第2話 ガチョウ番の娘

 黒い空。天はさながら生き物のようにうねる厚い雲におおわれている。ごうごうとうなり声をあげる風。黒い風は前から横からテオドールと白い騎馬をもみくちゃにする。風とともにに吹きつける雨粒は叩きつけるように強く、合羽がわりのマンとはまるで役に立っていなかった。かぶっていたフードはとうに頭からはぎとばされ、むき出しの顔を打つ雨が痛い。額を通って流れ落ちる水が目に入る。まぶたを半分おろして体を倒し、騎馬の背ににぴったりと胸をつける。先になにがあるのか見通すことなど到底できない。風のあげる、怒号に、咆哮に、哄笑に包まれて、もはや自分が本当にまっすぐ進んでいるのかどうかさえテオドールには分からない。

 アーチ。ぼんやりと視界に映ったものはそう見えた。周囲に素早く視線を走らせると、ごろごろと自然物ではない塊が転がっている。少し頭を持ち上げてみる。先ほどのアーチもまた、かつてなにかの一部であったようだ。はっきりとは見えないものの、そのアーチは人ひとりと馬一頭がもぐりこむには十分なように見えた。テオドールはグイッ、と手綱を引く。急に進路を変えられた騎馬は不満げにいななく。ずっ、と近づいたアーチは苔むしてツタのからんだ石造りのなにかだというのは分かった。おもったよりも大きい。かつては壮麗な彫刻がほどこされていたのだろう。その名残りがかいまみえた。

 一瞬、目の前が真っ白になった。どんっ、と背中を恐ろしく強い力で打たれた。そして、真っ暗になった。

 しくしく、しくしく。泣き声が聞こえる。知らない声だ。それにしてもなぜこんなに暗いのだろう。なにも見えなくなるほどにひどい嵐になったのだろうか。それにしては雨の音も風の音もなぜだか遠い。そのかわりに聞こえる嘆きの声。いったい誰が。心当たりがない。もしや、知らない声だと思ったのは間違いで、じつは自分が泣いているのだろうか。テオドールは目を開けた。

 あれほど濃く深かった暗がりが晴れる。なんだ、たんに目を閉じていただけか、と納得する。それにしても、頭はグラグラして、体のあちらこちらがズキズキ痛む。ああ、泣き声はまだ聞こえる。いったいなにが起きたのだろう。その疑問は意識せずに声に出していたようだ。

「雷にうたれたのですよ」

 いらえがあった。そうなのか、とうなずきかけて、はたと当惑する。誰が答えた? いつの間にか泣き声がやんでいる。

「ご挨拶もせずにもうしわけありません」

 再び声がかけられる。薄暗い中をこうべをめぐらせ声の主を探す。

「本来でありますれば、わたくしが御前に参らねばならぬところを。しかしながら、今のわたくしの身ではそれが叶いませぬ」

 そう言うと、またしくしくと泣き声が聞こえてきた。体の痛みは相変わらずであったが、頭のグラつきは幾分かましになっていた。体に縛っていた荷をほどいて火付け道具を引っ張り出す。油紙に包んでいたおかげで水がしみておらず、すぐに使えそうだ。あたりを探って燃えそうなものをかき集めて火をつける。生まれた光はささやかなもので、とうてい隅から隅まで闇を払うほどの力はない。それでも先ほどまでに比べればずっと周囲は見やすくなった。光の輪の中で声の主を探すが、みつからない。

「もしわたくしを探していらっしゃるのでしたら、いま少し上の方を見ていただけますか」

 言われた通りに視線を上へと動かしていけばそれがあった。

 馬の首。壁に打ちつけられた馬の首。似たようなもので、狩猟の腕を見せつけるものとして、仕留めた獲物の首を応接間に飾っているのを見たことはあった。これもそういったたぐいのものなのだろうあか。馬の首は今では薄汚れているものの、在りし日には素晴らしい威厳をたたえていたのかもしれない。ところで、声の主はどこなのか?

 馬の首と目があった。黒目がちで澄んだ瞳をしている。

「ああ、お手をわずらわせてしまいまして申し訳ありません。そのうえこのような見苦しい姿をお見せして。ですが、言葉を交わすとなればやはりこの身をさらすべきかと」

 馬の首が口を開いてしゃべった。出てきた声も先まで聞こえていたものと同じだった。では、正真正銘この馬の首がしゃべっているのだ。だが、どういうことだ。テオドールの知りうる馬はしゃべらなかった。

「さようでございますか。ほかのともがらがどうあれ、わたくしは話すことができるのです」

 あまりにあたりまえのように馬の首が言うので、テオドールはああそうなのかと納得する。少し前まで自分は生まれ育った国の中のことしか知らなかった。この世のすべての馬のことを知っているわけではない。ならば人と同じ言葉を話すものがいたとてなんらおかしいことはないのだろうと。そういえば、馬で思い出したが、自分の騎馬はどこに行ったのだろう。慣れてきた目で辺りを見回し、テオドールは、ああ、と嘆きの声を上げた。離れたところあげに白い体が倒れているのが見えた。もちろん寝ているわけではない。不自然に投げだされた足。泥水に汚れた腹はぴくりともしない。光の届かぬ暗がりに体半分が隠れていたが、白い騎馬がすでに事切れているのははっきりとみてとれた。同じ雷に打たれた騎士と騎馬と、どの差がふたつの命の結果を分けたのだろう。テオドールは己の手をみつめ、ゆっくりと握り、ゆっくりと広げた。わずかな痛みを感じたが、今はそれが生きている実感として身にしみた。大きく息を吐きだして、石壁に背をもたせかける。そういえば、ここは目指していたアーチの下かと気づく。風の逆巻く音と大地をえぐる雨の音。そして、それらを割って天地に走る閃光と轟音が今さらのように耳に響く。自然ともちあがった視線の先、炎にしたから照らされる馬の首があった。嵐が去るにはもうしばらくかかるだろう。それなら、とテオドールはこの場で雨をしのいでも良いかと馬の首に尋ねた、

「これはおかしなことをおっしゃる。人であるあなた様が、わたしのようなものに許可を求めるとは」

 テオドールとしては、ここには自分以外に人の姿はなく、どうやら相手の方がここに長くいるようなので、許しを求めるのは目の前に相手だろうと考えたのだ。姿形がどうあれ、人の言葉を話すものを無下にするのは気が引けたのだ。それにしても、首だけになってもしゃべるとは。自分が知らないだけで、世の中にはこのような生き物が当然のごとくいるものなのだろうか。それとも、じつは憐れな旅人を騙して喰らう魔物のたぐいなのだろうか、この馬の首は。しかしながら、もしそうだとしても、腰に下がった剣、これを抜いて立ち向かう元気はテオドールにはなかった。

「ここはかつての栄華のあと。あるのは打ち捨てられた国のむくろにございます。もはやあなた様がここでなにをしようとも、とがめだてする者はおりませぬ」

 そう言った馬の首の声音には嘆きの色が感じられる。テオドールは、目を覚ます前にも泣いていたな、と思い出す。見上げる馬の首は薄汚れすぎて涙のあとも判別できない。

「名乗りが遅れましたが、わたくしはファラダともうします。せん越ではありますが、お尋ねしてもよろしいでしょうか。あなた様はなにゆえこの地へ参られたのですか?」

 テオドールはファラダにかいつまんで国を旅立ついきさつを、主君より賜った命を話して聞かせた。

「ああ、あなた様は騎士であらせられましたか。幸い姫、でございますか。寡聞ながらわたくしはその姫宮を存じ上げませぬ。わたくしが知るひと方は、違いましょう」

 そういえば、ファラダはなにゆえ今のような姿になったのだろう。決して楽しい話題ではないだろうが、これまでの口ぶりからすると、問えば教えてくれそうだ。

「ええ、お話するのはかまいませんよ。さして面白くはありませんが。そうですね、時間は潤沢にあるようですし、あなた様のいとまをお埋めする程度には役立ちましょう」

 ファラダは静かに語りはじめた。


 今は昔のことであります。ある王国の姫宮が輿入れなさることになりました。お相手は遠く離れた国の王太子でございました。姫宮の御母堂であられる女王陛下は遠い異国へと嫁ぐ娘を案じられ、金細工の身の回り品を荷馬車いっぱいに支度させました。ほかに腰元がひとり、そして騎馬としてわたくしが供をいたすことになりました。

 姫宮が生国で過ごされる最後の日。女王陛下は姫宮を呼びますと、一枚のハンカチをお渡しになりました。ハンカチには陛下の血のしずくがみっつ着いております。姫宮はハンカチを胸元におしまいになられました。ご存知でいらっしゃるかもしれませんが、王族の血には大きな力が秘められており、悪しきものどもからその身を守ることができるのです。 あくる日、わたくしの背に姫宮がお乗りになり、腰元は年老いたロバに乗り、輿入れ先へと出立いたしました。

 道すがら、小川の流れる場所へとさしかかりました。喉の渇きをおぼえられた姫宮は腰元を呼ばれておっしゃいました。

「荷馬車から私の金の杯を取って、水をくんできておくれ」

 けれど腰元は、

「そんなことはごめんだよ。水が欲しけりゃ自分ですくって飲むんだね」

強い口調でそう言ったのです。それまで姫宮はそのような言葉をかけられたことはございません。なにも言い返せず、姫宮は小川のふちに膝をつき、御手で水をすくってお飲みになりました。そのご様子に、胸元にしまわれたハンカチに染みた血のしずくが嘆きます。

「ああ、おいたわしや姫さま。この姿をお母様がご覧になったらどう思われるでしょう」

 わたくしの背にお乗りになって、姫宮がしばらくお進みになりますと、ふたたび小川のせせらぎが見えてまいりました。喉が渇かれた姫宮はさきほどと同じように腰元を呼びます。けれど、先と同じように突き返されます。しようがなく、小川のふちで水を飲まれる姫宮に血のしずくが嘆きます。

「ああ、おいたわしや姫さま。この姿をお母様がご覧になったらどう思われるでしょう」

 そうしてしばらく行きますと、もういちど同じことが起きました。その時に、姫宮の胸元からハンカチがこぼれ落ちて、小川を流れていきます。王族にあるまじきおこないを繰り返した姫宮はその加護を失してしまわれたのです。それを見ていた腰元は姫宮に詰め寄りました。

「さあこれであんたを守るものはなくなった。そのお綺麗な服を脱いでこっちによこしな。あんたはあたしの襤褸を着るんだよ。馬も交換だ。この老いぼれロバにお乗り。ああそうだ、このことをひと言でも誰かに話してごらん。ひどい目にあわせてやるからね」

 こうして腰元は姫宮と中身をのぞいてそっくり入れ替わってしまったのです。着飾った腰元はふんぞり返ってわたくしの背に乗り、姫宮はみずぼらしいなりで身をすくめられて老いたロバの背に揺られること隣ました。

 輿入れ先の王城へ到着したわたくしたちは王太子の烈々たる歓迎をうけました。うやうやしく王太子が手を差し出したのは当然のごとく化けた腰元の方でございます。ひとりぽつねんと残された憐れな姫宮のことを王太子は尋ねられました。あの娘はどうしたんだい、と。

「どうという者ではありませんよ。あたしの世話人にと母が付けてくれたんですけどね、道々ちっとも役に立たないったらありゃしません。なんにもできない娘ですけど、なにか適当な仕事があればくれてやってくださいな」

 化けた腰元はちらりとも憐れな姫宮の方を見もせずに答えました。姫宮はこうして城で飼っているガチョウの番をなさることになったのです。わたくしの方はといいますと、入れ替わりを告げ口されることを恐れた腰元によって皮剥ぎ職人に売り払われました。

 ああ、わたくしがなぜ腰元の悪行を訴えなかったのかとお聞きになられますか。しかしながら、わたくしは騎馬であり、下僕でございます。下僕でありますれば、人より問われるか、許しがなければ口を開くことはいたしません。問われれば、いかなることもお答えいたしましょうが。

 わたくしの運命をお知りになった姫宮は、皮剥ぎ職人に小金を握らせて、首を城門の壁に掛けてほしいとお頼みになったのです。そのおかげでわたくしは今の姿になったしだいでございます。

 ええ、姫宮と腰元の話はまだ続きがございますが。そうですか、あなた様がお望みになられるのならば。ではお話しいたしましょう。

 姫宮がわたくしの首を掛けさせたのは、ガチョウを原へと連れ出すのにお使いになる城門でありました。姫宮は毎日、朝に夕にその場を通るたびに、薄暗い内壁に飾られたわたくしに声をおかけになるのです。そのたびにわたくしが返せる言葉はひとつでありました。

「ああ、おいたわしや姫宮様。このお姿を御母堂様がご覧になられたら、いかがお思いになられるでしょう」

 それを聞くたびに、姫宮はうなだれて去っていかれるのです。

 原へ出た姫宮はガチョウを放して手ごろな石に腰を下ろし、結った髪をほどいて櫛を通します。ガチョウの番には前から仕事を任されている坊やがひとり、共について来ておりました。解かれた姫宮の髪は金糸と見まごうばかりのみごとな金色をしております。坊やはそよ風になびく美しい髪にみとれ、一、二本ばかり引き抜いてもらってしまおう、と考えました。そっと坊やが後ろから手をのばそうとしますと、姫宮は歌います。

  風よ風よ吹いておくれ

  坊やの帽子を飛ばしておくれ

  わたしが髪をすくあいだ

  わたしが髪を結うあいだ

 するとたちまち一陣の風が坊やの帽子を吹き飛ばします。追いかける坊やの指が帽子をとらえそうになるとまたさらっていき、姫宮が髪をすき終えてきちんとまとめてしまうまで、帽子を返してくれませんでした。

 そのようなことが幾度か繰り返されたある日のこと、坊やは国王陛下にうったえました。新しいガチョウ番の娘のことを。城門に掛けられた馬の首に話しかけること。馬の首の方もそれに答えること。風を操って帽子を飛ばすこと。あの娘はおかしな術を使う。薄気味悪くてしかたがない。どうかいっしょに仕事をさせないでくざさい。そううったえました。その言葉を、国王陛下はたいへん興味深くお聞きになりました。さっそく、ガチョウ番に身をやつした姫宮を呼びつけられ、おまえはいったい何者なのかと問いただされました。けれど、姫宮は腰元の恫喝を思い出され、恐れのあまりなにもお答えになりません。どんなに国王陛下が尋ねられてもなにもお言いになりませんので、とうとう姫宮を王城の使われていない部屋へ閉じ込めてしまわれました。

 暗く冷え冷えとした狭い部屋にひとり取り残された姫宮。聞く者の誰もないことを知った姫宮は、とうとうこのみじめな境遇を嘆く声をおあげになり、ご自分の身に降りかかった事の顛末をなにもない室内へと吐き出されたのでありました。

 ところで、先ほどなにもない室内、と申しあげましたが、じつはひとつだけあるものがございました。それは壁に造りつけられた鉄のストーブでございます。そのことはもちろん国王陛下はご存知であられました。そして、ストーブの蓋は開いておりました。姫宮がおひとり胸の内を言葉に出されているあいだ、国王陛下はストーブの煙突に向かい、聞き耳をたてておられたのです。国王陛下は坊やが言ったおかしな術の正体がお分かりになられました。下僕であるわたくしは真の主であられる姫宮がそうお望みになられたので、首だけの姿となってもこうして言葉を交わすことができました。坊やの帽子を風をさらった風もそうです。これらのことは、みな姫宮が高貴な血をひかれるがゆえのこと。そうして国王陛下は、下の部屋におられるのが憐れな姫宮であることを、今まで息子である王太子の隣でかしこまっていたのが性質の悪い腰元であることをお知りになったのでありました。

 すぐさま国王陛下は姫宮を部屋からお出しになると、召使たちを呼び、ガチョウ番の仕事でついた汚れをきれいに落とさせ、本来の身分にふさわしい衣装に着せ替えさせ、ほほと唇に鮮やかに紅をささせました。するとどうでしょう。そこにはなんとも愛らしく美しい姫宮の姿があらわれたのです。国王陛下は王太子を呼ばれ、すべてをお知らせになりました。とうぜん王太子はひどく驚かれました。そして、引き合わされた本物の姫宮のあまりの愛らしく美しいさまにあやうく卒倒しそうになられ、あらためて自分をだました悪い腰元に怒りお顔を真っ赤になさいました。

 悪しき企みがまったくあらわになりますと、国王陛下は大がかりな宴をもよおすことになさいました。これは姫宮を正式な王太子の花嫁として迎えるためのものでございます。しかしながら、このことは化けた腰元にはいっさい知らせてはおりません。宴の日、王太子の両隣には化けた腰元と美しく着飾った姫宮が座りました。腰元は王太子の隣の客人のことを少しも紹介されないので、いったい何者なのかといぶかりました。というのも、元の位を取り戻した姫宮はあまりにも光り輝いていたので、腰元には分からなかったのです。なごやかに宴がすすむなか、おもむろに国王陛下はある話をなされました。それはそっくり腰元が姫宮にしたことについてでありました。当の腰元は素知らぬふうで静かに聞いています。よく似た話だとは思いはしました。けれど、あのことを見ていたファラダはすでに始末してあるし、気の弱い姫はじゅうにぶんに脅しつけてある。己の悪行がひとに知れるとは露ほどにも疑ってはいなかったのでしょう。国王陛下は話の最後、腰元に問われました。このように自分の主人を脅してその主人の身分と結婚相手を奪うような女にはどのような罰がふさわしいだろうか、と。腰元は答えました。

「そのような者は服をはぎ、内に釘を打った樽に詰めて、その樽を馬につないで通りという通りを引き回すのがよろしいでしょう」

 それを聞き終えるやいなや、王太子は立ち上がられ腰元を指さしますと、それはおまえだ、と叫ばれました。たちまち兵たちが腰元を取り押さえます。おまえはおまえの言ったとおりの罰を受けるがいい。国王陛下の宣告により、腰元は引っ立てられていきます。あとには長く悲鳴が響きました。

 城下町を樽を引いて馬が走るのを子どもが見ていました。馬が行ったあとを指さして子どもは無邪気に言いました。なんでこんなに赤いワインをこぼしていくのかしら、と。


「王太子は姫宮と幸福に国をおさめられたといいます。すべては昔々のことではありますが

 とファラダは話をしめくくった。やはり昔話の結末の常か、と思ってから気がついた。そうだった。ファラダの語った王国はもうすでになくなっているのだ。城門のなれのはてとしゃべる馬の首をのぞいて。そういえば、なぜファラダはいまだにこうして在りし日と変わらぬさまでいるのだろう。

「それはわたくしが下僕であるからにございます。姫宮様がそうお望みになられたのでこの姿隣ました。ですから、お許しがいただけませんとわたくしはくちることすらできないのです」

 しくしくと泣くのは、忠実なしもべを置いていってしまった主人を恨むのか、主人に忘れられたことを悲しんでいるのか。

 いつの間にか風の音も雨の音もずいぶんと弱くなっている。嵐は遠ざかりつつあるのだろう。体の痛みもだいぶん引いている。テオドールはファラダに謝辞を述べ、辞去しようとした。

「そのようなお言葉をわたくしにかけてくださるとは。ああ、わたくしのようなものが出過ぎたことをして恐縮ではありますが、お聞きいたします。あなた様は騎馬をなくされ、この先の旅行きが難儀ではございませんか」

 ファラダの言葉で倒れふした騎馬をあらためて目にし、指摘のとおりに気が重くなる。だからといってどうすることもできはしない。

「もしも、あなた様がご希望になられるのでしたら、わたくしにひとつ知恵がございます」

 その申し出はにわかに信じられなかった。死んだ馬をもういちど走らせる方法があるなど世迷いごとにしか思えない。

「わたくしもひどく長い時間をこの世で過ごしてまいりました。そうしますと、とても多くのことを見聞きすることができるのです。こたびのあなた様のように空の気まぐれをやり過ごすために、あるいは一夜の宿を求めて、多くの方々がこの場を訪れます。その方々が語ることの中には秘術のたぐいもございました。あなた様が騎馬を望み、そのうえこのわたくしの境遇を憐れとお思いになられるのでしたら、どうか試してみてはくださいませんか」

 失ったものをこれ以上失うことはないだろう。テオドールは自信ありげなファラダの言葉を聞いてみることにした。

「まずは、倒れた騎馬の首を切り落としてください。次にわたくしを壁から外します。お足元にご注意なさってください。ええ、そうです。そうしてわたくしの首の面と切った騎馬の面をぴったり着けてください。ああ、これで結構でございます」

 主君より下賜された剣の初の出番がこんなことになろうとは。テオドールは苦労しながら、死んだ騎馬にファラダの首をあてがう。さあ、あとはなんぞ怪しげな呪文でも唱えるのだろうか。額ににじんだ汗をぬぐう。

 一瞬、目の前が真っ白になった。どんっ、と背中を恐ろしく強い力で打たれ、そして、真っ暗になった。

「テオドール様、ご覧ください」

 気が遠のいていたのはほんのわずかな時間だったのだろう。ファラダの声でまぶたを開ける。いつの間にやら手綱を握り、騎馬の背に揺られていた。降りしきる雨は勢いを弱め、なでるように馬体の汚れを落とし白い毛並みをよみがえらせる。うしろを振り返って見回してみても、ぼんやりと見えるはずのアーチがなかった。かわりにあるのは、なにか大きな力でもって打ち砕かれた、元の分からないがれきばかり。

「嵐が去りました」

 黒い雲が割れ、さっと白い光が大地にさしこむ。いつのまにか、雨は止んでいた。

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