第4話 ラプンツェル

「ラプンツェルよラプンツェル。おまえの髪を垂らしておくれ」

 ふたりの幼い少女が石垣に登って遊んでいる。

 陽は西にかたむきかけている。空は青と白が半々で風はない。暑くもなければ寒くもない、じつに穏やかな日和である。木と石でできた素朴な家並み。庭先では名の知れぬ可憐な花が咲き並び、鶏たちがときおり地面を掘り返している。畑のうねに育つ作物は未成熟な果実をぶら下げ、麦の穂は青々と天にのびている。遠くの原で草をはんでいるのは牛だろうか羊だろうか。平和な、とても平和な村の風景である。そのようななか、テオドールはファラダの背から、遊ぶ少女たちの姿を見ていた。すると、向かいから歩いてきたひとりの農夫が声をかけてきた。

「どうなすったかね、旅の方」

 テオドールが少女たちの見慣れぬ遊びについて尋ねると、農夫は色よく焼けた顔に人の良い笑みを浮かべて教えてくれた。

「ああ、あれですか。ありゃあ髪長姫ごっこですな。ここいらじゃみいんな知っとる遊びですよ。男のあたしはやったこたあないんですがね。この村の女ならみいんな子どもの頃にやったんじゃあないかねえ。まあ、おとぎ話に出てくる人間になりきるだけのもんですよ」

 勢いこんでテオドールはその話を詳しく教えてくれるよう頼みこんだ。主君の命である幸い姫探しはなんの進展はなく、ほんの小さな手がかりでも欲しい。今は姫とつく話を片端から集めるしか思いつく方法がないのだ。

「詳しく教えてくれと言われても、あたしも小さい頃に寝物語に聞いたぐらいだしねえ。よっぽどそこらの娘の方が知っとるよ」

 テオドールの事情など当然ながらかけらも知らない農夫はひどく困惑顔になっている。

「ああそうだ、旅のお方。あんたさんは今夜はここに宿をとるおつもりかね。それなら、宿のばあさまに話を聞くといい。あのばあさまは村一番の年寄りで、昔話をよおく知っとるからな」

 そう言って、農夫はこころよく宿までの案内を引き受けてくれた。

 村でただ一件だというその宿は、大きめの農家だといった風情であった。村でただ一件の酒場でもあるのか、軒先にはジョッキと子豚が彫られた看板がぶら下がっている。農夫は案内するだけでなく、親切にも宿の主人にかけあって、例のばあさまに髪長姫の話をしてもらえるよう取りはからってくれたのだ。テオドールが礼を言うと、農夫はニコニコして手をひとつ挙げて去っていった。

 紹介されたばあさまというのは宿の主人に祖母にあたる人物であった。農夫が村の一番の年寄りだと言っていたが、たしかにそのとおりのようである。頭巾からのぞく髪は真っ白で、顔の深いシワで目も口も小さく見える。鍋のかけられた暖炉のそばで、厚い布団を敷いた椅子にスッポリと体をうずめるように座っている。背は立ったとしてもテオドールの胸まであるだろうか。しじゅう目尻を下げている可愛らしい老婆であった。

 しかしながら、見た目の割に目と耳はしっかりしているようで、

「こんなに男前のお客様はずいぶん久しぶりだわね」

と、テオドールのあいさつに返し、ひざ掛けの上のシワだらけの手を伸ばして椅子をすすめてくれた。しゃべる口の方もかくしゃくとしている。

「それでお若い方。髪長姫のお話を聞きたいんですってね。ええ、おやすいごようですよ。昔はよく孫に話して聞かせたもんです。うれしいわね、こんなおばあちゃんの話をわざわざ聞きに来てくれるなんてね」

 香りのいい茶をカップにそそいでくれる。飲めばまろやかな風味が舌に広がる。老婆もひとくち茶をすすると、じゃあお話を始めましょうかね、と物語りはじめた。


 むかあし、むかし、この村に夫婦物がありました。ふたりは長い間子どもが欲しいと思って暮らしておりました。やっとのこと願いが叶い、おかみさんは赤ん坊を授かりました。

 ある日のこと、おかみさんが窓から外を眺めていますと、裏の家の庭が見えました。庭はよく耕されていろいろな花や青物がしげっていました。そのなかにラプンツェルが生えているのが見えました。

 ラプンツェルてのは知ってらっしゃいます、お若い方。子羊の好物の菜っ葉ですよ。とうもろこしの畑にもよく出てきますねえ。

 おかみさんは畑のラプンツェルが青々と柔らかそうな歯を広げているのを見て、むしょうにそれが食べたくなりました。

 お若い方、あなたに奥様はいらっしゃる? ええそうね、だったら旅になんて出ないわね、ごめんなさい。じゃあ、あとで役に立つから覚えておいたらいいわ。ラプンツェルはね、お腹に赤ん坊がいる女が食べるといい野菜なのよ。このおかみさんもそれを知っていたのね。

 夫婦物の家の裏に住んでいるのはゴーテルというおばあさんでした。ゴーテルは村中で恐ろしい魔法使いだとうわさされるおばあさんでした。そんな相手にラプンツェルをくれるよう頼むのはとても無理なことのように思えました。

 おかみさんは、あのラプンツェルが食べたい、あの青々としたラプンツェルが食べたい、あの青々として柔らかいラプンツェルが食べたい、と思い悩んでひどくやつれはててしまいました。そして、とうとうがまんしきれなくなって、だんなさんに裏の畑からラプンツェルを取ってきてくれるよう頼みました。だんなさんももちろんゴーテルばあさんの恐ろしいうわさは聞いています。いくらおかみさんの頼みとはいえそんなことはできやしない、と思いました。けれど、おかみさんのお腹の中には赤ん坊がいます。待って待ってようやく授かった赤ん坊です。ぜひともおかみさんには元気な子どもを産んでほしい。そう考えただんなさんは、ついにラプンツェルを手に入れることを決心しました。とはいっても、ゴーテルばあさんにお願いするのはやっぱり無理なことのように思えます。それになにより、あの魔法使いとじかに顔を合わせて話をするのは恐ろしかったのです。

 ゴーテルばあさんの留守をみはからって、だんなさんは魔法使いの庭に入りこみました。ゴーテルばあさんの家は扉も窓もぴっちりと閉じられています。あの中では、日夜あやしげな薬が鍋で煮立てられ、暗黒の儀式がおこなわれているといいます。そんなうわさを思い出して、だんなさんはブルリと体を震わせました。小ぢんまりとした家はそこらの民家と変わりません。けろど、どことなくただよう空気はまったく違っているように思えます。このあたりは日の当たり具合も気温も違っているように感じました。抜き足、差し足、忍び足。だんなさんは慎重に慎重にラプンツェルを引き抜いて、一目散に家へ帰りました。

 おかみさんはだんなさんが取ってきたラプンツェルをサラダにして、あっという間に食べてしまいました。おいしいラプンツェルを食べて、おかみさんはとても満足しました。けれど、それからしばらく日がたちますと、おかみさんはまた裏の窓から見えるラプンツェルが食べたくて食べたくてたまらなくなります。我慢ができなくなると、だんなさんにラプンツェルを取ってきてくれるよう頼むのです。だんなさんは恐ろしい怖いと思いながらも、生まれてくる子どものために、と魔法使いの庭へと行くのでした。

 そんなことが何度かあったある日のことです。またおかみさんに頼まれて、だんなさんはゴーテルばあさんの庭へと来ていました。いつものように青々として柔らかそうなラプンツェルを摘み取ろうとしました。何度やってもみつからなかったせいでしょう、このころにはだんなさんの中には妙に豪胆な気もちがありました。こちらの方がいいかしら、それともあちらの方がいいかしら、と選ぶような余裕がありました。そうして摘んだラプンツェルを手に、さあ帰ろう、と振り返ったときです。目の前にはゴーテルばあさんが立っていました。

 灰色のマントを着込み、頭にはフードをかぶっています。ワシのくちばしのようにやせて尖った鼻、樫の木の杖を握っていますが、背筋はしゃんとのびていてまっすぐにだんなさんと目が合います。その目はだんなさんを、きっ、とにらみすえておりました。

「おまえが泥棒か」

 ゴーテルばあさんの声はピシリと打つように響きます。だんなさんはもう真っ青になって、額からは滝のようにだらだらと冷や汗が流れてきます。手には抜いたばかりのラプンツェルがあります。とうてい言い逃れなどできません。

「ずいぶんとわたしの畑を荒らしてくれたものだね」

 ぐっ、とゴーテルばあさんが迫ると、だんなさんの足はがくがくと震え、いまにも腰が抜けてしまいそうです。ああ、自分は魔法でカエルか猫にでも変えられてしまうのだろ。一度でいいからわが子を抱いてみたかった。そんなことを思い、まるで生きた心地がありません。それでもだんなさんは必死で、自分のおかみさんのお腹に赤ん坊がいること、おかみさんがラプンツェルを食べたがったこと、どうしても元気な赤ん坊を産んでほしくて、やむなくやったことなのだ、とゴーテルばあさんにうったえました。だんなさんの懸命さが通じたのか、

「それなら好きなだけ持っていくがいいさ」

と、ひとつ鼻を鳴らしてゴーテルばあさんは言いました。ただし、きちんと了解を取るように、とつけて。

 死にものぐるいでだんなさんは家に帰りました。しばらくすると、またおかみさんがラプンツェルを欲しがります。だんなさんは恐る恐るゴーテルばあさんにおうかがいをたてますと、決して優しい顔はしませんでしたが、約束のとおりにカゴに山盛りのラプンツェルを譲ってくれました。そのラプンツェルはそれまでだんなさんがこっそり取ってきたものよりも、ずっと青々として柔らかいものでした。おかみさんはおいしいおいしいと言って、ぺろりとたいらげてしまいます。

 赤ん坊が生まれてくるまでのあいだ、いく度もだんなさんはゴーテルばあさんの家へラプンツェルをもらいにいきました。そうしておりますと、少しずつ少しずつだんなさんはゴーテルばあさんに親しむようになりました。ゴーテルばあさんはいつもしかめっ面ではありましたが、だんなさんが尋ねればきちんと答えてくれます。ゴーテルばあさんは、これまでだんなさんが出会ったどんな人よりも物知りだったのです。それに、魔法使いだといううわさは本当のようでした。

 やがて月満ちて、おかみさんは元気な赤ん坊を産みました。女の赤ん坊でした。おかみさんはもちろん、だんなさんはそれこそ踊りくるわんばかりに喜びました。産湯をつかっておくるみに包まれた赤ん坊を抱くと、すぐさま裏のゴーテルばあさんの家へと行きます。ばあさんの畑のラプンツェルのおかげで無事に赤ん坊が生まれた。ついてはぜひともこの子の名付け親になってくれと頼みました。ゴーテルばあさんは相変わらずにこりともしないで、赤ん坊をチラッと見ると言いました。

「ラプンツェル」

 こうして女の赤ん坊はラプンツェルと呼ばれることになりました。

 ラプンツェルは健やかにすくすく育ちます。大きくなるにつれ、ラプンツェルはたいそう可愛らしく、美しくなっていきます。そんな娘の姿を見るにつけ、だんなさんは思いました。この子は大人になれば比べるもののないくらいにとびきりの美人になるだろう。それだのに、こんなさびれた田舎のしがない男に嫁にやるのはひどいことだ。くたびれたつまらない農家の主婦で終わるだなんて。もっと立派で素晴らしい男に嫁ぐべきだ。

 そう考えただんなさんはいてもたってもいられなくなります。とうとうラプンツェルが十四になったころ、もうすっかり懇意にしている裏のゴーテルばあさんのところへ行きました。どんどん家の扉を激しく叩いて、仏頂面のゴーテルばあさんが顔を出しますと、だんなさんは自分の胸の内にある不安をひと息にまくしたてました。ああどうか。どうかお願いだ、助けてくれ。なあ、あんたはすごい力をもつ魔法使いなんだろう。泣いてすがるだんなさんをゴーテルばあさんは眉筋ひとつ動かさずに見ていましたが、最後にはため息ひとつをついて力を貸してくれることになりました。

 ゴーテルばあさんは村から離れた森の中に、高い高い塔を建てました。そしてそこにラプンツェルを連れてきて住まわせます。塔の入り口は塗りこめられ、外とつながっているのはてっぺんの部屋にある窓だけです。こうしておけば、誰もラプンツェルに手出しできません。父親であるだんなさんが立派で素晴らしい嫁ぎ相手をみつけるまで、清らかな乙女でいられるのです。

 ええそうね、お若い方、あなたのおっしゃるとおり。これじゃあゴーテルばあさんも出入りできませんねえ。ではどうしたと思うかしら? 魔法で空を飛んだのかって。ふふ、残念だけど違いますよ。もちろん魔法は使いましたよ。こうやってね。

 ゴーテルばあさんはラプンツェルの髪に魔法をかけました。ラプンツェルの編んだ金色の髪を、窓の鉤に引っかけますと、たちまちするするのびて地面に着くほどになります。こうしてできた立派な金のはしごをのぼって塔の中へと入るのです。そのときの合い言葉はこうでした。

「ラプンツェルよラプンツェル。おまえの髪を垂らしておくれ」

 あら知ってらっしゃるの。そう、子どもたちが遊んでいたのを見たの。

 ラプンツェルは塔のてっぺんの部屋で、窓辺に座り歌をうたってすごしました。友達は窓辺による小鳥たち、しゃべる相手は時おり来るゴーテルばあさんだけ。そうしていく年かたちますと、ラプンツェルはそれはそれは美しい娘へと成長しました。

 ある日のこと、森へ猟をしにひとりの若者がやってきました。獲物を求めて若者が森の中をうろうろしていますと、歌が聞こえてきました。あまりにきれいな歌声に、いったいどこから聞こえてくるのかと、あたりを見回します。歌の出元を探すうちに高い高い塔をみつけました。そして、どうやらこの塔の上からするようだ、と分かりました。若者はすっかり歌に聞きほれて、獲物をなんにも捕らずに帰りました。次の日、また森へやってきた若者はまっすぐ塔へと向かいました。塔の上からは昨日と同じように素晴らしい歌声が聞こえてきます。一日中、日が落ちるまでたっぷり歌を楽しんで帰りました。何日も何日も、若者はそうして塔へと通いました。いったいこのように美しくて素晴らしい声をもつのはどういった人なのだろう。女性の声だということしか分からないが、声と同じように美しくて素晴らしい女性なのだろうか。と、歌声の主について思いをめぐらせます。すっかりとりこになった若者はどうしてもこの歌声の主に直接会ってみたくなりました。入り口を探して塔の周りをめぐりますが、みつかりません。それを知った若者はひどく落胆して、ますます塔の上の女性に会いたくて会いたくてたまらなくなりました。焦がれる心を抱えて若者はしおしおと帰ります。そして、焦がれる心を抱えてようようと若者は森へやってくるのです。

 いく日かしたときのこと。若者は歌を聞きに森へ行きました。塔に近づいていくと、どうやら誰かがいるようです。それはひとりの老婆でした。灰色のマントを着込み、頭にはフードをかぶっています。ワシのくちばしのようにやせて尖った鼻、背筋はのびていますがたいへんな年寄りのようです。いぶかしく思った若者が茂みに隠れて見ていますと、老婆は塔の上に向かって呼びかけます。

「ラプンツェルよラプンツェル。おまえの髪を垂らしておくれ」

 すると、塔の上からするすると金色の縄がおりてきます。老婆はそれをつかんでよじ登っていきます。老婆が登りきってしまうと、金色の縄も上へといってしまいました。日が暮れるころになりますと、また縄が降りてきて老婆がそれをつたって塔から出てきました。老いた背中が見えなくなるほど遠くへ行ってしまうと、若者はこれは良いものを見たと、ホクホク顔で帰りました。そして、心待ちにしていた夜明けとともに森へ行きますと、塔の下に立って上へ向かって大きな声をあげました。

「ラプンツェルよラプンツェル。おまえの髪を垂らしておくれ」

 不安と希望に胸を高鳴らせて若者が待っていますと、するすると目の前に金の縄がおりてきます。見れば、それが編まれた美しい髪の毛であると分かりました。金のはしごをつたっていき、てっぺんの大きな窓辺までたどり着きますと、ひとりの娘が立っているのに気づきました。部屋の中に入ってよく見ますと、その娘がとても美しいことが分かりました。若者は娘の美しさに驚きました。娘の方も驚きました。てっきり登ってくるのは老婆だとばかり思っていたのです。あの合い言葉を知っているのは老婆だけのはずなのですから。

 若者はじつに丁寧に挨拶をし、名を名乗りました。娘もうやうやしくラプンツェルと名乗りました。若者とラプンツェルはあっという間に打ち解けます。ラプンツェルは自分の生まれから塔に住むいきさつや魔法使いのゴーテル婆さんのことを話しました。若者はラプンツェルが美しいばかりかひどく聡明であったので、とても楽しく話をしました。あまりにも楽しかったので、ふたりは日が暮れて若者が帰らねばならないことを悲しみました。もうラプンツェルと若者は互いに離れがたい存在になっていたのです。こうして若者は毎日ラプンツェルに会いにいき、ふたりはそれはそれは幸せな時間を過ごしました。

 数ヶ月してゴーテル婆さんが塔へやってきたおりに、ラプンツェルはなにげなく言いました。

「おかしいのよおばあさん。最近、わたし服、お腹のあたりばかりきつくなってきたの」

 その言葉を聞いて、ゴーテル婆さんにはあずかり知らぬうちになにかあったことが分かってしまいました。ラプンツェルはおそろしいほどに厳しく問い詰められ、あらいざらい若者とのことを話してしまいました。ゴーテル婆さんはたいそう怒り、ラプンツェルを捕まえると、その素晴らしく美しい髪をザクザクと切り落として、塔から追い出してしまいます。ラプンツェルはおいおい嘆きながら森の奥へと行ってしまいました。

 次の日、若者は愛する人と会える喜びを胸に、いつものように塔の上へ呼びかけます。

「ラプンツェルよラプンツェル。おまえの髪を垂らしておくれ」

 いつものように目の前に金の髪のはしごがおりてきます。素敵な時間のはじまりに心躍らせながら、いつものように塔を登っていきました。けれど、てっぺんの部屋で待っていたのは年老いた女の魔法使いです。恐ろしく厳しい目をしたゴーテル婆さんは若者を声高に糾弾しました。

 この愚か者め。おまえはおまえの浅はかなおこないと物言いによってなにが起きたのか知るまい。願いは踏みにじられ、希望は消えさり、裏切りがはたらかれたのだ。あの愛しい憐れな娘は親元にも戻れず、今頃どこをさまよっていることだろう。もはや清らかな乙女ではないのだ。おまえの手によって。

 枯れ枝のような細くてシワだらけの指を突きつけて、そう言いました。若者の胸は愛する愛するラプンツェルが永久に失われてしまったという思いでいっぱいになりました。そして、絶望のあまりによろけた若者は足をすべらせて塔から真っ逆さまに落ちてしまいました。幸いなことに塔の根元には草がしげっておりました。その草のしげみがクッションとなって若者の体を受け止めたのです。けれどその草にはトゲが生えていました。若者の目は鋭いトゲで傷つき、見えなくなってしまったのです。体の痛みと愛する人をなくした心の痛みとで、涙を流しながら若者は森の奥へと行きました。

 目の見えない若者は手さぐりで木の実を摘んで食べ、小川の流れに口をつけ、森をさまよい、夜は木のウロや洞窟に身を潜めて過ごしました。そうして獣のようになってどれほどの時が過ぎたでしょう、若者の耳にある声が届きました。美しく麗しいそれは歌でした。聞き間違えようのないその歌声に、若者は夢中でそちらへと走りました。

 森の奥にある開けた砂地に、ひとりの若い母親と幼い男の子と女の子の双子が住んでいました。母親が子どもたちに歌をうたっておりますと、しげみをかき分けて走りこんできたものがありました。それは獣のようななりでしたが、母親はそうではないと分かりました。すぐさまそちらに駆け寄ると、獣のような頭を抱いて泣きました。こぼれた涙が目に入り、傷が洗われると、若者の目はふたたび見えるようになりました。そして、目の前で自分を抱きしめているのが愛しいラプンツェルであることが分かりました。ふたりは再会を心から喜び合いました。そうして、親子四人は若者の故郷へ行き幸せに暮らしました。

 めでたしめでたし。

 ええそうね、お若い方。あなたの言うとおり、これではラプンツェルはただの美しい娘のまま。お姫様にはならないわ。このお話は古いものだから、いろいろな人が語るうちに少しずつ変わっていくの。別のお話では若者は王子様だというのもあるよ。そちらではラプンツェルは髪長姫になるわね。女の子はお姫様が好きだから、みんなこちらの呼び方が好きなのよ。本当のところなんてもう誰にも分からないけれど。


 翌朝、テオドールが宿を出立したさいには、昨日、髪長姫の話をしてくれたばあさまが家人に支えられて見送ってくれた。宿の主人に夜のうちに聞いていた道を、ゆっくりと村の外へと進む。テオドールはその道すがら、ファラダに髪長姫の物語を話して聞かせる。

そうしているうちに、ファラダの脚は森の中を進む。物語の実際の舞台だというところを見てみたかったのだ。

 ふいに、視界がかげり、ファラダの歩が止まる。

 陽が雲に隠れたのかと思ったが違ったようだ。いつの間に、気づかぬうちに、どうしてこんなに近くまで来ていたのだろう。目の前にそびえるものがあった。厚く苔むし花すら咲いているが、ところどころ石積みの壁がかいま見える。それはまぎれもなくかの美しき娘を閉じ込めていた塔だ。建てられたのがどれほど昔のことなのか誰も知らず、こうしてみても皆目見当もつかないが、緑におおわれていても欠けた部分がひとつもないのはさすが魔法使いの塔というべきか。首を伸ばして見上げてみても、かつてラプンツェルが歌をうたっていたという窓をうかがうことはできなかった。

「テオドール様」

 ファラダの声で我に返る。どれほどの時間塔を見上げていたのだろう。うながされてその場をあとにする。もうここには誰もなにもないのだ。森の道はこもれびが優しく暖かだった。

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