第6話 千匹皮
テオドールは牢の中にいた。罪状は自分自身でもまったく分からない。
いつものとおりに幸い姫の情報を求めて名高い姫を知らないか街で聞いて回っていただけである。国によって常識や規則は違うというが、知らずにそれを破ってしまったのだろうか。なぜかテオドールを捕らえた兵士はなにも説明しなかった。突然肩をつかまれ縄でくくられ牢に押し込まれたのだ。
そうだ、ファラダはどうなっただろう。またしても主人に見捨てられてさぞかし嘆いていることか。
大きく息を吐いて壁に背をあずける。ここは地下牢である。空気は湿り気をおび、あまり良好ではない匂いがただよっている。壁の灯はかぼそく、狭い獄の中でも隅のほうまでは明かりが届かない。すべての荷物、剣も含めて取り上げられているが、もとより危険な行動をとるつもりはない。おとなしく沙汰を待つだけである。もっとも、その沙汰が下されるのはいつのことなのかさっぱり見当もつかない。見張りの番兵はいるだろうが、彼に聞いても教えてもらえないだろう。だからテオドールはこの暗い中でおとなしくため息をついているしかないのだ。
「兄ちゃん、あんたなにしたんだい?」
不意に声をかけられて驚いた。声はどうやら向かいの牢から聞こえたようなのだが、答えずにいるとまた声がする。
「なあ兄ちゃん。あんた運は悪そうだが人の良い顔してるよな。着てるもんだって上等じゃあないがうらびれてもいないし。それで、なにをやったんだ?」
こちらからは見えずともあちらからはよく見えているようだ。灯かりの位置のせいだろうか。若くも老いてもいない声音。口ぶりからすればテオドールよりは年かさだろうが、男の声だ。場違いなほど明るい口調だがからかっているようなふうではない。そこに気を許して、テオドールは、なにもしていないのにつかまった、と答えた。
「そんなこたあないだろ。点数稼ぎで手当たりしだいにそこらの人間をとっつかまえるほどこの国の兵士は馬鹿じゃあないぜ。どんな罪人だってちゃあんとお調べがあるんだ。それによ、ここにぶち込まれたってことは相当なことをしたってことだ。それこそ間違いや勘違いなんてこたあないだろうさ」
男の言葉にさすがにテオドールは青くなる。自分は旅の途中でこの国に立ち寄ったこと。旅の目的は幸い姫を探すこと。そのために合致しそうな姫の話しを知らないか聞いていただけなのだ。と自分が入国してからやってきたことごとを語気強く言いつのった。
「ああそりゃあ。うん、なるほどな」
奇妙な納得の声を男があげる。
「兄ちゃんは旅人なんだな。だったら知らなかったわけで、普通ならまあそれで許されるわなあ。だけど、今回ばっかりは無理だろうな。残念だけどよ」
同情し、憐れむ声でそう言われる。なぜどうしてとテオドールはおもわず鉄格子に迫って叫んだ。相変わらず向こうの姿は暗闇の中であった。
「それはな」
ことさらゆっくりと男は言った。
「この国じゃあ、お姫様に関する話題はタブーなんだよ。ついでにお后様に関することもな。この国で有名なお姫様なんてあれしかないからな。知らずに聞いちまった兄ちゃんは本当に運が悪かったな」
だが自分は尋ねただけだ。いくら尋ねても誰も答えてくれなかったのだ。みな目をそらし顔をそむけ足早に去っていってしまったのだ。だからその肝心の姫の話はまったく聞いていない。
「そうは言ってもなあ。いや、俺は信じるぜ。あんたは嘘がつけねえ顔をしているからな。でもなあ、お上はどうだろうな。あんたがお姫様についてなにか聞いたかもしれない、と思えば連中は解放しちゃあくれねえだろうね。あんたひとりの口が封じられるか、あるいはあんたが声をかけた人間も口外したかどでしょっ引かれるか」
そんな、テオドールはがっくりとうなだれる。そんな理不尽なことがあっていいのか。
「公然の秘密なんだよ。国中の誰もが知ってることだが誰も知らないってことになっている。決して表にしちゃいけないのさ。まして旅人に知られるなんて。どれほど堅く口外しないと約束したって、そいつがいつどこでうっかり口をすべらせるか分かったもんじゃない」
いったいそれほどの隠しておきたいこととはなんなのだろう。よほどの罪を姫と后がおかしたというのか。
「ううんそうさねえ。ここまできたら知っても知らなくても同じだろうしなあ。よし、教えてやるよ。兄ちゃんも俺も時間はある。ひまつぶしにもいいだろう」
そこで気がついた。見張りは、見張りに気づかれてはまずいのではないか、お互いに。残り時間が急速になくなるかもしれない。
「なあに、心配いらんよ。聞こえやしないからな」
自身ありげな男の言葉。相手はテオドールよりも前からの牢住まいだ。声の大きさやらタイミングやらで見張りの気を引かずにすむ方法を知っているのだろう。半信半疑ではあったが自分がこのような目にあった元凶を知りたいという気持ちの方が強かった。テオドールはおとなしく男の話に耳をかたむけることにした。
この国の王には妻である后がいた。ふたりの間には姫がひとりあった。王は后をそれはそれは愛していた。后も王をそれはそれは愛していた。ところが、后は急な病をえて倒れてしまったのである。治ることのない死の床についた后の枕元で王は涙にくれた。そんな王に息を引き取る寸前、后はひとつの約束をしてくれるよう頼んだ。
『どうか次に妻をめとるときには、わたしによく似た女性を選んでください』
と。
「このときのお妃様はどんな気持ちでこんな約束をしたのかねえ。兄ちゃん分かるかい? 自分に似た女が後妻だったら旦那の気が晴れると思ったのかね。それとも似た面影をとおして自分をずっと忘れないでいてほしいと思ったのかね。まさか、自分に似た女なんてそうそうみつからない。みつからないで旦那が再婚できないようにしよう、なんて考えてたとか。まあ、想像をめぐらせてもしようがないけどな。本心は本人にしか知れないがすでに故人だからな」
后の死後、王はおおいに嘆き悲しんだ。妻を思い出さぬ日は一日とてなく、なにも手につかないということが頻繁にあった。けれどいつまでもそうしてばかりはいられない。御家来方ははやく王に立ち直ってもらいたい。そのために再婚の話が持ち上がった。のだが、相手が亡き妻と似ていないという理由で王は断る。御家来方はほうぼう手を尽くして新たな后候補を探し出してくるのだが、どれもこれも王の目にかなわない。そうこうして時が過ぎたある日のこと。王はなにげなく姫の顔を見て気がついた。年頃になった娘は美しく成長し、その面差しはおろか声音や仕草までもがかつての后にうりふたつだったのである。王の胸はあっという間に懐かしさと愛おしさでいっぱいになった。そして、姫と結婚することのを決めたのだった。
「なにを言っているか分からないって? まあそうだよな。いくら似ているからって血のつながった娘と夫婦になろうなんて考えないわな。このときの王には死んだ思い人を求める気持ちしかなかったんだろうよ。それしかなかった。王には后しか見えていなかったんだ。それもまた愛ゆえのことなんだろうがね」
王は宣言した。
『姫を我が妻とする。姫以上に我が亡き后に似た者はない」
この言葉に御家来方はもちろん仰天した。
『ああ王よ、どうかお考え直しください。父と娘が婚姻するなど、これはあまりに罪深いおこないです。天が決してお許しにはならないでしょう。この罪状によって恐ろしい災いが降りかかります』
口々になんとか王をさとし、いさめようとした。
結婚を宣言された姫は御家来方以上に驚きおそれおののいた。
「この国にもまっとうな連中がいてよかったよ。いや、王様だけがまっとうじゃないのか。さっきも言ったがね、王様にはお妃様しか求めてなかったのさ。愛は盲目ってやつだろ、これも』
周りがなんと言っても王の決意は変えることができない。そこで姫は一計を案じた。
『お父様、わたしを妻に迎えるというのであれば、月のようにさえざえ輝くドレスを仕立ててくださいまし』
このようなとうてい達することのできないような無理難題をふっかければ、それにかかずらわっているうちに正気になるか、いくらなんでもあきらめてくれるだろうと、考えたのだ。しかし、王は方々に手を尽くして腕のいい職人達に命じて、それはそれはみごとな月のように美しいドレスを仕立て、姫に贈ったのだった。ドレスは文句のつけようのないほどに素晴らしい代物で、姫には反論のよちもない。
そこで次の策はと考えて、
『お父様、わたしを妻に迎えるというのであれば、星のようにきらびやかに輝くドレスを仕立ててくださいまし』
と、また無理難題をふっかける。しかし、王は様々に手を尽くして腕ききの職人を集めて命じると、それはそれはみごとな星のようなドレスを仕立て、姫に贈ったのだった。ドレスは文句のつけようもないほどの玲瓏たる代物で、姫には異議を申すよちもない。
また頭をひねって考える。
『お父様、わたしを妻に迎えるというのであれば、太陽のように光り輝くドレスを仕立ててくださいまし』
今度こそはと無理難題をふっかけた。ところがこれもまた王は四方八方に手を尽くして腕のいい職人を呼び集めて命じると、それはそれはみごとな太陽のように美しいドレスを仕立て、姫に贈ったのだった。ドレスは文句のつけようもないほどの壮麗な代物で、姫は異論をはさむよちもない。
なんとかしなくてはと知恵をしぼって考えた。
『お父様、わたしを妻に迎えるというのであれば、千匹の獣の皮で外套を仕立ててくださいまし』
さすがにこれは無理だろうという難題をふっかけた。王はありとあらゆる手を尽くし、国中の猟師に命じてありとあらゆる獣を仕留めさせ、その毛皮を国中の職人に命じて外套に仕立てさせたのだった。こうして千匹の獣の皮でできた外套を姫に贈ると、意気揚々と宣言した。
『明日、結婚式をとりおこなう』
「このときの王様はどんな顔をしていたかね? 兄ちゃんはどう思う? 俺は笑顔だったと思うね。それもとびきりの笑顔だ。お姫様の出した難題ってのも、王様にとっちゃあ婚礼の準備を頼まれているように思えたんじゃあないか。もちろんお姫様はちっとも笑っちゃいなかったろうさ。父親は周りの意見なんてどこ吹く風で、あきらめさせようと無理をふっかければそれをこなす力をもっている。もうね、青いをとおりこして白くなっていたと思うね、お姫様の顔色は。そんな娘を見てもよ、王様は笑顔だっただろうね。王様が見ているのは妻の面影だったろうからな」
もはや父の心を変えることはできぬと知った姫は色をなくした。そして、獣の皮の外套を着込み顔や手に煤を塗りたくって黒く汚すと、三枚のドレスと金の指輪、金の糸車、金の糸巻きを隠し持ち、皆が寝静まった夜のうちに城を逃げ出したのだった。
城を出た姫は森に迷い込むと、しばらくさまよったのちに疲れ果てて大きな木のウロの中で眠り込んでしまった。
翌日、城づきの猟師が森にやってきた。獲物を探していると不意に連れていた犬が走り出し、追ってみれば大きな木のウロに向かってさかんに吠えたてている。おそるおそるウロを覗き込んでみると、世にも奇妙な生き物がうずくまっていた。毛並みは色も長さも質感も様々で、顔と手は黒く毛が生えていない。これなんと珍しい動物だろうと猟師は驚き、ぜひとも捕らえて王に献上しようと思ったのだ。
吠えたける犬とギラギラ目を輝かせる猟師を前に、獣の外套を着込んだ姫はおびえすくみあがり、
『わたしは人の子です。親をなくして行くあてがないのです』
と、うったえる。珍かな獣だと意気込んでいたものが人と分かると、猟師はひどく落胆した。けれど、うったえられた身の上を憐れと思ったものか、みすぼらしい娘をウロから引きずり出すと城へと連れていったのだった。城ではちょうど良く台所の下働きを探しているところだったので、王の命によってこのみすぼらしい娘はそこで働くこととなった。
「兄ちゃん、台所の下働きってのはどんなもんか知ってるかい? まあ台所の事情てのはいろいろだけどな。城の台所てのはよ、もちろん城の者の口に入る物をこしらえるところだ。城の者の中にはもちろん一番上の王様も入ってる。王様が口にするものをこしらえるにゃあその最初、材料のところからこだわらなきゃならねえんだ。牛も豚も鶏も卵も野菜もたいがいの物は城の中で育てられるんだ。牛や豚は屠殺人の仕事だがね、鶏をしめて羽をむしるのも、野菜の泥を冷たい水で落とすのも台所の下働きの仕事さ。汚れた皿を洗って、煤にまみれてかまどの火を焚いたりもな。ほんの少し前まで乳母日傘のお姫様だったってのにね。今まで自分が食べてきたものがどんなふうにして出来上がってテーブルに乗るのかなんて考えたこともなかったろうにな」
新しい台所の下働きは名前もなのらず獣の皮の外套を決して脱ごうとはしなかったので、千匹皮と呼ばれるようになった。顔と手にいつも煤を塗りたくっていたが、台所仕事で血脂の匂いをまとい、かまど焚きの灰をかぶって、自然と容姿は憐れなものになるのだった。そのうえ指はあかぎれでひび割れ、食べるものはあまり物か残飯である。追い使われ獣娘とののしられますますみすぼらしいありさまであった。
ある日のこと。城で宴がもよおされた。王の主催で名だたる貴族や御家来方を招いての宴であった。宴にはそれにみあう豪勢な料理が必要で、台所は大忙しである。会場の大広間に美しく盛られた皿を運び上げ、汚れた食器を下げるの繰り返し。普段は台所から出されることのない千匹皮も上へ下へと働いていた。そんな仕事の合い間を見計らい、千匹皮は台所を守る料理番に、
『少しだけ上へ行って見てきてもいいでしょうか。戸口に立って見るだけにしますから。どうかお願いです』
と頼んだ。料理番は、
『ああいいよ行っといで。ただし四半刻で戻ってくるんだ。かまどの灰の始末をしなくちゃならんからな』
と千匹皮を行かせてくれた。
「料理番は一緒に働くうちに千匹皮に気安くなったかねえ。娘であるのは知ってたろうから憐れんだのかねえ。まあ、なんにも考えてなかった、たんなる気まぐれだったのかねえ』
千匹皮はすぐさま寝起きしている小部屋へ行くと、顔と手の煤をきれいに落とし、隠し持っていた月のドレスを着込んでしたくをすると姫の姿となって宴の会場へと入っていった。さえざえと銀に輝くドレスは姫を美しくきわだたせていた。宴の客たちはその姿を目にするとみな静かに一歩下がって姫を迎える。そうして大広間を二分して出来た道をしずしずと姫は歩いた。その先では王が待っていて、うやうやしく手を差し出す。とまどうことなく姫は手を取り、ふたりは楽団の奏でる調べにのって踊りはじめる。
王は心の中で、
((なんと美しい人か))
と感嘆の声をあげていた。
しかし楽しい時間は儚いもので、最後のステップが終わりお辞儀をすると互いにその手を離さなければならなかった。ふと気がつけば美しい人の姿がない。王はあわてて城の門兵の元へ走ると、これこれこういう女人が通るのを見なかったかと尋ねるが、門兵は首を横に振るばかりである。結局かの美しき人の名前も素性も分からぬままで王はうなだれるばかりであった。
大広間を抜け出した姫は小部屋に行くと月のドレスを脱いで獣の皮の外套を着込み、顔と手を黒く汚してみすぼらしい千匹皮の姿になった。そうして約束のとおりに四半刻で台所へと戻ったのである。台所では料理番が待っていたのだが、彼はぐたりと椅子にだらしなく座っていた。
『おお戻ったか千匹皮よ。かまどの始末は明日でいい。これから王様のお夜食のスープを作らねばならないのだが、俺は相当に疲れてしまってな、できそうにない。だからおまえが代わりに作るんだ。いいか、髪の毛一本でも落とすんじゃないぞ。そんなことをしたらただじゃあおかないからな』
料理番はそう言いつけると、さっさと自分の部屋に行って眠ってしまった。ひとり残された千匹皮は丁寧に丁寧に心を込めてスープをこしらえた。そしてそのスープを皿にそそぐときに、小部屋に隠しておいた金の指輪を一緒に入れる。
宴が終わり、王が就寝前に夜食のスープを飲み干すと、皿の底になにかがある。ころりとそこに転がっているのはキラキラと灯りを反して光る金の指輪であった。なぜこれがスープ皿に入っているのか首をひねった王は、料理番を呼びつける。気もちよく眠っていたところをたたき起こされた料理番は千匹皮に向かって目をとがらせた。
『あれほど言ったのに、おまえは粗相をしたな。戻ったらみっちり仕置をしてやるから待っていろ』
おそろしい剣幕で千匹皮を震えあがるほどに脅しつけた料理番であったが、王の前に立てば青い顔でかしこまるばかりであった。
『今宵のスープを作ったのは誰か?』
『それはわたしであります』
王の問いに料理番は答えた。
『嘘を申すでない。今宵のスープは常と味が違っておった。なによりずっと美味であった。まことのところを申すがよい』
見抜かれた料理番はおずおずと、今夜のスープを作ったのは下働きの千匹皮めでございます、と答えた。王は、ならばその千匹皮とやらをここへ呼べ、と命じ、料理番は顔色の悪いまま下がらせる。入れ代わりに王の前へ連れ出された件の下働きの娘は顔も手も黒い、名前のとおりに奇妙な獣の皮をかぶったみすぼらしいものであった。
『今宵のスープを作ったのはおまえだな』
『さようでございます』
『皿の中に金の指輪が入っていた。これはどういうことか?』
『わたしは長靴をぶつけられそしられるだけのはした者にすぎません。どうしてそのような金の指輪などというものを知っているでしょう』
王の問いに千匹皮はそう答える。なにをどう聞いても、
『わたしは親をなくし、家をなくしたはした者でございます』
と答えるばかりでらちがあかない。手に持つ金の指輪を見て王は首をひねりながらも、千匹皮を下がらせた。
顔色の戻った料理番は、急な呼びつけであったのにお叱りのためではないとはいったいどういうことなのだろう、としきりに不思議がっていた。千匹皮はなにも言わなかった。
「ん、なんだって、兄ちゃん? 長靴うんぬんの意味が分からないって? ああ、言うのを忘れてたな。千匹皮には台所仕事のほかに、就寝前の王の長靴を脱がせる役目があったのさ」
それからしばらくして、またなにごとかの大きな宴が開かれた。王に招かれたのは筆頭の御家来方をはじめとした貴族の面々である。このたびも宴の料理をこしらえるのに台所はてんやわんやで、召し使い勢は下っ端の千匹皮まで料理を上げ、食器を下げの大忙しであった。そうして会場から戻ってきた千匹皮は料理番に頼みこんだ。
『どうかお願いです、上へ行くお許しをください。戸口のところからそっと立って見ているだけでかまいませんから』
おりよく仕事の山は越えたところだったので、料理番は四半刻ならば行っても良いと言った。千匹皮は素早く自分の小部屋で毛皮の外套を脱ぎ、顔と手をきれいにすると、きらびやかに光る星のドレスを着込んだ。髪を編んでしたくを整えると姫の姿になり、宴のおこなわれている大広間へと入る。
一歩姫が会場に足を踏み入れると、まるで波が引き道があらわれるかのように人々が行き先を開ける。しずしずと姫が進むその先には王が待ち遠しげにしている。ふたりは笑みを交わし、手を取り合うと、楽団の奏でる音色にのって優雅に踊りはじめる。
((ああ、やはりこの方は美しい))
目の前の姫の顔に王はうっとりと見惚れ、心の中を喜びで満たしている。やがてなごりおしくも楽団が最後の音を響かせ、手を離してお辞儀をする。今度は目を離すまいとしていたのだが、いつの間にか姫の姿が消えている。わずかな隙をつかれてしまったようだ。王は周囲の客に美しい姫がどちらに行ったのか聞いて回ったのだあいにく誰も姫が行くのを知らなかった。王と同じくいついなくなったのかさえ気づいていなかった。王はひどく気落ちして、先ほどまで愛らしいたなごころと触れていた己が両手を見るばかりであった。
はなやかな大広面から姫は狭く薄暗い自室の小部屋へ行くとドレスを脱ぎ、髪をほどいて毛皮の外套を身につける。入念に顔と手に煤を塗りつけると、約束の時間どおりになにくわぬ顔で千匹皮として台所へと戻った。
『おお戻ったか千匹皮よ。俺も宴を覗いてみたくなった。ちと上へ行ってくるから、そのあいだに王様の夜食のスープをこしらえておけ。いいか、今度も絶対にヘマをするんじゃないぞ』
そう言いつけて料理番はさっさと行ってしまった。残された千匹皮は丁寧に丁寧に前のものよりいっそう心を込めてスープを作りあげる。出来上がったスープを皿にそそぐとき、小部屋から金の糸車を持ってきて一緒に入れた。
宴が終わり、王は習慣である夜食のスープを飲んでいた。するとスプーンがかちりとなにかにぶつかる。皿ではない。すくい上げてみると金の糸車であった。なぜこれがスープの中に入っているのか不思議に思い、料理番を呼びつけた。
素晴らしい宴の様子をながめて楽しんでいたところを呼びつけられた料理番は、千匹皮をにらんで言った。
『おまえというやつは今度こそヘマをしでかしたな。戻ってきたらどういうことになるか、覚悟をしておけよ』
憐れな下働きを脅しつけながらも、王の前に立ち、冷たいものが背を流れる料理番は、
『今宵のスープは常と味が異なるばかりかいっそう美味であった。作ったのは誰か?』
という問いに、
『それは千匹皮が作ったものにございます』
と最初から正直に答えた。王は料理番を下がらせて、入れ代わりに千匹皮を呼びつける。連れてこられた台所の下働きは、相も変わらずみじめな様相をしていた。
『千匹皮よ、今宵のスープにこのような物が入っていた。おまえにはなんぞ心当たりはあるか?』
目の前に金の糸車を見せつけられても、
『わたしは長靴を投げつけられ、小言をいただくだけのはした者にございます。どうしてそのような物を知っていましょうか』
千匹皮はそう答えるだけで、何度問うても何度とも同じ答えを返すばかりであった。しかたがなく、王は不思議に思いながらも千匹皮を下がらせる。
料理番は、どうしておまえにスープ作りをまかせると訳の分からぬ呼び出しをくらうのだ、と冷や汗を拭きながらブツブツ言っていた。千匹皮はなにも応えなかった。
またしばらくたつと、お城でなにがしかの祝いのために、王により盛大な宴がとりおこなわれることとなった。招かれるのは国にとって重要な貴族のお歴々だ。盛大な宴にはそれにみあうだけの盛大な料理が必要である。そのために台所は大わらわであった。忙しいうえに決して手抜かりがあってはならないのだ。台所仕事にかかわる者は上の者も下の者もおおいに働かなければならなかった。階上の大広間から大量の汚れた食器を下げ、冷たい水できれいに洗い終えた千匹皮が料理番に、どうかどうか上の宴を見に行かせてくれ、と頼みこんできた。料理番ははじめのうちは渋っていたのだが、千匹皮が朝からこまねずみのように立ち働いていたのを知っていた。そのうえ、仕事が一段落したところを見計らって頼んできている。四半刻で戻ってくるようきつく言いつけ、料理番は行くのを許してやった。
千匹皮はすぐさま小部屋へ行くと毛皮を脱ぎ捨て、体の汚れをきれいに落とすと、緋色に光る太陽のドレスに着替える。きちんと髪を結い上げ、姫の姿にしたくを整えると、宴の会場へと入った。
輝かんばかりの姫を認めると、人並みはさあっと割れ道を作る。待ちわびた王はしずしずとこちらへと歩む姫に駆け寄ると、あふれんばかりの笑みを浮かべ、うやうやしく手を差し出した。姫はうるわしい微笑みとともに王の手を取り、ふたりは楽団の演奏に合わせて優雅に軽やかに踊る。くるおしい情熱と喜びを全身にたたえて、夢心地のなか楽しく踊る。
((ああ、この姫こそ探し求めてきた存在よ))
秀麗な姫の瞳をみつめながら王の胸は高鳴った。そして今度こそは決してこの手を離すまいぞ、と心に固く強く決めたのである。ステップを踏むさなか、王は隠し持っていた金の指輪をするりと姫の指にはめたのだが、夢中になっていた姫は気づいていなかった。姫を求める王はそのために、楽団に常よりも長く曲を奏でるよう命じてある。姫はそのことに気づいたものか、うっすらととまどいの表情を浮かべている。ようやく曲が終わり、姫は手を離してお辞儀をしようとしたが、王は手をつかんだままでそうさせてくれない。ひどくあせったが、姫はなんとか王を振り切ると広間から駆け出していく。王は声を張り上げ、人並みに飲まれ消えゆく愛しい背中を追ったがかなわなかった。周りの客たちはとっさのことに動揺してみな姫を見逃してしまったのである。
思わぬ事で時間を過ごしてしまった姫は小部屋に飛び込むと、あわただしくドレスを脱いで千匹皮へと姿を変える。しかし、台所へ戻るのに間に合わないと、顔と手を煤で黒く汚すことはできなかった。息もあらく台所へ行けば、難しい顔をした料理番が腕組みをして待ちかまえていた。
『おお戻ったか千匹皮よ。今日の夜食はおまえが作れとの、王様よりじきじきのご命令だ』
料理番の言葉にかしこまり、千匹皮は命令どおりにスープを作りはじめた。その手元を料理番は仏頂面でながめている。
『王様はおまえのこしらえるスープをいたくお気に召している。まったくどんな隠し味をしこんでいるんだ?』
千匹皮は丁寧に丁寧に精一杯の心をこめてスープを作った。出来上がったスープをさらにそそぐときに、料理番の気がそれたところを見計らい、自室の小部屋から持ち出しておいた金の糸巻きを一緒に入れる。
はなやかで盛大な宴が終わり、就寝のしたくをした王の前にいつものように夜食のスープが用意される。温かな湯気とともにかぐわしい香りをのぼらせるスープを少しのあいだみつめ、王はおもむろにスプーンを取りあげるとかき回した。かちりと音がする。すくってみれば、金の糸巻きであった。それを見た王は、うん、とひとつうなずくと、スープを残さずたいらげると、千匹皮をここへ呼ぶようにと命じる。そうして連れてこられた千匹皮はいつもよりいっそう体を縮こめて王の前に立った。
『おまえはいったい何者なのだ?』
『わたしは親をなくし、家もない人の子でございます』
『今宵のスープには金の糸巻きが入っていた。これはどういったことか?』
『わたしは長靴を頭にぶつけられ、ののしられるだけのはした者にございます。どうして金の糸巻きなどというもののことを知っているでしょう。そのようなものは存じ上げません』
王の問いにいっそううつむいて答える千匹皮。王は急に立ち上がると、大股で千匹皮に近づいてその腕を掴む。とっさのことに逃げることのできなかった千匹皮は、王の前に汚し忘れた白い腕をさらすことになる。その腕の先、手もまた白く、ほっそりとした白い指には金の指輪がはまっていた。それはまぎれもなく踊るさなかに王がこっそりとはめたものであり、今こうして腕を掴んでいる千匹皮が間違いなくかの麗人であることを示す証であった。
こうして美しい正体の知れた千匹皮は、王の新たな后となったのである。
「めでたしめでたしってね。王様は念願の亡き妻に似た后をめとれたし、お姫様も慣れない台所の下働きから元のきれいな王族の身分に戻れたしな。ん、なんだい兄ちゃん。それはつまり実の父娘が結婚したということで、それは大問題だろうだって。いやいや、王と千匹皮は他人なんだよ。娘の姫は城から逃げ出してそれっきり、行方知れずなんだから。なんてな、まあ冗談だよ。あんたの言うとおりだよ。王様の新しいお后様の正体はみんな分かってるんだ。宴に呼ばれた御家来方や御貴族様方が王の娘の顔を知らないわけないだろう」
くつくつと鉄柵の向こうから男の笑い声が響く。
「これは儀式なんだよ。お姫様は城から逃げ出して森で死に、木のウロの中で千匹皮というよく分からない存在に生まれ変わった。その後、千匹皮は台所の下働きとなる。お姫様じゃあないからだ。王様が千匹皮に長靴をぶつけるのもそうさ。娘じゃあないからだ」
男の声音には笑みが混ざっている。
「宴のたびに千匹皮がドレスを着込んであらわれるのは、王が突然台所の下働きと結婚しちゃあんまりにもおかしいからさ。スープの中に金の糸車やらを入れるのも同じことさ。今はゆえあって下働きに化けちゃあいるが、本来の身分は高いんですよっていってるんだよ。こうして王は妻も娘も亡くしたが、なぜか奇妙な毛皮を着て台所の下働きに身をやつしていた、さる高貴な美女を新しい后に迎えましたとさ。幸運なことにこの美人はなき妻によく似ていたので、遺言もきちんと守られましたってね」
男は笑っている。嗤っている。嘲笑っている。
「お姫様ははじめから逃げる気なんてなかったのさ。こごえることも飢えることも知らない。汚れた皿の洗い方も知らない。洗うということすら知らなかったかもな。そんなお姫様がその身分を捨てられるか? できない。できなかったんだよ。宴に顔を出すことがどういうことなのか分かっていたはずだろう。月と星と太陽のドレスを身につけてあらわれることは自分が何者か示そうとしていたんだろう。王が権力と財力をつぎ込んで仕立てて贈ったものなんだから。金の指輪や糸車や糸巻きも城から持ち出しものなんだから、それを王に見せて自分の存在を示した。姫も最初は逃げようとしたかもしれないけれど、結局は王のおそるべき想いに応えることにしたのさ。そうして今この国があるわけさ。父が実の娘をめとった国が。娘が父の妻になった国が。誰もが知っている。けれど誰も指摘できない。口に剣でもってフタをしているから。最近じゃあ、千匹皮は別の国から来たんだ、と話の改ざんをしている連中もいるらしい。でもな、そんな上辺のつくろいなどなんの意味もない。天に背く行為をしたことになんの変わりもないんだからな。この国の未来は暗いぞ。どのような終焉を迎えるのか。ああ、楽しみだな」
ゲラゲラと男の哄笑は狭い石壁に反響し、まるで人のものではないようであった。風もないのに灯が揺れ、影が不気味に跳ね踊る。テオドールはたまらず両手で耳を塞ぎ、目をつぶる。
どれほどそうしていたのか、テオドールが気づくとあたりはシンと静まりかえり、灯はぼんやりと地下牢を照らしている。向かいの男はどうしたろうか。そうは思っても、声をかける勇気が出ない。そうこうしていると、不意に人の声が聞こえてくる。ひとりではない。距離のせいか、あいにくなにを話しているのかは聞き取ることはできない。間もなく足音がして、どうやらこちらに近づいてくるのが分かった。それとともに明かりが近づいてくる。やがて、テオドールの牢の前にやってきたのはランプを手にしたひとりの女であった。闇色のマントにフードを目深にかぶり、口元も布でおおわれ、手袋もしている。露出するところのあまりにない格好であったが、その物腰から女だと分かる。
マントの女は無言でランプをかざす。牢の中、テオドールの姿を確認したようだ。すぐにしゃがむと懐から鍵を取り出して鉄格子を開けてしまう。予想もしなかったその行動にテオドールがあっけにとられていると、
「さあ、出てください」
格子戸を開け放ってマントの女が言った。落ち着いた静かな声音である。うながされるままにテオドールが牢を出ると、マントの女は先に立って入り口へと向かおうとする。柵の外へ出たとたん、とっさに向かいの男のことを思い出し、テオドールはそちらを見てとまどい、足を止めてしまった。マントの女に彼の牢の鍵も開けてくれるよう頼もうか。しかし、あの男がどのような罪で獄暮らしとなったのかを知らなかった。自分のように罪無くして捕らえられたわけではないかもしれない。はたして解放を頼んで良いものか。それにしても、あの男はこの状況でなぜなにも言わず、騒ぎ立てもしないのだろうか。
足を止めたテオドールの様子からなにかを感じたものか、マントの女は閉じられた牢へちらりと目を向けて言った。
「ここにはあなたのほかに人はありません」
テオドールはマントの女に導かれるままに地上へと出た。空に星の輝く夜であった。地下牢を出るさいに見張り番の姿はなかったが、詰め所とおぼしき場所があったので、おそらく席を外していたのだろう。あってはならないことだが、それをさせる力がマントの女にはあるのだ。そのあとも、人通りのない裏道、扉、廃屋、地下道、扉と進み、よく分からないうちにテオドールは城門の外側の離れたところに出ていたのである。そしてそこには、
「テオドール様!」
ファラダが待っていた。このうれしい再会にテオドールはすぐさま愛馬に駆け寄り、体をなでてやる。毛並みも良く、怪我もしていないようだ。どれほど心細い思いをしていたのだろう。ファラダもしきりに顔を擦りつけ、喜びを全身であらわす。テオドールが捕らえられたあと、ファラダを保護してここに連れてきてくれたのもマントの女なのだろう。テオドールが礼を言えば、彼女はうつむいて首を横に振るう。その仕草はテオドール画廊から助けられて、やはり礼を言ったときにも目にしたものだった。それは謙遜しているというよりも、恥じらっているように見える。
あなたはいったい何者なのか。なぜ縁もゆかりもないテオドールを助けるのか。そう問いたかったのだが、ここまで無言で通してきたのである。いまさら答えてくれるとは思えなかった。問答無用で捕らえて投獄しておきながら、やはり一切の理由を説明することなく解放される。捕らえられたのは聞いてはいけないことを聞いたから。うかつなことを尋ねるその口を封じるために。そうさせたのはこの国の高位の存在だ。目の前の女には地下牢の見張り番を外させる力がある。だがテオドールを助けたことから分かるように、捕らえさせたのは彼女ではない。おそらくだが、よどみのない行動をかんがみるに、これまでにも同じことを何度もしてきたのではないだろうか。その理由は、分からないが。
「あなた様は幸福を招く姫をお探しとか」
マントの女が口を開く。
「この国にはおりません。この国にいたのは、弱さのあまりに罪を犯した姫でございます」
その声には哀切の色が強く感じられた。
マントの女はそれだけ言うと、きびすを返して去っていく。
なぜあんなことを言ったのか。抱え込んだ心の内を行きずりの人間にだけ吐き出したかったのだろう。それと同時に彼女はテオドールに二度とこの国を訪れることと、今回のことについて詮索することを禁じている。テオドールは彼女のことを、言葉を考えていた。
公然の秘密である国王と后の本当の関係。それを知られないために、憐れでうかつな旅人を捕らえる。人の口に戸は立てられぬから。それを命じた人物もその理由もよく知っているだろうに彼女は捕らえられた者を解放する。推察できる彼女の立場から考えれば、どうしてそのようなことをするのだろうか。
彼女の最後の言葉を思い出す。
“姫”は罪を選んだのだという。その行動を悔やんではいないだろう。すでに天秤にかけ、計って、考えて、選んだ道なのだ。けれど、恐れているのだとしたら。ならば彼女は贖罪のために囚人を解放しているのか。己の力でもって救える命を助けているのか。罪は消えぬと分かっているが、罰を恐れて天に贖い続けているのか。その終わりはいつかくるのだろうか。許されることがあるのだろうか。
去っていく彼女の背中の小さくほっそりとしたのを思い浮かべると、ひどく切なく悲しいものであったように思える。
元はといえば天をおそれず罪深いおこないを選んだ者が悪いのだろう。そのうえ、いさめ諭す者が周りにいたというのに聞き入れることはなかった。なにせ彼らがおそれるものを、おそれていないのだから。みなで見放してしまえばよかったのだろう。逃げ出してしえればよかったのだろう。けれどできなかったのだ。先の見通せぬ暗い未来に己の身を投げ出せる者は少ないだろう。とくに今が今のままの未来が安寧に見えるのならばなおさらだ。だから罪を見ておきながら口をつぐんだ。そうなのだけれどそうではないと口にする。
ファラダがテオドールの首筋に鼻を押しつけてきた。冷たく濡れた感触。言葉はないがうながしているようだ。テオドールは微笑を浮かべ、ファラダの額をひと撫でして背にまたがった。
城壁の向こうには家屋の、商店の、城の灯りが夜空をぼんやりとにじませている。それをながめながら、その地下にある暗くひんやりとした牢獄を思い出して、テオドールはゾクリと体をふるわせた。
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