それぞれの家族

「よし、終了!」


 ようやく荷物の整理が一段落した。広くなった畳に寝転がる。あちこちにシミのある天井を眺めていると田舎の民宿に滞在しているような気がしてくる。


「変な話だな。ここよりも実家のほうがよっぽど田舎なのに」


 祖父は元々この街に住んでいた。旧制中学を出た後は東京に出て医科大学を卒業し医者になった。そのまま東京に住み続けるか、故郷のこの街に戻ってくれればよかったのだが、


「私は僻地医療にこの身を捧げたい」


 という情熱に突き動かされてわざわざ辺鄙な土地に診療所を開設した。

 一人娘の母は看護師だ。医師の父を養子に迎え祖父と一緒に診療所で働いている。一人息子のボクは当然医者になることを切望されている。


「内の高校はわしの母校でいいだろう」


 祖父が卒業した旧制中学は戦後新制高校となり、県下有数の進学校として名を馳せている。ボクも両親も祖父の方針に異存はないが問題は通学にかかる時間だ。

 自宅から最寄りの鉄道の駅まで二十キロ。ここは自転車か村営バスを使うしかない。そこから高校のあるこの街まで電車で二時間半かかる。片道三時間、往復六時間を通学のために毎日費やさなくてはならない。これはかなり辛い。

 だからと言ってアパートを借りるとなると食事、掃除、洗濯など身の回りの一切を自分でこなさなくてはならない。これも辛い。


「旧友に頼んでみるかな」


 この窮地を乗り切るために祖父はある手段に打って出た。知り合いの家に預けるという至極平凡な方法だ。

 残念なことにかつてこの街にあった祖父の実家は戦後まもなく取り壊され、親類も別の土地へ移ってしまっていた。あれこれ探すうちに見つけ出したのが、小学校時代の同級生である鶴亀家のおまんさんだ。藁にもすがる思いで頼んでみると、


「このおまん婆さんにお任せあれ!」


 と二つ返事で引き受けてくれた。しかも有難いことに家賃や食費などは要らないと言う。こうなれば受験勉強にも気合いが入る。必死に勉強して無事に合格。本日、晴れて新居へ引っ越したというわけだ。


「三年間か。長いようでアッと言う間に終わってしまうんだろうな」


 仰向けになったまま目を閉じる。疲れが体にし掛かってくる。


「少し休むか」


 心地良い疲労感に身を任せてボクは眠った。


 ……


 どれくらい眠っていたのだろう。ふと、妙な感覚に襲われた。太腿の辺りがモゾモゾするのだ。


(何だろう)


 気にはなるがまだ眠い。目を閉じたまま右太腿に手を伸ばす。指に何かが当たった。動いている。さらに手を伸ばしてそれが何か確かめる。


(これは……手だ。人の手だ。何者かがボクの太腿を触っている!)


「誰だ! うわあっ!」


 たまらず目を開けたボクは大きな悲鳴をあげてしまった。歯を剥き出しにしたしわくちゃの笑顔が眼前に迫っていたからだ。


「お、おまんさん、何をしているんですか」

「ん、いや、何もしておらぬよ」

「なら、どうしてここにいるんですか」

「お茶でも飲まぬかと声を掛けたのじゃが返事がない。下りても来ない。もしやダンボール箱に潰されたのではないかと心配になって来てみたのじゃ。すると気持ちよさげに眠っておるではないか。起こすのも気の毒だと思い、こうして見守っていたのじゃよ」

「あ、ああ、そうでしたか。すみません。今日は朝が早かったので疲れてしまったみたいで。くしゃん」


 くしゃみが出てしまった。少し肌寒い。かなり長い間眠っていたようだ。


「腹は減っておらぬか。夕食は七時にするつもりじゃが、もっと早く食べたければ六時でも構わぬぞ」

「あっ、いえ。七時で大丈夫です。家でもその時刻に食べていましたから」

「そうかい。風呂はどうするね。夕食の前に入るか、床に就く前に入るか、どちらがいい」

「寝る前でいいです。あ、でも夏は学校から帰宅してすぐシャワーを浴びたいかな」

「そうかいそうかい。好きにするがええよ。んじゃ七時になったら下りてきな。今日は特別にすき焼きを御馳走してあげるよ」


 それは嬉しい。すき焼きは大好物だ。

 これで話は済んだのだろう、おまんさんはニヤリと笑うと腰を上げた。待てよ、話をはぐらかされたような気がするな。肝心なことをまだ訊いていないじゃないか。


「あの、ところでおまんさん。訊きたいことがあるんですけど」

「何かね」

「さっき、ボクの太腿をさすっていませんでしたか」


 おまんさんがニンマリと笑った。何を考えているのかわからない笑顔だ。


「いんや、さすってなどおらぬぞ。夢でも見たのではないか。さりとて腿をさすって欲しいのならさすってやらんこともないが」

「いえ、結構です。変なことを訊いてすみません」

「ふぉっふぉっふぉっ。では七時にな」


 おまんさんは部屋を出て行った。やはり気のせいだったのか。釈然としない気持ちを抱かえたまま窓の外を見る。南の空は早くも夕日に染まり始めていた。



「おや、もう来たのかね」


 七時前にダイニングルームへ入った。一階から漂ってくる牛丼を思わせる匂いに我慢できなくなったのだ。おまんさんは食卓に置かれた鍋に野菜や焼豆腐を並べている。


「ついさっき始めたばかりじゃ。漬物でも食べて待っていておくれ」


 食卓にはすでに箸や茶碗が置かれていた。椅子に座って小鉢の茄子漬を食べる。ほどよい塩辛さ。すき焼きの甘い割り下に合いそうだ。自家製だろうか。おまんさんは鼻歌を歌いながら具材を焼いている。


「なんだか嬉しそうですね。楽しいことでもあったんですか」

「大ありじゃよ。誰かと一緒に食事をするのは久しぶりなのじゃからな」


 そうか。この年齢では両親もとっくに亡くなっているだろうからな。毎日一人飯ではさぞかし寂しいことだろう。


「おまんさんは家族とかいないんですか。子供とか兄弟姉妹とかいとことか」


 具材を焼いていたおまんさんの手が止まった。しまった、立ち入ったことを訊いてしまったか。一瞬後悔したが、おまんさんはすぐ返事をしてくれた。


「いないね。わしは箱入り娘でな。この家で大切に育てられた。あまりにも大切にされすぎて嫁に行くのも忘れてしまった。父様ちちさまは十五年前に旅立たれ、母様ははさまはその翌年、後を追うように亡くなられた。それ以来、わしは一人でこの家を守っておる」

「そうでしたか」


 やはり余計な質問だったようだ。せっかくの夕食の場が一気に湿っぽくなってしまった。


「今だからこそ言うがおまえさんの爺さん、内っちゃんはな、実はわしの初恋の人なのじゃ。幼い頃から水もしたたる良きおのこでのう。尋常小学校を出た後、わしは高等女学校、内っちゃんは旧制中学と離ればなれになってしまったが一日たりとも忘れたことはなかった。今もそうじゃ。たとえ他のおなごと夫婦になり、子を作り、孫ができても、わしは内っちゃんだけを慕い続けておる」


 まずいな。聞きたくもない方向へ話が逸れ始めたぞ。老人の昔話は放っておくと際限もなく続くからな。手遅れになる前に手を打たないと。


「いやあ、小学校の同級生にそんなに慕われて祖父は果報者ですね。でもおまんさだってこれまでにたくさん出会いがあったんじゃないんですか。まさかずっとこの屋敷に閉じこもっていたわけでもないんでしょう」

「いや、そのまさかじゃ。ずっとこの屋敷に閉じこもっておった。よっておのこと出会う機会は一度もなかった」


 なんてこった。これは予想外の展開だ。


「えっ、でもどこかへ働きに出たりとか、名所旧跡を訪ねて旅に出たりとか……」

「言ったじゃろう、わしは箱入り娘。高等女学校を出た後はひたすら花嫁修業じゃ。お茶、お花、針仕事は言うに及ばず、和歌、お琴、三味線、舞踊など、習い事は数え切れぬくらいある。鶴亀家は資産家でな。金には困らぬ。父様も母様も労働などとは無縁の生活を送っておった。そして箱入り娘のわしもまたその恩恵に預かっておるというわけじゃ」


 羨ましくなるくらいの御身分じゃないか。爺ちゃんもあんな僻地に診療所を開かず、おまんさんを嫁にもらっておけばよかったのに。なんとも口惜しい話だ。


「おや、お喋りしているうちに肉が食べ頃になったわい。そろそろいただこうかの。ほれ、茶碗をよこしな」


 食卓に伏せてある茶碗を渡すと、ご飯を山盛りにして返してくれた。それからおまんさんは自分の茶碗と、そしてもうひとつ別の茶碗にご飯をよそり、食卓に置いた。


「あれ、他にも誰か食べに来るんですか」

「いんや、わしとおまえさんの二人だけだ」

「じゃあ、その三つ目の茶碗は何ですか」

「ああ、これは陰膳かげぜんじゃよ。わしの妹のな」


 それはひどく沈んだ声だった。今日一日の中で一番暗い表情をしたおまんさんがそこにいた。

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