかして、無視してる?』
『この薄情者めー』
『でも、このまま無視するなら』
『東雲くんの家に行っちゃうからね?』
十分の猶予を挟み。
『いいの? 本当に行っちゃうよ?』
『お化粧始めたから。本当に行っちゃうからね』
二十分後。
『着ていく服を選んでいます。かわいいやつです』
『本当の本当の本当に行っちゃうよ?』
『最後の警告です』
『これから三十分以内に返信がない場合、東雲くんの家に突撃します』
寝ている僕は返信なんてできないまま、その時を迎えた。
『イマカライクネ』
ここでメッセージは終わっていた。
「やんでれ感出てるでしょ。最後のメッセージが良い味出してると思うんだよねー」
後ろから僕のスマホを覗きこむ姫野はどこか誇らしげだ。
「……君はヤンデレの才能があるよ。最初から最後まで」
大変だ。どうやら僕はヤンデレオオカミに目をつけられたらしい。地の果てまで走っても、海の底まで泳いでも、きっと僕は食い殺される。
「やった!」
小さなガッツポーズ。ヤンデレと呼ばれて嬉しいのか。
「まぁ、僕の代わりにお菓子を食べてくれ。僕は多分、美味しくない」
今日の姫野の第一声の思い出し、震える声で標的をすげ替える。作戦は成功して「遠慮なく!」と上機嫌の姫野を見て震えが止まった。
「はぁ……まったく、暇だから突然家に来るなんて、君はどうかしてる。いくらメッセージを送ったところで、相手が反応しないんじゃ意味がない」
「あはは……おっしゃる通りで。さすがの私でも反省しています」
少し厳しめに叱ったつもりなんだけど、ちゃんと反省しているのかな。呑気に口の横にチョコをつけている場合じゃないだろ。
「まぁ、ちょうど暇だったからよかったけど。もし友達ができたら、こういうのは控えた方がいい」
「返す言葉もございません……」
しょんぼりと肩を落とす姫野だったが、お菓子を食べる手は止まらなかった。
本人はちょっとぐらい反省していることだろうし、お説教なんて慣れないことはここでやめておこう。
「……口の横、チョコついてる」
姫野にボックスティッシュを渡しながら、お食事会に参加する。真っ白なカーペットはふわふわで座り心地抜群だ。しばらく座っていなかったけど、今度からは積極的に座っていこう。
「助かります」
英国の淑女を思わせる所作でチョコを拭う姿は、映画のワンシーンのようだった。
「それで、ご帰宅のご予定はいつ頃ですか」
僕はチョコのスナック菓子を一つだけ口に放る。サクサクと小気味良い音がした。
「うわー、帰らせる気マンマンだ。でもごめんね。お母さんに遅くなるって言っちゃったから。東雲くんみたいに嘘つきになりたくないし、しばらくここいまーす」
姫野は菓子だけでは飽きたらず、オレンジジュースにまで手を出した。透明なグラスがどんどん橙色に染まっていく。
「薄々そんなことだろうと思ってたよ。悪いけど、客人をもてなすお菓子はあっても、ゲームみたいな娯楽はないよ。トランプも将棋も、何もない」
少しだけ訂正すると、ゲームはあるけど、僕の持っているゲームは全て一人用のゲーム。二人で遊ぶのに適したゲームは持ってない、ということだ。友達がいないんだから、当たり前と言えば当たり前。今の時代オンラインで不特定多数と遊べるけど、わざわざゲームで誰かと関わりを持ちたくない、というのも多人数で遊ぶゲームを買わない理由の一つだ。
「うへー、残念。一緒に遊びたかったのに。それじゃあほら、友達の家に遊びに来たら、やっぱりあれでしょ。卒業アルバム」
いつの間にか透明に戻っているグラスを片手に、ウインクを飛ばされる。
わざとやっているのかなんて知らないけど、姫野はとてもあざとい。同性からはあまり好まれないタイプだと思う。女の敵は女って聞いたことがあるし、姫野に友達がいない理由も、何となくそれが原因の一つじゃないかと思う。最大の原因は間違いなく金髪だろうけど。
「そんなの、とっくの前に捨てた。今頃灰になってる」
「えー、卒アル捨てちゃったの? ひどーい」
姫野は再びグラスを橙色に染めながら口を尖らせる。
忘れたい記憶がいっぱいに詰まった卒業アルバムなんて、受け取ったその日に捨ててしまった。もちろん、両親にバレないよう細心の注意を払って。
「逆に訊くけど、君は捨ててないの? あまり良い思い出があるとは思えないけど」
「捨てるわけないじゃん。大切な思い出がいっぱい詰まってるもん」
いじめられていたのに大切な思い出、か。いったいどんな学校生活を送ってきたんだろう。
「だって私、過去を変えたから」
「…………ごめん、君が何を言ってるのかさっぱり分からない」
このオオカミは元いじめられっ子で、金髪で、ヤンデレで、タイムトラベラー。これ以上意味の分からない設定を持ち出さないでくれ。
「なら、お馬鹿な東雲くんに一つ問題を出します。東雲くんの目の前に女の子がいたとします」
「ちょっと待って。急に何? 心理テスト?」
僕が聞きたいのは心理テストではないんだけど。
「その女の子は手に何か持っているけど、背後に隠していて何を持っているか分かりません。おまけに俯いているので、どんな表情か分かりません。さぁ、東雲くんなら、この女の子は何がしたくて、どんな表情をしていると思いますか?」
姫野は僕の質問をスルーし、意味不明な出題をしてオレンジジュースを仰ぐ。たくさん喋ったから喉が渇いたんだろうけど、これで何杯目なんだ。
「はぁ……人の話をちゃんと聞けって。まぁ、いいけど……」
残念なことながら、姫野に振り回されるのにはもう慣れてしまった。人間はどんなことでも慣れてしまう悲しい生き物だと痛感する。
「それなら、さぁ! お答えください」
「えーっと……」
表情が見えない、僕から隠すように何かを持っている。だとすると、僕にあまり好意的ではない気がするな。とにかく、その女の子は僕に何も見せたくないんだろう。そうなると……。
皺が少ないピチピチお肌の脳みそで必死に考える。考える、けど、しっくりした答えがまったく浮かばない。まぁ、答えがちょっとだけ気になるし、適当に答えておくか。
「僕を、殺そうとしてる?」
僕のことが大嫌いで目を合わせたくないから俯いている。刺し殺すためのナイフを後ろに隠し持っている。僕を殺したいから。これが僕の導き出した答えだ。
「うわー、ネガティブ思考。やっぱり東雲くんはお馬鹿だね。女の子の気持ちをこれっぽっちも理解してないよ」
やれやれ、といった感じで肩を竦める姫野。僕は質問を無視されたのにも関わらず、表面上はちゃんと答えてやったのに、なんて腹の立つ言い草だ。
「それなら、ポジティブ思考の君の答えを聞かせてよ。それと、どうやって過去を変えたのかも」
言葉の勢いが少しだけ強くなってしまった。いかんいかん。冷静になろう、こんなことで感情的になるなんて馬鹿らしい。感情の手綱を握り直すためにオレンジジュースを一口飲む。
「それなら、どっちにもお答えしましょう。まずは女の子の方だね。正解は『東雲くんにプレゼントを渡したいけど、目が合わせられないほど照れていてるから俯いている』でしたー」
姫野は空になったグラスを置いて、盛大に拍手をしながら満足そうに繰り返し頷く。
「……どうして僕の答えが不正解で、君の答えが正解なんだ」
「ふふっ、誰も不正解なんて言ってないよ。東雲くんのも正解だし、もちろん私のも正解」
「それじゃあ、最初から答えは一つじゃないってこと?」
「うんっ」
これじゃあ問題じゃなくて質問なのでは。いや、今はそんなことどうでもいいんだけど。
「あのね、東雲くん。物事っていうのは、一方向だけから見ちゃダメなの。いろんな方向から見ないと」
「それ、何か関係ある?」
「あるある。大あり。東雲くんはさ、その女の子ことを正面からしか見てないよね?」
「う、うん」
言われてみれば、頭の中の僕は女の子をまじまじと見ていた。真っ正面から。
「でもね、私は違う。女の子の後ろに回りこんで、何を持っているのか確認したし、どんな顔をしてるのか屈んで覗きこんだの。そしたらね、おっきなリボンが付いたプレゼントボックスを持っていて、リボンと同じ真っ赤な顔した女の子だってことが分かったの」
「ごめん、ますます話が見えなくなってきた」
「だからね、過去も見方次第ってこと。私はいじめられてたのは、今までは辛い過去だと思ってたし、何もかも忘れたかたった。でも、東雲くんと出会うために必要なことだったらって思うと、素敵な思い出に変わるの。私はずっとひとりぼっちだっから、東雲くんと友達になれた、って。ほらね? 私は過去を変えたの。辛い過去から、素敵な過去に」
「そんなの、ただの詭弁だ。過ぎ去った時間は変えられない」
聞き覚えのあるおかしな理屈に反論する。僕の方が絶対に正しい。過去は誰にも変えられない。変わったのは過去そのものじゃなくて、現在の過去に対する認識だ。
「詭弁でも構わないよ。私は過去を変えられるし。もう変えちゃったし」
まぁ、卒アルは何度捨てそうになったか分からないけど、と小声で呟く姫野。
「だからね、東雲くんにもいつか来ると思うよ? 私と出会えてよかったって思える日が」
挑戦的な笑みの奥には確かな自信があるように思えた。どこからそんな自信が湧いてくるのやら。
だけど、そんな日が来るとは到底思えない。今の僕からしたら姫野は、僕の日常を土足で踏み荒らす非常識な客人としか見えない。
「まぁ、期待しないで待っておくよ」
それでもまぁ、もしそんな日が来るとしたら、それはそれで面白いかもしれない。なんて思ったり。
「お、言ったなー? 言ってくれたなー?」
そう言ってオレンジジュースをこれでもかと呷る姿は、大衆居酒屋にぴったりだと思った。
「はいはい、言いましたよ。って、いつの間にかお菓子無くなってるし……」
オレンジジュースばかりに気を取られていて、テーブルの上のお菓子が綺麗さっぱり無くなっていることに気が付いた。
姫野はその体躯に見合わない大食いだ。きっと頭の中まで胃でできているのだろう。
「何か無いか探してくる。ちょっと待ってて」
「はーい。待ってまーす。ふへへ」
「ねぇ、もしかして酔ってる? 顔が赤いけど」
おかしいな、普通のソフトドリンクのはずなんだけど。立ち上がるついでに、オレンジジュースの空きパックを四方八方から睨み付けるが、アルコール関連のことは何も書いていない。正真正銘のノンアルコールだ。
「酔ってませんよー、だ」
それは酔っている人間の常套句だ。酒を飲まない僕でも分かる。分からないのは姫野が酔っている原因だけだ。
「一応、水も持ってくるか……」
「うふふふっ。ふひひひひっ」
気味の悪い笑い声を部屋に閉じ込めて、一階のキッチンへ再び向かう。今度持ってくるのは、酔い覚ましの水とおかわりのお菓子だ。
そして何事も起こるわけもなく、キッチンに到着する。お菓子をしまっている戸棚を開け、何か美味しそうなものは無いか物色する。さっき持っていったのはチョコ系ばっかりだったし、今度はしょっぱいお菓子を持っていこう。ポテトチップスとか。
お菓子を抱える腕がいっぱいになった頃、外から車のエンジン音が聞こえた。
閑静な住宅街とはいえ、車だって普通に通る。その時はそう思っていたが、どうもエンジン音が庭から聞こえてくる気がする。うーん、それに聞き覚えがあるエンジン音だな、と思った瞬間。抱えていたうすしお味が落ちると同時に思い出す。
あれは、母さんの車のエンジン音だ。間違いない。子供の頃に、あの音が聞こえたら玄関まで飛んで行ったものだ。
って、今はそれどころじゃない! 姫野の存在がバレたらまずい! 絶対に面倒なことになる!
懐かしい思い出が背中の嫌な汗と共に流れ落ちていく。
とにかく姫野の痕跡を消そうと、ポテチを全て戸棚に戻して玄関に突っ走る。母さんがドアを開けるまでまだ猶予はある、焦るな。そう言い聞かせて姫野の春にぴったりなサンダルを懐に隠す。
あとは僕の部屋に戻るだけだ! アキレス腱を引きちぎる勢いでダッシュする。すると背後のドアがゆっくりと開く。よかった、母さんにはバレずに済んだ。
「おかえり母さん! 今日は帰るの早かったね! お疲れ様、ゆっくり休んで!」
背後の母さんが、息子の奇行に言葉を失っているのがひしひしと伝わってくる。
一方的に仕掛けた勝負に、文字通り勝ち逃げする。勝利者インタビューはもちろんお断りだ。
自己ベストを塗り替えて自室へとゴール。肩で息をしながら扉の内側へ逃げ込んだ。
「うわっ! びっくりした。し、東雲くん、どうしたの?」
「はぁ……はぁ。母さんが、帰ってきた……はぁ」
「どうしてお母さんが帰ってきただけで息上がってるの? それに私のサンダル持ってるし」
床が汚れないようにサンダルを倒して置き、絶え絶えになった呼吸で事の顛末を説明する。母さんの面倒くささを一番強調しながら。
「なるほどね。つまり東雲くんは照れてるわけだ」
「よし、君が何も理解してないことが分かった」
息をしっかりと落ち着け、腕を組んで納得している姫野にもう一度注意をする。
「とにかく、母さんにはバレたくないんだ。協力してくれ。もしも、君がいるのがバレたら……」
「バレたら……?」
神妙な面持ちの二人、張り詰めた空気。姫野の唾を飲み込む音が聞こえたのを皮切りに、僕は真剣な口調で言葉を紡ぎ出す。
「母さんにからかわれ続けて、僕は気が病むだろう。そうしたら、君のことを嫌いになってしまうかもしれない」
姫野にはファミレスの時に、防衛本能による事故だったとはいえ『好き』と言ってしまった。表面上は僕は姫野のことが好き、となっているはずだ。今までの僕の言動を考えたら、一発で嘘だと発覚するが、姫野のことだからそこまで考えてはいないだろう。つまり。
「そ、そんなの……絶対にやだ!」
この脅しの効果は抜群だ。
「よし、それなら僕に協力してくれ。僕も初めてできた友達を失いたくない」
うっすらと涙を浮かべる姫野の肩を掴み、しっかりと言い聞かせた。この様子なら、姫野が「お母さんに挨拶してこなくちゃ!」なんてお馬鹿なことは言い出さないだろう。
こんな時だけ、僕は嘘つきな人間でよかったと思う。良心を持った人間なら、人を泣かせてまで自分の都合を押し付けることはしない。嘘つきでクズでお馬鹿な僕だからこそできた芸当だ。
「うん。でもね、東雲くん」
姫野がおもむろにもじもじし始めると同時に、白い肌がほのかに紅潮する。
「と、トイレ……行きたい。ジュース、飲み過ぎちゃった……」
僕の顔から急速に血の気が引いていく。死人よりも顔を真っ青にしながら、震え始めた両手に力をこめて尋ねる。
「トイレは、一階にしか無いんだ。その……我慢、できる?」
「む、無理……っ!」
姫野が女の子座りで両手を挟み、プルプルと悶えているのが肩から伝わってくる。もしかしたら、限界が近いのかもしれない……。
だけど、今一階に行くのは危険すぎる。母さんとばったり出くわしてしまう危険性大だ。
どうする。姫野の膀胱か、僕の精神か。どちらを優先するべきか一目で分かる二者を天秤にかける。当然、姫野の方を優先するべきなんだけど、なんてうじうじ考えていたら、スウェットの裾を引かれる。
「東雲くん、付いてきて……っ!」
「えっ、ちょっと!」
裾を掴まれたまま一階のトイレへ直行する。足音が響かないように細心の注意を払いながら。
一度案内してあるから、先導する姫野の足取りに迷いはなかった。迷いはなかったのだが「入って!」と緊迫した掠れ声と同時に個室に押し込められてしまった。
「あの……どうして一緒に入る必要が」
できるだけ声を潜める。それでもこの狭い個室に反響する。
「だって、もしノックされたら誰が応えるの!」
目の前の姫野もかなり声を押さえていはいるが、威勢はかなりのものだ。
「だったら僕は外で母さんが来ないようにしてるから!」
「それじゃ誰かいますよって言ってるようなものでしょ!?」
「うぐっ……それもそうか」
今この時間、母さんからしたら僕と母さん以外の人間はいないと思っているだろう。それなのに使用中のトイレの前に僕が立っているのを発見されたら、第三者がいることがそこで確定してしまう。
「とにかく! 終わるまでここにいて!」
「う、うん。それじゃあ、早めに頼む。後ろ向いてるから」
「絶対に! 振り向かないでね!」
いくら姫野でも、こんな状況に陥ってしまえば普通の女の子と大差ない。えっちなことがどうとか言って調子に乗っていたが、可愛いもんだ。まぁ、僕もこれっぽっちも余裕がないんだけどね。
僕は便器に背を向け、なるべく心を無にする。そう、僕はトイレの壁だ。ただの壁なんだ。壁に自我はない。何も考えちゃいけない。背後でクラスメイトの女の子が用を足しているなんてことは、そんなことは……絶対に。
押さえていた僕の煩悩を呼び覚ますかのように、背後で衣擦れの音がする。心臓が大きく跳ね、爪が貫通するほど拳を強く握る。
「耳! 塞いで!」
「ひゃい!」
突然の呼び掛けに、思わず大声が上擦ってしまった。
「しー! 静かにして!」
静かにしたいのは山々なんだけど、今はそれどころじゃない。心臓に殺される。心臓が僕の肋骨をへし折って、筋肉を突き破って出てきそうだ。そのぐらいに心臓が暴れている。
とにかく、今は、集中して、耳を、塞ぐんだ。何も、聞こえないように、しなくちゃ。
無限にも思える時間を、心と聴覚を殺してやり過ごす。何秒? 何分? 何時間? 何光年? 時間の感覚が狂いそうだ。
そんな時間の牢獄に囚われていたら、僕の肩が叩かれる感触。心臓が跳躍した反動で、耳を塞いでいた手が緩んだ。
「……その、終わった……から、もう、いいよ」
どうやら、刑期が終了したらしい。
「う、うん……」
布の音、水の音、紙の音、水の音、布の音。僕は何も聞いていない。僕が聞いていたのは、僕の心臓の音だけ。それだけだ。
「よし。早くここを出よう」
「……うん」
音を立てずに個室のドアを数センチだけ開き、母さんがいないことを確認する。よし、どこにもいないな。
今ふと思ったけど、僕たちが一緒に個室から出る瞬間を目撃されることなんて一切考慮していなかったな。
「ふぅ…………緊張したぁ。手、洗ったらすぐ戻ろ?」
「もちろん」
手早く事を済ませて、抜き足差し足で自室へと帰還する。これでも家主の一人息子なのに、どうして空き巣の真似事をしなくてはいけないのか。
「と、到着ー……」
「僕……生きてる」
無事に帰ってこられた安心感で、二人して床にへたりこむ。どうしてだろうか、僕の部屋がこれでもかってぐらいに広く感じられるのは。
「もう、ああいうのは無しにしてくれ。頼むから。身も心も持たない」
「善処……します。はい」
「とにかく、悪いけど今日はこの部屋で大人しくしていてくれ。食べ物は持ってくるから」
「ありがと、東雲くん。でも、大丈夫。お菓子いっぱい食べたから」
「そうか。分かった」
そうは言ったものの、これからどうするか。だんだん外も暗くなってきたし、そろそろ母さんが晩御飯を作り始める時間だし。
「あっ、そうだ。お母さんに連絡しなくちゃ。えーっと……『今日は友達の家にお泊まりします』っと」
隣の姫野はなんの迷いもなく、スピーディーにメッセージを送信する。さすがRINGだ。この送受信の容易さこそが、RINGの真骨頂なのだろう。
「って、ちょっとストップ。今なんて」
「うん? 東雲くんの家にお泊まりしますって。だって、帰れそうにないでしょ? この状況」
「それは……まぁ、確かにそうだけど」
ここは安全地帯だが、一階は母さんが占領する魔の領域と化している。下手に足を踏み込むと、母さんの毒牙にかかってしまう。
二階からの脱出を視野に入れた時、姫野の頭が前後にゆらゆらし始めた。目もとろんとしていてるし、これはもしかして。
「ねぇ、眠かったりする?」
「あっ! ご、ごめん。その……安心したら、眠くなってきちゃった、かも……」
なんて言っているそばから、またうとうとし始める姫野。
「かも、じゃないだろ。僕のベッド使っていいから、早く寝た方がいい」
「でも……そしたら、東雲くんが」
「僕は大丈夫だから、ベッドで眠ってくれ。君が床で眠ってたら、寝ぼけて踏んづけそうだ」
「なにそれ、ひどーい。でも、お言葉に甘えちゃおうかな。ついでに東雲くんにも甘えていい?」
今にも眠ってしまいそうな目を擦りながらでも、しっかりと僕をからかうのをやめないのは実に姫野らしい。
「甘えるのは言葉だけにしてくれ」
「うわー、東雲くんが冷たいよー。代わりにベッドに温めてもらおうっと」
姫野はおぼつかない足取りでベッドまで行き、肩まですっぽりと布団を被った。
「ふぅ……あったかい……」
「電気は? 消す?」
「そのままで……だい……じょ…………う」
大丈夫と言い切る前に、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「まったく……」
世のわがままな娘を持つ父親の気持ちが、少しだけ理解できた気がする。そして姫野が眠ってくれたおかげで、安心して晩御飯を食べられる。姫野のことだから、僕が晩御飯を食べている間に「暇だったから東雲くんの部屋漁ってみた!」なんて言いかねない。いや、さすがに姫野でもそんなことはしないのかな? どうなんだろう。
必要のない心配をしながら、リビングへ向かう。もう母さんが晩御飯を作り終えていてもおかしくない時間だ。呼ばれる前にさっさと行ってしまおう。
「母さん、晩御飯、は……って」
リビングのテーブル、お昼にちょうど僕が座っていた椅子。母さんもテーブルに顔を伏せて静かな寝息をたてていた。きっと仕事を早く終わらして帰ってきたから、疲れているのだろう。
「おやすみ」
労いの声と毛布を肩にかける。それと簡単なものしか作れないけど、母さんのためにご飯を作っておこう。
慣れない手つきで卵を割り、フライパンでウインナーと一緒に加熱する。レタスは食べやすい大きさにちぎって水でよく洗う。それらを一つの皿に盛り付け、雑に塩コショウをかけて完成だ。
うーん、夜食をイメージして作ったけど、これじゃまるで朝食だ。自分の料理スキルに限界を感じながら、メモと一緒にテーブルに置いた。
『母さんへ
夜食は作ったから温めて食べてね 彰悟より』
文面は母さんのものを丸パクりした。変に文面をいじる必要もないだろうと、夜食のあまりをつまみながら思った。
お昼のお菓子と夜食のあまりで腹八分目になったことを確認し、洗面所で歯磨きを終わらして自室に戻る。
僕のベッド上では、明かりがついているにも関わらず、姫野が気持ち良さそうに眠っている。
「すぅ……すぅ……しののめくぅん……」
「起きてるの?」
返事はない。静かな寝息が聞こえるだけだ。もしかして、寝言か? 驚いたな、本当に寝言を言う人なんているのか。実際に見るのは初めてだ。
「うふふ……ふへへ…………すぅ……すぅ……」
寝言の次は寝笑いだ。いったいどんな夢を見ているんだろう。こんなに気持ち良さそうな顔をして。
そこで微妙に腹が立ったので、部屋の電気を消してやった。明るいのが快眠の条件なら、部屋を暗くしてやろうという魂胆だ。……なんて、細やかな意地悪のつもりだったけど、むしろ快眠になるのではないか。世間一般からしたら、部屋が暗い方が眠りやすいだろうし。あの時は起きている僕に気を遣ってそのままで、と言っただけかもしれない。
「君の言う通り、僕はお馬鹿なのかもしれない」
「すぅ……すぅ……」
「何とか言ったらどうなんだ、一人だけ気持ち良く寝ちゃってさ。まったく…………ふふっ」
まぁ、こんなはた迷惑で図々しい、静かな寝息を聞きながら朝を迎えるのも悪くない。
このままぼーっとしていても退屈なので、そっとカーテンを開ける。冷たい夜空に星は見えないが、半分に欠けた月だけが浮かんでいる。
どうやら、オオカミ男にはなれなそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます