第4話 雨のち晴れのち吐息

 雨粒が群れを成して降りかかる一日が始まった。春には不相応な生憎の天気だが、今日も学校に行かなくてはいけない。空に横たわる灰色の雲が、僕の気持ちを表しているかのようにどんよりして見えた。

 傘立てから安物のお古を引き抜き、無言で鍵を掛けて家を出る。両親はすでに仕事へ行っているため、誰にもなにも言う必要がない。

 雨が傘に弾かれる音をBGMに歩みを進める。ただでさえ学校には行きたくないのに、こんな天気では気が滅入ってしまう。それに昨日の疲労がまだ残っている。足にも心にも、深い傷跡が刻まれている。

 そんなぼろぼろの状態で路地を抜け、信号を渡り、道幅いっぱいに牛歩戦術を展開する中学生たちに舌打ちをしている内に、我が愛しの校舎が見えてきた。

 古ぼけたクリーム色の校舎を睨み付けながら、錆びが目立つ校門をくぐる。

 昇降口で上履きに履きかえ、満席状態の傘立てに無理矢理傘をねじ込み、二階にある僕の教室へ向かう。湿っている靴下に苛立ちを覚えながら、誰ともあいさつを交わさないまま静かに自席に腰を下ろす。

 教室内では朝のあいさつ、世間話、雨への非難の声で溢れていた。しとしとと静かに降る雨とは対極にあるかのような騒音。相も変わらずうるさい。こんな日ぐらい黙っていてくれ。そんな反友好的な思想を隠蔽するために机に突っ伏す。

 ほどなくして、昨日のテスト中に僕をぶっ叩いた担任が来た。これからホームルームが始まる合図だ。クラスメイトたちが一斉に自席につく気配を感じ、僕も上体を起こし、担任の話を右から左へ流す作業を始めた。

 そこから退屈で苦痛な、永遠にも感じられる時間を過ごすことになる。一時間目は眠って過ごし、二時間目はノートをとる振りだけして、三時間目は考え事だけして、四時間目は空腹と戦っていた。

 昼休みを告げるチャイムと同時に、昇降口にある購買へ向かう。校内唯一の購買なだけあって、かなりの生徒が利用する。並ぶだけで面倒だが、お昼を抜くわけにもいかないので、しぶしぶといった感じだ。

 階下の購買にはすでに長蛇の列。溜め息をつきながら最後尾へ付く。蛇の形を成す生徒たちに倣い、僕もスマホを取り出して暇を潰す。放課後以外の時間でスマホをいじるのは基本的に禁止だが、これに関しては教師陣は黙認している。

 一人、また一人と目的の物を携えて去っていくのを横目に、とうとう僕の番を迎えた。購買部ほどちゃんとしたお店という感じではなく、業者が来る形式なので、品揃えは小規模のコンビニといったところだ。

 業者のおばちゃんの接客スマイルを無視して、スマホをポケットにしまう。そして、あらかじめ買うと決めていた昆布のおにぎりを購入する。数ある商品の中でも、必ず余っている不人気商品だ。そんな境遇に親近感が湧いて以来、お昼に必ず食べるようにしている。

 おにぎりを片手に教室へ戻ったが、僕の椅子が見当たらない。椅子に脚が生えて独り歩きでもしたのか。いや、脚は元々あるんだけど。

 そんな冗談で危機的状況を無理矢理笑おうとしたら、下品な笑い声が鼓膜を刺激する。教室のど真ん中、一つの机にクラスのイケイケ男女グループが群がって座っている。声の発生源はあそこだ。四人が発する音量とは思えない。どこにいたって周りの迷惑を考えない人種はいるもんだ。それが進学校であろうとだ。勉強ができる人間が、必ずしも良識のある人間とは限らない。それを僕はこの学校で学んだ。

 この世の無情を嘆きながら廊下に引き返す。言うまでもなく、僕の椅子はあのグループの一人に使われていた。あそこから奪い返す勇気は当然ない。

 戦略的撤退を決行したタイミングで、ポケットのスマホが震える。普段震える事がない、セルフマナーモードに慣れすぎたせいで体が跳ねる。驚きと動揺が抑えきれずにいるが、震えた理由は明白だ。

『今どこ?』

 スマホの小さな画面の中に一通のメッセージ。送り主は当然、姫野だ。

『教室』

 正確には廊下だが、教室前の廊下なのでセーフ。それに教室と一言返信すれば、僕たちの教室だと分かるだろう。

『そっか。お昼はもう食べた?』

『まだ』

『じゃあ一緒に食べよ!』

 嫌な予感はしていたが、この時間のメッセージということは、当然お昼のお誘いだろう。嫌な予感というものは、つくづく当たるものだ。

『分かった』

 一瞬返信に困ったが、ここはお呼ばれされておこう。姫野の場合、一緒に昼食をとるより、お誘いを断る方が面倒な事態に陥るだろう。姫野大華はそういう人間だ。昨日一日でそれを学んだ。

『やった!』

『どこで食べる?』

 姫野は教室の惨状を知っているのだろうか。なるべくなら教室では食べたくない。まぁ姫野が教室で、と言うなら教室で食べるのも致し方ない。立ち食いになるだろうけど。

『屋上の踊り場!』

 ほっ、と胸を撫で下ろす。姫野が教室の惨状を知っているかは分からなかったが、ファインプレー。屋上の踊り場なら静かにゆっくり食べられるだろう。

『了解』

『早く来てね! 待ってるよー!』

 姫野と食べるのはこれで二日目か。すっかり仲良しこよしになってしまった気がする。

 孤独を貫いてきた自分の急変に呆れつつ、スマホをポケットにしまった瞬間に気付く。

 今日、初めて姫野と会話をした。姫野のことだから、教室で話しかけてきてもおかしくないのに。いや、話しかけない方がおかしい。

 そうだ、今日は教室で姫野を見ていない。朝から現在に至るまで、ずっとだ。

 妙な胸騒ぎがして、得体の知れない違和感に襲われる。姫野になにかあったのだろうか。

 ……いや、うだうだ考えてもなにも始まらない。

 そう結論付けて、胸騒ぎと違和感を振り払うために、足早に集合場所へ向かった。

 

 

 

 忙しない生徒たちの合間を抜け、屋上の踊り場へと逃げ込む。ここまで来ると、別世界かと錯覚してしまうほどに静かになる。今までの喧騒が嘘のようだ。明かりがないため薄暗かったが、掃除が行き届いているのか、埃っぽい感じはしない。

「来た、けど……」

 薄暗がりに広がるスペースに話しかける。二人が昼食をとるには十分すぎる広さだが、返答はおろか姫野の姿もない。

「……待ってるって、言ってたのに」

 静けさに声が吸い込まれる。降りしきる雨の音だけが微かに聞こえ、全身が小刻みに震える。

 疲労からか、心労からか、原因不明の脱力感に襲われる。立っているのも困難になり、壁によりかかった衝撃で膝から崩れ落ちてうなだれた。

 騙された、遊ばれた、裏切られた。頭に浮かんでは消えていく、信じたくない現実。

 自分でも、なんでこんな気持ちになっているのか分からなくなる。たった一日一緒にいただけ、それだけなのに、姫野のことが頭から離れない。友情とか、愛情とか、そんなものじゃない感情が溢れて止まらない。

 心がぐちゃぐちゃになり、感覚が遠くなる。聴覚も、触覚も、嗅覚も、視覚も剥がれ落ちていく。

 いや、そもそも姫野は存在していたのか。僕が見た幻じゃないのか。そんな気さえしてきた。

 あの声も、熱も、匂いも、笑顔も。なにもかもが夢だった。僕が孤独の果てに見た、淡い幻想。僕が造り上げた、妄想の産物。それが姫野大華という形を得て、僕の目の前に現れた。

 そうすれば、今までの疑問に合点がいく。なぜ僕が姫野の存在を知らなかったか、なぜ姫野に友達がいないのか、なぜ姫野がここにいないのか。

 答えは単純。元々存在していないからだ。

 存在していない人物が、ここにいるなんてあり得ない。姫野がここにいないのは、僕が知らぬ間に夢から覚めて、現実に戻ったからだ。

 なんて……甘い夢を見ていたんだろう。結局僕は、誰かを求めていたんだ。独りが怖いから。たった一人でもいいから、痛みを分かち合える友人が欲しかったんだ。

 自分の弱さ、突きつけられた現実に、涙が溢れそうになる。

 ダメだ……泣いてる場合じゃない。早く現実を見ないと。向き合わないと。僕は独りでも強く生きて「ごめーん! お弁当、教室に取りに行ってた!!」いかないと。

 …………あれ?

「えっ……」

「いやー待ってるって言ったのに、肝心のお弁当を教室に忘れちゃってさー。急いで取りに戻ってたんだよ。本当にごめんね? 待たせちゃったよね? えへへ……」

 目の前に現れたのは、紛れもなく、姫野大華だ。晴れ渡る春の青空より澄んだ声も、校則違反の金髪も、うざったらしいぐらいの笑顔も、わざとらしく頭を掻いている仕草も、姫野そのものだった。

 その瞬間、全身に温かい血の巡りを感じた。

「どうして……ここに」

 朝から一度も動かしていない声帯が、やっとの思いで震える。乾いた雑巾を絞ったような声だった。

 おぼつかない足で、ふらつきながらも立ち上がる。

 一歩だけ、姫野に近づく。

「どうして、って。私がここに呼んだからに決まってるでしょ」

 急いで走ってきたのか、頬が上気し、前髪が少し乱れている。

「いるんだよね?」

「いだだだだっ! ちょ、いきなりなに!?」

 姫野の頬をつねって、夢の中に囚われていないかを確認する。本来であれば、自分の頬をつねるのが相場だが、今の僕にはこっちの方が効果的な気がする。

「東雲くん、ちょっと変だよ! どうしたの?」

 姫野が僕の手を振り払い、さらに赤みを増した頬をさすっている。

 そこで我に返った。無意識とはいえ、絶対に振るわないと決めていた暴力を……!

「あっ……! ご、ごめん。ちょっと考え事してて……」

「考え事しながら暴力を振るうなんて、東雲くんはお馬鹿で闘争本能に満ちたケダモノだね!」

 涙目でそう訴える姫野の姿は、オオカミではなく小動物の必死の威嚇に見えた。

「本当にごめん。でも、来てくれてよかった」

「……変な東雲くん。それより早く食べよ? お腹空いちゃった」

「うん。食べよう」

 よしっ、と笑顔に戻った姫野が、自然な動きで僕の隣に座る。一時期流行ったルーティンとかいう言葉を思い出した。そして律儀に正座をしたと思ったら、足の間からお尻が床に落ちた。たしか、女の子座りってやつだ。

 僕も今さら恥ずかしがる必要もないと感じ、隣に座り直す。たったの一日で、姫野が隣にいるのが当たり前のことになってきている。

「東雲くん、今日のお昼なに?」

 膝の上で手作りと思われるお弁当を広げながら質問される。淡い水色の巾着から出てきたのは、こじんまりとしたお弁当箱。可愛らしいサイズだが、蓋を開けてみたら一面に広がる真っ茶色。色合いや匂いから察するに、豚のしょうが焼き。実に姫野らしい弁当だ。

「これ。昆布のおにぎり」

 僕が要らぬ心配事をしていたとき、右手の中でずっと僕を見守ってくれたおにぎりだ。少しだけ愛着が湧いたので、よく噛んで食べよう。

「えっ、それだけ?」

「うん、これだけ」

 姫野の頬が、むっと膨れ上がる。どうやら僕の昼食に不満があるらしい。

「ダメでしょ。食べ盛りの男の子が、おにぎり一つなんて」

「……君は僕の母親か」

「お母さんじゃなくても心配するよ。まったく……。はい、あーん」

 僕の口元に丸々一枚のしょうが焼き、そしてかなりの量の白米が突きつけられる。真っ白なお箸がキャパオーバーだと悲鳴をあげている。

「いや、大丈夫」

「あーんっ!」

「あ、あのっ……」

「あーんっ!!」

「……いただきます」

 有無を言わさない勢いだったので、そのまま気圧されて一口いただく。分かりきっていたが、今度は僕の口がキャパオーバー。息苦しささえ覚える量がエントリーしてくる。

 ただ、味の方はかなり良い。肉は柔らかいし、タレがしっかり染み込んでいる。これならいくらでも食べられそうだ。

「どう? 美味しい?」

 言葉ではなく、頭を上下に振ってコミュニケーションを図る。

 にんまりとだらしない笑顔を浮かべているあたり、僕が意図していることは伝わっているらしい。

 嚥下にかなりの時間を要したが、僕の胃と心はしっかりと満たされた。あとはこのおにぎりを食べれば、午後の授業は楽勝で乗り越えられる。

「すごく美味しかった。これ、手作り?」

「もちろん。すごいでしょ?」

「うん、すごい。とってもすごい」

「なにそれ、小学生の感想みたい」

「君ほど日本語が得意じゃないから、ありきたりな感想しか出てこない」

「ふふっ、東雲くんらしいね」

 口に手を当てくすくすと笑われながらも、おにぎりの封を開ける。

 姫野は僕を馬鹿にした顔のまま、すでに三分の一を失ったしょうが焼き弁当に箸をつけた。ファミレスのときとは違い、少量をすくって慎ましく食べていた。そんなぎこちない動きの姫野を視界の隅に置きつつ、おにぎりにかぶりつく。

 いつも通り美味しかったけど、姫野のしょうが焼きには敵わなかった。

 そして僕たちの「ごちそうさま」が重なったのに、時間はさほど必要なかった。

 満足そうにお腹をさする姫野に、心の中で言いそびれたお礼をする。言葉に出すべき事だが、時効だと自分に言い聞かせる。

「よーし、お腹もいっぱいになったことだし、東雲くん、正座!」

「えっ」

 僕のあぐらを指さされ、突然の正座を命令される。

「いいから、正座!」

「あっ、はい」

 言われるがままに姿勢を正し、正座をする。果たしてこれになんの意味があるのか。僕はこれから説教でもされるのだろうか、校舎裏に拉致された時みたいに。

 疑問符を大量に浮かべていると、膝の上になにかが乗った感触がした。見てみると、咲き乱れる金色の花弁の中心、眠たげな姫野と目が合った。

 突然のことに戸惑っていたが、脊椎だけは正常に働き、慌てて顔を背ける。姫野の顔があった方向には、すでにその姿は見えない。その代わりに、立て膝をついて露になった健康的な太ももが見えるだけだった。これもよくない、そう思ってまた顔を背ける。結局、冷たい壁と見つめ合うはめになった。

「うーん、東雲くんの膝枕ちょっと固いなー。まっ、いっか」

「えっと……なにしてるの?」

 視線はそのままに、膝の上で眠っている姫野に問う。なんとなく、人懐っこい野良猫を連想した。

「ねーてーるーの。怒られすぎて疲れちゃったから」

「どうして怒られたの?」

「これ」

 これ、の正体を確かめるべく、恐る恐る視線を姫野の方に戻す。これ、の正体はすぐに判明した。人差し指と親指の間で、金髪がしょんぼりとうなだれている。犯人はこいつだろう。

「あぁ。納得した」

「納得してないで愚痴聞いてよー」

「はいはい、お好きなだけ」

 眠そうな姫野は目は閉じたが、愚痴を漏らす口は閉じることを知らなかった。

「ありがと。で、この学校って金髪禁止なの知ってるよね?」

「もちろん」

 この学校に限らず、だいたいの高等学校は金髪、および染髪は禁止だろう。

「だよね。それでね、午前中、ずーっと生活指導の先生に怒られてたの。髪のことで」

「それは……大変だったね」

 我が校の生活指導の先生は、筋金入りの熱血指導者だ。指導に熱が入ると何時間でも説教をしてくる。当然、この学校で故意に生活指導の先生を怒らせるマヌケはいない。

 人の膝の上で愚痴を漏らす、この大マヌケを除いて。

「大変なんてもんじゃないよー。『去年からの因縁だ』とか言って、休憩なしで説教されたし。本当、地獄だったよー」

「お疲れ様としか言いようがない。……ん? 去年からの因縁って、もしかして去年からずっと金髪だったの?」

「うん。ていうか、入学した時からずっと。それで、入学した瞬間に目を付けられちゃって……」

「そりゃそうだ」

 入学当初から金髪だったのか、知らなかった。高校デビューってやつかな。それにしても、よくあの説教に耐えてまで金髪にしてるな。僕が一年生の頃に生活指導室の前を横切った時、怒声が壁を貫いて廊下にまで響いていた。僕だったら一分で白旗を上げるだろう。はっきり言って耐えられない。あの声を間近で浴びせられたらと考えるだけで頭が痛くなる。

「でもねでもね! 私って成績優秀だから、なにかと大目に見てくれてたんだよね。それだけが救いだったなー」

 あっ、これ内緒ね、と唇に人差し指を添える姫野。進学校という環境が幸いしたのか災いしたのか、成績が優秀ということで、今までなんとか金髪であることを免れていたらしい。

「ただ今日ばっかりはすごかったよ。『お前も二年なんだから、いい加減風紀を乱すな!』って、すごい剣幕。さすがに泣きそうだったー」

 適度に相づちを打っていると、生活指導への愚痴がぼろぼろ溢れてくる。そして口振りから察するに、金髪に関しての説教は今までに何度かあったらしい。それに全て耐えて平然としていたんだから驚きだ。

 きっと僕なんかよりも勇気があるんだろうなと思ったけど、姫野が図太すぎるだけかもしれない。

「でね、私も意地になってさ『金髪で卒業してやる!』って言ってやったの。そしたらすっごい呆れられてさぁ、ぽかーんって土偶みたいな顔したの。あはは!」

 気持ちよく笑い飛ばしているけど、生活指導のことが少しだけ気の毒だと思えた。相変わらず変なところで頑固な姫野と、生活指導の鬼。二人の勝負の行方が気になるところだ。

「まったく……そこまでして金髪にこだわる理由ってなんなんだ」

 言葉を出し切ってから、やってしまったと全身の血の気が引いていく。姫野は過去の話をするとき、苦しそうにしていたことを思い出す。

「あっ……! ごめん、やっぱり何でもない」

 発言を撤回しようとしたところで、僕の手が温かくて柔らかい物に包まれた。

「…………東雲くんなら、いいよ。私、全部話す」

 姫野の小さくて繊細な手が、僕の手を握りしめていた。

「違うんだ! 今のは」

「うーうん。むしろ、聞いてほしい」

 姫野の決意に僕の言葉は遮られた。いつの間にか開かれていた瞳の奥に、確かな意思と覚悟があった。

「……分かった。聞くよ」

「……ありがとう、東雲くん」

「でも! ……苦しくなったら、すぐにやめてくれ。これだけは、約束してほしい」

「うん、約束する」

 姫野が口を開くまでの瞬間、雨の音だけが聞こえる。

「あのね、私いじめられてたの」

「いじめ……」

 決して他人事ではないその言葉が、何度も頭の中で反響する。どこにでもモラルのない連中がいるように、どこにでも心のない連中はいる。

「うん、いじめ。小学校と中学校で、ずっと同じ子たちにいじめられてた」

 姫野の手が冷たく震える。

「私ね、高校に入るちょっと前まで、誰とも喋れないくらいに口下手だったの。人の機嫌を損ねるのがすごく怖かったから」

「それは……どうして?」

「……お父さんがね、怖い人だったの。詳しいことは言えないけど、暴言だってはかれたし、暴力も振るわれた。それから誰かに何かを言うのに臆病になって……あはは。ま、まぁ! 今はもう離婚してて、私とお母さんの二人で暮らしてるんだけどね」

 その後も離婚してからこの辺に引っ越して来たこと、お母さんとは仲良く暮らしていることなどを教えてもらった。

「誰とも喋らないで勉強ばっかりしてて、それがいじめの主な原因だった……のかな? つまんないやつだって。そんな私を庇ってくれた人もいたんだけど、まぁ……なんていうか、だった」

「……その人って、初恋の?」

 昨日訊いた初恋の相手。助けることは叶わなかったけど、庇ってくれる人なら恋をしても不自然じゃない。

 しかし、僕の予想とは裏腹に、姫野の顔が左右に揺れる。

「うーうん。それとはまた別の人」

「そう……なのか」

 意外だったけど、誰かに何かを言うのが臆病になっているのなら、会話なんて一度もしたことはないだろう。そう考えれば、姫野が昨日言っていた『話したことはなかったんだ』という発言とも辻褄が合う。

 そうなると、ますます気になるなってくる。姫野の初恋の相手。って、こんなときに何を考えているんだ、僕は。

「でもね、今私は楽しいよ」

「え?」

「東雲くんに会えたから。東雲くんに会うための試練だって考えたら、いじめられてよかったって思うよ。それに金髪にしたおかげ……なのかな? 東雲くんと友達になれたし」

 姫野の震えていた手に、じんわりと熱が戻ってきた。

「僕と友達になった理由が金髪って、どういうことだ……」

「それはね、今のままじゃダメだ、変わろう! って思って金髪にしたの。お父さんと離れてから嘘みたいに話せるようになったから、何回も友達作ろうとしたんだけど……全然ダメ。そのまま二年生になっちゃったから、同じひとりぼっちの東雲くんに話しかけたの! ひとりぼっちは、辛いからね」

 山頂の天候よりも変化する姫野の表情を見ていると、アクション映画を見ている気分になる。次に何が起こるか予想できないし、ハラハラする。でも、いつもの姫野の明るさが戻っている。それは喜ばしいことだ。

 だけど、あっさりとトラウマを乗り越えた発言をしてるところは、やっぱり姫野なんだなぁと痛感する。姫野を心配する方が馬鹿を見る。心のノートに赤線を引いておこう。

 それと、最後の方の一部分は聞かなかったことにした。ひとりぼっちは認めるけど、いざ言われるとなかなか辛い。

「あのさ、もっと他にやり方ってものがあるだろ……。多分金髪のせいで友達ができないんだと思う。この学校の人間は金髪への耐性がないのが大半だろうし」

「だーめ。一度決めからには最後まで金髪で貫くよ。それに、お母さんも似合うって言ってくれたし」

 どうやら、お父さんとは違って、お母さんの方は自由な考えの持ち主らしい。無責任と言ったらそれまでだが。

 ただその自由さと姫野自身の頑固さが相まって、友達がいない現状が出来上がってしまったのだが。

「そんなこんなで、大華ちゃんのいじめられたアンド金髪にしたエピソードでした。感想は?」

「……今の君が楽しそうで何より」

「えー、そこ? もっとさ、分かるよその気持ち、とか、これからはいっぱい僕と仲良くしようね、とか言ってよー」

「言いません」

「ぶーぶー。東雲くんのケチ。お馬鹿」

 オオカミが豚になった。

「はいはい。それじゃあ、そろそろ教室戻ろうか。五時間目が始まっちゃう」

 体感的には、五時間目開始十分前といったところか。

「えー、やだぁ。もっと話したいー! 午前中東雲くんと話せなかったし! 明日土曜日で学校ないし! 今のうちにたくさん話しとかないと!」

 膝の上で姫野が五体大満足といった感じで暴れる。僕は似たような光景をデパートで見た覚えがある。おもちゃが欲しいと駄々をこねる子ども、それに呆れる親。そんなありふれた日常の一コマを、ぽこぽこパンチされながら思い出した。

「月曜になったら、ね」

「うぐぐぐ……東雲くん成分がぁ……」

 今度は五体大満足とは対照的に、糸が切れた人形のようにパタリと息絶えた。

「……はぁ」

 いっそここに埋葬しておこうか、と考えたが、コンクリートの床は固くて掘れないなと思ってやめた。まぁ、それなら。

「校庭にでも埋めるか……」

「生き埋め!?」

 僕の殺害予告に危険を感じたのか、姫野が一瞬で起き上がった。

 ようやく自由になった足で立ち上がろうとしたが、痺れて思うように動かない。足を駆け抜ける不快感を我慢しているのを悟られないように、涼しい顔で立ち上がる。

「冗談。ほら、行くよ」

 壁際まで後退し、おかしなポーズを決めている姫野に告げる。多分あのポーズは、臨戦態勢のつもりなのだろう。僕には売れない芸人の一発芸にしか見えないけど。

「……はーい」

 僕の階段を降りる足音に負けそうな声だった。それと同時に、背後から元気のない足音が聞こえる。とぼとぼ姫野が付いて来るのが分かった。

 そして、亡者の怨嗟の声が聞こえてきた。しつこく、何度も何度も僕の名前を呼んでいる。僕が何の反応も示さなくても、呼ぶのをやめない。振り向いたら最後、僕を死後の世界へ引きずりこむつもりだ。

 やっぱり、面倒だ。頭を掻きながら改めて思った。

 そんな姫野を意識的に無視しようとした結果、背後からの不意打ちにまったく気が付かなかった。

「……いつかは一緒に入ろうね」

 その言葉を耳打ちして、足早に階段を降りていってしまった。

 やたら甘ったるく、くすぐったい吐息だけが耳に残った。

「何だったんだ……今の」

 しばらくその場に立ちすくみ、姫野の言葉の意味を考えていたが、五時間目開始のチャイムがそれを邪魔した。

 はっと我に返り、見えなくなった姫野の後を追うように、階段を辿っていった。

 

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