第三話 日日是仰天な高校生活

夜明けのコーヒー、ではなく牛肉

 ダイニングルームの食卓に腰掛けて温めた牛乳を飲む。カリカリに焼けたトーストにジャムを塗ってかぶりつく。晴れた朝は気分がいい。いつもと同じ朝食でも美味しく感じられる。


「いよいよ今日から始まるのか」


 ここへ来て五日目。今日は高校の入学式だ。鶴亀家から高校までは約二キロ。自転車通学の許可が下りる距離ではあるが、しばらくは徒歩で通うつもりだ。

 田舎の実家にいる時は小学校まで四キロの道を毎日歩いて通っていた。たかが二キロ程度で自転車なんかを使っていたら、あの頃の自分に馬鹿にされてしまう。


「おまんさんは相変わらずだなあ」


 ここに来てから朝は必ず一人飯だ。おまんさんは極端に朝が弱い。最初にこの屋敷で朝を迎えた三日前を思い出す。


 * * *


 おせんさんとの衝撃的な夜を過ごして迎えた朝。寝不足気味の頭を抱えて服を着替え、おまんさんの「朝飯だよー!」の声を待つ。しかし一向にその声は聞こえてこない。


「もう八時じゃないか。鶴亀家の朝食はこんなに遅いのかなあ」


 待ちきれず部屋を出て一階のダイニングルームに入ると、


『飯は冷蔵庫の中だ。チンして勝手に食え』


 と書かれた紙が食卓に置いてある。冷蔵庫の中にはラップをかけた皿。皿の半分はローストビーフ、もう半分はガーリックビーフピラフだ。ラップには『本日の朝飯』と書かれた紙が貼り付けてある。


「すき焼きの翌日の朝食がローストビーフって、何かの罰ゲームみたいだなあ。でもせっかく作っていただいた食事に文句を言ってはいけないよな。有難くいただこう」


 レンジでチンして食べる。さすがに朝から牛肉は胃に優しくない。それでも残すのは嫌なので口に放り込む。こんな食事を続けていたら確実に太るだろうなと思いながらも完食してしまった自分の食い意地が少し悲しくなる。


「おまんさんはまだ寝ているのかな」


 食器を洗って食卓を拭いてもおまんさんは姿を現わさない。なんとなく理由はわかる。ボクと同じく昨晩はほとんど睡眠を取れていないはずだからだ。


「おせんさんか。今もまだ夢のようだ」


 昨晩、いや午前零時を過ぎていたから正確には今日だ。突然ボクの前に現れたおまんさんの十七才の妹、おせんさん。

 あの後、ボクとおせんさんはしばらく話をした後、今後の方針を何も決められないまま別れてしまった。おせんさんは一階の奥座敷へ戻り、ボクは自分の布団へ潜り込んだ。


「駄目だ、眠れない」


 まだ手や腕や胸におせんさんの体の感触が生々しいくらいに残っている。目を閉じればおせんさんの端正な容姿がよみがえってくる。布団の中で悶々としているうちにカーテンの隙間から朝日が漏れてきた。時計を見ると六時前だ。


「確かめてみるか」


 布団から出て一階に下りる。おせんさんが寝ているはずの奥座敷の襖を開ける。いた。枕の周囲に広がる黒髪。今眠っているのは紛れもなくおせんさんだ。さすがに中へ入るだけの勇気はない。襖の隙間からその時が来るのを静かに待つ。


「あっ!」


 思わず声を上げてしまった。広がっていた黒髪が一瞬で消え去り、それは総白髪の頭へと変貌した。おまんさんに入れ替わったのだ。枕元の置き時計は午前六時を指している。


「やはり本当だったんだ。午前零時に裏が表になり、午前六時に元に戻る。おせんさんは真実を話していたんだ」


 実際に自分の目で見てしまった以上、もはや信じないわけにはいかない。もやもやした気持ちのまま自室へ戻り、八時にローストビーフとピラフの朝食をとり、今こうして物思いに耽っているというわけだ。


「なんだか大変なことに巻き込まれちゃったなあ。かと言って母さんや爺ちゃんに相談するわけにもいかないし。自力で解決するしかないんだろうな」


 最良の選択は鶴亀家の跡継ぎ問題なんぞは一切無視して三年間を過ごすことだ。卒業まで世話になるからと言ってそこまで協力しなければならない義務はない。二人のために自分の人生を棒に振るような真似はしたくないからな……と、頭の中では理解しているのだが感情は納得してくれない。


「おせんさん、可愛かったなあ」


 ナツメ球の薄暗い光の中で見たおせんさんの可憐な姿。春風のように軽やかな声。滑らかな白い肌。彼女のために何かしてあげたい、喜ばせてあげたい、日陰者の人生から救ってあげたい、そう思う気持ちが合理的思考を屈服させようとしている。どんな手段を使ってもおせんさんには幸せになって欲しいと願う自分がいる。


「内様のおかげでおせんの望みは叶いました。内様、大好き!」


 そう言って嬉しそうに抱きついてくるおせんさんの笑顔が見たいのだ。


「おせんさん……うへへ」

「あ~、よく寝たわい」


 いきなり聞こえてきたダミ声にボクの甘ったるい空想はいっぺんに吹き飛ばされた。おまんさんは襦袢姿のまま部屋に入ってくると食卓に座った。


「おはようございます、おまんさん」

「ああ、おはよう。飯は食ったか。わしは朝が苦手でのう。これでも無理して早起きしてきたのじゃ。悪いけどこれから朝は一人で食っておくれ」

「それは構いませんけど朝食に牛肉は重すぎますよ。パンと牛乳くらいでいいです」

「おやそうかい。ならそうするよ、ふあ~」


 大きな欠伸をするおまんさん。本当に眠そうだ。四日に一度徹夜するような生活を七十年も続けていれば朝が弱くなるのも仕方ないか。


「昨日は楽しかったのう。若いおのこを抱いたのは何年ぶりじゃろうな」


 おまんさんがにやにや笑っている。そうだ、思い出した。昨日のおまんさんの不埒な所業の数々。きちんと釘を刺しておかないとな。


「子供が欲しい気持ちはわかりますけど無理強いはやめてください。こちらにだって選ぶ権利はあるんですから」

「これこれ、そんなに照れずともよい。内クンの気持ちはわかっておる。昨晩は投げ飛ばされて気を失ったわしを、わざわざ一階の奥座敷まで運んでくれたのじゃろう。そのような振る舞い、嫌っておるなおなごにできようはずがない。言葉とは裏腹にわしを好いておることはすでに明白じゃ」


 随分と都合のいいように解釈してくれたなあ。本当におせんさんのことは覚えていないのかな。


「あの、おまんさん。昨晩、夢を見ませんでしたか」

「夢? はて、見たような気もするがどうじゃったか。何も覚えておらぬ。そもそも昨日の昼飯すらすぐには思い出せぬのじゃ。夢など覚えているわけがなかろう」


 それもそうか。夢なんてはっきり覚えている時のほうが少ないもんな。

 しかしこうしてよく見ると、確かにおせんさんの面影がある。白髪を黒くして、顔の皺をなくして、頬の弛みを伸ばせば……うん、確かにおせんさんだ。

 十七才のおまんさんはモテモテだったんだろうなあ。それが今ではこんな皺くちゃの婆さん。あんなに奇麗なおせんさんもいつかはこんなお婆さんになってしまうのか。時の流れとは非情なものだな。


「なんだい、人の顔をジロジロ見つめて。はは~ん、わしに惚れたんじゃな。昨晩抱きつかれて情が移ってしまったんじゃろう。いいぞ、今から抱いてくれても。こちらは二十四時間準備OKじゃ。わしは気にせぬ。さあ抱け」

「違いますって。それにおまんさんだって安易に抱かれちゃいけないはずでしょう。もし子供ができたらおまんさんは裏になったまま……」


 まずい、うっかり口が滑った。おまんさんは何も知らないんだ。


「裏になったまま? 何を言っておるのじゃ」


 訝しげにこちらを見る。返答に窮したボクは立ち上がり語気を強めて言った。


「な、何でもありません。とにかく無理矢理ボクに迫るのはやめてくださいね」


 言葉の勢いに任せて部屋を出る。「ふふ、い奴じゃのう」というおまんさんの声が聞こえる。ボクは二階の自室に戻って頭を抱えた。


「あ~、これからどうやっておまんさんと付き合っていけばいいのかな」


 二人にかけられた呪いについて、やはりおまんさんは何も知らないのだ。子供ができれば裏になったまま二度と表に戻れない。その事実を知っているのなら子作りに励もうなどと思うはずがないのだから。


「いっそ話してしまおうか」


 呪いについて知ればおまんさんの子作り衝動は収まるかもしれない。しかしおせんさんも両親もずっと隠してきた秘密なのだ。部外者のボクが軽々しく口にすべきことではないだろう。


「となると一層の自衛に専心するのが当面の最善策か」


 その日からボクはなるべくおまんさんと距離を置くように努めた。

 日中は必ず外出。入浴中は必ず施錠。ホームセンターで居室用の鍵を購入し就寝中は内側から施錠し夜這いを撃退。

 食事中はおまんさんと二人きりで過ごさねばならないが、その時間だけは子作りの話題は一切出なかった。食事中は食べることに専念すべし、という親からの言い付けを固く守っているようだった。


「内クン、よそよそしくはないか。もっとわしに甘えても構わぬのじゃぞ」


 などと言われながら何事もなく数日が過ぎ、ようやく今日の入学式を迎えることになったのだ。


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