陰膳の思い出
旅に出た者が飢えないように留守を預かる家族が供える食膳、それが陰膳の本来の意味だ。昨今は法事の場などで故人を偲んで供えたりもする。おまんさんはどちらの意味で使っているのだろう。
「妹の陰膳って、おまんさん、一人っ子じゃなかったんですか」
「誰もそんなことは言っておらん。箱入り娘と言っただけじゃ」
そう言われればそうだったか。しかしそれなら天涯孤独の気の毒な境遇とは言えないな。妹もおまんさんと同じく独身だったにしても、少なくとも一人は身内がいるわけだし。
「それで、その妹さんはどこに住んでいるんですか。陰膳ってことはどこかを旅しているんですか」
「ああそうじゃ。
「えっ……」
言葉に詰まった。黄泉の国、つまり亡くなったってことか。これはまた暗い話になりそうだな。
「まあええ。この話は食ってからにしよう。長くなるでな。ほれ、肉食え」
「いただきます」
それからはおまんさんと二人で黙々とすき焼きを食べた。美味かった。肉に詳しいわけではないが間違いなく和牛の霜降り肉、しかもかなりの高級品だ。
「どうだ美味いじゃろう。これからは存分にご馳走を食わせてやる。老い先短いこの命、貯め込んだ金を使えるだけ使ってあの世へ旅立ちたいからのう」
「あ、ありがとうございます」
本来なら「老い先短いなんて言わずに長生きしてください」などと答えるべきなのだろうが、これから毎日こんな食事ができるのかと思うと嬉しすぎてつい本音を口走ってしまった。
「うむ美味いのう。これも美味いわい、あれも美味いぞ、それも美味すぎてたまらんわい。がつがつ」
おまんさんは七十才の老人とは思えないくらい食欲旺盛、おまけに相当な早食いだ。こちらも負けじと箸を鍋に突き立てるのだが、おまんさんの素早い箸さばきにはとても敵わない。肉の色が変わった瞬間、すぐにかっさらわれてしまう。すき焼きを味わうと共に軽い敗北感も味わいながら夕食は終わった。
「さてと、では妹の話でもするかのう」
腹が膨れた今、おまんさんの家族の話などどうでもよくなってしまったが、せっかく聞かせてくれると言うので有難く拝聴する。それは次のような内容だった。
わしに妹がいたと知ったのは五才の頃かのう。我が家には三人しか住んでおらぬのに母様はいつも四人分の食事を出しておった。幼い頃はさほど気にも留めなんだが、ある日、何気なく訊いたのじゃ。
「母様、それは誰のために作っているのですか」
「あなたの妹、おせんのために作っているのですよ」
「妹? 私に妹がいるのですか。どこにいるのですか。お屋敷にいるのですか」
「いいえ。おせんは旅に出ているのですよ。黄泉の国を旅しているのです」
母様が何を言っているのかすぐにはわからなかった。が、やがて信濃の別荘で隠居生活を送っている祖母から真実を聞かされた。実はわしは双子で生まれたのだと。それもかなりの難産であったと。わしが生まれたのは二月二十八日。それから数時間かかってようやく妹が生まれた。日付は変わって二十九日になっておったそうじゃ。
「これは……いえ、できるだけのことはしてみます」
生まれてきた妹は息をしておらなんだ。明らかに死産であった。産婆も周りの者も懸命に手を尽くして助けようとした、が、その努力も空しく妹が息を吹き返すことはなかった。
「ほんの僅かとはいえこの子は生を受けこの世で寿命を全うしたのです。死産届は出しません。姉をおまん、妹をおせんと名付けます」
両親が死産届を拒んだのは戸籍に残らぬからじゃ。妹は確かにこの世に存在した、その証しを残したかったのじゃろうな。わしの出生届と一緒に妹の出生届を出し、同時に死亡届も出した。これでおせんの戸籍は残る。
「おせんは旅に出たのです。陰膳を供えましょう」
母様も父様もよほどおせんを忘れられなかったのじゃろう。初七日の法要を済ませた次の日から毎食陰膳を供えるようになったそうじゃ。
老いた母様の代わりにわしが食事を用意するようになっても、その習慣は続いた。わし一人になっても続いておる。昨日も今日もそして明日も、鶴亀家の食卓にはおせんの膳が並ぶのじゃ。
これが鶴亀家の陰膳の由来じゃ。納得できたか、内クンよ。
聞き終わって胸が締め付けられた。亡くなった娘のために七十年間陰膳を供え続けた、そんな鶴亀家の人々の深い情愛に感動した。
「いやあ、いい話を聞かせてもらいました。陰膳ってよく知らないんですけど供えた後はどうするんですか。捨てるんですか」
「馬鹿を抜かすな。食べ物を粗末にしたら罰が当たるわい。おおかた母様か父様が食べていたのであろうな。わしが食事の支度をするようになってからはわしが食べておる。今日の陰膳もそろそろいただくとするか」
おまんさんはすっかり冷めてしまったご飯に茄子漬をのせると、お茶をかけて一気に掻き込んでしまった。あれだけすき焼きを食べていたのにまだ食えるのか。どんな胃袋をしているんだ。
「ふぃ~、ご馳走様である。正直なところ陰膳に関してはあまり良い思い出はないのじゃ。子供の頃は陰膳を食いたくても食わしてもらえなかったからな。一度だけ盗み食いをしようと企てたことがあったが、それも未遂に終わったからのう」
そんな小さい頃から食い意地が張っていたのか。三つ子の魂百までってやつだな。
「そりゃあ、いきなりお茶漬けにして食べようとしたら親だって怒るでしょう」
「阿呆か。そんな無作法を働くわけがなかろう。それに白米など盗み食いなどせずとも存分にお代わりできる。わしが食おうとしたのは洋菓子、当時としては大変珍しいプリンという食い物じゃ」
「へえ~、詳しく聞きたいですね」
ボクがそう言うとおまんさんはまた話を始めた。
普段の陰膳は茶碗に盛ったご飯なのじゃが、数日に一度、毛色の違う陰膳が供えられることがあった。饅頭であったり、ぜんざいであったり、プリンであったりな。陰膳を食べているのは親なのだから毎日ご飯では飽きる。たまには違ったものを食いたくて変えているのじゃろう、そう思って気にも留めなんだ。
「ああ、今日は疲れましたわ」
あれは高等女学校二年の時であったか。妙に空腹を感じてな。夕食時に出された陰膳のプリンが美味そうに見えて仕方がなかった。そこでその日、初めてわしは母様に陰膳を食ってもよいかと尋ねたのじゃ。
「いいえ、これはおせんの膳ですから」
やんわりと拒否されてしまった。不満じゃった。おせんの膳と言っても食べているのは母様や父様じゃ。ならばわしが食ったとて同じではないか。が、そんな口答えはできなかった。親が食っているという明らかな証拠を掴んでいなかったのじゃからな。
(それなら食べている現場を押さえて差し上げますわ)
わしは食事が終わっても食卓を離れなかった。プリンが冷蔵庫に仕舞われてからは冷蔵庫の前に居座った。風呂にも入らず部屋にも戻らず便所も我慢して冷蔵庫の前で頑張り続けた。やがて母様と父様は寝室へ行ってしまった。冷蔵庫を開けるとプリンはまだある。
(私が眠ってから食べるつもりですのね。そうはいきませんことよ)
わしは頑張った。冷蔵庫に体をもたせかけて
「はっ!」
気がつくと朝になっていた。冷蔵庫を背にして眠ってしまったのじゃ。
「プリンは、プリンはどうなったの!」
急いで冷蔵庫を開けた。わしは我が目を疑った。信じられなかった。そこにあったはずのプリンは容器だけを残して空になっておったのじゃ。そう、今思うとあれが切っ掛けであったのだろうな、ぐびっぐびっ、ふう~。
おまんさんはお茶を飲むと長い息を吐いた。この話を通して何を言いたのかすぐにはわからなかった。
「それはつまり、おまんさんが眠るのを待ってから親が台所に来て、こっそりプリンを食べてしまった、ってことなんですか」
「そうじゃな。それしか考えられぬからな。それ以来、わしは陰膳を食うのをやめた。再び食い始めたのは老いた母様に代わってわしが食事の支度をするようになってからじゃ。陰膳を食う資格があるのは陰膳を用意した者、親はそう言いたかったのかもしれぬな。さて、くだらぬお喋りはやめてテレビでも観るか。そろそろお気に入りのドラマが始まる時刻じゃ」
おまんさんの長い昔話はそこで終わった。若干の物足りなさを感じながらボクも食卓を離れ二階の自室へ戻った。
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