第5話 白雪姫
テオドールは道に迷っていた。今はもう、もはや道ではない道を進んでいた。すでに正確な道順を見失って久しい。先の分かれ道で選んだ方ははずれだったのだ。だんだんと細く獣道めいていくのを、嫌な予感がしながらも引き返さなかったのが間違いだ。今は騎乗したファラダの脚にまかせて進んでいる。もしかしたら、忠実で賢いこの騎馬ならば、主人がどこそこへ行きたい、と言えば正しい道を選んでくれたかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていた。テオドールはすっかりとほうにくれた迷子の心境になっていた。陽はとうに落ち、木々の隙間からさしこんでくるのは頼りない月明かり。そのような状態であったから、前方に人家のシルエットをみつけた時にはひどく安堵したのだった。
黒々した森の中で木立にうもれるように建っていたのは、小さな庭のあるこぢんまりとした家だった。テオドールはファラダの背をおりると、すぐさま玄関にかけより扉を叩いた。返事はない。けれど、それでもかまわなかった。壁と屋根のある場所で眠れるのならばそれでよかった。何度かノックをして、どうやら無人のようだ、そう思って把手に手をかけようとした時のことだった。内側からガタリと音がして細く扉が開いたのは。人が住んでいたのだ。先ほどの音はかんぬきを外した音だろう。家内の灯りを背にテオドールを迎えたのは小柄な人物だった。羽織ったマントの前をぴっちりと留め、フードも目深にかぶっているので影が完全に顔を隠している。見た目には男女の別も若いのか老いているのかも分からない。
「どなたさま?」
声はきれいな女のものだった。そんな向きでは相手の顔も見えないだろうに、フードの女はうつむいたままで顔を上げることがない。テオドールは道に迷い一夜の宿を願いたい、と事情を告げる。けれど、
「あなたさまは誠実な方のようですが、ここはあいにくわたしひとりの住まいにございます。窮状はお察しいたしますが、殿方をお泊めすることはできかねます」
せっかくともった希望の灯が瞬時にかき消されてしまった。テオドールの消沈するのが感じられたのか、フードの女は少し考える素振りを見せてから森の奥を指さした。白くほっそりとした美しい手だった。
「この先を行ったところに七人の石採り人の家がございます。そちらで、あなた方の養い娘の客だ、とおっしゃってください。そうしましたら今宵の宿に困ることはなくなるでしょう」
その言葉にふたたびの希望を得たテオドールは、フードの女に礼を言い、ファラダの背にまたがって森の奥へと向かう。その後ろでは、闇に溶けゆく人影と馬影を見送ると、静かにぴっちりと扉が閉まった。夜の森へと同化するために。消えゆく灯りの中にちらりと浮かんだのは、赤い形のよい唇であった。
少々の不安とそれより大きな期待を胸に、テオドールは森を進んでいた。ほどなくしておぼろげな月明かりの中に、家屋の影をとらえることのできた時の胸の高鳴りは先のもの以上であった。その家は、フードの女の家よりも大きくて古めかしいたたずまいをしている。さっそく扉を叩くと、いらえもなく開かれた。出迎えたのは老いた灰茶の帽子をかぶった石採り人であった。テオドールにとって、石採り人というのを見るのはこれが初めてのことだった。話には聞いていたのだが。彼らの背丈は人の半分ほどだが、人よりずっとがっしりとして、頑強で頑健である。力もずっと強く、人の大人であったも軽々とかつぎ上げることができる。その力でもって、彼らは鉱山の奥深くからきらびやかな宝石の元をとなる岩石を掘り集めるのだ。
目の前に姿をあらわした石採り人は、話に聞いていたとおりのように見えた。灰茶帽子の石採り人は突然の訪問者を不審げにじろりとねめ上げる。テオドールはあわてて教えられたままに、あなたがたの養い娘の客だと告げた。一夜の宿を乞いたいのだと。とたんに灰茶帽子の石採り人の顔は喜びでいっぱいになった。そして、テオドールを丁寧に招き入れると、家内へと呼びかける。
「おおい、お客人だ。わしらの娘のお客人だ」
入ったそこは食堂のようで、大きなテーブルの周りには七脚の椅子があり、六人の石採り人がそれぞれ腰をおろしている。めいめいの前にはジョッキや皿が並べられ、アルコールとなにやらおいしい物の匂いが充満していた。テオドールが入ってくると、六人の石採り人がいっせいにこちらを見る。みなシワがきざまれ、立派なあごひげをはやした顔いっぱいに笑顔を浮かべている。
「ようこそお客人」
いちばん手前に座っていた赤茶の帽子をかぶった石採り人がそう言った。
「お座んなさいな、お客人」
いちばん奥にいた白茶の帽子をかぶった石採り人が、えっちらおっちら椅子を運んできて言った。その椅子は彼らの使っているものより大きく、テオドールが座るのにちょうどよいものだった。
「ところで、わしらの娘は元気だったかね?」
パイプを持って黒茶の帽子をかぶった石採り人が尋ねた。テオドールは彼女の顔を見ていなかったが、とくべつ病んでいるようにも感じられなかったのでうなずいておく。黒茶の帽子をかぶった石採り人は満足そうにパイプをふかした。
「そうかそうか、元気でやっているか、わしらの白雪は」
隣に座っていた、ことさらあごひげの長い黄茶の帽子をかぶった石採り人がそう言ったのを耳にして、テオドールはひどく驚いた。聞き間違いでなければ、それは昼に訪ねた町で教えられた話に登場する姫の愛称だったからだ。もしかして同じ愛称をつけられた娘なのかもしれない。けれど、と胸の内で思っていると、
「おや、お客人は白雪の話をご存じか?」
こちらの表情を読み取ったものか、白髪の焦茶の帽子をかぶった石採り人が尋ねてきた。じつのところ、この七人の石採り人の家を教えられた時、その存在に対して心中で驚愕していたのだった。なぜならテオドールが聞いた白雪姫の物語にも、七人の石採り人が登場するのである。そのために、予想というよりは期待を抱いてここへ来たのだ。
「お客人。白雪のことはどのように語られているのかね?」
うなずくと、眼鏡をかけて金茶の帽子をかぶった石採り人がテオドールを見て言った。どうやら、彼らの養い娘は間違いなくテオドールの知る白雪姫のようだ。気づけばほかの七人もなぜかそろってこちらをみつめている。もう一度うなずくと、十四の視線にいささか緊張しながら、テオドールは語りはじめた。
昔々あるところに王様とお后様がおりました。王様とお后様はたいへん仲が良かったのですが、子どもがありませんでした。
冬のある日のことです。お后様は開け放した黒檀の窓辺でつくろいものをしておりました。その時、あやまって縫い針を指に刺してしまいました。ぷくりと盛り上がった血の玉はみるみる大きくなって流れ、雪の上へとこぼれ落ちました。それを見て、お后様は大きなため息をつきました。
「ああ、この雪のように白い肌で、血のように紅い唇と、黒檀のように黒い髪をもった子どもが欲しいものだわ」
それからしばらくして、王様とお后様は子どもを授かりました。月満ちて生まれてきたのは女の赤ん坊でした。待ち望んだ姫君の誕生に国中がたいへんなお祭りになりました。
七年もたつころに、姫君は雪のように白い肌で血のように紅い唇と黒檀のように黒い髪をした美しい少女に育ちました。その容姿から、誰ともなく白雪姫と呼ぶようになりました。姫君の成長を国中のすべての人が喜びましたが、唯一人だけそうではない者がありました。それは母親であるお后様でした。お后様はたいそう美しい方で、ご自分でもこの世でもっとも美しいと思っていました。
お后様は魔法の鏡を持っておりました。この鏡になにごとか問いかけますと、真実の答えを返すのです。日に日に美しくなる白雪姫の姿に、胸が騒いだお后様は魔法の鏡に尋ねました。
「鏡よ鏡、答えておくれ。世界でもっとも美しいのは誰?」
鏡の表面に不思議な輝きがあらわれると声が聞こえてきました。今までであれば、
「お后様、それはあなたです。世界でもっとも美しいのはあなたです」
という答えが返ってくるのです。けれど、
「お后様、ここではあなたがもっとも美しい。けれど、白雪姫は倍も美しい」
返ってきたのはこの答えでした。それを聞いたお后様の顔はみるみる間に青くなっていきました。それからしばらくのあいだ、お后様は思いつめてなにごとか考えておりました。そしてある日のことです、お后様はお城にある秘密の小部屋にひとりの男を呼び出しました。男の前に、金貨がパンパンに詰まって人の頭ほどにもなった袋が出されます。
「姫を森へ連れて行って殺してきておくれ。証拠に肝臓を持って戻ってきたら、おまえがひとりで持ちきれないほどの金貨を払おう」
男は殺し屋でありました。男にとって、きちんと報酬が支払われるのであれば、依頼主が誰であろうと、殺す相手が誰であろうとかまいません。次の日になると、殺し屋の男はさっそく狩人の格好をして、ひとりで遊んでいた白雪姫に近づきました。おもしろおかしい話をしてすっかり仲良くなると、言葉たくみに森へと誘い出しました。幼い平雪姫はすっかり安心しきってなんの疑問もいだかずについていきます。そうしてお城の一番高いとがった屋根すら見えない森の奥へときますと、男はやにわに殺し屋の本性をあらわして、姫君を取り押さえてナイフを振りかざします。ぎらりと鈍色に光る刃を目にし、白雪姫はおびえて震えあがり、ああどうかお願いです殺さないでください、とうったえました。そのあまりに健気で憐れなさまに、殺し屋はとうとう刃を振り下ろすことができなくなりました。白雪姫から手を離すと、顔を手でおおって言いました。それならずうっと遠くへ行きなさい。誰もあなたを知らないところへ行きなさい。決してお城に戻ろうなんて考えてはいけませんよ。お后様はとても恐ろしいお方です。
白雪姫は泣きながら森の向こうへと走っていきました。殺し屋は姫君が行ってしまうのを見送ると、仔イノシシを殺して腹を裂くと肝臓を切り取りました。それをお城で待っていたお后様に証として差し出しました。血のしたたる肝臓を見たお后様は大喜びで塩ゆでにさせると、おいしそうに食べてしまいます。こうして白雪姫の美しさを自分のものにしようとしたのです。
白雪姫は森を抜け、お城から七つの山を越えた先を歩いておりました。その場所も深い森の中でした。不思議なことに、姫がさまようあいだどんな猛々しい獣も襲いかかってくることはありません。それどころか、みなしずしずと道を開けさえするのです。休みなく歩いていた白雪姫はひどくくたびれてしまいました。日も暮れかかってきますと、とたんに心細くなって寂しく思っておりますと、一軒の家をみつけました。扉を叩いていみますが、なんのいらえもありません。おもいきって把手に手をかけますとたやすく開きます。白雪姫が中に入ってみますと、やはり誰もいません。大きなテーブルには七つのスープが入ったお椀と、七つのワインの入ったカップと、七本のスプーンが並べられています。お腹がすいてたまらなかった白雪姫は、七つのお椀からスープを一口ずつ飲み、七つのカップから一口ずつワインを飲みました。空腹が満たされると、とたんに眠くなってきます。別の部屋で七つのベッドをみつけると、それぞれひとつずつ試して一番寝心地のいいものに潜り込むと疲れのあまり、あっという間に寝入ってしまいました。
それから少しして陽が落ちたころ、家の住人たちが帰ってきました。七人の石採り人でした。彼らはわが家に入るなり、いつもと異なる変わったところを次々とみつけます。
「おや、誰かが家に入ったようだぞ」
「おや、誰かがスプーンを使ったようだぞ」
「おや、誰かがお椀からスープを飲んだようだぞ」
「おや、誰かがカップからワインを飲んだようだぞ」
「おや、誰かが椅子に座ったようだぞ」
「おや、誰かがベッドに寝たようだぞ」
「おや、誰かがベッドに寝ているぞ」
七人の石採り人は彼らのベッドのひとつで眠り込むひとりの人間の少女をみつけました。ひどく驚きましたが、その寝顔の愛らしさにたたき起こしてベッドから追い出すようなことはしませんでした。その夜、七人の石採り人は六つのベッドで眠りました。
翌朝、目を覚ました白雪姫は石採り人たちに昨夜のことを謝まりました。七人の石採り人はこんなに可愛らしく美しい人間の少女が、どうしてこのようなところに迷い込んだのか不思議がります。そのことを尋ねると、白雪姫は涙ながらに母親であるお后様に命を狙われたこと、お城にはもう戻れないことを話しました。それを聞いた七人の石採り人は、幼い姫君の身に降りかかった悲劇に深く同情します。そこで、彼らは身寄りをなくした白雪姫は言いました。
「よければここで暮らさないかね。わしらが仕事に行っているあいだ、おまえさんが家中をきれいにして、ベッドをきちんと整えて、温かい食事を作ってくれないかね」
こうして白雪姫は七人の石採り人と暮らすことになりました。
それから三年ほどたったある日のことです。お城ではお后様が魔法の鏡に問いかけていました。
「鏡よ鏡、答えておくれ。世界でもっとも美しいのは誰?」
鏡の表面に不思議な輝きがあらわれると声が聞こえてきます。
「お后様、ここではあなたがもっとも美しい。けれど、七つの山を越えた先の森の中、七人の石採り人と暮らす白雪姫は十倍も美しい」
その答えにお后様の驚きようは尋常ではありません。とうの昔に白雪姫は死んでしまい、当然のこと自分がもっとも美しい、という答えが返ってくるとばかり思っていたのです。たばかられていたことを知ったお后様はひどく怒り、なんとしてでも白雪姫を亡き者にしようと固く決意しました。お后様は顔に炭を塗ってシミをこしらえると、衣を変えて物売りのおかみさんに化けました。その姿で七つの山を越えた先の森へと向かったのです。
七つの山を越えた先の森の中の家で、白雪姫は留守番をしておりました。七人の石採り人は山へ宝石を掘りに出かけたのです。彼らが帰ってくるのは陽が落ちるころ。そのあいだ、白雪姫はひとりで家中からチリやホコリを掃き出し、ベッドのシーツをぴっちり敷いてきちんと整えて、温かい夕食の準備をしました。そうしていますと、家の外からなにやら人の声が聞こえてきます。不思議と興味をひかれて窓を開けると、家の前を物売りのおかみさんが通りかかるところが見えました。物売りのおかみさんは白雪姫に気がつくと、にっこり笑い窓辺にやってきます。
「あららこんにちは、娘さん。わたしはあんたのような若い人向けの胸元を飾る紐を売っているんだけど、一本いかがかしら?」
そう言って、カゴの中から金糸銀糸で編まれた物、色とりどりの綾糸の組み紐、きらきらとした飾りがついた物、そのほかにもさまざまな種類の胸紐を取り出して見せてくれました。それらの可愛らしくてきれいなものたちを目にして、白雪姫はうっとりしました。
「気に入ったものはあって? どうかしら、ためしにひとつ結んでみるかい?」
物売りのおかみさんの言葉に白雪姫は喜んでうなずくと、玄関を開けました。
「ありがとう、娘さん。じゃあこのいちばん素敵な紐を結んであげましょうね」
そう言うと、物売りのおかみさんは白雪姫の体に回した胸紐をぐっとひと息に締め上げました。あまりにきつく胸を締められて呼吸ができなくなり、姫はばったりと倒れてしまいます。そのままピクリとも動かなくなったのを見届けると、物売りのおかみさんは邪悪な笑みを浮かべて恐ろしいお后様の本性をあらわしました。お后様は憎い白雪姫を始末できたと喜びいさんでお城へと帰ったのでした。
やがて日が暮れたころ、仕事を終えた七人の石採り人が家へ戻ってきました。彼らは扉を空けたとたんに家の中がとてもおかしなことになっているのに気づきました。真っ暗でこそとも音がしません。いつもならば明るい灯がともされ、温かな夕餉ににおいがし、かわいらしい笑顔で養い娘が迎えてくれるはずなのに。石採り人たちはあわてて灯をつけると、床に倒れている白雪姫をみつけました。石採り人たちはびっくり仰天して、すぐさま抱き起こしますがその体は力なくぐったりとしています。呼びかけてみてもなんの反応もなく、耳をすましてみても呼吸の音も心臓の音も聞こえてきません。これはどうしたことか白雪姫は死んでしまっているようです。七人の石採り人はひどく悲しみました。けれど、そのうちのひとりが気づきます。白雪の胸元を飾る見慣れない紐がずいぶんときつく食い込んでいることに。結び目は固く、とても手で解くことはできそうにありません。はさみでもってバチンと紐を切ると、締め上げられてつまっていた胸がゆるみ、とたんに白雪姫が元のとおりに呼吸をはじめました。ほほに赤みが戻り、閉じられていた瞳がパッチリと開きます。わあわあと喜びの声をあげる石採り人たちに囲まれて、白雪姫は不思議そうな顔をします。白雪姫は七人の石採り人に、彼らの留守中になにがあったかを話しました。それを聞いた石採り人たちは、物売りのおかみさんはお后様の変装で、どうしてか娘が生きていることを知って命を狙いにきたのだろう、と言いました。こうして白雪姫が息を吹き返したことを知ればふたたび亡き者にせんとするでしょう。石採り人たちは養い娘に、自分たちの留守中に誰が来ても家に上げてはいけないと言いつけました。
しばらくしたころ、お城のお后様は魔法の鏡に向かって問いかけました。
「鏡よ鏡、答えておくれ。世界でもっとも美しいのは誰?」
鏡の表面に不思議な輝きがあらわれると声が聞こえてきました。
「お后様、ここではあなたがもっとも美しい。けれど、七つの山を越えた先の森の中で七人と石採り人と暮らす白雪姫は百倍も美しい」
その答えにあまりの驚きでお后様は声もありません。自分のこの手であれほど胸をきつく締め上げたのです。呼吸も心臓もこそりとも音をたてていないことを確認したのです。それなのにまだ生きているとは。お后様は憎い敵がぴんぴんしているということに怒りでうち震えました。あらゆる手を尽くして強力な毒薬を手に入れると、髪を墨で染めると衣を変えて行商のおかみさんに化けました。その姿で七つの山を越えた先の森へと向かったのでした。
七つの山を越えた先の森の中にある家で今日も白雪姫は留守番をしておりました。七人の石採り人たちは今日も山へ宝石を掘りに出かけています。彼らが帰ってくるのは今日も陽が落ちるころです。そのあいだ、白雪姫はひとりで家中のチリやホコリを掃き出し、ベッドのシーツをぴっちり敷いて整えて、温かい夕食の準備をしました。そうしていますと、家の外からなにやら人の声が聞こえてきます。不思議と興味をひかれて窓を開けると、家の前を行商のおかみさんが通りかかるところでした。行商のおかみさんは白雪姫に気がつくと、にっこり笑い窓辺にやってきます。
「おやおやこんにちは、娘さん。わたしは櫛を売って歩いているんですけどね、よかったら見てみないかしら」
そう言って、磨き上げられた木製の物、模様の美しい鼈甲の物、繊細で緻密な飾りのついた銀細工の物、そのほかにもいろいろな種類の櫛を見せてくれました。それらのそのみごとなつくりに目にした白雪姫は感嘆の息をこぼしました。
「おやおや娘さん、気に入ったものはあったかしら? ああ、でもね櫛は見た目よりも使い心地のほうが大事なのよ。どうかしらわたしがひとつ試しに梳いてあげようか?」
行商のおかみさんの言葉に白雪姫は残念そうな顔をします。養い親の七人の石採り人に誰も家に入れてはいけないと言いつけられていたからです。
「それなら心配いらないよ。あんたの髪を梳くぐらいこの窓からだってできるわよ」
それを聞いて喜んだ白雪姫はさっそく髪をとかしてもらうために後ろを向きました。行商のおかみさんは、
「このとっておきの櫛で梳いてあげようね」
と、ひとつだけ別にしてあった黒く濡れたように鈍い艶のある櫛を白雪姫の髪に差しこみました。すると、あっと声をあげる間もなく姫はばったりと倒れてしまいます。髪に差された櫛にはとても強力な毒薬が塗られていたのです。そのままピクリとも動かなくなったのを見届けると、行商のおかみさんは邪悪な笑みを浮かべて恐ろしいお后様の本性をあらわしました。憎たらしい白雪姫を始末できたと、喜びいさんでお城へ帰ったのです。
やがて日が暮れたころ、仕事を終えた七人の石採り人が家へ戻ってきました。彼らは扉を開けたとたんに家の中がとてもおかしなことになっているのに気づきました。真っ暗でこそとも音がしません。明るい灯も、温かな夕食も、養い娘の迎えもありません。石採り人たちが灯をつけると、すぐに床の上で倒れている白雪姫をみつけました。そのぐったりとして力の抜けた体からは呼吸の気配も心臓の鼓動もありません。これはどうしたことかまたも養い娘が死んでしまったと、七人の石採り人はひどく悲しみました。けれどそのうちのひとりが気づきます、白雪姫の頭髪に見慣れぬ櫛がささっているのです。どうにもその櫛の色味は怪しげでとうてい良いものには見えません。じかに手を触れないように気をつけて、石採り人はその怪しげな櫛を引き抜きました。すると、白雪姫の体からみるまに毒が消え去ります。とたんにほほに赤みが戻り、元のとおりに呼吸をはじめます。閉じられていたまぶたがパッチリ開くと、わあわあと石採り人たちが喜びの声をあげます。その真ん中で白雪姫は不思議な顔をしています。白雪姫が七人の石採り人に彼らの留守中になにが起きたかを話しました。それを聞いていた石採り人たちは、心配していたことが本当になってしまったと言い合います。お后様は今度は行商のおかみさんに変装したのだろう。今度もどうして白雪姫が生き返ったことを知ったのか分かりませんが、なんとしてでも殺してやろうという決意がはっきりと知れます。おそらくお后様はまた来るでしょう。どのような姿でどのような方法でかは分かりません。石採り人たちは口々に、誰が来ても家へあげてはいけないし、なにもさせてはいけない、と養い娘に言って聞かせました。
しばらくしたころ、お城のお后様は魔法の鏡に向かって問いかけました。
「鏡よ鏡、答えておくれ。世界でもっとも美しいのは誰?」
鏡の表面に不思議な輝きがあらわれると声が聞こえてきます。
「お后様、ここではあなたがもっとも美しい。けれど、七つの山を越えた先の森の中、七人の石採り人と暮らす白雪姫は千倍も美しい」
その答えにお后様は驚きで気を失ってしまいそうになりました。あれほど強力な毒薬を使ったというのになぜ生きているのか。思うようにならず、憎い相手がのうのうとしていることに怒りで頭から湯気が出てしまいそうです。あれほどきつく締めたのに、あれほど強い毒薬だったのに、どうして生きていられるのか。今度こそ、今度こそは、とお后様は知恵をしぼって白雪姫を始末する算段をします。そしてついにお城の隠し部屋にこもっては怪しげな秘術をおこなうようになったのです。その秘術がようやく完成しますと、お后様は顔に泥を塗りたくり、衣を変えて農家のおかみさんに化けました。その姿で七つの山を越えた先の森へと向かいました。
お城から七つの山を越えた先の森の中の家で、白雪姫はいつものように七人の石採り人を送り出すと、家の仕事をはじめます。家中にハタキをかけてホウキでチリやホコリを掃き出すと、雑巾であちこちをピカピカに磨き上げます。ベッドのシーツはシワをピンときれいに伸ばして掛布がふんわりするようにして整えます。養い親たちが疲れて帰ってきたらすぐに温かな夕食にありつけるように準備をします。そんなふうにしてこまごま立ち働いていますと、家の外からなにやら人の声が聞こえてきます。白雪姫は強く興味をひかれましたが、石採り人たちから言いつけられたことを思い出して気にしないよう我慢しました。けれど外の声ははなんとも不思議なことに白雪姫の興味をひいてなりません。とうとう窓をほんの少し開けて外を見てみました。するとちょうど農家のおかみさんが窓辺を通るところだったのです。当然のごとく家の中に人がいることが分かってしまいました。
「まあまあ、どなたか知りませんけど、どうか顔を見せてくださいな。あたしは怪しい者じゃあありませんよ。見てのとおりの農家のおばさんですよ」
そういう声があまりにも朗らかで人が良さそうな物言いで、気を許した白雪姫は言われたとおりに窓を大きく開けて顔を見せました。農家のおかみさんは土汚れのついた顔でにっこりと笑います。
「まあまあ、こんにちは娘さん。あんたりんごはお好きかい? こいつはうちの畑で採れたものなんだけど市場であまってねえ、このままじゃあ捨てちまうしかないんだ。どうだろうお代はいらないよ、あんたもらってくれないかね?」
おかみさんはカゴに入ったリンゴを見せました。どれもつやつやと赤くとてもおいしそうです。白雪姫はそのリンゴが欲しくなりました。けれど、石採り人たちの言いつけがあります。とても残念だけれど、と断わります。
「まあまあ、あんたの親御さんはずいぶん慎重なんだねえ。親の言いつけをきちんと守るあんたはえらいもんだ。だけどね、このリンゴはおかしなところも悪いところも少しもありゃしない。ただのおいしいリンゴさ。でも口だけじゃあ心配だろうねえ。だから証を見せてあげるよ」
カゴの中から農家のおかみさんはいっとうつやつやと赤くじつにおいしそうなリンゴを取り出しました。
「こいつを半分に切って一方をあたしが食べてみせよう。そうすればあたしの言ったことが本当だって分かるだろ?」
半分に切られたリンゴはみずみずしい蜜をあふれさせ、農家のおかみさんはそれはそれはうまそうにたいらげます。その様子を見て、シャリシャリと噛み砕く音を聞いていただけでも白雪姫はたまらなくなります。おかみさんが半分のリンゴを差し出しますと迷わず手をのばして受け取ります。手にした半切れのリンゴは甘い香りをさせてますますおいしそうです。白雪姫はすぐさまりんごをひと口かじって飲み込みました。そのとたん、顔からみるまに血の気が引いてばったりと床に倒れ伏してしまいました。そのままピクリとも動かなくなったのを見届けて、農家のおかみさんは邪悪な笑みを浮かべて恐ろしいお后様の本性をあらわします。白雪姫の食べたリンゴには命をうばう秘術のかけられた魔法の毒リンゴだったのです。それもひとつのリンゴの半分にしかその術はかけられていません。目の前でなんともない方のリンゴを食べてみせ、まんまと白雪姫に毒の魔法がかかっている方を食べさせたのです。これでようやく憎たらしい娘を始末できたとお后様は喜びいさんで飛ぶようにお城へと帰りました。
やがて日が暮れて七人の石採り人が帰ってきました。意気揚々と娘の名を呼びながら扉を開けても家の中は真っ暗なままです。あわてて灯をつけますと、白雪姫が床に倒れているのをみつけます。すぐさま抱き起こしてみますがその体は力なくぐったりとしたままです。呼吸もなければ心臓も動いていません。ほほは紙のように白く冷たくなっています。石採り人たちは白雪姫の体におかしなところはないかと探しました。けれどなにも見あたりません。胸紐をゆるめてみても、髪をなにもないよう梳いてみても、息を吹き返すことはありません。七人の石採り人は愛しい養い娘が死んでしまったとおおいに嘆き悲しみました。
一晩たって日が昇るころには石採り人たちの目は真っ赤になっておりました。みな横たわる白雪姫を囲んで一睡もせずに涙にくれていたのです。死んでしまった養い娘のためにお葬式をしなければなりません。あれこれ七人で話し合いましたが、どうしてもこの可愛い子を暗く湿った土の中にうずめてしまう気にはなりません。瞳を閉じた白雪姫の雪のようにすべらかな白い肌も、血のように紅くふっくらとした形の良い唇も、黒檀のように黒くつややかでたっぷりとした髪も、その姿は生きている時とまったく変わらぬままにあるのですから。そのほほが氷のように冷たくて息もしていなければ胸の鼓動もない、というのを忘れてしまいそうなほどです。まるで深く深くただ眠っているだけのようにしか見えないのです。
七人の石採り人は長い話し合いの末、白雪姫のためにガラスの柩をこしらえました。一級品のガラスでできたそれはそうと言われなければ分からないほどに素晴らしく透明なものでした。くもりひとつないガラスの柩のおかげでその中で横たわる美しい娘の姿をよく見ることができたのです。こうしてできた柩を、かついで石採り人たちは小高い丘の上へと運びました。周りに色とりどりの花を植え、金の板にここで眠る娘がどのような姫君であったか彫ったものをそなえました。ガラスの向こうで二度と覚めぬ眠りについた愛しい娘を思い、七人の石採り人はめいめい帽子を胸に抱えて目をつむります。いつの間にか森中の動物たちが集まってきて、同じように目を閉じてこうべを垂れました。
意気揚々とお城に帰りついたお后様は、期待にはやる胸の高鳴りを抑えきれないままに上ずる声で魔法の鏡に向かって問いかけました。
「鏡よ鏡、答えておくれ。世界でもっとも美しいのは誰?」
鏡の表面に不思議な輝きがあらわれると、声が聞こえてきます。
「それはお后様あなたです。あなたが世界でもっとも美しい」
ようやく待ち望んでいた答えを聞いてお后様は歓喜に胸をおどらせました。大きな声で高らかに笑い、陽気に踊りだしたい気分でありました。お后様の心は今までにないほどに満ち足りた良い気分でいっぱいになったのでした。
白雪姫のお葬式がすんだあと、石採り人たちは毎日ひとりずつ柩の番をすることにしました。毎日毎日、柩の周りにいつもきれいな花が咲いているように手入れをし、白雪姫が寂しくないように色々と話をして聞かせるのです。ほかにも動物たちも順ぐりに白雪姫を見守りました。小鳥やうさぎ、時には獰猛な獣までもが柩にひっそりとよりそうのです。
ある日のこと、七人の石採り人が住む森にとある国の王子様がお供を引き連れて遊山にやってまいりました。王子様が森の中を馬に乗って歩いていますとなにやらキラキラと陽の光をはね返すものがありました。よくよく見ますと少し離れたところにある小高い丘の上が光っているようです。いったいなにがあるのだろうと気になった王子様は馬の鼻をそちらへと向けました。丘の上には花々が咲きみだれ、それに囲まれるようにしてガラスの柩があり、その中にはひとりの娘が横たわっています。雪のように白い肌、血のように紅い唇、黒檀のように黒い髪。その娘は王子様がこれまでにであったどんな女性よりも比べるべくもなく美しかったのです。そのあまりに素晴らしく美しい姿に胸打たれた王子様は娘のこと以外なにも考えられなくなりました。王子様はこの日の番であった石採り人に、どうかこの美しい人をわたしに売ってください、と頼みました。自分の持つすべての宝を差し出してもちっとも惜しくはないと言うのです。それを聞いていたお供の人々は驚きました。石採り人も驚きましたが、ここに眠る白雪は愛しい愛しい可愛い娘だ。どんな宝を積まれても交換などできやしない、と答えます。ならばと王子様はさらに言いつのりました。わたしは位もなにもかも捨ててこの森で暮らします。あなたたちと同じようにこの美しい人の番をして暮らします。わたしはもう片時もこの人から離れて生きることなどできはしない。この言葉にお供の人々は仰天しました。口々にどれほど諭しても王子様の固い決意はひるがえりません。しまいにはおいおいと嘆く者も出てくるしまつでした。番をしていた石採り人はあわてて六人の仲間を呼んでまいりました。事情を話して聞かせると、それから七つの頭を寄せて話し合います。やがて日が暮れてまた日が昇るころに、七人の石採り人は彼らの可愛い可愛い愛しい白雪姫を王子様に託すことに決めました。娘を手放すということはまさに断腸の思いでありました。けれど王子様の白雪姫に焦がれる思いの強さは、自分たちの娘を思うものと同じほどなのだと感じたのです。七人の石採り人は王子様に、どうかどうか白雪をいっとう大事にしてやってください、と頼みました。王子様はもちろんそのとおりにすると約束しました。
王子様は、白雪姫が美しいばかりではなくその血筋もすこぶる素晴らしいものだったので、死んでさえいなければぜひにも妃にするのにと少々残念に思いました。けれどこれからはこの愛しい美しい人と始終一緒にいられると喜びで心の臓が弾け飛んでしまいそうでした。王子様はお供の人々に命じてうやうやしくガラスの柩をかつがせます。そうして自分はその隣を馬に乗って歩き、目を閉じた白雪姫のうるわしい横顔をながめながらお城への帰り道を行きました。
粛々と王子様の一行が進む道の途中のことです。ガラスの柩をかつぐお供のひとりの足元に木の根が張り出しておりました。お供の足がうっかりその木の根に引っかかってしまい柩が大きく揺れました。その時です、白雪姫の口がわずかに開き、のどにつかえていた毒リンゴのかけらが飛び出したのです。するとたちまちのうちに体を蝕んでいた死の魔法が解けます。みるみる青白かったほほに血の気がさし、胸がゆっくりと動き出し、唇からは息が吐き出されます。そして、あれほど固く閉じられていた瞳がぱっちりと開いたのです。その瞬間を目にした王子様は感極まったあまりに心臓が止まってしまいそうでした。すぐさまお供の行列を止めると柩の蓋を開けさせます。地面に下ろされた柩から半身を起こした白雪姫は不思議そうにあたりを見回します。王子様はひざまづいて手を差し出して事情を説明しました。そして、ぜひともわたしの妃になってほしいと結婚を申し込んだのです。白雪姫は美しくほほを染めながら、喜んで、と王子様の手を取りました。すべてを投げうってもかまわないという誠実さと愛の深さに心を打たれたのです。お供の人々はこの奇跡に驚きながらも、みな若い花婿と花嫁を祝福しました。
王子様が自分の馬に新妻を乗せて国へ帰り着きますと、国を挙げて新しいお妃様を迎え、上へ下への盛大なお祭り隣ます。王子様と白雪姫のためにそれはそれは大掛かりな結婚式の宴がもよおされることになりました。式の招待状は遠く離れた白雪姫の生国へ、お后様の元へも送られます。日頃付き合いのない国から届いた招待状に首をひねりながらも、世界でもっとも美しいとうたわれる貴女様をぜひともお招きしたい、という文面に気をよくして出席することにします。とびきり豪奢なドレスを着込み、とびきりきらびやかな宝石を身につけて、とびきり素晴らしく飾り立てると、意気揚々と出立しました。到着するとすぐさま宴が開かれるという大広間に丁寧に通されます。入ったとたんにお后様は大きな悲鳴をあげました。なぜなら、壇上で花婿である王子様の隣で花嫁衣装を着て座っているのは、まぎれもなくあの白雪姫だったからです。その美しさはまさに輝かんばかりで、この世のなににも例えられないほどでありました。
お后様は逃げ出そうとしまいましたが、背後で重々しく扉が閉められます。あっという間に兵士たちに取り押さえられ、暴れるお后様の前に真っ赤に焼けた鉄の靴が並べられました。がっちりと兵士に押さえつけられながら、お后様は白い蒸気をあげる鉄の靴を履かされます。じゅうじゅうと音をたてる焼けた鉄に悶え苦しみ暴れるさまはまるで奇妙な舞踏を踊りくるっているようです。ほどなく高く悲鳴をあげてお后様はばったりと倒れて死んでしまいました。こうして邪悪なお后様は退治され、白雪姫は王子様と末永く幸せに暮らしました。
テオドールが語り終えると、七人の石採り人はみないちように押し黙り、沈痛な面持ちであった。なにか自分の語りに彼らの気にさわる部分があったのだろうかとおおいにあわてる。
「ああ、すべては語られてはいないのか」
誰ともなくそうつぶやきがこぼれ、さざ波のようにため息がひろがる。その言葉のとおりならば、テオドールの聞いた白雪姫の物語には欠けた部分があるということか。ならばそれはずっとおかしいと思っていたことと関係があるのだろうか。テオドールをこの七人の石採り人の家へと導いたフードの女。彼女は何者なのか。石採り人たちの養い娘だと言った。彼らは彼女を白雪だといった。そして、テオドールの知る白雪姫なのだと。しかしながら姫君は王子の妃隣幸せになったのではないのか。語りながら不思議に思っていた。なぜこの深い森の中、人目を避けてひとりでひっそりと暮らしているのだ。それになにより、なぜ彼女は生きているのだ。白雪姫の物語は昔々の物語である。その昔がどれほど昔のことなのかはっきり具体的には分からない。誰も知らなかった。分からなくなるほど昔のことなのだ。どれほど人が長生きしたとしても生きていられないほどの。それなのに彼女は生きていた。幻などでは決してないだろう。生きて、動いて、しゃべっていた。
テオドールは混乱した。困惑したその瞳が黒茶の帽子をかぶった石採り人の目と合った。彼は七人の中でもっとも年かさであるようだ。石採り人は人間よりずっと長い寿命をもつ。彼らは知っている。彼らの可愛い娘がなぜ今のような暮らしをしているのかを。彼女にまつわる物語のすべてを。テオドールは知りたかった。教えてほしかった。そうでなければ恐ろしかったのだ。聞いた物語は大円団であったのに、白雪姫に出会ってしまったから。
心の内を察してくれたものか、黒茶帽子の石採り人はテオドールがなにか言う前に口を開いていた。
「お客人、あんたの聞いた話には続きがあるのよ」
石採り人の話によると、王子と結婚した白雪姫はそれはそれは幸せに暮らしていたそうだ。七人の石採り人との約束のとおりに王子は美しい妃をなにより大事にした。なにせ王子自身が、白雪姫と長く離れていればいるほどに胸が潰れ魂がすり減ってなくなってしまう、とつねづね言いつのるほどに愛していたから。そんな白雪姫がゆえあって生国へ行くなった。王子は妃の不在のあいだをとても不安に思った。共に行ければよかったのだが残念ながらどうしてもそれはかなわない白雪姫にとっては大事な用向きがあるうえ、久々の帰郷である。王子は泣く泣く妃の出立を見送ったのである。愛するがゆえにその願いを聞き入れようと判断したのである。
白雪姫が生国を訪れたのは七歳のおりに殺し屋の男によって城から出されて以来のことだった。幼いころのおぼろげな記憶はところどころ曖昧であったものの、城に一歩足を踏み入れて感じたのは純粋な懐かしさである。しかし、この城は姫にとって生まれ故郷であると同時に、しつように命を狙ってきた王后の住まいでもあるのだ。罪は王后のみにあるとされ、実際なんの事情も知らなかった父である国王はただただ美しく成長した娘の無事を喜んだほどだった。母親でありながら、嫉妬にくるい実の子どもを手にかけようとした悪魔のような女だ、と誰もが王后をののしり、生国ではもはやその存在そのものが禁忌であった。名前はおろかその話題は口にすれば災いを招くとたいへんに忌まれている。城の者はみな王后に関する物事を白雪姫の目や耳から隠していた。そのおかげもあってか、白雪姫は城に戻れたことを喜んでいた。姫の中でもかつての悪夢、もはや遠く過ぎ去ったことと思っていたのかもしれない。
そうして懐かい城に滞在していたある時のこと、白雪姫はひとりで城内を歩き回っていた。幼心に戻って冒険をしてみたかったのかもしれない。おかしなことになにか特別なもよおし事があるわけでもないのに誰にも会わなかった。そのため誰も姫の行き先を問わず、止めることもできなかった。どこをどう進んだものか、いつの間にやら白雪姫の目の前に奇妙なものがあった。よくよく見ればそれは扉であるようだ。壮麗で優美な彫刻がなされみごとな造りの代物である。それでありながら鋼の板が何枚も打ち付けられ、取っ手には太く頑丈な鎖が巻かれがんじがらめになっている。内のものを外に出すことも、外のものが内に入ることも拒む封印であった。そのしつようさにただならぬものを感じるが、不思議と興味をひかれどうしても扉の向こうへと、おそらくあるであろう部屋へと入ってみたくてならない。なんとかしてこの封を解けぬものかと考え、扉の前を行ったり来たりしていると、なにやら壁が気になる。より正確に言うのならば、貼られた壁紙が気になる。ツタと花とを図案化した模様の一部がどうにもずれているように見えるのだ。それはほんのささいなもので、本当によくよく目を凝らしてみねば分からないほどの小さなずれだった。紙のずれは天井から床まで一直線に入っているようだ。たんに足りなくなった分を継いだ跡かとも思えるが、白雪姫もそうなのかしらとも思ったのだが、なぜだかその考えがしっくりこない。気になって気になってしかたなく、ずれているあたりをいく度か押したり叩いたりしていると不意に抵抗がなくなり、あっと小さな声を上げたころには白雪姫の
体は前にのめりたたらを踏んだ。さいわい転げるようなことはなかったものの、なにやら見覚えのない狭くて暗い場所へと入り込んでしまった。なにが起きたのか訳が分からず心細くなったものの、なんとか気を落ち着けて背中の方をさぐれば壁があり、正面に手を伸ばすと触れた先がキイと小さなきしみをあげて、開いた。その開いた場所から体を出すと、ひらひらと布がいく重にも連なっている。それをかき分けていくと、さらに木造りの扉があり、押し開いた先には部屋があった。振り返ってみれば、押し開いた扉は作り付けのクローゼットであり、かき分けた布の連なりはしまわれていた何枚もの衣服であった。そこで、どうやら廊下の壁紙のおかしかった部分は秘密の通路への隠し戸であったのだと気づく。
部屋の中はひどく薄暗い。まだ陽の落ちるような刻限ではないはずと窓を見れば、石が積まれてふさがっている。よほど急いで作業をしたものか、石組みは荒く細く弱々しいながらも光が差し込んでいた。都合にいいことにすぐに使いかけのロウソクの立てられた燭台とマッチがみつかる。灯は部屋の中を十分に見て回れるほどの明るさを与えてくれる。燭台を片手に白雪姫は正式の扉を開けてみようとしたが、押しても引いてもウンともスンともいわない。窓のありさまを目にした時からおそらくはと思っていたのだが、ここはあの封印された扉の内側なのだ。隠し通路が見逃されていたのはあれの存在を知る者がなかったためだろう。知っていたのは部屋の主だけか。それにしてもこうも厳重に封をされた部屋の主とはいったい何者なのだろう。あたりを見れば、調度品などはそっくりそのまま残っているようだが、ホコリよけの布はかけられてはいない。ティーテーブルの上にはカップとポットが乗せられている。カップの底にはホコリやチリが溜まり、たわむれにポットを持ち上げてみるとどろりとした液体の手ごたえがある。誰かがここに住み、使用していたままの名残りがあちこちにある。この部屋はなにも持ち出されずなにも片付けられることもなく、ある日突然あわただしく封印されたもののようだ。ザラザラとしたホコリにまみれているものの調度品はみな一級品である。ほどこされた装飾はため息が出るほどにみごとな物ばかりなのだ。クローゼットのドレスを見ればこちらも上等な布地で仕立てられている。型は少し古いものの落ち着いた中に華のある仕立ては身分の高い壮年の女性のよそおいだ。
部屋が封されたのはとても古くはないけれどとても最近ではない。そう目星をつけながら、なにか事情を知る手がかりはないかと白雪姫はあちこち扉を開いたり引き出しを開けたりしていた。陽もまともに入らない明らかにいわくありげな部屋の中にひとりでいるなど恐ろしいばかりだと思われようが、この年若い姫にとっては好奇心の方がおおいにまさったのであった。その心のおもむくままに書き物机を探っていると、引き出しのひとつにおかしなところがあるのに気がついた。底板に爪の先が入るほどの妙な隙間があるのだ。触れてみるとカタカタ動く。しかし逆側から触れても底板は動かない。どうやら内と外と底板は別物のようである。白雪姫が紙切りナイフを内の底板の隙間に差し込んで力を入れると、少し抵抗があったが思ったとおりに板が持ち上がる。はたしてその下にあったのは一通の封書であった。それを目にした瞬間、姫の胸は急にせわしなく動き出す。
封書の表に書かれているのは自分の名前。けれど胸が騒ぐのはそのためではない。字のためである。文字の並び、筆の運び、書き癖、そのどれもが姫をざわざわさせるのだ。震える手で封書を取り出す。頭の中で誰かが開けてはいけないと叫び、また別の誰かが開けなくてはいけないと叫ぶ。内なる絶叫によってなにも聞こえない。封書を裏に返した時、あえかなしぼり出すような悲鳴がのどをふるわせ、頭の中の声を黙らせた。裏面に差出人の名はしるされていなかった。けれど封蝋に押された印章がなによりも雄弁に差し出し人の正体を語っていたのである。白雪姫はホコリの積もった床の上にくずおれるように座り込むと封書を開いて中の便箋をひろげた。
愛しい娘。この手紙をあなたが読むことはないでしょう。なぜならわたしがこの手であなたを殺してしまったから。それなのになぜこのような手紙を書いたのか、それはあなたに詫びるためでありますが。ただわたしの心を軽くしたいがためでもあるのです。あまりにも大きく重いものをわたしは抱え込んでいるのです。
あなたはわたしがつまらぬ妬みと嫉みに身を焦がした恐ろしい女と思うでしょう。おのが腹を痛めて生んだわが子の死を願い、あまつさえ自分自身の手にかけるとは、まさに悪魔の所業。わたしのしてきた諸々の事々はあなたから見ればそういったことなのでしょう。母である己よりも娘が美しくなることをおそれ人の心を忘れた愚かな女だと。そのとおりなのです、わたしは怖かった。あなたがひごと刻々と美しく育っていく姿が恐ろしかったのです。
あなたは幼いころ誰かに聞いたことがあるかもしれません。あなたの生まれる前、あの冬の日に、黒檀の窓辺でつくろいものをしていたわたしが雪に落ちた血を見て口にした戯れごとを。
「雪のように白い肌、血のように紅い唇、黒檀のように黒い髪。そんな美しい子どもがあったら」
そのとおりにあなたが生まれた時、わたしはわたしの願いが通じたことにおおいに感謝しました。けれど、願いを叶えたのは善なるものではなかったのです。そうでなければこのような願いの叶え方をしなかったでしょう。そうでなければこのようなことにはならなかったでしょう。ああ、けれどそれはわたしのせいなのです。わたしが愚かで傲慢であったからなのです。美しい子どもが欲しいと願いました。それはわたしが己の美しさを鼻にかけていたからにほかなりません。己が美しいのならばその腹から出でる子もまた美しいに違いない。いやそうでなければいけない。そのようにおごった考えがわたしの中にあったのです。そして良からぬものはそれを汲み取りあのように歪んだ願いを叶えたのです。
この恐ろしい事実を知ったのはあなたが七歳になるころでした。誰も知らないことですが、わたしは魔法の鏡を持っていました。わたしの母から、母は祖母から、代々受け継がれてきた秘宝でありました。鏡に向かって尋ねればまごうことなき真実の答えが返ってくるのです。正しく使えば素晴らしい宝ですが悪しきことにも使えます。その力は怖いぐらいでめったなことでは鏡を取り出すことさえしませんでした。ですからあなたのお父様にも魔法の鏡の存在はお教えしていません。そのような物に向かってあのような問いかけをせねばならなくなったのは、あなたが白雪姫と呼ばれ幼いながらに同じ年ごろの誰よりも美しくなってきたからです。もとより美貌の子どもがほしいなどと願ったのは己です。蝶よ花よともてはやされるあなたを見て、はじめのうちはわたしの鼻も高くさも当然と思っていました。けれどあなたを取り囲む者たちの老若男女を問わず酔ったようにさまは明らかにおかしかったのです。わたしはそういったみなの様子にただならぬ恐怖を感じました。なにかがおかしいとは分かっているもののなにがおかしいのかどこがおかしいのかはっきりとした説明はできません。誰かにこの胸にかかるモヤを話してみても理解してはくれないでしょう。そうなったわたしがすがる先は魔法の鏡しかありませんでした。あやまたぬ答えはきっとわたしの胸を晴らしてくれると考えたのです。ああけれど、そうはならなかったのです。鏡はただわたしのあやまちを知らしめただけだったのです。
わたしは娘の尋常ならざる美しさについて問いました。わたしが感じるこの恐怖はなんなのか。
「白雪姫は美しい。この世界でもっとも美しい。永遠に美しい」
鏡はそう答えました。そしてあなたが迎えるであろう未来をも映し出してみせたのです。
永遠。この言葉をこれほどの絶望をもってもちいたことは後にも先にもないでしょう。永遠の終わりとはいつなのでしょう。その答えは返ってきません。ああそれでも、それだけならばまだ良かったかもしれません。けれどあなたの美しさは人のものではありません。人にあってはならないものなのです。
あなたのお父様はあなたを心から愛しております。それは周知のことです。けれどそれゆえに政務がおろそかになることが度々あったのです。これはお父様だけではありません。あなたの美しさを愛する者のすべてがそうなのです。わたしだけがこうしてあなたの容姿に目をくらまされずにいるのは、これがわたしへの罰だったからなのでしょう。これはもはや呪いといえます。この先あなたが今の十倍百倍美しくなったら、あなたをめぐる人々がどのような運命をたどるのか考えることすら背筋が震えます。あまつさえ、あなたの心は人のもので純真で心優しい。己のために破滅する者を目にしてどれほど胸を傷めることか。わたしはこの時ほど過去の己を叱咤してやりたいと思ったことはありません。
わたしの愛しい娘。あなたは呪われて生まれてしまった。そしてその呪いをかけたのは母であるわたしなのです。
人ではないよこしまなるものによってねじ曲げられたあなたの運命をどうにかしてやりたい、しなくてはならないと考えました。考えても考えてもすべてにおいて最良の方策など浮かびません。けれどこのままでは幾多の災いを招くばかり。そしてわたしはついに最悪の手段を選んでしまったのです。あなたを殺してしまおうと考えたのです。
最初は殺し屋を雇いました。金で動くような者であればあなたの容姿に惑わされはしないと考えたのです。ですが失敗に終わりました。わたしがそれを知ったのは三年もたったころでしたが。けれど、鏡をとおして七つの山を越えた先の森で健やかに暮らすあなたを見て、わたしは心から安堵し喜びました。愛しているのです。子が死んで嬉しい親などいません。ああだけど、子が不幸になることを知っていて放っておける親もないのです。
わたしはあなたを確実に殺さねばならないと決意しました。そのためには何者にも頼らず、己の手でなしとげなければならないと知りました。はじめは胸紐、次は櫛。震える手で涙をのんで、心を殺して、鬼のような仕打ちをしました。けれどあなたを殺すことができなかった。永遠に美しく、美しいがゆえに永遠に存在し続ける。それがあなたにかけられた呪い。美しさを邪魔し殺すことができればあなたは死にます。わたしの使った胸紐も櫛もそれができました。でもそれは一時だけのこと。呪いは同時にあなたの命を守る役目をもっています。その力は大きく、わたしの力では完全に打ち消すことはかなわない。必ず目前で阻止されてしまう。
最後の手段にわたしは己の魂を悪魔に売り渡しました。外道の邪法をもちいたのです。そしてできあがった魔法の毒を仕込んだリンゴはついにあなたの呪いを打ち砕き、同時に命を奪いました。この先、わたしには残酷な未来が待ち構えていることでしょう。分かるのです。それぐらいのことをしたのです。ですがなんの後悔もしていません。魔法の鏡があなたの死を告げた時、ともにわたしの命もついえたも同然なのです。さいわいなのはわたしのすべてをもって愛しい娘を呪われた運命から解放できたことでしょう。
ああ、あなたはわたしを恨むでしょう。怒りに思うでしょう。あなたにそのような運命を架してしまったのは、すべてこの母の浅はかさが原因なのです。今はただあなたの魂が安らかならんことを祈るだけ。ああけれど、どうしてもこれだけは言わねばなりません。わたしの娘。わたしはあなたを愛しています。
末尾にしるされた署名は母である后のもの。結婚式へ招かれ、壇上の娘を見た時のその気持ちはどのようなものだったろう。すべてを知った白雪姫は手紙を胸に抱いて滂沱の涙を流すしかなかった。
白雪姫が嫁ぎ先から出奔したのはそれからすぐのことだった。行き先は分からない。もちろん生国にも戻っていない。夫も父も八方手を尽くしたがみつからない。傷心の白雪姫が身を寄せたのは養い親たちの元だった。自分が呪われた存在だと知ったのだ。もはや人の世にはいられない。いてはならなかった。永遠が終わるいつかの日まで、白雪姫は孤独であろうと決めたのだ。
テオドールは七人の石採り人とともに深く長いため息をついた。今宵同じ暗闇の中、かの姫はなにを思っているのだろうか。夜は静かにふけていく。
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