地学教室準備室のロープ
天文部ではない、その理由は至極簡単なことだった。人数が足りないのだ。
二年前に十名近くいた天文部員は次第に数が減り始め、昨年は六名で新入部員はなし。そして今年、三年が卒業したことでついに二名だけになり、このままでは廃部になってしまうのだ。
「生徒会課の先生に頼んで二カ月間の猶予をもらっているの。『特例として部活動のパンフには部として掲載する。ただし五月末までに部員を五人集めないと廃部にする』ってね。天文部は学校創立時からある数少ない伝統のクラブ。あちきの代で失くしてしまったら先輩たちに申し訳が立たないでしょう。だからどうしても部員になって欲しかったの。騙すような真似をしてごめんなさい。愚かなあちきを許して、内君」
「そうだったんですか」
「わかったじゃろう。この高校では一年生の部活動は必修。この部に入ったところで六月になればまた別の部に入り直さねばならぬ。五月いっぱいで廃部なのじゃからな」
「ちょっと、廃部はまだ決まったわけではないのよ。憶測だけで喋るのはやめてちょうだい」
「決まったも同然じゃ。現におぬしら二人が入部して以降、誰一人として入部希望者はおらぬのであろう。天文部などもはや時代遅れなのじゃよ。とうに命運は尽きておる」
「ひどい、そんな言い方ひどすぎるわ。うわーん!」
「菊門部長、みっともないので泣かないでください」
尻を振って大泣きする菊門部長。それを慰める仏右副部長。なんだか気の毒になってきたな。廃部寸前ってことを隠していたのは容認できないけど、部員を集めたい一心でやったことだからなあ。他に入りたいクラブもないし、協力してやるか。
「いいですよ。天文部に入部します。六月までに正式な部にならなくても、それはそれで諦めます」
途端に菊門先輩の表情が輝いた。輝いてもゴリラであることに変わりはない。
「ほ、ほんとなの。嘘じゃないわよね。後で『ドッキリでした』なんて言わないわよね」
「そんな悪趣味なことしませんよ。菊門部長、仏右副部長、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
頭を下げる仏右副部長。本当に普通の人だな。周囲が変な人ばかりなのでこの普通さがかえって普通じゃなく見える。
菊門部長はまた泣いている。今度は嬉し泣きのようだ。そしてまた尻を振っている。なんとかならんのかなこの尻振り。
一方、おまんさんは苦虫を噛み潰したような表情だ。
「やれやれ、内クンときたらとんだ物好きじゃのう。仕方ない、ならばわしも入部するとしよう」
「えっ、おまんさんはすでに二つ入っているでしょう。三つも入って大丈夫ですか」
「心配無用じゃ。どうせ六月になれば廃部になるのじゃからな」
「いいえ、あと一人、何としても集めてみせるわ」
菊門部長の胸前両腕ガッツポーズ。女っぽくて気合がまったく感じられない
「さてそれでは教室へ戻るか。おい、入部届をよこせ」
「わかったわ。はい、どうぞ」
「うむ」
菊門部長から紙を受け取ったおまんさんはさっさと歩いて行ってしまった。相変わらずせっかちだ。
「はい、内君も」
そう言われて紙を受け取った時、菊門部長が耳元で囁いた。
「お礼がしたいの。放課後、地学教室に来て」
「えっ、あっ、はい」
「本格的な活動は来週からになります。お疲れ様でした」
仏右副部長に見送られてボクも教室へ戻る。妙だな。用事があるなら普通に言えばいいのに、どうして誰にも聞かれないようにあんな喋り方をしたんだろう。何か意図があるんだろうか。
不吉な疑念を拭いきれないまま教室に戻り、その日のオリエンテーションは終了した。
「内クンは今日も歩いて帰るのか。たまにはわしとタンデムツーリングを楽しまんか」
おまんさんは校長から許可をもらったようで、あれから毎日バイクで通学している。それでも早起きは苦手なのだろう。いつも遅刻寸前だ。
「何度も言っているでしょう。行きも帰りも徒歩と決めているんです。おまんさんは先に帰ってください」
「そうかい。んじゃ、お先にな」
おまんさんを見送ってからボクも教室を出て地学教室へ急ぐ。
「それにしてもお礼なんていいのになあ。菊門部長もあれで結構気を遣うタイプなのかもな」
ゴリラは非常に繊細な動物で求愛に失敗するとショックで死んでしまうこともあるそうだ。菊門先輩もナイーブな一面を持っているのかもしれない。人は見掛けで判断してはいけないな。
「あら、早かったのね」
地学教室には菊門先輩しかいなかった。今日は部活紹介があったので地質部の放課後の活動はなくなったらしい。
「準備室に行きましょう」
「あ、はい」
菊門部長の後に続いて準備室の中へ入る。ボクが中へ入った途端、菊門部長がドアの鍵をかけた。
「えっ、どうして鍵をかけるんですか」
「嫌ねえ、途中で邪魔が入らないようによ。さあ、遠慮なく使って。入部のお・れ・い・よ」
菊門部長はおもむろにズボンとパンツを下げ、こちらに尻を向けた。見事に発達した大殿筋の山が二つ、ボクの目の前にそびえ立っている。
「えっと菊門部長。これは何の冗談ですか」
「もう、内ちゃんったら照れ屋さんなんだから。知っているのよ、あんたがずっとあちきのお尻ばかり見ていたことは。『ウホッ、いいお尻』とか思っていたんでしょう」
いや、確かに尻は見ていたが、それは事あるごとに菊門部長が尻振りダンスをしていたからで、別に尻に興味があったからじゃないぞ。しかもいつの間にか呼び方が内君から内ちゃんに変わっているじゃないか。どうなってんだ。
「廃部寸前のクラブに入部するなんて、よっぽどの理由がなくちゃあり得ない。内ちゃんの目的はあちきのオ・シ・リ。図星でしょう。いつもはお付き合いしていない人には許してあげないんだけど、内ちゃんには特別に使わせてあげる。さあ、どうぞ。存分に抜き差ししてちょうだい。
「すみません、帰らせていただきます」
こんな勘違いゴリラと付き合っていたら、こっちの尻までおかしくなりそうだ。ドアノブに手を伸ばす。が、その手はノブには届かなかった。菊門部長ががっちりとボクの右手を握り締めていたからだ。
「内ちゃん、恥ずかしがらなくてもいいのよ。あんたもあちきと同じ仲間だってこと、わかっているんだから」
「違いますよ。ボクは男に興味はありません。放してください」
「あちきのお礼を素直に受け取るまで放さない」
「そんなお礼要りませんよ。それに入部の動機は単純に星が好きだからであって、尻が好きだからではありません。これ以上無理強いすると入部を取り消し……」
「神聖なる教室で何をやっとるのじゃあああー!」
叫び声とともに準備室の窓が開いた。外から鬼のような形相をしたおまんさんがこちらを睨みつけている。
「いけない、窓の鍵をかけるのを忘れていたわ」
いや、問題はそこじゃないだろう。ここは四階なんだぞ。もしかしてボケをかましているのか。菊門部長。
「お、おまんさん、どうして窓の外に!」
「こんなこともあろうかとロープをくくりつけておいたのじゃ。思った通りじゃわい」
そう言えば引っ越し初日に二階の窓の外から覗いていたことがあったな。あれの発展形か。油断も隙もないな。
おまんさんは体を揺すると勢いよく弾みをつけて部屋の中へ降り立った。
「おかしいと思っておったのじゃ。よほどの理由がなければ廃部寸前のクラブに入ろうなどとは思わぬ。内クンの本当の目的は別にある。それは副部長の仏右乃子、そうであろう」
「いえ、違いますよ」
「嘘を言うでない。舐め回すように乃子の体を視姦しておったではないか。気づいておらぬとでも思ったか。近いうちに必ず事に及ぶに違いない。そう睨んだわしはロープを校舎の外に垂らし、帰宅する振りをして見張っておったのじゃ。この浮気者め、観念せい」
どうして菊門部長もおまんさんも自分の妄想だけで突っ走っちゃうのかなあ。もうウンザリだよ。
「だから違うって言っているでしょう。おまんさんの思い込みですよ」
「ならばここで何をしている」
「おまんちゃん、内ちゃんの言う通りよ。この子の相手はあちき。その証拠に乃子ちゃんはここにはいないでしょう」
「何じゃと。そんなはずはない」
おまんさんが部屋の捜索を始めた。だが見つかるはずがない。本当にいないんだから。
「おらぬな。では内クンの目的は乃子ではなく亜成なのか」
「そうよ。ようやくわかったみたいね」
「なるほど。ならば構わぬ。好きにやりまくるがよい」
「ええっ!」
思ってもみなかった言葉を聞かされて尻の穴が縮こまる。
「どうして。これも立派な浮気でしょ。女は駄目で男はいいなんて、おかしくない?」
「
「あら、内ちゃん、責めではなく受けだったのね。わかったわ。それならあちきの棒を味わって。太さと固さには自信があるの」
「ちょ、ちょっと、何をする。うわ、ズボンを下げるな、おい、放せ、やめろ!」
などと抵抗したところでガチムチ猛者のゴリラに敵うはずがない。準備室の机の上に押し付けらえて身動きできなくなってしまった。
「これで内クンが子作りに目覚めてくれれば万々歳じゃ、ふぉっふぉっ」
「神様、仏様、誰でもいいから助けて~!」
ボクは祈った。苦しい時の神頼み、信じる者は救われる、そんな諺たちに
「菊門部長、いい加減にしてください!」
「あら、乃子ちゃん。帰ったんじゃなかったの」
入って来たのは仏右副部長だ。手に鍵を持っている。これはまた随分と用意周到じゃないか。
「忘れたのですか。菊門部長がこんなことを繰り返すから、誰も天文部に寄り付かなくなったのですよ。それなのにまた同じことをして。入部を取り消されたらどうするつもりですか。本当に廃部ですよ」
「あら誤解よ。これは入部のお礼なんだから。内ちゃんだって喜んでいるし」
「そんなはずがありません。江良辺君はそこの鶴亀さんの
「ウソ、ホントなの」
違う、許婚なんかじゃない、同棲でもない、下宿しているだけだ、と言いたいところだが、この窮地を乗り切るには肯定するのが最善の策である。嘘も方便だ。
「本当です。おまんさんとボクはそうゆう関係です」
途端に菊門部長の腕から力が抜けた。やっと解放されたボクは下がったままのズボンを上げる。
「なあーんだ。あちきの早とちりだったみたいね。あちき、相手の決まっている男に興味はないの。穴も棒も彼女のものですからね」
いや、棒は彼女のものだろうが穴は違うだろう。彼女に穴をあげたところでどうやって使うんだ。困るだけだろう。
「とにかく、こんなことは二度とやめてください。次は間違いなく退部しますからね」
「言ったでしょ。彼女持ちの男に興味はないわ。なんだかすっかり興醒めしちゃった。帰りましょう、乃子ちゃん」
「はい。江良辺君、鶴亀さん、お騒がせしました」
菊門部長は尻丸出しのまま準備室を出て行った。ドアの向こうから「早くズボンを履いてください」という声が聞こえてくる。
「ようやく認めてくれたのじゃな、内クンよ」
おまんさんが身を寄せてきた。浮かべた笑顔が不気味過ぎる。
「認めたって、何をですか」
「先ほど言ったではないか。わしらはそうゆう関係だと。その気になってくれたようじゃな」
「ち、違いますよ。あれはその場しのぎの嘘です。あの場面ではああ言うしかなかったんです。それくらいわかるでしょう」
「照れんでもええ。いつでも夜這いしてくるがよい。待っておるぞ。ふぉっふぉっふぉっ」
高らかに笑いながらおまんさんも準備室を出て行った。地質部の皆さんの「ふっふっ」の本当の意味はこれだったのか。窓の外を見るとおまんさんがぶら下っていたロープが揺れている。
「どうしよう、外すか……いや、ひとまず巻き取ってこのままにしておこう。世の中何が起きるかわからないからな」
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