グイグイ来られても嬉しくない

 二階の自室に戻ったボクはコタツに頬杖をついてぼんやりとしていた。眠気がする。少し食べ過ぎたようだ。今頃体内では急激に上がった血糖値を下げるために、膵臓がせっせとインスリンを分泌しているのだろうな。


「妹か……」


 先ほど聞いた話を思い出す。生れてすぐ逝ってしまった双子の妹。陽気なおまんさんからは想像もできない辛い過去だ。その事実を知った時から今日までの間、おまんさんはどんな気持ちで陰膳を見守ってきたのだろう。


「人は誰しも悲しみを抱えて生きているんだろうなあ」


 眠気はなかなか収まらない。まぶたが半分下りた目で南に面した窓の外を眺める。実家のある田舎とは比べ物にならないくらい明るい夜空だ。かすかに見える輝点は、きっとこいぬ座のプロキオンだろう。


「さすがは一等星。こんなに明るい街の夜空でもしっかり自己主張している」


 星は好きだ。小学、中学はサイエンスクラブに所属して星ばかり見ていた。そのおかげかどうかはわからないけど視力は両眼とも2.0だ。今は受験勉強で少し落ちているかもしれないな。


「んっ、何だろう」


 窓の外で何かが動いたような気がした。虫? 風に吹かれた葉っぱ? 気のせい? 目を凝らしてじっと見るとやはり何かが窓の外にある。人形の顔のような何か……ま、まさか……ボクは立ち上がって思いっ切り窓を開けた。


「おまんさん!」


 信じがたい光景が目の前に広がっていた。おまんさんがロープに掴まって宙づりになっていたのだ。


「ありゃ、見つかってしまったか。ふぉっふぉっふぉっ」


 まったく悪びれることなくおまんさんは笑っている。ロープは窓の上にあるひさし腕木うでぎに結び付けられていた。どうやらボクが来る前から準備してあったようだ。


「見つかってしまった、じゃないですよ。こんなところで何をしているんですか。テレビドラマを見ていたんじゃないんですか」


「いやいや、ドラマより内クンを観察したほうが楽しかろうと思ってな。夕食後、居間に戻る振りをしてロープをよじ登ったのじゃよ。しかし何じゃな、最近の高校生は覇気がないのう。頬杖をついてぼ~としているだけとは。少々期待外れじゃったわい」


 なんてこった。部屋に戻った時からずっと窓の外にぶらさがって部屋を覗いていたのか。とんでもない握力だな。しかし危なかった。一歩間違えればとんでもない痴態を晒すところだったぞ。


「ご期待に沿えず申し訳ありませんでしたね。それよりもこんなことは二度としないでください。ボクにだってプライバシーってものがあるんですからね」

「ばれてしまった以上、二度とはせぬよ。窓の外から覗き見るような行為はのう。ふふふ」


 なんだその訳ありな笑いは。もしや盗聴器とか盗撮器とか仕掛けてあるんじゃないだろうな。あとで徹底的に捜索しなくては。


「さあ、もういいでしょう。早く下に降りてください。ロープはボクが回収しておきます」

「待て。実は用件があるのじゃ。風呂はいつ入るね」

「そうですね。いつも十時に寝ていますから九時ごろに入らせてもらえますか」

「わかった。九時じゃな。それでは失敬」


 おまんさんはスルスルとロープを降りていく。手慣れたものだ。激動の戦中戦後を生き抜いただけのことはある。これも花嫁修業の一環だったのだろうか。


「あの婆さんならあり得るな、うん」


 ぶら下がっているロープはかなり太い。結び目を解くより切断したほうが早そうだ。押入れの道具箱からはさみとカッターを取り出し、数分かけてロープを切断、回収した。その時になってようやく気がついた。


「待てよ、カーテンを閉めておけばよかったんじゃないのか」


 間抜けな自分に呆れてしまった。おまんさんがあっさりとロープを放棄したのはそれに気づいていたからだろう。


「どちらにしてもロープをこのままにはしておけなかったし、まあいいか」


 その後は直ちに盗聴器と盗撮器の捜索に取り掛かった。が、何も発見できなかった。さすがのおまんさんもそこまでの悪人ではないようだ。




「風呂が沸いたよ!」


 九時を少し過ぎた頃に一階から声が掛かった。着替えを持って風呂場へ急ぐ。ダイニングルームと同じく現代風の脱衣室とユニットバス。実家の風呂よりも機能が充実している。新しさは正義だ。


「やれやれ。何はともあれようやく一日が終わった」


 体と髪を洗って湯船に浸かる。湯に溶け出すように疲れが抜けていく。のぼせ始めた頭で今日の出来事を振り返る。

 朝早く家を出て村営バスに乗り、電車に乗り、昼食をとり、一時間ほど歩いてこの家に到着。初対面の陽気なお婆さんに面食らい、荷物を片付け、寝顔を見つめる陽気なお婆さんに驚かされ、夕食を楽しみ、陽気なお婆さんの昔話に胸を打たれ、陽気なお婆さんに覗き見をされ、ようやくこうして体を休めることができた。


「おまんさんには振り回されっ放しだったな」


 初日からこれでは先が思いやられる。日を重ねるうちに慣れてしまえればいいのだけど……そんなことを考えていると脱衣室から物音が聞こえてきた。おまんさんだ。扉の向こうから声が掛かる。


「内クン、背中を流してあげようかね」


 今度は覗き見ではなく正面からぶつかってきたか。幸い浴室の扉は内側から鍵がかかる仕組みだ。こちらの許可なく立ち入ることはできない。


「いえ、もう体は洗いましたから結構です」

「これこれ、人の親切は素直に受けるものじゃぞ。それに背中は洗い残しが多い場所。わしが綺麗にして進ぜよう」

「実家では一人で洗っていました。本当に結構です」

「遠慮するでない。年老いた婆の願いくらい聞いてくれてもよかろうが」

「年老いたお婆さんにそんな迷惑はかけたくありません。お引き取りください」

「つれないのう、内クンがこれほどまでに冷たいおのことは思わなんだわい、クスン」


 急に声の調子が変わった。涙ぐんでいるようにも聞こえるが……いや、女は誰もが名俳優。油断は禁物だ。


「父様や母様が生きていた頃は毎日背中を流してあげたものじゃ。さりとて二人が逝ってしまってはそれもできぬ。十年以上もの長き間、誰の背中も流せぬまま毎日風呂に入っておった。そんなわしが今日のこの時をどれほど待ち焦がれていたかわかるか。ようやく願いが叶う時がやってきた。久しぶりに背中を流せる、内っちゃんのお孫さんの背中を流せる、それだけを楽しみにして今日まで生きてきたと言うのに、蓋を開けて見ればこの仕打ち。哀れとは思わぬのか。老い先短い婆のささやかな願い、多少の無理をしても叶えてあげようとは思わぬのか」


 まったく困ったお婆さんだなあ。すっかり悪者に仕立て上げられてしまった。このまま拒否し続けても諦めてくれそうにないし、いつまでも脱衣室に居座り続けられては気が休まらない。仕方ない。


「わかりましたよ。じゃあ背中だけ流してください。背中だけですよ」

「おお、それでこそ内っちゃんの孫じゃ。ありがたやありがたや」


 湯船から出るとタオルをしっかり下半身に巻いた。口ではああ言っているが何を仕出かすかわからないからな。

 扉のロックを外し椅子に腰かけて合図をする。


「どうぞ」

「失礼いたしまする」


 右後ろにある浴室の扉が開く。横目でそちらをチラ見したボクはあり得ない光景に戦慄した。


「えっ……」


 かつて銭湯には三助さんすけと呼ばれる仕事があった。釜焚きや下足番といった雑用の他に、入浴客の依頼に応じて洗い場で背中を流したりもする。

 客は裸だが三助は裸ではない。ふんどし股引ももひき、前掛けを着用している。ボクの頭にはそんな普通の三助のイメージがあった。だからこそ入室を許可したのだ。だが、おまんさんの姿はボクの想像を凌駕していた。素っ裸だったのだ。


「うぎゃああああー!」

「あっ、これ。いきなり立ち上がってどこへ行きなさる」


 脱兎の如く脱衣室へ逃げ込んだボクはバスタオルと着替えを抱え、素っ裸のまま階段を駆け上がった。部屋の戸を閉めて息を整える。蛍光灯を点けて気を落ち着かせようとしても、先ほどの光景がチラついて神経は高ぶったままだ。

 総白髪の頭、やせ細った腕、垂れさがった乳房、鶏のような脚、そして頭髪と同じく真っ白な、下腹部を覆う下の毛……ぐはっ! 少しは隠せよ。年を取っても恥じらいくらい持てよ。


「なんたる悲劇だ。初めて見る女性の生全裸があんなお婆さんの体だなんて。残酷すぎるだろう。この世には神も仏もいないのか」


 悲しみと気色悪さに襲われながら畳の上に崩れ落ちた。目を閉じるとこの世の者とは思えぬ姿がよみがえってくる。


「悪夢だ。誰か、これは夢だと言ってくれ」


 どうやら今夜は眠れそうにないな。終わり悪ければ全て悪し。とんでもない一日になってしまった。

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