第7話 ホレおばさん
「井戸、でございますか?」
朝、馬屋にやってきたテオドールはファラダに挨拶をした次に、井戸を見に行く、と言ったのだ。疑問符を浮かべ、小首をかしげる白馬にテオドールは昨晩、宿の主人から聞いた話をしてやる。
この村に住む娘がひとり、うっかり井戸に落ちてしまった。けれど不思議なことに、いくら井戸をさらってみても娘はみつからなかった。ところがそれからしばらくして、娘はひょっこり帰ってきたのである。体にたくさんのまばゆい黄金をまとわせて。娘はその黄金を持参金に遠くの貴族に嫁ぎ幸せになったそうだ。
「こたびの話には姫君が出てこられないのですね」
テオドールの旅の目的は、幸福をもたらす姫を探すことである。そのために各地で幸せな姫の話を聞いて回っているのだ。残念ながら成果はかんばしくないのだが。そういった事情を知っているために、ファラダは姫の登場しない話にテオドールが喜びいさんでいるのが不思議であったのだ。すると、ああそのことならば、とセオドールは己の考えを話して聞かせた。
井戸に落ちた村娘は黄金をまとって帰り、幸せになった。幸せをもたらすのが幸い姫である。ならば、村娘は幸い姫に出会ったのではないだろうか。くだんの井戸は幸い姫の居所に通じているのではないだろうか。
宿の主人から幸せになった村娘の話を聞いたときからその考えが浮かび、興奮のあまりテオドールはよくよく眠ることができなかった。おかげで目の下に青黒い隈がべったりと張り付いており、今朝ファラダは顔を合わせてすぐに何事かあったのか気が気ではなかったのだ。テオドールの声が明るく力強かったので、すぐに悪いことが起きたわけではなということが分かったのだが。
「なるほど、そういうことでございましたか。わたくしも井戸が異界へとつながっているという話は耳にしたことがございます。通じる先は話によって違っておりまして、ある方は妖精の住む世界に、ある方は冥界に迷い込んだといいます」
ファラダの記憶の内にあった情報を口にすると、ああそういった異界というものは数多くあるのか、と背中でテオドールが感心したように声をあげる。幸い姫は東の果てに住んでいるというからそちらの方角に向かって進んでいたのだが、ちっともそれらしい話はなかった。ならば、普通に歩いては行かれぬ場所が当たりなのかもしれない。期待に心が踊るのか、テオドールの声はひどく陽気であった。
話の井戸は教えられたとおりに村の外れにあった。今はもう使われていないようで、木枠はあるものの、滑車も縄も桶もない。井戸の丸い石組みもところどころ崩れている。その荒れたさまはすさんでいるというよりは、どこかおどろおどろしい印象を与えている。テオドールは先ほどまでの意気揚々とした姿はどこへ行ったのか、消沈した表情で井戸をみつめている。幸い姫の居所へと通じる井戸、その期待から漠然と思い描いていたものとはあまりにもかけ離れたありさまであったからだ。
「おい、あんたなにやっている。なんだ旅人か。え、ああそうだよ、その井戸だ。今は枯れちまったから使ってないぞ。まあ、枯れてなくても使いたかあないけどな。あんたもあの話を聞いてきたんだろ。あれから同じように黄金に目のくらんだ連中がぼんぼこ飛び込みに来てな、運悪く死んじまった奴もいて。まったくいい迷惑だよ」
通りすがりの村人が不審なものを見る眼差しとわずわらしそうな声をテオドールに向けた。最後に、間違っても落っこちないでくれよ、と言いおいて去っていく。
テオドールはフラフラと井戸に近づいていく。ファラダが見かねてその背中に声をかけるが、聞こえていないようだ。テオドールは朽ちかけた井戸を覗きこんでみるが、底には暗闇があるばかりである。頭上に輝く太陽の光を返すものはなにもない。ああ、落胆の声をこぼしてテオドールは頭を上げた。その途端、ぐらりと頭が回る。おそらくは寝不足のせいだったのだろう。運の悪いことに、テオドールが覗き込んでいたあたりの石組みは崩れており、膝ほどの高さもなくなっていた。
平衡感覚を失った体は不安定に揺れ、揺れる体を支えてくれるものはなにもなく、あっという間もなくテオドールは井戸へと落ちていく。遠のく意識の向こうでファラダの悲鳴を聞きながら。
はっ、と目を開けると、見慣れぬ天井の梁が目に映った。とはいえ、すっかり旅暮らしになじんだ身としては、眠りから覚めて見慣れぬ天井や壁や床を目にするのはいつものことである。しかしながら今回は違っていた。
テオドールはベッドで横になっている。特別おかしな場所にいるわけではない。だが、テオドールにはベッドに入った記憶がなかった。井戸に落ちた記憶はある。まさかあの出来事のすべてが夢だったというのか。いや、と天井をみつめながらテオドールは思った。こちらが夢なのではないか。相変わらず視界に入る天井、壁、床には見慣れない、いや見覚えがなかった。一夜の宿のものであってもなにがしか見覚えがあるはずだ。けれど今現在、自分の周囲にあるものすべてにそれがない。だからこれは夢なのだ、とテオドールは考えた。
そこまで思考をめぐらせて、テオドールはベッドから半身を起こした。夢の中とはいえ、うつつの自分が目を覚ますまでこちらの自分が横になってる、というのはとても不毛に思えたのだ。それに、これほどはっきりと色がつき、考えることができ、動くことのできる夢を見るのは初めてだ。これはぜひとも満喫しなくてはいけない。
「起きた、起きた」
不意に声が聞こえた。まったく覚えのない声だ。すぐそばで発せられたようだが、あちこち見ても声を出すそれらしいものはない。やはり夢なのだな、とこの説明のつかない現象に自分の考えの確信が深まる。
ベッドの脇にそろえて置かれていたブーツを履いて床に立つ。ここはどういった部屋なのだろうか。壁際には先ほどまでテオドールがいたベッドが置かれ、向かいの壁の窓の下には書物机と椅子がある。その中間には小さな丸テーブルがあり、上にはテオドールの剣が乗っている。ほかには数冊の本や小物が飾られた棚と衣類箱があるだけ。扉はひとつ。どこかの宿の一室にも見える。
テオドールがテーブルの上の剣を取り上げ、腰に下げるのと同じタイミングで扉が開いた。素早くそちらを振り向くと、娘がひとり立っている。テオドールよりは年少だろうこの娘にも見覚えはない。娘は一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐにニッコリとほほ笑んだ。
「ああ良かった、目が覚めたんですね。あんまり顔色が悪かったから心配だったんですよ」
目が覚める、とは考えてみれば夢の中で聞くにはおかしな言葉だ。
「え、夢ですって? 違いますよ。ここは」
くすくすと笑って娘が言いかけると、
「天国、天国」
どこからともなくそんな声がする。ベッドから起き上がったときに聞こえた声にも似ている。それよりも言葉の内容にテオドールはギョッとした。天国。ああそうか。それならここが見覚えのない場所なのも当然だ。きっと自分はあの枯れ井戸に落ちて死んでしまったのだ。寝不足だったあまりにこんなことになってしまうとは。起きてしまったことはしようがないだろうが、あんまり格好がつく死に様ではなかったな。いまさらそんなことを嘆いてもそれこそしようがない。痛みを感じなかったというのが、たったひとつのさいわいか。主君の命を果たせなかったことはひどく悔やまれる。ああ、ファラダはどうなるだろうか。悲しんでいるだろうか。かの白馬は真面目で忠義にあつい性格をしているから、主人の間抜けな死を笑うことはないだろうな。もしもじぶんになにかあればそのあとは好きにするように言いおいてあるから、以前のようにあてどなく待ち続けることはないだろう。
「違う、違います。雲の上だけど違います」
つらつらと自分が死んだということに、頭がいっぱいになっているテオドールへ娘が呼びかける。
「だから、あなたはまだ死んではいませんよ」
自分はまだ死んではいない、その言葉でテオドールはわれに返った。
「ええそうですよ、ぴんぴんしています。ああ、せっかく顔色が良くなってきたのに、また白くなっていますよ」
困ったように眉根を寄せながらも娘は笑っている。
「この子たちはわたしの口ぐせを覚えちゃったんです。わたしがいつも、ここは天国だ、って言うもんだから。でもさっきも言いましたけど本当の天国じゃありません。わたしにとってここは天国みたいなところなんです」
ならばこの場所はいったいなんなのだろう。それと娘の言う、この子たち、とは。テオドールの頭の中を疑問が駆けめぐり、それを声に出す前に、気の抜ける音をたてて腹がなった。ほほが瞬時に熱をおびる。
「お腹がすくのは生きている証拠ですよ」
娘はにっこり笑ってそう言った。
テオドールは娘に案内されて、台所兼食卓兼居間というような部屋へ通された。ほのかになにやら空腹をさらに刺激するような匂いがただよっている。
「開けて開けて、出して出して」
部屋へ入るとどこからともなく声がした。前の部屋で聞こえたときのように近くからではない。少し遠いところから聞こえてくるようだ。テオドールが見回してみても声を発するような生き物の姿はない。キョロキョロとしているテオドールにここで待っていて、と食卓の椅子をすすめると、娘はまっすぐ戸口から出ていってしまう。ほどなくしてただよっていた良い匂いがひときわ強くなった。
「ああ、ちょうどよかった。さあさあ召し上がってくださいな」
焼きたてのパンをカゴに山盛りにしたものを抱えて娘が戻ってきた。
娘の言葉に甘えて、さっそく手を伸ばす。色よく焼きあがったパンの表面はパリッとしてこうばしく、内側はふんわりとしていながらほどよくしっとりとしてほのかに甘い。空きっ腹には至上のごちそうであった。娘はミルクとリンゴも用意して、かいがいしくテオドールを満たしてくれた。
テオドールがせっせと食物を詰め込んでいるその隣で、娘はここがどういった場所なのかかいつまんで話して聞かせてくれる。
「ここはホレおばさんの家なんです。わたしはおばさんのお手伝いをしながら、ここに住まわせてもらっているんです。あちこちで聞こえていた声ですか? あの子たちはこの家に宿る妖精のようなものです。あなたが起きたことを教えてくれたり、パンが焼きあがったことを知らせてくれたり、わたしがここでなにをすればいいのかを教えてくれるんです」
その説明におもわずテオドールは手元のパンに目を向ける。半分ほどの大きさに引きちぎられ、白くまだわずかに温かな内部をさらしている。下の皿にはボロボロとはがれこぼれた茶色のかけらが落ちている。手にしたものの半分はおろか、すでに胃袋の中におさまってしまったパンもある。数は覚えていない。テオドールは先ほど聞いた声を思い出す。開けて開けて、出して出して。
妖精を食べてしまったというのか。
ボロリと食べかけのパンが手からこぼれる。
「パンは妖精じゃありませんよ。さっきしゃべっていたのは焼き窯の方です」
だから遠慮も心配もしないで食べてくれと娘は続けた。安心してテオドールはパンを口に運ぶ。
それにしても、ホレおばさんの家、か。天国ではないけれど雲の上、と娘が言っていたがその言葉どおりの場所なのだろう、ここは。ホレおばさんのことはテオドールも知っていた。天上の雲の上に住むという、その名のとおりのホレという名前のおばさんである。もちろんそんなところに暮らしているのだから普通のおばさんであるはずがない。彼女は天気をつかさどる精霊のような存在なのである。雪が降るのは、雲の上でホレおばさんが布団をたたき、その羽毛が落ちてくるからだ、と幼いころにテオドールは聞かされたものだ。幼心に雪になる羽毛が詰まっているとは、ホレおばさんの布団はさぞかし冷たいのだろうと思ったのだ。この話は誰にしてもらったのだろうか。子守りのばあやだったろうか、母だっただろうか。
「あなたはどうしてここに来たんですか?」
ひととおりテオドールの食事がすんだころをみはからって娘が尋ねた。おそらくテオドールの目が覚めてからすぐに問いたかったことを、こちらが落ち着くまでずっと待っていてくれたのだろう。それにしてもここには娘しかいないのだろうか。家主のホレおばさんは姿を見せない。出かけているのだとしたら、うら若い娘ひとりのところに素性の知れぬ男を置いていくとは無用心なことだ。そのあたりは人間と精霊のような存在との違いだろうあか。もしかしたら、何事かあればあたりの妖精たちが娘を守ってくれるのだろうか
テオドールは娘に、自分がとある国の騎士であること、祖国が逃れようのない不幸にとらわれてしまったこと、その解決のために主君である国王の命によって幸福をもたらすとうたわれる姫を探していること、その途中のある村で井戸に落ちて戻った娘が幸せになったという話を聞いたこと、もしやその井戸の先が幸い姫の住むところではないかと考えたこと、を話して聞かせた。そしてその考えにいたった高揚のあまりに寝不足隣、うっかり井戸に落ちたという非常に間の抜けた滑稽なことの顛末を恥ずかしながら語ったのだった。
娘は相槌をうちながら興味深げに聞いていたのだが、どことなくテオドールを見る目が変わったように思えた。
「ああ、あなたは騎士様だったのですね。尊い使命のためにはるばる旅をしてこられ、寝る間も惜しんで己が務めをまっとうせんとなさったのですね。ああ、なんて素晴らしい方なのでしょう」
うっとりとした眼差しと声音を娘が向けてくる。どうやら、騎士という身分とテオドールの境遇はこの若い娘の、若いからこそ過敏な物事に感動しやすい心を大いに刺激したようであった。おかげでテオドールにとっては不注意から起こった失敗が、娘の中では美談として受け止められたようである。
「そのうえ、騎士様があの井戸を通ってここへ来られたとは、なにがしかの運命を感じます。ええですから、わたしはなにも隠しだてすることなくお話いたします。騎士様がお聞きになりました井戸に落ちた村娘というのは、わたしのことでございます」
ずいぶんと久方ぶりに生まれ故郷の名前を聞きました、とやたら感じ入った調子で娘がしみじみと言う。
テオドールは驚くと同時に胸中で首をかしげていた。井戸に落ちた娘は黄金をまとって帰ってきた。そして遠方の貴族に嫁いだと聞いていたのだ。けれどその娘はこうして雲の上の家にいて、ホレおばさんを手伝っているのだという。着ているものは質素ではないが簡素なごくごく普通の村娘のよそおいである。黄金はかけらもまとってはいない。これはどういうことだろうか。
疑問符を胸の内で浮かべているテオドールだったが、娘がどこか遠くをみつめながら語りはじめたので、そちらに耳をかたむけることにした。
「あれがどれほど前のことなのか、もう覚えていません。ここは時間がゆっくりと流れているというのでしょうか、いえ、そもそも時間なんというものはないのかもしれませんね。それはともかく、当時のわたしはどこにでもいるようなありふれたあたりまえの村娘でした。
わたしは母と妹と一緒に暮らしていました。父は少し前に死んでしまいました。母はあまりわたしには優しくありませんでした。いつも妹の方を気にかけていました。これでは悪口ですね。母は父の後妻でした。ですからわたしは母と血がつながっていません。わたしの家の事情を知る人は、母がわたしにことさら厳しいのはそのせいだと言います。継母と継子の関係がうまくいかないということは世間に往々にしてあるものです。決して珍しいことではありません。わたしと母のあいだもそうだった、と言うのです。けれどそれは間違いです。わたしは姉ですから妹の良いお手本にならなければいけませんし、父亡きあとは母を支えねばなりません。それなのに、わたしはとてもしっかりしているとはいえないので、母がたびたび叱りるつけるのはしようのないことです。
ある日のこと、わたしは母に言われて井戸端で糸を紡いでいました。まかされた仕事の量があまりにも多かったので、そのうちにわたしの指から血が出ていました。流れ出した血は糸巻きを汚してしまったので、わたしは井戸の水で糸巻きを洗いました。ところがその最中に手を滑らせて糸巻きを井戸に落としてしまったのです。
わたしは家に帰るとそのことを母に話しました。すると、落とした糸巻きを拾って帰ってくるまで家には入れない、と言うのです。あまりに厳しい口調でしたので、私はしかたがなく井戸へと戻りました。
井戸は深く、覗き込んでみてもキラリと光る水面はずいぶんと小さくにしか見えません。さらにその水がどれほどの深みをもっているのかはまったく見当がつきません。けれど、母の言いつけでわたしはこの中から糸巻きを探さなければならないのです。
わたしは桶をおろして水を汲みあげました。どうにか水中の糸巻きが桶に入ってくれるのではないか、と考えたからです。それぐらいしかわたしは方法を思いつきませんでしたし、できることもなかったのです。
何度も何度もわたしは桶を井戸に投げ入れては引き上げるということを繰り返しました。ですが桶に入っているのは水ばかり。そうこうしているうちに、どんどん日はかたむき、水はずいぶんと冷たくなっていきます。手も腕もひどく痛みます。もうわたしは桶を引き上げることができないほどに疲れきってしまいました。
糸巻きがみつからなければ家へ帰れません。このままでは、母はわたしがどんなに泣いて頼んでも、絶対に家へ入れてはくれないでしょう。何度も水を汲みあげていたせいで、いつの間にか服は雨に降られたかのようにぐっしょりと濡れそぼっていました。おかげでひどく寒いのです。体はあちこち痛く、わたしはひどくむやみやたらに悲しくなりました。そして、実の母と父のところに行きたいと、井戸に飛び込んだのです。
気がつくと、わたしは青い空を見ていました。雲ひとつなく真っ青な空です。横たわる体はなにかとてもふんわりと心地よいぬくもりに包まれています。そのあまりの気持ちの良い寝心地に、ああここが話に聞く天国なのだと思いました。
起き上がってみて驚きました。そこは予想とは違った世界だったからです。わたしがいたのは色とりどりの見たことのない花が咲く草原のただなかでした。頭の上には今までにないほどに大きくお日様が輝いていました。立ち上がれば、足はしっかりと土の上にいる感じがします。あたりをぐるりと見回して、なにもおかしなとこところはないように思えました。
けれど不思議なのはついさっきまでわたしが寝ていたところを見ても、花や草が一本も折れてはいないのです。そっと片足を持ち上げてみても、靴の底に踏まれていたはずの草花はピンと茎を伸ばし、葉っぱも花もきれいに開いています。やっぱりここはわたしの知っているどんな場所とも違っているようです。想像していたとおりではありませんが、やはり天国なのかもしれないと思えました。なにせ今まで天国へ行って帰ってきた人は誰もいません。本当のところなんて分かりっこないのですから。
空気はとても穏やかで暖かく、いつの間にかわたしの服はすっかり乾いていました。体も不思議と痛みが消えていて、そればかりか羽が生えていたかのように軽いのです。なんだか楽しくなって駆け回りました。そのうちに草原のへりへと来ていました。そこから先には続いていません。そのかわりに、草原のへりから一段下がったところに白くもやもやとしたものがあるのが分かりました。あたりに目を向けてみれば、遠く離れたところに白いものが青空に浮かんでいるのが見えました。わたしはおそるおそる草原の下にある白いもやもやに手を伸ばしてみたのですが、触れることも掴むこともできません。重々に用心して少し体を乗り出してみて、あっと声をあげました。白いもやもやはまるで煙のようで、その向こうが薄く透けて見えるのです。そうして見えるずうっと下には、緑の森や白い川筋、いろも形も様々な家の屋根があるのです。わたしは目もくらむような高さに浮かぶ雲の上にいるのです。
天国とはその呼び名のとおりに天に空にあるのでしょう。予想していたことでしたが、こうして実際に体験してはっきり感じてみますと、本当に驚くしかありません。そうしてあらためて自分はもう死んでしまったのだと理解しますと、妙に心が切なくなるのです。わたしは急にひとりぼっちでいることが寂しくなりました。そうです、天国には先に旅立った両親や翼をもつ尊い方々がいるはずではありませんか。それなのにわたしが目を覚ましてから時間がたったというのに、わたしは誰にも会っていないのです。目に映るものは緑の大地と青い空ばかり。お日様は変わらずに明るいままで、身を包むのはとても気持ちの良い空気なのに、わたしは心細さでいっぱいになり、座りこんでしまいたくなりました。けれどそうしていてもなんにもどうにもなりません。しかたがなしに、わたしは歩き出したのです。
雲のふちから離れて逆の方向へ進みました。あてなどありません。わたしは自分が目を覚ました最初の場所をとっくに見失っていました。お日様が昇る方が東で沈む方が西だとか聞いたことがありますが、わたしを柔らかく照らしているお日様はちっとも動いているようには見えません。そうしてトボトボまっすぐ歩いていますと、
「開けて開けて、出して出して」
と声が聞こえてきます。ようやく人に会えると、わたしはうれしくなって走り出しました。けれど、声のした方へと行ってみても、そこには場違いなパン焼き窯があるだけです。煙突からは白い煙が立ちのぼり、とてもこうばしくて良い匂いがしています。わたしが首をかしげていると、
「開けて開けて、出して出して」
とまた声がします。それはどうもパン焼き窯から聞こえるようなのです。こころなしか窯の戸が震えているようにも見えました。わたしは仰天しましたが、すぐさま声の言うとおりに窯を開けたのです。いったいなにが入っているのだろうと、心臓がひどくドキドキいっていましたが、なかにあったのは鉄板にきちんと行儀よく並べられ、色よく焼きあがったパンだったのです。パン焼き窯の中に焼けたパンがギュウギュウに入っているという、しごくあたりまえの光景に、わたしはあっけにとられて、ほっと胸をなでおろしました。
声の正体はさっぱり分かりませんが、これで、開けて、という言葉については叶えたことになるのでしょう。次は、出して、の言葉を叶えなければいけないと、そばにあった大きな木のヘラでもってパンをすべて、これまたそばにあったカゴに取り出しました。おそらくこれでいいのでしょう。先ほどの声はもう聞こえてきません。
こうばしい香りでいっぱいになったカゴを前にして、わたしは考えました。パンがあるということは、生地をこねて、窯に入れ、火を着けた人がいるのではないかということ。窯を開けてパンを出すように声がしました。もしも自然にパン生地がこね上げられて鉄板に並んで、窯に火が着くのなら、焼き上がれば誰かに頼むことなく窯から飛び出してきそうなものです。そうなると、この草原にはほかに誰かがいるということです。
わたしは山盛りのパンを詰めたカゴを抱えて、足取りも軽く歩き出しました。パンを一緒に持っていったのは、屋根もなにもないところでは、雨に降られたり、風にさらわれたりしては大変だと思ったからです。
緑の草はらには花々が色とりどりに咲き、お日様はポカポカと暖かく、わたしは焼けたパンの美味しそうな匂いに包まれて歩いていました。はみ出すほどにぎっしりとパンの詰まったカゴは、ちっとも重たくありません。そうしてしばらく行きますと、前の方に木が一本生えているのが見えました。近づいていくと、
「揺すって揺すって」
とまた声が聞こえました。ざわざわと濃い緑の葉を震わせるようにして、そう言うのはリンゴの木でした。見上げてみると、真っ赤に熟れた実が枝に重そうにぶら下がっています。
「揺すって揺すって」
ざわざわとリンゴの木が繰り返すので、わたしは精一杯腕に力を込めて、幹を揺すってやりました。うんうん幹を揺するのに合わせて枝は大きく震えしなって、ボトボトとたわわにみのった赤い果実を落とします。大きく熟したリンゴの実は草花がクッションのように優しく受け止めてくれました。
わたしはそばに置いてあった背負いカゴにリンゴの実を詰め込みました。おそらくこれでいいのでしょう。先ほどの声はもう聞こえてきません。すっかり実を落としてしまうと、木はすっきりした枝葉をさわさわと満足げに震わせます。
甘酸っぱい香りでいっぱいになったカゴを背負い、両手にはパンが山盛りになったカゴを抱えて歩き出しました。リンゴを一緒に持っていったのは、このまま屋根もなにもないところにそのまま置いていったのでは、いつ降るかもしれないヒョウやアラレで傷んでしまうかもしれないと思ったからです。
それにしても、ぴかぴかと赤く、両の握りこぶしを合わせたよりも大きなりんごが目一杯におさまっているというのに、背負いカゴはちっとも重たくありません。手のひらに乗せたときはずいぶん重いと感じたというのに、不思議なことです。
背にも腕にも良い匂いのするカゴを抱えて草原を歩いていますと、やがて一件の家が見えてきました。ようやく自分以外の誰かに会えると、わたしの足取りはいっそう軽くなりました。
その家は木造りで、故郷の村に建つ家々とさほど変わるところのないつつましいものでした。わたしはすっかりこの場所が天国だと思い込んでいましたので、このあまりにこぢんまりとして簡素な建物のありさまに、心の中で少しがっかりしていました。天国には最も尊い方のあられる御殿があり、死んだ人々もみなそこで暮らしているのだと聞かされていたからです。目の前にあるのが思っていたものとは違う建物でも、誰かに会えるのはわたしが待ち望んでいたことなのですから、うれしくないわけはありません。さっそく扉を叩いておとないを告げようとしました。そのときの、胸がドキドキすることといったらありません。けれど、わたしは扉をノックする寸前で、おもわず悲鳴をあげてしまいました。
玄関の横の窓からひとりのおばあさんが顔をにゅうっと出したのです。おばあさんはわたしを見て唇を開いて笑いました。そのむき出しになった歯といったら、あんまりにも大きく立派に過ぎました。なんでも頭からバリバリと噛み砕いてしまいそうな、たいそうな歯並びだったのです。
わたしが恐ろしさのあまりに逃げ出そうとしますと、おばあさんが後ろからこう言いました。
「お待ちよ、可愛い子。わたしはおまえさんのことを空から見ていたからよおく知っているよ。ねえどうだい、ここでわたしの手伝いをして一緒に暮らさないかね。働き者の良い娘。決して悪いようにはしないから」
わたしの失礼なふるまいをおばあさんは少しも咎めだてせずに、とても優しい声で言ってくれたのです。
「わたしはホレおばさんだよ」
おばあさんはまた大きな歯を見せて笑いましたけれど、今度はちっとも怖いとは思わなかったのです。わたしはここが天国ではないと分かってほんの少しだけがっかりしました。母に言いつけられた糸車はみつかっていませんから、家に帰ることはできません。わたしはホレおばさんの申し出をありがたく受けることにしたのです。
こうしてわたしは雲の上の天国のような場所で、ホレおばさんの手伝いをすることになりました。窯からパンを出したり、リンゴを揺すって落としたりと、それなりに忙しくはありますが、まったく辛くありません。わたしがなにをすればいいのかは窯や木が教えてくれますし、地上の家にいたときはこの十倍もくるくると働いていたのですから。
ひとつだけ、ホレおばさんからまかされた仕事のうちで、とても気をつけなければいけないものがありました。
「いいかい。わたしの寝床は念入りにきちんとしつらえておくれ。布団を力いっぱい振るわなけりゃいけないよ。うんといせいよく振るって中の羽毛が飛び出るぐらいにしなくちゃいけないよ。そうすれば下界に雪が降るのさ。そのことだけはよおく注意してやっておくれ」
わたしは言われたとおりに、おもいきり布団を振って羽毛を飛び散らせました。騎士様もわたしが降らせた雪をご覧になったことがあるかもしれませんね。
ホレおばさんの元で、わたしは楽しく暮らしました。ここは年中お日様が暖かく照らしてくれて、草原の色とりどりの花々を見ていれば飽きることがありません。ホレおばさんはたくさんのことを教えてくれますし、ときおり出かけては珍しいお土産を持って帰ってきてくれます。わたしが一番面白いと思うのは、草原のふちから雲を透かして下を覗くことです。だんだんと色を変える山並みや金色に波うつ畑の穂やお城の高い尖塔を、地上からは決して見ることのできない角度からながめるのはとても心が惹かれるものです。
そのようにして過ごしていたのですが、急に物悲しさを感じるようになりました。なにをしていても、どんなに忙しくても、なぜだか胸の中に地上の家で暮らした思い出がよぎるのです。母や妹は今どうしているのだろうと考えるのです。そうなると、寂しくて切なくてどうにもたまらなくなるのです。おばあさんはとても優しくて、いつも肉を煮込んだ物など、わたしの知らないごちそうをお腹いっぱいに食べさせてくれるのです。ここで暮らしている方がずっと楽しくて幸せなのは十分に分かっています。それなのに、わたしの心は晴れることはありません。すっかり里心がついたわたしを憐れんで、ホレおばさんが雲の下に戻してくれることになりました。
お別れの日に、わたしの中には故郷へ帰れることを喜ぶ心がありましたが、同じようにおばあさんと離れることを悲しむ心がありました。おばあさんも悲しんでいましたが、わたしを気づかってそうと悟られないように笑顔で大きな歯を見せてくれます。ホレおばさんは手を引いてわたしを草原の大きな門のところへ連れていきます。そして、
「可愛い子。おまえさんはとても良く手伝って、わたしをずいぶん助けてくれた。さあ、これはその働きに対するご褒美だよ」
わたしを門の下に立たせて言いました。すると、ばらばらと雨のように大小たくさんの黄金の粒が降ってきて、体にくっつきました。おばあさんは素晴らしいお土産を持たせてくれたうえに、なくしていた糸車をみつけだしてわたしの手に握らせてくれたのです。
「さあ目を閉じて。足を一歩踏み出せば、そこはおまえのふるさとだ。ああ可愛い子、どうかどうか達者でな」
ホレおばさんの言葉に従って、門をくぐり抜けました。途端に、懐かしい土の匂いがわたしを包み込みます。震えるまぶたを開けて見えるのは、忘れようもない家並みに畑。故郷の村に帰ってきたのです。
変わることのない家路をたどると、その道すがらわたしを知る人たちがそれはそれは驚いた顔をしてこちらを見ています。家へ帰り着きますと、母と妹は倒れてしまうほどに驚きました。わたしは再会を喜び、母と妹それに、これはどうしたことかと後をついてきた人々に、留守にしていたあいだのことを話して聞かせました。みなその話をとても信じられないという顔をしておりましたが、わたしの体についてきた金の粒を見て本当のことだと口々に言いました。
母は突然帰ってきたわたしに、驚きのあまりはじめは口を開けたままでした。けれどそのうちに、長く行方知れずになっていたことをとんだ親不孝者だとひどく責め立てます。わたしもそのとおりだと思いましたので、持ち帰った黄金を使って、りっぱな家を建て、母と妹に素敵なはやりの服を仕立てました。黄金の粒は使っても使ってもなくなることはありません。わたしは存分に母と妹に贅沢をさせることができたのです。
黄金をまとう娘の噂は村中をあまねくめぐり、村の外へも早々と広がっていきました。おかげで、わたしの元にはあちらこちらから縁談が持ち込まれるようになったのです。そのどれもが裕福で身分も高い方々からのものだったので、たんなる村娘であるわたしはずいぶんと困ったものでした。
こうしてびっくりするほどのお金持ちになってしまったわたしの姿を見ていて、母はどうにかして妹も同じようにしてやりたいと考えました。そして、山ほどの綿と糸紡ぎの道具を持たせて、姉さんのやったようにしなさいと 井戸端へとやったのでした。けれど、母が糸紡ぎの仕事はみんなわたしにまかせていたので、妹はかわいそうに道具の使い方もさっぱり分かりません。しかたがないので糸車を井戸に投げ込むと、ざぶんと自分も飛び込みました。
無事に雲の上の草原にたどり着いた妹は、聞いていたとおりにホレおばさんの家を目指して歩き出しました。
「開けて開けて、出して出して」
途中で、焼けたパンがみっしりと詰まった窯がそう言うのに会いました。けれど、母がパンを焼く仕事をみんなわたしにまかせていたので、妹はかわいそうに窯の開け方すら知りません。そうこうしているうちに、パンはすっかり真っ黒の炭になってしまいました。窯の中が焦げ臭いだけでいっぱいになりますと、もうなんの声もしません。
妹はホレおばさんの家を目指してまた歩きだしました。
「揺すって揺すって」
しばらく行くと、リンゴの木がそう言っています。けれど、母が力仕事をみんなわたしにまかせていたので、か弱い妹の腕ではどれほど幹を押しても葉っぱひとつ震えはしません。何度試してみてもびくともせず、かわいそうにそのうちにひどく疲れてしまいます。もう腕を上げることさえしんどくなった妹は、リンゴの木を揺するのをあきらめることにしました。
緑のくさはらに色とりどりの花々の咲く中を、お日様に暖かく照らされて、妹はトボトボと歩きます。ようやっとのことで木造りの簡素な家にたどり着いたころには、足はまるで棒のようでありました。さっそく扉をノックしようとしましたが、腕が痛くてまったく持あがりません。どうしようもなくなって妹は座りこんでしまいました。ほどなくホレおばさんが、玄関先で途方に暮れている娘をみつけて声をかけます。とっても優しい声でしたが、妹はおばあさんの大きな歯を見て、あまりの恐ろしさに泣き出してしまいました。わたしからさんざん話を聞いて知っておりましたが、見ると聞くとは大違いであったのです。
ホレおばさんは妹をなだめながら言いました。
「憐れな子。おまえさんのことは空から見ていて知っているよ。しかたがないから、わたしの手伝いをしてここでお暮らし。なんにも知らないかわいそうな娘。姉さんと同じように良くしてあげるから」
こうして妹はホレおばさんのやっかいになることになりました。おばあさんはわたしに任せたように仕事をさせますが、妹はなにをすればよいのか教えられても、どうすればよいのかはちっとも知らないのです。パンを焦がさずに取り出すことも、リンゴをひとつ揺すり落とすこともできません。ホレおばさんが重々言いつけた、寝床のしつらえも十分にこなすことができません。どれほどいく度やっても、布団を羽毛が飛び散るほどに振るうことができないのです。
雲の上の暮らしは、妹にとって少しも楽しいものではありませんでした。慣れない仕事は辛くて疲れるばかりです。それに、どんなにホレおばさんが優しくもてなしてくれても、どうにも怖くてなりません。あの大きな歯並びを目にするたびに、悲鳴をあげずにはいられないのです。妹は間もなく地上の家に帰りたい、と泣くようになりました。日がな草原のふちで下を見ながら涙をこぼします。パン焼き窯の中は炭でいっぱいになり、あたり一面に焦げ臭い嫌な匂いをただよわせます。リンゴの木は実があまりにも大きくたくさんになりすぎて、とうとう枝が折れて落ちました。
見かねたホレおばさんは、妹を下界へ戻すことを決めました。そのときほど妹が喜びにあふれる笑顔になったことはありません。ホレおばさんは妹を草原にある門のところへ連れていくと、その下へ立たせて言いました。
「さあこれがおまえさんの働きに対するご褒美だよ」
途端に、雨のように真っ黒でひどい匂いのするものが降ってきます。 おもわず目を閉じる妹の背中を、
「それを持って早くお帰り」
ホレおばさんは押し出しました。
そうして地上に戻った妹は、泣きながら家へと帰ったのです。妹の帰りに喜びいさんで迎えに出た母は驚きました。可愛い愛娘がさぞかし大量の黄金と一緒に帰ってくると期待していたのに、汚いコールタールにたっぷりとまみれて臭くなっていたのですから。
わたしについてきた黄金はどんなに使ってもなくなりません。そうなると同じように、妹にひっついたコールタールもおそらく死ぬまで離れることはないでしょう。無残な姿になった妹を見て、母はこれまでにないほど強く厳しい言葉でわたしを責め立てました。わたしも妹が憐れでかわいそうでしかたがありません。ですが、どれほど黄金の力を借りたとて、コールタールを消してやることはできないでしょう。なにせ、妹にひっついているのは普通のコールタールではないのです。人の手では到底どうすることもできません。
妹は泣きぬれて、母は怒鳴りちらしています。
わたしは、井戸へ行きました。わたしには、たったひとつだけ解決できそうなあんがあったのです。
ひっつけた当人ならば、消しとることもできるのではないか。わたしはふたたび井戸を通り、花咲く天上の草原へと来たのです。そしてまっすぐホレおばさんの元へ走りますと、身を伏せて、どうか妹を助けてください、と頼みこみました。
するとおばあさんは、わたしを優しく抱きしめて、こう言ってくれました。
「ああ可愛い子。そんなに悲しい顔をするものではないよ。ほかならないおまえさんの頼みだからね、憐れな妹をさっぱりきれいにしてあげよう。けれどねえ、わたしは心配なんだよ。このまま下界に戻ったとて、おまえさんは決して幸せじゃあないだろう。ああ、」わたしはおまえさんが可愛くて可愛くてしかたがないんだよ。前にここにいたときは楽しかっただろう? また一緒に暮らしてわたしを手伝ってくれないかい?」
その言葉はとてもうれしいもので、わたしの目からは涙がボロボロとこぼれます。このたびの妹の痛ましいさまも、母の怒りも、元はといえばわたしの不注意が招いたことにほかありません。わたしは姉として、娘として、あまりにもいたらなかったのです。そう思いますと、もはやふたりに顔向けすることすらできません。ふたりもはたして許してくれるものでしょうか。このままわたしが地上の家へ帰ったとしても、誰も幸せにはならないのではないでしょうか。
母と妹と別れることは胸が張り裂けそうに辛いことです。けれど、わたしはよくよく考えた末に、ホレおばさんのとともに暮らすことを決めたのです。
もう二度とじかに顔を合わせることはかないませんが、雲が村の上を流れるときには母と妹の姿を見ることができました。昔のことを思い出せば切なくなりますが、今はいつでも夢の中で語らうことができるのです。
母親と妹のことを語るときに、わずかに娘の瞳が濡れ、眉が寄る。今でも決して変わることなく家族を恋しく思っているのだろう。
テオドールが語り終えた娘に礼を言うと、彼女は頬を赤く染めてうつむいてしまう。そして急に立ち上がると、あわただしく食事の後片付けをはじめ、またたくうちにテーブルをきれいにしてしまう。くるくるとよどみなく立ち働く娘に、テオドールは聞きたいことがあった。
ホレおばさんの家は雲の上にあり、雲はとどまることなくあまねく世界中の空を流れていく。そこに暮らす者ならば、幸姫の居所を、東の果てを見たお事があるかもしれない。井戸は残念ながら予想とは異なる場所に通じていたが、ここでなら探し求めてきたものの大きな手がかりを得ることができるかもしれない。己の頬が先ほどの娘とは違った熱でほてるのを感じた。
だがしかし、
「ああ申し訳ありません騎士様。わたしはその問いに良い答えを返すことができません。わたしは今までに一度もこの世界の東の果てというものを目にしたことはないのです」
返ってきたのは無情な事実だった。期待が大きかった分だけに、その反動はひどいものであった。
「ですが騎士様、ホレおばさんに尋ねてみましょう。おばあさんはわたしなどよりもずっと長く下界を見ているのですもの、知っているかもしれませんよ」
すっかりうなだれて沈み込んでしまうテオドールを娘はそう言って励ましてくれる。しかし、その言葉に一縷の望みを見いだしながらも、胸の内で、あとどれほど期待と落胆を味わうことになるのだろう、と暗い思考に落ちこんでいた。
「おばあさんは人のおよびもつかない大きな力をもっているのですよ。ですから騎士様のお尋ね事にもきっと答えてくれます」
娘はつとめて笑顔で、一生懸命に声をかけてくれる。
「どうでしょう、騎士様。ここでこうしておばあさんの帰りを待っているのも気が浮かないでしょうし、外へ出てみませんか。お日様も風も心地いいですよ」
その誘いにのり、テオドールは雲の上の大地へと娘と連れだっていった。
一面に広がるその草原は、話に聞いて思い描いていたものより万倍も素晴らしいものであった。風にそよぐ萌える緑の中に、様々な色合いの花々がその花弁を広げている。顔を近づけてみれば、鮮やかな色彩とかぐわしい香りにため息がこぼれた。
導かれて草原のふちに行けば、天上の大地を包む白い雲の透く間から、はるか眼下に地上に生きる誰も知りえない風景があった。雲が流れるにつれて刻々と移ろい変化するその景色は、たしかにどれほど眺めていても飽きることがない。そのおかげか、目もくらむような高さから覗いているというのに、目も回らなければ胸の鼓動がおかしくなることもない。
精緻な織り物のごとく美しいくさはらに身を横たえれば、これほどに澄みきった青はないというほどの空が視界に映り、耳元でそよぐ草花の音はたえなる調べのようであった。
そうしているうちに、自然とまぶたが下がってくる。
「お休みになってくださいな。おばあさんが帰ってきましたら、起こしてさしあげますから。大丈夫です。ホレおばさんは、騎士様をきちんと行くべきところへ送ってくれますよ」
まぶたの裏に広がる闇の向こう、そのずっと遠くから、娘の優しい声がする。
胸の内のいっさいの気鬱がどこかへ散り消え去っていくほどに、深く幸せな眠りの内にテオドールは落ちていった。
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