第3話 くらい

「ただいま」

 人生で初めて授業をサボった日の夕方、誰もいない我が家に家主の帰宅を告げる。

 両親は夜遅くまで仕事をしているので、僕が学校から帰ってくる時はいつも一人。

 寂しいと思ったことはない。小さな頃からこれが日常だから。むしろ両親には感謝している。僕の学費のため、将来のため、汗水垂らして働いてくれているのだから。

 だから、一生懸命頑張って、寝る間も惜しんで、両親の期待に応えたくて、身の丈に合わない偏差値の高校を受験して、ギリギリ合格した。

 一応、親孝行はできていると思っている。ただ一つ、今の授業の進度に置いてけぼりをくらっていること以外は。

 もう二年生、まだ二年生、これから挽回できると言い聞かせて自室に直行する。

 二階へ上がり、夕日が射し込む自室の扉を開ける。

 鞄を置き、スマホを枕元に放り投げ、制服から灰色のスウェットに着替え、最後にベッドに身を投げる。

 ベッドの上では特になにをするわけでもなく、ただただ時間を棒に振るだけ。両親には悪いが、勉強する気になんてなれない。ようやく学校という監獄から釈放されたところなのだから。

「……はぁ」

 天井を睨みながら溜め息をつく。

 小さい頃から、なにかやらなければいけないと焦る自分、なにもやりたくないと叫ぶ自分、そんな二人に挟まれて、結局なにもできない現実の自分に悩まされている。もうこんな日々も自分もうんざりだけど、行動に移せない。

 だって、僕は変化なんて求めていないから。変わることは怖い。今まで積み上げてきた物が崩れてしまいそうで。

 だけど、そんな僕の日常は、少しだけ綻んでしまった。

 そう、あの肉食金髪女、姫野大華が現れたことで。

 『今日の出来事は夢だった』『姫野大華なんて人間は存在しなかった』と、なん回も期待したが、耳元の着信音が、そんな淡い期待を打ち壊す。普段鳴ることのない僕のスマホは、きっと姫野からの連絡で悲鳴を上げたのだろう。少なくとも、僕の耳にはそう聞こえた。

 枕元に放ったスマホを確認する。

『東雲くん! 今日すっごく楽しかったね! また明日も遊ぼ!』

 僕の気持ちなんて微塵も考慮していないメッセージが一通届いていた。送り主は案の定、姫野大華である。

 うーん、返信するのも面倒だし、無視するか悩む。僕の良心との葛藤。

 スマホとにらめっこすること約三分。僕の良心は腐り切っていないことが判明した。

『はい』

 それと同時に、僕が塩対応人間と呼ばれる原因も判明した。こんな返信をされたら、正直傷つくと思う。少なくとも、僕のガラスのハートはきっと粉々になる。

 まぁ返信しただけましか。と、自分に言い聞かせる。

 用の済んだスマホに充電器を繋げ、再び枕元に放る。

 ごめんね僕のスマホ。今はお前に構ってやる体力がないんだ。どこかの誰かさんのせいで疲れてるんだ。早く眠りたいんだ。

 そしてゆっくりと目を閉じる

 あぁ、このまま死ぬように眠れたら、どれだけ楽なんだろう。

 あぁ、なんて夢心地だろう。なんでかは分からないけど、今日はすっごく気持ちいい。

 あぁ、大切ななにかを忘れている気がするけど、そんなのどうでもいいや。

 今はただ、眠りたいんだ。

 そっと意識が落ちて行こうした瞬間。

 バコッ。

 突然の衝撃、そして頭部の軽い痛み。

 はっ、と目が覚め、現実に戻される。

 (そうだ……思い出した。僕、テスト中に寝ちゃったんだ)

 目が覚めると、僕はシャーペンの走る音がこだまする教室にいた。

 そして僕のすぐ隣、出席簿を持った担任の教師が無言で睨んでくる。きっとさっきの衝撃は、あの出席簿で叩かれたものだろう。

 どうやら今まで見てきたのは、全部夢だったらしい。家に帰ったのも、いろいろと難しいことを考えていたのも、姫野からのメッセージも、なにもかも。両親への感謝の気持ちは夢ではないが。

 って、今はそんなのどうでもいい。テストの見直しをしないと。

 唾液で濡れた答案用紙の見直しをする。眠る前の僕がなにをしていたかの確認と、すぐ隣の担任を追い払うためだ。真面目に見直しをしていたら、どこかへ行ってくれるだろう。

 そして判明する、どうやら歴史のテストの最中に寝ていたらしい。分からない問題は、適当な偉人の名前が書いてある。自信のあるところは、自分でも驚くぐらいに丁寧な字で書いてある。一応、解答欄は全部埋まっている。だけどちょっとまずい。丁寧な字で回答してある箇所がほとんどない。赤点ギリギリかもしれない。歴史はもともと得意ではないが、赤点だけは避けておきたいところだ。

 唯一の救いは、このテストが定期試験ではなく、授業内小試験であること。これで赤点を取ったとしても、定期試験で巻き返せる。まぁ、成績の方は苦戦を強いられるだろうけど。

 思えば、今までテスト中に起こされたことなんてなかったな。小学生の時も、中学生の時も、テスト中に寝てしまったらチャイムの音で起きていたというのに。と、去っていく担任の背を見て思った。

 やっぱり、進学校だからなのかな。テストには厳しいのかもしれない。

 そんなくだらないことを考えながら、形だけの見直しをして、テスト終了までの時間を潰した。

 授業終了、そして放課後を告げるチャイムが鳴り響き、僕の小汚い答案用紙は回収され、無事にテストは終了した。結果はあまり期待していない。

 教室内では、クラスメイト同士で分からなかった問題などの確認をしている。嬉々とした声や、悔しそうな声、終わったテストに興味を失った声、いろいろな声が聞こえる。

 今日の授業が全て終わり放課後になったが、一眠りしてから帰ろう。どうせ帰っても心配してくれる家族はいないし、体と心が疲れきっているからだ。

 僕はいつも通りにうつ伏せになり一眠りする。今回は寝たフリではないので、周りの雑音にはこれっきり一切耳を傾けない。

「東雲くーん! テストどうだった?」

 繰り返す、僕は周りの雑音に一切耳を傾けない。特に、背後から聞こえたであろう特大の雑音には。

「あれ、本当に寝ちゃってるの? ねぇねぇ、東雲くん。答え合わせしようよー」

 体がゆっさゆっさ揺さぶられる。このままでは寝たフリすらままならない。どこかの誰かさんのせいでさっきまで全力疾走していたんだ、少しは休ませてほしい。そもそもの話、テスト中に居眠りしたのだって、僕の寝たフリを邪魔している人間に振り回され、へとへとに疲れ果てたのが原因なのに。

「起きてよ東雲くーん……。私、寂しくて死んじゃうよー……」

 寂しくて死んでしまうのはうさぎと相場が決まっている。こんなウザ絡みする肉食動物は、孤独死とはあまりに無縁すぎる。

「東雲くーん。起きないなら私にだって考えがあるんだよ?」

 また面倒な事になりそうな予感がする。どうして姫野はこうも僕の日常を壊すんだ。

「……分かった分かった。答え合わせしよう」

「あっ、起きた。おはよう、東雲くん。テスト中もぐっすり寝てたねー。お昼いっぱい食べたからかな?」

「おはよう。お昼にいっぱい走らされたから寝ちゃったよ。誰かさんのせいで」

「のんのん。違うよ、東雲くん。誰かさんじゃなくて大華さんだよ。あはは!」

 どうやら自覚症状はあるらしい。

「いやいや、全然面白くないし」

「えー、結構面白いと思ったんだけど。ダメ?」

「ダメです。そもそもなにが面白いと思ったのか」

「大華の『か』と、誰かの『か』が掛かってる! ほら、面白い!」

「君はもう少しお笑いとはなにかを勉強した方がいい」

「そっかぁ……。じゃあ、答え合わせしよっか」

 この肉食動物、『じゃあ』の使い方を知らないらしい。話がとんでもないぐらい飛躍している。

「はいはい。それじゃあ答え合わせしようか。なにか気になる問題ある?」

 いちいち姫野の発言に突っ込むのも疲れるので無視しよう。それでさっさと答え合わせを済ませてしまおう。

「ないよ」

「あーその問題ね。その問題なら…………え?」

「あれ、聞こえなかった? 気になる問題ないよ。全問解けたし、全問自信あるよ」

「……嘘でしょ?」

「嘘じゃないって、本当だよ」

「……その髪で?」

「金髪は関係ないって」

「……じゃあなんで答え合わせしようって」

「東雲くんと話す口実が欲しかっただけ。言わせないでよ、恥ずかしい」

「……頭痛くなってきた」

「えっ、大丈夫? 保健室行く?」

「……肩貸して」

「しょうがないなぁ。初回サービスで無料にしとくね。はい、よいしょっと」

 冗談抜きで頭痛がしてきたので、姫野の肩を借りて保健室へ直行する。あの時と同じで、クラスメイトの視線が痛かった。

 クラスメイトの視線を背中に受けながら廊下に出る。放課後ということもあり、多くの生徒が廊下を行き交っている。

 僕たちを怪しげに見つめる生徒がいたり、関わってはいけないと露骨に視線を反らす生徒がいたりと、あまり気分が良いものではなかった。

「って、本当に頭痛いの? ごめんね、東雲くん」

 僕の顔の真横で申し訳なさそうに目を伏せる姫野。僕は元々偏頭痛持ちだから、この頭痛が完全に姫野のせいかと言われると断言はできない。ただ、姫野を気遣ってやる義理もないし黙っておこう。

「ちょっと辛い。……ちなみに、この前のテストは?」

 僕たちに向けられた視線など気にする暇もないので、歩みを進めつつ敵情視察を行う。

 この前のテストとは、先週の現代文のテストのことを指している。クラスの平均点は七十二点。僕の点数は六十九点。平均点を少し下回る結果となってしまった。僕が一番得意としている科目で平均点を下回る結果となって、僕はショックを受けた。

「あー、現代文だっけ? 満点だよ。花丸満点。いえーい」

「……嘘でしょ?」

「嘘じゃないってー。なんなら証拠あるよ?」

 にひひ、と無邪気な笑みを向けてくるところに悪意はないことが見てとれる。

 この姫野大華とかいう人間、まったくもって底が知れない。突然友達がどうとか説教してくるし、授業はサボらされるし、かと言って不真面目かと思ったら頭は良いし。

 見た目と中身の反比例が凄まじい。

 僕の勝手な偏見だが、金髪の女子高生なんて全員不真面目だと思っていた。いや、授業はサボるんだし、不真面目なのかもしれない。だけど、こんな秀才だとは思いもしなかった。

「いや、見せなくていい。ていうか見たくない」

「あはは! ねぇねぇ、今度一緒にお勉強する? お馬鹿な東雲くんのために」

 慎重に階段を降りつつ、言葉のナイフを振りかざされる。悪気はないんだろうけど、僕の心が言葉のナイフでえぐられる。こんな凄惨な惨殺事件は血に慣れている警察でも腰を抜かすだろう。そのぐらいに僕の心はズタズタにされた。

「……期末テスト前によろしくお願いします」

「やったー! こっちの方も初回サービスで無料にしとくね。ふふっ」

「ねぇ、その初回サービスっての、はまったの?」

「これ? なんかねー、テスト中に頭の中ぐるぐるしてたんだよね。どうしてだろ」

「テレビで見たとか?」

「うーん、分かんない。それより頭痛、どう?」

「まだ少し痛むかな。でも……」

「でも?」

「今は頭より皆の視線が痛い」

 階段降りた先、僕たちの現在位置は昇降口。ちょうど放課後ということもあり、多くの生徒達が群がっている。そんな所で金髪イケイケ女子と黒髪シケシケ男子が一緒に歩いていたら、当然注目の的になってしまう。

 それに金髪イケイケ女子の肩を借りているんだ、そこら辺の大道芸人より視線を奪える状況が整っている。今思えば、頭痛だけで肩を借りるのは大袈裟だったかもしれない。

「さっさと保健室行っちゃおうか」

 誰にも聞こえないような耳打ち。息がかかって少しくすぐったい。

「いや、もう大丈夫。だいぶ良くなったから」

「いいから、来て」

「えっ、ちょっと!」

 足早に生徒たちの間を抜ける姫野。肩を貸してもらっている僕は、当然付いていくしかなかった。

「もう大丈夫だって!」

「ダメ。ちゃんと薬貰わなきゃ」

 まただ。姫野は変なところで頑固になる。ただ今回ばっかりは、僕を想ってのことだろうし、これ以上強く否定できない。

 生徒の群れを抜けると、人気が一気になくなった。上階からの楽器の音、校庭からの運動部の掛け声がほんの少し聞こえる以外は、姫野の少し乱れた息づかいが聞こえるだけ。

「東雲くん、ごめんね。ちょっと速かったよね」

「……大丈夫」

「そっか、それならよかった」

 これっきり会話はなくなった。保健室へ向かう足音が異様に響く。

 妙に気まずい空気が僕たちを包む。心なしか、姫野が申し訳なさそうな顔をしている気がする。いや、気のせいか。姫野がそんなこと思うはずがない。こんな図々しいやつが。

 板張りの廊下を進み、沈黙を携えたまま保健室へ到着する。

 コンコン、とノックで入室の許可を得ようとしたが、返事が返ってこない。

「先生! 東雲くん、頭が痛いらしいんですけど……」

 姫野の呼び掛けにも返事はない。無機質な白の扉は沈黙を保ったままだ。

「いないのかな」

「多分ね。じゃあ、中でちょっと休んでよっか、東雲くん」

「う、うん」

 扉を開けると、真っ白なはずの保健室は、夕陽の色に染まっていた。目に染みるほどの橙色に目を細める。

「東雲くんはベッドに座ってて。カーテン閉めてくるから」

「助かる」

「いえいえ」

 ようやく姫野に解放され、二つ並んだ内の窓際にあるベッドに夕陽を背にして腰を下ろす。夕陽に照らされた僕の影が床に伸び、ギシッ、とベッドが軋む音が鳴る。

 全てのカーテンが閉ざされると、今度は夜の中に閉じ込められたかのように暗くなった。

「うわっ、すっごく暗いね」

「大袈裟」

 姫野はそう言うけど、実際のところ薄暗い程度だ。ただ、近くは見えても、遠くははっきりとしない。窓際に立つ姫野が、どんな表情をしているかよく分からないぐらいには。

 でも、今はそれぐらいがちょうど良いかもしれない。この暗さは落ち着くし、休むのにはもってこいかも。

「ねぇ、東雲くん。このまま先生が来なかったらどうする?」

 僕を試す声に首をかしげる。そんな分かりきったことを訊いてなんになるのか。

「どうって……。そんなの帰るに決まってる」

 このまま保健室にいたところで、先生が来ないのでは治療どころではない。勝手に薬を使うわけにもいかないし、帰ってさっさと寝た方が良いだろう。

「……そっか、そうだよね」

 姫野はカーテンに寄りかかり、妙に残念そうな声を漏らす。なにが残念なのかは分からないけど。

「私なら、私ならね……」

「私なら?」

「このまま東雲くんと、二人っきりで話がしたい」

「急になに言ってるの?」

「…………って、本当だよね!? 私、なに言ってるんだろ。あー! 馬鹿みたい! 今の忘れて!」

 我に返った姫野が恥ずかしさに悶え、頭を抱えているのがうっすらと見える。ふっ、いい気味だ。そのままもがき苦しむといい。

「まぁ、気が向いたら忘れとく」

「ダメ! 今忘れて!」

「さすがに無理。鳥じゃあるまいし、そんなすぐには忘れられないって」

「だよねー……。はぁ、なんか疲れちゃった。隣、座っていい?」

「……どうぞ」

「ありがと」

 あの嫌な音と共に、姫野は顔が見えるほどすぐ隣に座った。その際に姫野が両手を突いたので、ベッドに突いていた僕の手を慌てて引っ込める。

「ねぇ、東雲くん。質問していい?」

 姫野はこちらには顔を向けずに、どこかを見つめたまま足をぶらつかせている。

「また唐突に……。面倒なのは勘弁してくれ。ちょっと休みたいんだ」

 それにさっきも質問したばっかりだろ。新聞記者か。

「それなら、全部『はい』って答えていいよ。理由はいらないし、嘘でもいい。ただ『はい』って答えるだけ。それならいい?」

「……まぁ、それなら」

 面倒な予感がするけど、休憩ついでの暇潰しぐらいにはなるかな。本音を言ってしまうと寝かせてほしいけど。

 いざとなったら、適当に、穏便に済ませればいいだけの話だ。それに姫野もそれを了解していることだし、大事にはならないだろう。

 ファミレスでの忌まわしき記憶を頭の隅に追いやり、自分を納得させる。今度は口が裂けても『好き』なんて言わない。

「ありがと、東雲くん。やっぱり優しいね。じゃあ、一つ目の質問。テストで良い点を取りたいですか?」

「はい」

 初っぱなから耳が痛い質問だ。誰だってテストで良い点を取りたいに決まっている。僕の場合は特に、両親を安心させるためにも、是非とも取りたい。これは嘘偽りのない『はい』だ。

「二つ目。私と一緒に勉強したいですか?」

「……はい」

 これは渋々の『はい』だ。姫野と一緒に勉強なんてしたくはないが、成績アップのためなら仕方ない。

「言質取った。にひひ」

 姫野はベッドに座ってから、初めてこちらを振り向いた。薄暗い室内でも腹立つ顔をしているのがよく分かる。

「それはあんまりだ。僕の言質を返してくれ」

 嘘でもいいと言ったのは姫野なのに。さっきの『はい』は嘘ではないが、まんまと罠にはまってしまった。

「返してあげないよー。それより三つ目の質問。私はこの部屋で嘘をついたと思いますか?」

「…………はい?」

 僕の要求が軽く流された挙げ句、意味不明の質問を突きつけられる。

 どこまでも真剣な眼差しを向けられ、思わず呼吸を忘れる。この大きな瞳に見つめられると、僕の心を見透かされそうだ。それでも姫野の瞳から目が離せない。僕の視線が姫野の瞳に吸い込まれていく。

「だーかーらー、私はこの保健室で一度でも嘘をついたと思いますか、ってこと」

 嘆息と共に文字通り小首をかしげ、こちらを覗き込むような視線を感じる。さっきまでの真剣さは薄れたが、妙な緊張感に心がざわつく。

「……そんなの知らない。正解は?」

「んふふー、それでは教えてあげましょう。正解はー……じゃかじゃかじゃかじゃかじゃん! ついてません、でしたー」

「えっと……それでどうしたの?」

「つまり、こういうこと。えいっ」

 それはあまりにも突然のことだった。

 姫野の繊細な指が僕の頭の自由を奪い、なにか柔らかくて温かい物を押し付けてきた。すると僕の左の耳に、一定のリズムでなにかが鼓動する音が響く。制服のブラウス越しでも確かに伝わってくる。とてもつもない速さだ。

「いざやると緊張するなぁ……」

 微かに聞こえたその声に、心の余裕がないことが伝わってくる。

 僕は今姫野に抱き締められている。厳密に言うなら、姫野の胸に強引に耳を押し当てられている。

「聞こえるでしょ? 私の心臓の音。私ね、今こんなにドキドキしてるの。こんな暗い部屋で、こんなに近い距離で、二人っきりだから」

「……えっと」

「さっき言ったでしょ? このまま東雲くんと二人っきりで話がしたいって。あれ、嘘じゃないよ。ずっと話してたいんだ。陽が昇って、沈んで、月が昇って、沈んで。それを何回も何回も繰り返して、私たちが死んじゃうまで、ずっと」

 どんなにくだらない話でもいいんだ、と付け加えた声はどこか悲しげだった。

 突然の告白に、なんとか冷静さを保とうとするが、心臓の音がうるさい。冷静ではいられなくなる。これは、どっちの音だろう。姫野の音か、それとも僕の音か。

「……急にどうしたの。理由になってないし」

「…………分かんない。でも、今は、こうしていたい」

 抱き締める腕に力が込められる。姫野の体が微かに震えている。心細さに怯える子供のように。

「ごめんね、変だよね。今日初めて話したばっかりなのに、こんなことして。自覚はしてるんだ。でもね、東雲くんを見てると、放っておけないの。私とそっくりだから」

 私とそっくり、か。どこを見たらそうなるんだろうか。僕と姫野は見た目も、性格も、話し方も、全てが正反対の人間だ。交わることなんてないはずだった。交わってはいけない存在だった

 今日という日が来るまでは。

「……似てないよ、どこも。僕たちは」

「似てるよ。だって、私も本当の友達、一人もいなかったもん。東雲くんが初めてだよ」

「……なるほどね」

「疑わないの?」

「……まともに人付き合いをしたことある人なら、今日初めて話した異性を抱き締めたりしない。疑う余地がない」

「ふふっ、それもそうだね……。って、ごめんね、いつまで抱き締めてるんだろ、私」

 姫野の音と熱が離れていく。

 左耳に手を当てて確かめる。姫野の音が、熱が、確かにここにあったことを。

(しばらく消えてくれそうにないな)

 嬉しいのか悲しいのか分からない感情が溢れてくる。今までの虚ろな人生で、一度も抱いたことのない感情だ。

「あのね、東雲くん。私ね、人との距離感が分からないの。ちっちゃな頃から」

 さっきまで僕がいた胸を苦しそうに押さえながら、今にも泣きそうな声で呟いた。

 何回でも言うが、僕たちは今日初めて会って、初めて言葉を交わした仲だ。

 なのに、なんで姫野は僕にこんな話をするんだろう。

 どれだけ考えても分からない、分からないけど、今は姫野の力になりたい。どんなに微力でも、姫野のために。なにを考えているんだろう、僕は。今の今まで姫野を邪険に扱っていたつもりだったのに。

「だろうね、今日の君を見てれば分かる」

「だよね…………。ごめんね? こんなめんどくさい私で……」

「いや、これでいい」

「……えっ?」

「僕も友達がいないから分かるよ。人との距離感が分からないって気持ち。だったらさ、友達がいない者同士、これが僕たちの距離感ってことでいいんじゃない? ……そうしとこうよ」

 これは紛れもなく、純度百パーセントの僕の思いだ。

「…………うんっ! そうしとく!」

 姫野の満面の笑みは、太陽のよりも輝いて見えた。どんなに部屋が暗くても、どんな暗闇が襲ってきても、この笑顔にだけは影を落とすことはできないだろう。

「やっぱり友達と話してると楽しいよ」

「話し相手が僕じゃなかったら、もっと楽しいだろうけどね」

「うーうん。東雲くんだから楽しいんだよ。東雲くんと話してる時が一番楽しい。東雲くんと一緒にいる時が一番嬉しい」

「……君は本当に変なやつだ」

 こんなにストレートな感情をぶつけられたのは初めてだ。

「えへへー、それほどでもないよー」

「変人扱いされて喜ぶなんて、本当に変なやつだな。まぁいいや、さっさと帰ろう」

 恥ずかしさを悟られない内に立ち上がる。このままここにいては、恥ずかしさのあまり死んでしまうかもしれない。

 荷物を教室に置いてきてしまったし、さっさと取りに行って、さっさと帰ってしまおう。一刻も早く家でゆっくりしたい。

 薄暗い部屋の中をゆっくりと歩いていく。隣にあるベッド、薬品棚、先生が使う机など意外と障害物は多い。ぶつからないように慎重に慎重を重ねる。

 結局、保健室の先生は来ないままだった。あんな状況見られたらまずかったので、不幸中の幸いというやつだろうか。

 それと、薬を貰ってないことは黙っておこう。姫野自身忘れているみたいだし。このままならバレないだろう。頭痛だってすっかり良くなったし。

「あっ、待ってー。私も一緒に帰る」

「勝手にどうぞ」

 制服の裾を掴まれ、さらにゆっくりと歩みを進め、二人揃って保健室を後にする。カーテンを開けてくるのを忘れたけど、まぁいっか。

 等間隔で設置された窓から夕陽が溢れ、橙色に染められた廊下には、誰の姿も見えなかった。大方の生徒は家に帰ったか部活に行ったのだろう。

「そういえば、東雲くんは部活とか興味ないの?」

 肩を並べ、二階にある僕たちの教室へ向かう途中、またまた話を振られる。姫野は友達がいない割にはお喋りが好きならしい。

「まったく。人と関わるのは好きじゃない」

 昔から人と関わるのは好きではない。面倒だとすぐに嘘をつくし、人に合わせるっていうのがどうにも得意じゃない。

「人と関わるのは好きじゃないのに、どうして私とは関わってくれるの? 嫌なら無視すればいいのに」

「君は無視しても無駄だから。むしろ無視したらひどい目に遭う。違う?」

「うーうん。全然違わないよ。さっすが東雲くん、私のこと分かってくれてるね! そんな東雲くんが大好きだよ!」

 ちょこんと肩をぶつけてくる姫野。僕と姫野の身長差的に、二の腕辺りにぶつかる。

 そして白く美しく並んだ歯を見せ、にかっとした笑みを向けてきた。不覚にも少しだけ可愛いと思ってしまった。

「……本当に変なやつ」

 僕に好意を向ける人間は過去に一人だけいた。幼稚園の頃の話だから、さすがに記憶は定かではない。どんな容姿で、どんな話し方で、どんな名前なのかも覚えてない。ただ、そんな子がいたという記憶しかない。

 もしかして、その時の子が姫野なのか?

 教室で初めて話した時、僕のことを知っているみたいだったし、もしかしたら。それに、僕に好意を向ける危篤な人間が何人もいるとは思えない。

「ねぇ、君って好きな人とかいたの?」

 真相を確かめるべく、鼻歌交じりのご機嫌な姫野に質問する。こんなことを確認して何がしたいわけでもないが、一度気になるとどこまでも気になってしまう。

「……好きな人? もちろん。それがどうしたの?」

 あっさりと好きな子がいたと言われ、正直拍子抜けだ。姫野のことだから、どうせもったいぶられるんだとばかり思っていた。

「その人がどんな人だったか聞きたい」

 これではっきりするだろう。僕に好意を寄せていた子が姫野かどうか。

「それって……もしかして……。あー、ふーん。そういうことかー、なるほどねー」

「何言ってるの? 一人で納得してないで早く教えてよ」

 何故か質問に答えてくれない。それどころか、はぐらかされる気がしてきた。

「いやー、東雲くんもついにその気になってくれたんだなー、って。嬉しいなぁ、えへへ」

「ちょっと待って。絶対何か勘違いしてる」

「へへーん、勘違いさせる方が悪いんだよー」

 姫野は先に階段を上り、後ろで指を組み、踊り場でくるくる回る。スカートがふわっと広がり、一度だけ振り向きざまに悪戯な笑みを浮かべる。夕陽に照らされた金髪と横顔が、この世の物とは思えないほどに眩く、美しく輝いていた。

 そんな姫野を階段の下から見上げ、本当によく笑い、よく泣く人だと思った。自分の感情を隠す気なんて、さらさらないんだろう。少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいと思った。一度でいいから、あそこまで自分に素直になってみたいものだ。もちろん、他人にも。

 そこでふと考える。どうしてこんな素直で、明るくて、お喋り好きな姫野に友達がいないんだろう。本人は人との距離感が分からないと言っていたけど、それが原因なのか? いや、それだけじゃない気がする。もっと何か大切なことを隠している気がしてならない。

「一つだけ教えてあげるね」

 突然動きを止めた姫野に優しく見つめられる。逆光に包まれた姫野の表情を確かめるために手をかざす。姫野は何かを隠すような複雑な顔をしている。

「その人はね、私の初恋の相手。でも、一回も話したことはなかったんだ」

 平然と告げられたその事実に、一瞬言葉を失う。

 あのお喋り好きの姫野が、一回も話したことがない。初恋の相手と、一回も話したことがない。分からない。姫野大華という人間が分からない。謎が多すぎる。

 人との距離感が分からないのなら、今日の僕のように、無理矢理話しかけていてもおかしくはない。姫野の性格を考えたら、むしろ話しかけない方が不自然だろう。それに僕が初めての友達だというのもおかしい。クラスの中心的存在でもおかしくはない性格と容姿なのに、これも距離感が影響しているのか?

「あれ、期待してた答えと違った?」

「……いや、十分だよ。ありがとう」

 ぎこちない笑顔を浮かべる姫野の姿が痛々しい。姫野がどんな覚悟で僕にこの事実を告げたのかは計り知れない。知らない間に姫野に無理をさせて、傷付けてしまった。

 自分の不甲斐なさに下唇を噛む。

 結局、姫野の好きだった人が、僕だったかは分からなかった。だけど、姫野が僕の名前を出さなかっただけで、初恋の相手が僕の可能性はある。だが確証がない。それなら。

 ダメだ、これ以上詮索するのは止めておこう。姫野はきっと、あまり過去を知られたくないのだろう。姫野は過去を話す度に苦しそうにしている。保健室のときだって、今だってそうだ。

 それに姫野の過去を知ってどうする。僕に何ができるんだ。

「東雲くん」

 突然頭上から降ってきた呼び掛けで我に返る。どこまでも澄んだ声だった。

「帰ろっか」

 そっと差し出された右手に、僕は応えることができなかった。

 

 

 

「今日はごめんね。変な話ばっかりで」

 夜と夕方の空が混ざり合う頃、たまたま家の方向が一緒だということが判明したので、姫野と帰路を共にする。車の往来が少ない住宅街の路地なので、この時間帯ともなると、とても静かで過ごしやすい。所謂、閑静な住宅街ってやつだ。

 あれから気まずい雰囲気にはならずに、いや、姫野が気を遣ってくれたおかげで、気まずくならずにすんだ。

 姫野に罪悪感を抱く。

「いや、僕こそごめん。どうもデリカシーってものが僕には欠けているらしい」

 僕の渾身の自虐に、姫野は目を細めて笑ってくれる。

「友達のいない東雲くんには難しいよね。デリカシーなんてものは」

「……まったくもってその通りです」

「あはは! まぁ、私も友達いないんだけどね」

 宙を仰ぎながらそう付け足す姫野は、寂しそうには見えなかった。むしろ、どこか清々しい顔に見える。

「あっ、東雲くん。お腹空かない?」

 頭上に見えない豆電球を光らせる姫野が、突然僕の空腹事情を訊いてきた。

 お昼にあれだけ食べたのに、もうお腹が空いてきたのか。いや、世間はそろそろ晩御飯の時間だし、おかしくないか。

「もしかして、また奢らせるつもり? 勘弁してくれ。ハンバーグならともかく、僕の財布の中身まで食べないでくれ」

 残念ながら、バイトもせずに貯金を食い潰している学生の財布に余裕は無い。特に、お昼にハンバーグ三皿分を奢った学生なら尚更だろう。

「いやいやいや! 私、そこまで乞食じゃないよ!」

 私を何だと思ってるの、と怒り終わった姫野が鞄をまさぐる。その音から察するに、姫野の鞄の中にはたくさん物が入っていると思われる。僕の財布と違って。

「はい、これ。お馬鹿でデリカシーのない東雲くんにあげます」

 今まで何度も罵倒されてきたが、『お馬鹿』だけは一度もスタメン落ちを知らない。チーム罵倒のキャプテンだ。

 そして姫野が探していた目的の物は、駄菓子屋やコンビニで売られているビーフジャーキーだった。

 おおよそ女子高生には似つかわしくないそれを手渡され、驚きを隠せない。

「君は……その、本当におっ……オオカミみたいだね」

 君はおっさんみたいだね、と言いかけた口を無理矢理軌道修正する。驚きのあまり本音が漏れかけた。危ない危ない。それに食べ物を貰っておいて、人のことをおっさん呼ばわりするのは、いくらデリカシーに欠ける僕でも失礼だと分かる。それに相手は姫野だ、何をされるか分かったもんじゃない。

「オオカミ? どうして?」

 オオカミと称した理由を尋ねられる。当たり前だ、突然オオカミみたいだと言われたら誰だって気になる。

「えーっと……君は肉食だし、一匹狼だし、名前もそっくりだし。それに……」

 うんうんと相槌を打ってくれるので、饒舌になってその場しのぎの理由をつらつらと並べてしまう。

「それに?」

 それに、ともったいぶったけど、少し言うか迷う。自分でも思う、最後の理由はかなり痛い。物理的な痛みではなく、黒歴史的な精神に来る痛みだ。

 しかし、ただ純粋に理由を求める姫野の視線を無下にするのは、何となく気が引けたからできなかった。

「それに……嘘つきの僕を食べに来たから」

 恥ずかしくなって目を背ける。自分でも分かるくらいに顔が熱い。背中がむずむずする。

「えーっと、それって狼少年?」

 僕の言葉足らずの説明に答えを付け加えてくれた。さすが秀才の姫野だ。僕が考えた底の浅いタグ付けなんてお見通しか。

「そう、狼少年。よく分かったね」

 狼少年、狼が出たと村人に嘘をつき続けた少年が、信用されなくなった途端に本当に現れた狼に食べられる話。だった気がする。有名な話だが、詳細は知らないし興味もない。むしろ、狼少年という概念が記憶に残っていたことが驚きだ。

「ぷっ……あはははははは!」

 姫野の笑い声が、落雷のように閑静な住宅街を貫く。

「いやぁ、素敵な感性の持ち主なんだね、東雲くんって」

 片手でお腹を抱え、空いたもう片方の手で目尻を撫でる姫野。どうやら涙が出るほど笑ったらしい。

「お、思ったことをそのまま言っただけ! それ以上でもそれ以下でもない!」

「まったく言い訳になってないよ?」

 にやりと図星を突かれる。確かに、これでは何の弁明にもなっていない。

「そっか、私はオオカミか。悪くないかも」

 歩みを進める先を見つめ、まんざらでもなさそうな顔をする姫野に安心する。どうやら引いてはいないらしい。

 それにしても、我ながらあんなにくさい台詞をよく吐けたものだ。日常の挨拶すらまともに言ったことないのに。

「あっ、私ここ左なんだ。東雲くんは?」

 羞恥に悶えていたら、いつの間にか僕たちは十字路に差し掛かっていた。

「僕は右」

 どうやら長い長い一日はここで終了らしい。疲れからか安堵からか、溜め息が自然と出てしまう。

「そっか、ここでお別れだね。また明日、東雲くん。バイバイ」

 手を振る姫野に手を振り返し、お互いに背を向けて家路につく。今日は疲れたから、ベッドが恋しい。今すぐにでも会いたい。

「あっ! 東雲くん、一つ言い忘れてた!」

 そう遠くない背後で姫野の声がした。

 なんだろう、と顔だけ姫野の方へ向ける。

「狼少年の狼ってね! 少年じゃなくて村の羊を食べたんだよ!」

「えっ……ええ!?」

「それじゃ、今度こそバイバイ!」

 手を大きく振り、駆け足で春の夕闇に溶けていく姫野をただただ見つめることしかできなかった。

 僕はずっと勘違いしていたのか。食べられたのは嘘つきの少年ではなく、村の羊だったらしい。あんなくさい台詞に加え、勘違いをしていたなんて。

「はぁ……」

 肺に溜まった負の塊を全て出す。腹の中で羞恥と無知が渦巻いて吐き気がする。

「……帰ろう」

 憔悴しきった心を引きずり、再び我が家へと進路をとる。

 こうして、僕の長い長い、本当に長くて疲れる一日が終わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る